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2013年5月21日 (火)

内村鑑三(11)


  不敬事件

  教育勅語

  大日本帝国憲法が一八八九(明治二二)年二月十一日に交付された

のにつづき、翌一八九十(明治二三)年十月三十日には教育に関する

勅語が発せられた。

 

  憲法公布の日、小石川上富坂にある自宅でこの報に接した鑑三は、

憲法条文に信仰の自由を述べた重要な一節のあることには意義を認め

たものの、いたずらな市中の熱狂には懐疑を示し、当日の朝、文部大臣

森有礼(ありのり(*下の写真)が暗殺されたことに深い悲しみを寄せて

いる(二月一三日付ストラザース宛書簡)。 

                        Mori

  森は外交官として米国滞在中の一八七二(明治五)年、英文で「日本

における信教の自由」を書いた人物である。 

  教育勅語は、欧米社会でキリスト教が徳育の基礎にあることに対応し

て作成されたものである。いわば大日本帝国の聖典であった。

 

  鑑三はこの年九月から、第一高等中学校の嘱託教員として勤めること

になったが、一高をはじめとする全国七つの高等中学校には、特別に

明治天皇の署名(「睦仁」)入りの教育勅語(*下の写真)が授与された。

これを、一高生たちは全員で、十二月二五日に文部省まで迎えに出向

いた。

                   Photo


  一高は一八八六(明治一九)年に設立された学校であり、鑑三がかつて

学んだ東京英語学校(のち東京大学予備門)の後身にあたる。 

  鑑三を一高の教員として木下広次校長(*下の写真)に推薦したのは、

物理学の教授木村駿吉であった。木村は、植村正久が牧師をしていた

一番町教会の長老でもあった。


           Photo_3
 

  一高の教師となった鑑三は、近い将来、日本の前途をになうことになる

有望な青年たちの教育に、大きな期待を寄せていた。そのため、本郷の

東方町にあった鑑三の小さな自宅は、生徒たちのために開放された。


 
  大日本帝国憲法が公布された日には、その条文中に天皇が「神聖にし

て侵すべからず」と定められていることを、鑑三はやはり米国にいる友人

に報じている。 

  はたして鑑三がどんな意味で、この語句を書き送ったのか、書簡の文面

だけではとらえがたい。 

  しかし、もしそれが、鑑三の心にある不安な予感をよぎらせたとしたなら、

その予感はまもなくあたることになる。





  奉読式




  一八九一(明治二四)年一月九日、一高では、新年の授業開始にあたり

年末に受領したばかりの教育勅語の奉読式がおこなわれることになった。 

  この日の式の進め方は、前もって教員たちに伝えられたのであろうか、

一高に在職していた教員のなかで、キリスト教信徒は、鑑三をはじめ木村

駿吉と中島力造との三人であったが、木村と中島とは当日欠席してしまった。

 

  鑑三一人は、心中ひそかに、或る決意をして出席することにした。その

前日、鑑三は札幌にある親友宮部金吾に宛てて手紙を書き、札幌教会

からの脱会を通告している。 

 脱会の理由については記されていないが、脱会が直接札幌教会に対す

る不満とかいうような問題ではなく、鑑三の信仰と名誉とにもとづく軽くな

い理由によることのみを伝えている。

 

  それが、教育勅語を前にして、キリスト信徒としての信仰と名誉にそった

行動をとるためなのか、それとも信仰に反した行動をとるためなのか、

今もなお見方の分かれるところである。いずれにせよ、鑑三のとる行為

が累(るい)を札幌教会に及ぼすことを防ぐための脱会通告とみてよい。

  朝八時に開始された奉読式は、風邪で休んでいる木下校長に代わり、

久原躬弦(くはらみつる)教頭が教育勅語を奉読した。

 

  このあと、教員と生徒とは、順番に教育勅語の前に進み、勅語に記され

た明治天皇の署名に対し「奉拝」することを求められた。鑑三の順番は

三番目にまわってきた。

 

  「私は迷いためらいながら、キリスト教的良心に誤りない道を選んで、

六十人の教授(全部非キリスト教信徒、私のほかにいた二人のキリスト

信徒は欠席)と千人以上の生徒の威儀をただして見守るなかで、私は

自分の考えをおし通し頭を下げなかったのであります」(三月六日および

一四日付ベル宛書簡・・・・下は、ベルの写真)


       Photo_2



  鑑三は、その「おそろしい瞬間」のことを、このように述べている。
 
  このころ、カーライルの著わした『クロムウェル伝』に夢中になっていた

鑑三は、自由と独立との大切に目を見開かれ、良心の声にしたがって、

とっさに、この行動に出たとも言っている(「読書余録」)。

 

  鑑三には、宗教的な礼拝にあたる「奉拝」は、その信仰するキリスト教の

神以外には決して捧げるべきものではなかった。 

  地上に存在するものは、たとえ天皇でも、それに宗教的礼拝(worship)

を捧げることは、それを絶対視することになる。人間を絶対視することは

宗教的良心の許すことではない。


 
  実は、鑑三自身が、この日のことを最初に報じたベル宛の手紙でさえ、

事件から約二か月後に書かれたものである。 

  そのなかでは、最初から鑑三のとる態度は定まっていたかのように述

べられているが、それは疑わしい。 

  前述したように相反する行動のどちらをとるにせよ、直前まで迷いに迷っ

ていたのが実状ではないだろうか。

 

  それだからこそ鑑三は、教育勅語を前にして一瞬頭の下げ方をためら

い、結果的には、深いお辞儀をしないままに降壇してしまったのだ。

これが、ただちに大問題を招くことになる。


 

  非難




  鑑三は、お辞儀はしたのだが、宗教的「礼拝」になるほど頭を下げなか

った。その行動を非難する声は、まず一高内部の生徒、教員らからあげ

られた。 

  なかには、鑑三の家に押しかけ、石を投ずる者までいた。

 

  事態の急速な悪化に驚いた木下校長は、鑑三に手紙を送り、教育勅語

の天皇署名に対する敬礼は、人間相互の間のことである社会上の「最重

の敬礼」であり、信仰とは別の関係であると説き、改めて敬礼を依頼して

きた。

 

  鑑三も、「礼拝(worship)」と「尊敬(respect)」が、別であれば、天皇に対

する尊敬の念には変わりないとして、この提案に同意を与えた。 

  ただ、鑑三は悪性の流感にかかって起き上がれる状態でなく、その意味

での「敬礼」は友人の木村駿吉によってなされた。

  木下校長の思惑どおりにことが運んだならば、木村の代拝によって、

鑑三のこの事件は収拾されるはずであった。

 

  しかしながら、いち早く、マスコミのキャッチするところとなり、一挙に、

内村鑑三「不敬事件」として、全国に宣伝された。これに仏教各宗派の

機関誌が便乗して、キリスト信徒による「不敬事件」を言い広めた。 

  このため、事件は拡大して、キリスト教と日本の国体の問題へと進展

していった。

 

 重い流感にかかった鑑三が病床で意識不明の状態をつづけている間に、

その身辺では、本人のまったくあずかり知らない出来事が、次々に起こった。 

  その一つは、内村鑑三名による弁明書が『郵便報知新聞』をはじめとす

る数紙に掲載されたことである。

  第二には、一八九一(明治二四)年一月三一日付で、その辞職願が一高

提出されていたことである。

 

  今日残されているこの辞表をみると、それは、印鑑まで押してあるが、

明らかに内村の筆跡ではない。 

  それでも、ただちに辞表は受理され、二月三日付で鑑三は、同校を依願

解職の身となった。 

  鑑三の病勢がややおさまって、その意識を回復したときには、鑑三は、

すでに、自分が一高の職を解かれた身であることがわかった。


   トラウマ



  憔悴した鑑三に追いうちをかけたのが、妻かずの死である。

鑑三の病気の間は、その看病につくすかたわら、外から押しかける抗議

者を、夫にかわって一手に引き受けてきたのだが、鑑三の回復と入れ替

わりに、同じ流感の冒すところとなった。 

  二か月余り病臥したあと、最後に横井時雄から洗礼を受け、四月一九日

世を去った。 

  鑑三にとっては、職業を失ったあと、たてつづけに最愛の妻をも奪われ、

悲痛きわまりなかった。 

 


  内村鑑三「不敬事件」をかえりみるとき、それが、内村個人の一生に

はかり知れない傷痕(トラウマ)を遺したことは、鑑三が、終生天皇および

その関係のことになると、複雑な感情を示すことによってもわかる。 

  この思想および宗教上に与えた影響については、著書『基督信徒の

慰(なぐさめ)』にくわしく、これは、のちに改めてとりあげたい。

 

  鑑三個人のうえのみならず、本事件は日本近代の歴史からみても、

はなはだ大きな意味をもつ事件である。 

  大日本帝国憲法において「神聖侵すべからず」とされた天皇に対して、

一個人が、現世をこえる普遍適存在を根拠に、その神聖不可侵性を否定

する行動をとったのだ。

 

  鑑三は、それがために学校を追われることになったとはいえ、人間を

絶対視し、不可侵的存在とすることに「否(ノー)!」のありうることを世に

示した。

  この世的な地上のものを、すべて相対化する思想のあることを顕(あら

わ)したといえる。また、たった一人の人間が、迷いながらではあるものの、

なによりも良心に忠実な行動に出たことは記憶されるだろう。

 

  「不敬事件」のため、日本に安らかに枕する所のなくなった鑑三を招き、

銷沈(しょうちん)の身をしばらく癒す生活を送らせたのは、札幌にいる

宮部金吾、新渡戸稲造らの旧友たちであった。札幌には一か月ほど滞在

したあと帰京した。 

  東京に戻った鑑三を励まし支えたのは本郷教会の牧師横井時雄である。

横井は、鑑三に本郷教会で旧約聖書のエレミヤ記の講義をさせたり、

『基督教新聞』に執筆の場を与えたりしている。

 

  鑑三は、これら友人の厚情をいつまでも覚え、札幌教会のためには我が

身の健康をかえりみず尽くすことになるし、晩年には不遇であった横井の

よき理解者であった。  【つづく】

 

 

 

 

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