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2013年5月20日 (月)

内村鑑三(10 )

    学館紛争




  学館紛争は生徒をもまきこみ、生徒集会で「北越学館の独立を計らん為

の結合」を誓う誓約書が作成され、一三六人が署名した。 

  これは明らかに鑑三の方針を支持する表明であったので、学館の発起人

たちは、これを鑑三による煽動の結果とみなした。

 

  学館の最高決定機関である発起人会は、鑑三の提出した「意見書」につ

き会合を開き協議、外国人宣教師の援助をうちきることについては、その

必要のないことを決定した。

  新島襄も、自分が斡旋した鑑三によってひき起こされた紛争であるので、

両者の間の調停をはかるため、横井時雄(*下の写真)を新潟に派遣した

りしたが、その効果はなかった。

                             Photo_10
  発起人のなかでも、とりわけ激しく鑑三と対立したのは、新潟第一キリ

スト教会の牧師成瀬仁蔵(のちの日本女子大学の創立者:下の写真の

人物)であった。

                           Photo

  成瀬も負けずに「意見書」を著わし、鑑三の非を五項目にわたって陳述

したうえ解職すべきことを結論としている。 

  ついに、経営者、教師、宣教師たちからも孤立した鑑三は、争いに破れ

て、赴任後わずか四か月にして同館を辞職した。 

 

  鑑三は、これより十七年後、新潟でおこなった講演のなかで、北越学館

を去った日のことを「一二月一八日霙(みぞれ)乱るる寒風」に送られて

東京へ逃げ帰ったと述べている(「日本人の研究」)。 

  その日付と天気とをはっきり記憶しているのは、それだけ傷心の痛手の

深かったことを物語るものだ。

 

  二つのJのための第一着手として、意気揚々として赴いた新潟での教育

事業に、むなしく破れて帰京した鑑三は、一番町教会(植村正久牧師)など

で説教したり、水産伝習所、明治女学校、東洋英和学校などで教鞭をとり、

一時の生活をしのいだ。



  水産伝習所は、大日本水産会によって一八八九(明治二二)年一月

二十日、東京に開所されたばかりの学校である。 

  鑑三は、大日本水産会とは渡米前より関係が深く、その創立には発起人

として名をつらね、同会の集会ではたびたび研究報告をしたことがあった。 

  三月一六日付で同校教師を委嘱された鑑三は、動植物学の講義を担当

することになった。水産伝習所の後身である現在の東京水産大学(*尚、

同大学は2003年に、東京商船大学と合併して東京海洋大学となった)には、

鑑三のおこなった「水産動物学」講義の筆録が残されている。

 

  鑑三の水産伝習所時代の教え子には、のちに『佐渡新聞』を創刊する

森知幾(ちき)や、田岡嶺雲(れいうん)らがいた。 

  伝習所では、夏に房州の海岸で実習をおこなったが、その時のことを、

鑑三から魚類解剖の指導を受けた田岡嶺雲(*下の写真)は、こう語っ

ている。 

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  「内村鑑三先生は、夏期の房州における実習の指導教師であった。

英文の小説を読んでいたのを目附かって叱られた。 

  先生は脳の補いになるのだとかいって、何とか燐(りん)を持薬にせら

れていた。 

 先生がメスとピンセットを執っての魚の解剖よりも、予が箴言として服膺

(ふくよう)して今に忘れざるものは『偽君子となるな』との先生の一語で

ある。 

  この一語は、予が水産伝習所の一年半中における最大の獲物であると

いってもよい」(『数奇伝』)





  明治女学校



  明治女学校は、一八八五(明治一八)年に木村熊二を校長として、やは

り東京に開校された女子の高等教育機関である。 

  明治女学校の教壇には、のちに北村透谷や島崎藤村が立ったことでも

名高い(*下の写真は、透谷と藤村)

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 一八八九(明治二二)年八月、『女学雑誌』一七三号に掲載された明治

女学校の広告に教員として鑑三の名前が紹介されている。 

  明治女学校に高等科が新設されるにあたり、巌本善治、植村正久、木村

熊二、木村駿吉、島田三郎の名とならんで鑑三の氏名は、「生物学」の授業

担当者として記されている。



  ところが、鑑三が、じっさいに教員として明治女学校に勤めたことを証明

する資料は、今のところない。 

  この広告どおり実現したかどうかわからないが、ただ、この年、鑑三が

明治女学校において、六月二二日には「文学における聖書の価値」と題し

て講演したことと、九月十一日の同校の開業式に出席して、女子教育に

つき演説したことだけは知られている。

  その後も、明治女学校に鑑三はたびたび出かけて講演をおこなっている。

 

明治三十年代のことにはなるが、同校の学生であった野上弥生子(*下の

写真)は、女学校時代に聞いたもっとも感動的な話として、鑑三による講演

をあげている。

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  「いつかは突然、諸君は一度、太平洋の日の出を見なければいけないと

おっしゃった。 

 犬吠崎あたりに立って、朝、太平洋から昇るこんな大きな、真っ赤な太陽

を見ることが非常に必要である。形はこんなに壮大で美しくて、創造の神の

力を生き生きと認識する。 

  そういう言葉ではなかったかと思いますけれども、今の言葉でいうと、そう

いう意味のことだったんですねえ。ただそれだけのことなんですけれども、

打たれました(「妻と母と作家の統一に生きた人生」、『婦人公論』一九六

七年一月号)

          
      

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   東洋英和学校

  東洋英和学校は、一八八四(明治一七)年にカナダ・メソヂスト派により

麻生に開校された男子の学校である。同派による女子の学校が東洋英

和女学校である。 

  鑑三が教えたころの同校の総理は、メソヂスト教会牧師の平岩愃保

(よしやす)が兼任し、鑑三の父宜之は、平岩が以前に牧師を勤めていた

日本メソヂスト下谷教会の会員であった。 

  東洋英和学校で鑑三が担当したのは「万国史」であり、その教えを受けた

学生に若き日の山路愛山(*下の写真)がいる。

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  愛山は、一八八九(明治二二)年十一月四日、同校の天長節祝会でお

こなわれた鑑三の演説に心を打たれた一人である。それは、壇上の菊花

を指しながら愛国心を吐露した次のような演説であった。

 

  「明治廿二年の天長節において、余は麻布の東洋英和学校において

内村氏の演説を聞きたり。 

  当時彼は、その演壇を飾れる菊花を指して曰いき。この菊花は自然が

特に日本を恵みたるものの一なり。菊は実に日本に特有する名花なりと。

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 彼は更に声を揚げて曰く。諸生よ、窓を排して西天に聳ゆる富嶽を見よ。
 

これまた天の特に我国に与えたる絶佳の風景なり。 

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  されど諸生よ、記せよ。日本において世界に卓絶したる最も大なる不思

議は実に我皇室なり。天壌と共に窮(きわま)りなき我皇室は、実に日本

人民が唯一の誇りとすべきものなりと。 

  その粛々たる態度とその誠実をあらわして余りある容貌とは深く聴者の

心を動かしたりき」山路弥吉『基督教評論』)。




  田岡嶺雲や山露愛山らは、いずれも、学校の授業そのものよりも別の

話で、教師鑑三から感銘を受けているのだ。 

  これらの思い出を通じて、鑑三が、キリスト愛国」主義のため北越学館

を追われながら、少しもひるまず、二つのJの旗をいよいよ高く掲げて教育

に情熱を燃やしていたありさまがうかがわれる。

 

  この年七月三一日に、鑑三は、横浜かずと結婚している。かずは、同じ

高崎の藩士であった横浜恕の娘であり、少年時代の遊び友達であった。 

  米国にいる友人にあてた手紙に、彼女の名KazはKanzoマイナスnoで

あると紹介し、この結婚に大きな意味を見出している。 

  六人の継母につかえ、知的なヒロインではないが家事にたけた家庭的

な女性として報じている。 

  これは、前妻タケとまったく対照的である。鑑三は文字どおり、自分の

よき伴侶として、この結婚に期待していた。  【つづく】

 

 

 

 

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