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2013年4月11日 (木)

日蓮上人(8 )

    5.孤独の反逆児


  故郷を追われた日蓮は、「真理をひろめるのに最適の場所」である、

首都の鎌倉へ直行した。 

  そして、今日なお松葉ヶ谷(やつ)と呼ばれている、持ち主のない土地に、

小さな草庵を建て、法華経を携えて移り住んだ。

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  一個独立の人たる日蓮は、今後、ここを拠点として、誤謬に満ちた周囲

と戦おうとする。 偉大な日蓮宗門も、その端緒を、この小さな草庵に発し

たのである。

 

  身延、池上をはじめ全国に散在する五千の壮大な寺院と、二百万の信徒

とは、実にこの小さな草庵と、この一人とから始まった。偉大な事業は、常

にこのようにして始まる。

  世に抗する一個の不屈な魂―永遠に偉大なるものは、その中から生ま

れるのである。

 われわれ二十世紀に住む者は、彼の教義は別としても、彼の信念と勇気

に学ぶところがなくてはならぬ。

  ところで、日本におけるキリスト教の始まりは、はたしてどのようなもので

あったろうか?

  否、宣教師学校や教育など、物心両面にわたる多くの援助が与えられた

のではなかったか。

 ―偉大なる日蓮は、このような助けを一つも借りず、すべてを独力で始

めたのである(*下は、身延山久遠寺と池上本門寺)

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  その後の一年間、彼は再び勉学と黙想とに明け暮れる日を送った。

後の日昭を、最初の弟子として迎えたのは、この間のことである。日昭は、

日本仏教の現状に関する日蓮の見解に共鳴し、はるばる叡山から、日蓮

のもとに参じたのである。日蓮の喜びは非常なものであった。

  あとに日昭ありと思えば、わが教えの、この国で絶えはせぬかの恐れなし

に、一命をなげうって公衆の前に立つことができるからだ。

  そこで、翌一二五四年の春、日蓮は、この国人がかつて聞いたこともない

”路傍説教”(辻説法)なるものを始めた。

  首都の聴衆の、あざけりと、ののしりの中で、故郷で行なった最初の宣言

を、再び強調したのである。

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  路傍で説教をするなどは、僧としてあるまじき所業だという非難に対しては、

「戦時には立食すら許されるではありませんか」と、断固、反駁した。

  また、国の統治者の抱く信仰を悪しざまに言うべきではないとの叱責に対

しては、「僧侶は、仏の御使いであります」と、明快に答えた。

  「他の礼拝形式が、すべて誤りであるはずはない」という、もっともな疑問

に対しては、簡単に答えた。「辻説法は、寺を建てるまでの足場のようなも

のにすぎないのです」と。

  こうして日蓮は六年間というもの、春夏秋冬を問わず、この辻説法を続け

た。人々は、ようやく彼の努力と人柄に注目するようになり、少なからぬ高

官をはじめ、将軍の家族までが、彼の弟子となった。

  もし適当な時期に制圧を加えなければ、彼の感化は鎌倉全市に及びそう

な勢いである。

  そこで、これを憂えた建長寺の道隆、光明寺の良忠、極楽寺の良観、大仏

寺の隆観などの、権威ある高僧連が一所に集まって、首都における新興宗

教の弾圧を協議した。

  しかし、大胆不敵な日蓮は、彼に対する連合勢力などを、ものの敵とも思

わない。

 あたかも、この頃、多くの災害が国土を襲ったのを機として、”『立正安国

論』(国に平和と正義をもたらすことに関する所論)”執筆に取りかかった。

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  今もなお、この種の本の中で最もすぐれたものと思われているこの本の

中で、彼は、当時の日本を苦しめていた災害をことごとく数え上げ、それら

はすべて、民衆の間に誤った教義が伝えられているためであるとした。

  彼は、これらのことを、諸種の経文からの広汎な引用によって証明した

のである。


 
  彼の見解によれば、この大難から救われる道は一つしかない。それは、

最高の経典たる法華経を全国民が受け入れることである。

  もし国民が、この貴い賜物を拒み続けるならば、その結果として、必ず

“国内の戦乱”と”外国の侵略”とが起こるであろうと、彼は指摘した。

  かほどまでに辛辣な言葉が高僧連に向けて発せられたのは未曽有のこ

とである。

 全文が雄叫びであり、決然たる宣戦布告であって、この戦いの行き着くと

ころは、彼の宗派の絶滅か、他のすべての宗派の全滅か、そのどちらかよ

りほかはない。それは狂気と見まがうほどの熱信であった。

  ここに至って、北条時頼(わが国における最も賢明な統治者の一人

:下の肖像画)は、この宗派の弾圧を決意し、この熱血漢を首都から追放

したのである。
                         
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  しかし政治家である時頼には、日蓮の人物がわからなかった。

すでに死を恐れず、また、多くの共鳴者を獲得したほどの誠意と、あらゆ

る試練に堪える覚悟(それは、後に証明される)とを持っている日蓮のよう

な人に対しては、どんな脅迫も効がないのだ。

  かくて「仏敵に対する戦い」は、飽くことなく続けられ、ついにこの小集団

は解散を命ぜられた。

  そして、この指導者たる日蓮は、遠い地方へ追放されることになったの

である。 【つづく】

 

 

 
 

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