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2013年4月 8日 (月)

日蓮上人(6 )

  彼の最初の目的地は、時の将軍の首都たる鎌倉であった。 

都に出て来た一介の田舎者、連長―ローマにおけるルターもそうで

あったが―とっては、目に映る現象のすべて、耳に聞く教義のすべて

が奇怪であった(*下の写真は、「鶴岡八幡宮」)

                      Photo
 

  豪壮な寺院と華美な僧のひしめく鎌倉は、今や虚偽の町と化していた。 

禅宗は、上層階級の人々を導いて、無益な思弁の泥沼におちいり、浄土

宗は、下層の人々に迎えられて、阿弥陀仏盲信の熱に浮かされ、仏陀

仏教は、どこにも見出すことができなかった。

 

  いや、それのみか、仏陀の像が、なんと子供のおもちゃとして与えられ

ている一方、”ここの人々”の称する仏教礼拝で、本尊の地位を占めるも

のが、伝説的存在にすぎぬ阿弥陀仏であることを彼は見たのである!

 

  聖なる法衣をまとう人たちが、大っぴらに恥さらしをしている。 

彼らの教えによれば、阿弥陀仏の名を唱えることによってのみ、人は救わ

れるのであって、徳行や戒律は、救いに何の関係もないという。 

  それゆえ、南無阿弥陀仏の唱名をかしましく唱える人々の間に、最悪の

放埒が横行したのである。

 

  鎌倉に滞在した五年の間に、彼は、現在はすでに「末法」の世であること、

彼の奉持する法華経の中で如来が予言されたように、光明の新時代をも

たらす新しい信仰が世に出る必要と機会が熟したことを、十分に確信する

に至った。

 

  つい最近には、万人崇敬の的である大阿上人が死んで、その死にざま

が、信徒のすべてを恐怖に陥れた。 

  上人の体は、「子供のように小さく縮まり」、その皮膚の色は真黒く変わっ

たのだ―これこそは、上人が地獄に落ちた、まぎれもない証拠であり、

また、彼が代表していた信仰の、魔性のものであることの証明ではないか。

 

  それからまた、空中に現われるこれらの怪異は何を意味するのであろう? 

西の空に白と赤との三筋の形が、はっきりと現われ、白の二筋が消えた後

も、赤の一筋は残って、さながら「天頂を貫通する火柱のように」立ったと

思うと、続いて激しい地震が起こった(*下の写真は、イメージ)
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              Photo_7


  多くの寺は地に倒れ、人や獣は、その破片の下敷きとなって、自分たちの

救いのために建てたはずの建物の下で、うめいたのである。 

  「すべてこれらの事は、この国で真の経典が説かれず、誤りが教えられ

信じられているために起こるのだ。 

  私は、この国の宗教を復興すべき使命を天から与えられている者ではな

かろうか?」 

・・・・このような思いを胸に、連長は、鎌倉を去った。 

  「一国の首都とは、真理をひろめる場所であって、真理を学ぶ所ではない」

と、彼は賢くも気づいたのである。

 

  故郷の両親のもとに、しばし立ち寄ってから、彼はさらに知識を求めて、

遠く旅立った。 

 帝(みかど)のいます京都を、すべての災厄から守るため、その鬼門

(悪魔の門)の方角に建てられた叡山は、過去一千年の間、仏教知識に

関しては、日本最大の宝庫であった。 

  高い杉木立に囲まれ、波静かな琵琶湖の壮観を見下ろす、海抜二千

五百フィート(=763m)の高地で、仏教の学徒は、釈迦の教えを探究し、

熟考し、継承してきたのである。

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  繁栄を極めた頃のこの山には、三千もの托鉢僧が住み、全山はさながら

一大特殊部落の雑踏を呈していたという。 

  ここの僧兵は、民衆の脅威であるとともに、代々の天皇をも悩ませたの

であった。

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          Photo_4



 かの源空もまた、ここで学び、叡山の教義とは正反対の、大衆的仏教で

ある浄土宗を作り上げ、それは、後に広く民衆に受け入れられたのである。 

  源空の弟子で、浄土真宗の創始者である範宴も、この山の学徒であった

し、仏教の奥義をきわめて国民的名声を博した多くの僧たちも、ここの出身

である。 

  そして今や、われらの連長が、日本に真の仏教をひろめようとの大志を

胸に抱き、安房の国の漁夫の小屋から、この山まで、四百マイル(640km)

の道を歩いて、啓発を求めて来たのである。 

 

  この地で、真理探究への新しい手がかりを得た連長は、手の届くかぎりの

ものを、むさぼるように取り入れた。 

  しかし、彼の専門は、あくまでも法華経―“彼”の経―である。 

そして、ここでは、法華経の貴重な写本や注解書も手にすることができた。 

  事実、ここを本山とする天台宗は、法華経に非常に重きを置いていたの

である。 

 天台宗の『六十巻』と呼ばれるものは、実に法華経だけについての注解

書であった。

 

  法華経が、いかに偉大な書であるということは、天台宗の開祖である、

シナ人の天台(=智顗〔ちぎ〕:538~597*下の写真)が、これについて

三十巻の注解書を書き、彼の弟子である妙楽が、それになお注解を付け

る必要を感じて、最初の三十巻の注解のために、さらに三十巻の注解書

を著わしたことによっても、わかるであろう。

                 Tigi

  そして、その内の十巻は、この経典の名を構成する六個のシナ象形

文字の一つ一つについて論じているのである! 

  われわれには、さして驚くべきものと思われぬこの本が、昔の人には

意味深長なものに映ったと見える。 

  十年もの長い間、連長は叡山にとどまって、これらの複雑な問題の研究

に没頭した。

 

  ここにはただ、彼の到達した結論のみを掲げよう。すなわち、法華経は、

他のいかなる経よりも、すぐれていること、叡山の開祖、最澄は、この経を、

純粋な形で日本に伝えたが、“彼のあとに来た僧たちが、その純粋度を

相当に損ねたのである”こと等、以前から抱いているこれらの見解を、

彼は今や確信するに至った。

 

  京都へ足しげく通い、奈良、高野へ一度ずつ行って研究した結果も、

彼の確信を強めるばかりであった。 

  そして、心にもはや一点の疑問もないという時に至って、法華経のため

に一身をなげうつ覚悟を決めたのである。

 

  これより先、日本の主な神々が現われて、彼の身を守ろうと約束された

のを、その眼で見た。そして、神々の姿が空中に消えると、 

  斯人行世間(しにんぎょうせけん)

  能滅衆生闇(のうめつしゅじょうあん)
 

  (この人は世界をめぐり、人心の闇を打ち砕くであろ

う) という、この世ならぬ合唱が空に聞こえたのである。

 

  しかし、古来、これに類する幻を見たり、神仏の降臨を経験した者は、

日蓮一人ではなかった。

  日蓮今や三十二歳、友もなく、名も知られぬながら、しかも独立であり、

不屈であった。

  浄土真宗の範宴とちがって*、おのが主張を押し通す際にたよりとなる

祖先の系譜も彼にはなかった。 

  (*範宴=親鸞上人は、貴族の皇太后宮大進、日野有範の子で、彼の妻 

〔恵信尼〕は、九條兼実の娘、玉日姫である。)

  対する彼は、一介の漁夫の子、後に自称したように「海辺の旃陀羅

(せんだら)」*に過ぎない(*旃陀羅・・・インドの四姓外の最下級の

種族で、屠殺などに従事する賎民。)

 

  また彼の研究も、最澄、空海をはじめとする高名な「学僧たち」のように、

外国で行なわれたものではなかった。 

―昔も今も、この国では、外国留学が必須の条件である。 

それなしには、いずれの知識の分野であれ、奥義を究めた者として、国人

に認められなかったのだ。

 

  彼はまた、後楯と名の付くようなものを、いっさい、持たなかった。まして

や、他宗の設立者の多くに恵まれていたような皇室の庇護などの、あろう

はずもない。

  彼はただひとり、独力で出発した。あらゆる種類の権力と対立し、当時の

有力な諸宗派と根本的に相容れない見解を携えての出発であった。

  私の知る限りにおいて、彼の場合は、日本の仏教徒中、唯一の例外で

ある。
              Photo_5


 誰に見習うこともなく、一つの「経」と「法」とのために、その生涯をひっさ

げて立ったのであった。

  彼の生涯において興味深いのは、彼が主張し広めた教義上の見解その

ものよりも、むしろ、それを貫き通した勇敢な生き方にある。

  日本における、本当の意味での宗教的迫害は、実に日蓮をもって始まっ

たのである。 【つづく】
 

 

 

 

 

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