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2013年4月12日 (金)

日蓮上人(9 )

    6.剣難と追放

    『立正安国論』の発表後十五年間の日蓮の生涯は、世の権力と権威

とに対する戦いに終始した。彼は最初、伊豆に流された。そして、そこに

三年間、とどまるうちに、多くの改宗者を得た。

 

  許されて鎌倉に帰った彼に、弟子たちは、この上は仏敵との戦いをや

めて、自分らの指導に専念していただきたいと懇願したが、彼は決然とし

て次のように答えた。 

  今は末世の始めである。多くの誤りが世に害毒を流しているこのとき、

法戦は、瀕死の病人に対する薬のように必要だ。 

  一見、無慈悲のように見えて、これこそは、まことの慈悲であるのだぞ。

 

  そして、頭上に迫る破滅をものともしないで、この度しがたい僧は、直ち

に以前の攻撃的態度に立ち返った。 

  そのころのある晩、彼が数人の弟子とともに伝道旅行をしていると、突然、

刀を持った一団の暴徒に襲われた。 

  彼らの首領こそは、日蓮が新しい教義の宣言をした四年前の日、この

大胆不敵な改革者を殺そうと計った、あの地頭であったのだ。

 

  日蓮の弟子の内、僧一人と俗人二人の三人が、師の命を救おうとして殺

された。こうして、法華経は、日本における最初の殉教者を出したのである。 

  この三人の名は、今日なお、この教えを信ずる多くの人々に記憶され、

尊ばれている。日蓮は、ひたいに傷を受けたが、危うく逃れ、その傷は、

この教えに対する彼の忠信のしるしとなった。 

 

  だが、真の危機がおとずれたのは、一二七一年の秋だった。彼がそれ

まで無事に過ごせたのは、ひとえに当時の法律が、僧籍にある者の死刑

を禁じていたからである。

 

  彼の不謹慎な態度は目に余ったが、その剃髪と袈裟とが強力な隠れ蓑

となって、法の励行を妨げていた。 

  しかし、彼の毒舌がますます激しくなって、国内の諸宗派のみか、政治、

宗教両面の権威者にまで、攻撃が及ぶに至るや、北条氏はついに例外

的非常手段として、彼を死刑吏の手に渡すこととしたのである。いわゆる

「龍の口の御法難」というのは、日本宗教史上、最も有名な出来事である。

 *下は、「龍の口」の場所と、その刑場跡)

                     Photo

          Photo_2
  この事件の歴史的真実性が、近ごろ疑われているが、後世の信徒が

この事件に付け加えた奇跡の衣を取り去った「危機」そのものは、疑う

余地なく存在したと思われる。通説による事件のあらましは次のような

ものだ。

 

  ―刑吏が、まさに刀を振り下ろそうとした瞬間、日蓮が法華経の経文

繰り返すと、突然、天から烈風が吹き起こり、周囲の人々があわてふた

めくうちに、刀身は三つに砕け、刑吏の手はしびれて、もはや二の太刀を

下ろすことはできなかった。

                           Photo_3


  かくするうちに、鎌倉から、赦免状を携えた使者が駆け付けて、法華経

の道は救われたのである。―

 

  しかし、この事件を、奇跡の力を借りることなしに説明すれば、当時、

聖職にある者を死に至らしめようとする刑吏の心が、迷信から生ずる恐怖

におののいたのは実に当然であった。

 

  それゆえ、読経しながら自若として死の一撃を待ち受けている僧の威厳

に満ちたさまを見た、あわれな刑吏が、この無辜の血を流したならば、どの

ような天罰が下るであろうかと、恐怖に駆られたのは、もっともなことである。

 

  一方、この先例のない処刑を決意した北条氏自身も、それと同様の恐怖

に襲われたであろうことは確かだ。 

  そこで、彼は直ちに使者を飛ばして、日蓮に対し、死刑に代わる流刑の

判決を申し渡したという次第である。

 

  まさに危機一髪ではあるが、しかし、きわめて自然の成り行きであった。

    *処刑台上に命を終えんとして
 

    観音の力を念ずれば 

    刀身、片々と砕かれなん  (「観音経」より) 

 

  死刑に代わる流刑は、きびしいものであった。

日蓮は、今度は佐渡(*下の写真)に流されることになった。日本海の

孤島、佐渡に渡る旅は、当時は困難をきわめ、それゆえ、ここは、重罪

犯人の流刑地として最適の場所であった。

                Photo_4

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  彼がここに、五年間、流人として生き抜いたことは、まさに奇跡である。

ある厳しい冬などは、その心の糧である法華経よりほかに、ほとんど糧も

なしに過ごした。

  彼の糧は、ここで再び獲得した、肉に対する心の、また力に対する精神

の勝利あった。

  それのみか、彼は、その流人生活が終わりに近づく頃には、その霊的

領土に、さらに一つの地域を加えたのである。



  この時以来、佐渡と、その隣国で人口の多い越後とは、彼の宗旨に

熱烈な忠信を誓って今日に至っている。

  彼の、このような不屈の闘志と忍耐とを見て、鎌倉の権威者は、彼に

対し、恐怖と賞讃との念を抱くに至った。

  のみならず、彼が予言した外国からの侵略が、現に蒙古襲来となって

迫って来たので、鎌倉幕府は、一二七四年、日蓮の鎌倉帰還を許すこと

とした。

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  そして、鎌倉に帰った日蓮に対し、その宗旨を国内にひろめてもよいと

いう免許状を与えた。精神は、ついに最後の勝利を得たのである。

  これ以後、七百年の間、彼の宗旨は、この国内の一大勢力となるので

ある。  【つづく】

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