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2013年4月 1日 (月)

日蓮上人(2 )

 日本の仏教が渡来した時期は、第二十九代、欽明天皇の治世の第十三

年であった。 

 これは、西暦で言えば、五二五年、また仏教の年代学者流に数えれば、

「仏陀の入寂後、一五○一年」に当たる。

 

  そして、早くも西暦五八七年には、壮大な天王寺が、聖徳太子によって、

難波(大阪)の地に建てられた。 

  太子は、日本歴史上、最も賢明な皇子であり、かつ「日本仏教の父」で

ある。

                            Photo_4

 

 次の第七世紀には、帝国内に続々と改宗者が起こり、歴代の天皇自ら、

この運動の先達となった。 

  あたかもこのころ、シナは唐の時代で、名僧、玄奘(*下の肖像画)

指導のもとに、仏教の大復興が行なわれていた。(玄奘のインド冒険旅 

行については、バーセレミー・ヒレールの、目に見るような叙述がある)。

          Photo_5

  仏教発生の地インドで、この教えを探究して来た玄奘に学ぶため、

多くの日本の学者は、海のかなたの唐へ派遣された。 

  奈良朝(七○八~七六九)の歴代の天皇はみな、仏教の強力な支持者

であった。 

 日本渡来後、幾ばくもなくして、この新しい宗教が、かちとった力が強大

であったことは、奈良の旧都を今もいろどる大寺のかずかずに見ること

ができる(*下の写真は、東大寺と、同寺の大仏)

           Photo_9

          Photo_10


  しかし、新しい宗教熱が最高潮に達したのは、第九世紀のはじめ、最澄

と空海という二人の学僧が、シナ留学を終え、それぞれの選んだ宗派を

携えて帰国した時である(*下は、最澄と空海)

            Photo_6
                     
                             Photo_7

  奈良から京都へ、首都を移した恒武天皇(*下の肖像画)は、この二人

に対し、寺院建設のための、すぐれた敷地、ならびにそれに付随する基金

と特権を与えた。

                     Photo_8


  最澄は、新都の北東、あらゆる災いがこの方角から来ると思われてい

地を選んで、叡山を建立し、空海は、紀伊の国の高野山を本山と定めた。

  しかし彼はその他に、首都の南端にも敷地を与えられて、有名な東寺を

建てた。京都駅の真南には、今もこの寺の塔が見える。

  七八七年の叡山の開基、八一六年の高野山の開基によって、日本仏教

は堅く祖国の土に根をおろしたと言うことができよう。

  他のいかなる宗教も、仏教と競うことはできなかった。最澄や空海が、

仏教の基礎は、彼らの住む山のように、ゆるぎなく据えられたと考えたの

も道理である。



  このようにして、九世紀の初期には、いわゆる「仏教八宗」が、この国に

確立された。八宗とは、(一)三論、(二)法相、(三)華厳、(四)律、

五)成実、(六)俱舎、(七)天台、(八)真言などである。

  空海の死後四百年の間、この他に新しい宗派が渡来したとか、設立され

たとかいうことを聞かない。

  八宗の勢力と影響力とは次第に強まり、とりわけ最澄の天台宗が他を

圧していた。

   そして、ここでも、他の場合同様に、宗団の勢力獲得に伴う、あらゆる

腐敗が生じたのである。

  やがて僧侶は、“天皇の天皇”となり、ある天皇などは、「私の力に及ば

ぬものが二つある。加茂川(*下の写真)の流れと山法師だ」という有名

な言葉で、僧侶の横暴を歎かれたほどである。

            Photo_11

  歴代の天皇や貴族は、自分たちの帰依する宗派の寺を建てたり、寄付

したり、飾ったりすることを競い合った。

  広大な京都市街とその郊外とには、今もなお、至る所に、山門や、塔や、

六角堂や、鐘楼などの、壮大な宗教的建築物がそびえて、われわれの間

に、かつて栄えた信仰の巨大な記念碑となっている。  【つづく】

 

 

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