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2013年4月

2013年4月30日 (火)

非戦論の原理〔完〕(内村鑑三)

  人は、申しましょう。ユダヤ人の勢力は、大なりといえども、彼等に国土

なるものは無い。故に、彼等は、すでに亡国の民である。 

  誠に、その通りであります。ユダヤ人に、定限されたる国土はありません。 

しかし、それが即ち彼等が強い理由(わけ)であります。彼等は、世界を己

が国土となす者であります。

 

  彼等は、ランドグラッピング(国土獲得)という異邦人の誤謬より、夙(つと)

に(*早くから)脱しました。 

  彼等は国土を見ること空気を見るが如く、之を一国民の専有物として見

ません。ユダヤ人は、国土専有の念を絶って、より世界的な民となったの

であります。

                   Photo

  戦争の廃(や)まる時は、土地獲得の野心の絶える時であります。ユダヤ

人に、其割拠する国土の無いのは、其弱点ではなくして、かえって其強所で

あります。

  ユダヤ人に関すると同じことが、支邦人に関しても言われます。支邦人

は、ユダヤ人ほど偉大な民ではありません (*下の写真は、或る華僑の

家族、および親族たち

  しかし、之(ユダヤ人)に似て、戦争嫌いの民であります。 

     Photo_3

    而して、其結果として、繁殖力非常に強く、これまたややもすれば、
 

世界 を横領せんとする民であります。 

  列強は、武力を以て、支邦の国土を分割することが出来ます。 

しかし、支邦人を征服することは出来ません。 

  否な、支邦を取るの危険は、終に支邦人に取らるるの危険にあります。 

横浜、上海、香港等に於いて、日本人は名義を貴び、英人は権利を求め

つつある間に、支邦人は、徐々に実力を得つつあります。 

  支邦人は、国旗のために戦いません。実利のために戦います。 

故に、剣を用いずして、算盤(*下の写真)を用います。

                  Photo_4


 賤しむべしと言えば賤しむべしであります。慧(かしこ)いと言えば慧くあ

ます。 

 何れにしろ、算盤は、剣よりも強い武器であります。剣を以てする者が

斃れし後々までも算盤を以てする者は存(のこ)ります。

 

  かくて、人類の歴史は、戦争の利益を教えません。その害毒を伝えます。 

国は、戦争を以て亡びます。民は、戦争を廃めて栄えます。 

  世界は、徐々に戦争嫌いの民の手に渡りつつあります。


 

  戦争廃止の必要 

 

  こうは言ったものの、人は言いましょう。説明は誠に立派である。 

しかし、事実はやはり事実である。戦争を今、廃(や)めることは出来ない。 

 軍備拡張は、列強目下の最大問題である。 

詩人の夢想は、午錘(ひるね)の幇助(たすけ)とはなるが、実際問題を

解決するに足りないと。

                            Photo_10
 

  もし、そうならば止むを得ません。私共は、沈黙を守りましょう。しかし、

かりに私共は黙(だま)りまするも、神と天然とは黙りません。 

  神の律法(おきて)と天然の法則とは、政治家の評議に関わらず行なわ

れます。 

  エホバもまた智慧あるべと聖書に記してあります(イザヤ書

三十一章二節)。

 

  実際問題は、事実、政治家の評議に由て解決されません。 

彼等は、実際、如何なる大問題を解決しましたか? 彼等は、戦争を

議決して、其後始末に困っているではありませんか。 

  夢想家は詩人ではなくて、反って彼等政治家であります。 

神を知らず、天然を学ばない彼等は、間違いより間違いへと陥りつつ

あります。

  戦争は廃みます。必ず廃みます。これは、私共非戦論者が非戦論を唱

えるからではありません。神が之を命じ、天然が之を要求します故に、

終に必ず廃みます。

          Photo_8

  もし進化の理が今日、直に無に帰するものならばいざ知らず、宇宙と

人類とが今日まで取り来たりし経路に由て進みますならば、戦争は終に、

必ず廃みます。 

  人類が進化するに従って、戦争の害は、益々増して、其益は、益々減じ

て来ます。従って、戦争は勝つも負けるも、大なる損害たるに至ります。

 

  戦争は、其代償を償わず、其目的を達せざるに至ります。 

而して、其時に至れば、国民は否(いや)でも戦争を廃(や)めます。 

こうして、かかる時は、時々刻々と近づきつつあります。 

  列強目下の軍備増大の如きも、かかる時機の到来を示すの外ありません。 

列強は今や餓死するか戦死するかの境に達しつつあります。 

         

  戦えば敵の手に斃れ、戦わざれば債者の手に斃れんとしつつあります。
 

ここにおいて、国民は、生きんと欲すれば戦争を廃むより外に手段の無き

域に達しつつあります。 

  而して、国民の生存欲の絶えざる限りは、彼等は余儀なくせられて戦争

を止めます。

          Photo_7


  かかる場合に臨んで最も慧(かしこ)き国民は、最も早く戦争を止める国民

であります。 

 こうして、最も愚かなる国民は、最後まで戦争と、その準備を継続する国民

であります。 

          Photo_9

  国力を益なき戦争のために消費し尽くして、彼等は、まさに開けんとする

平和的競争場裡に入って、憐れなる敗北を取らざるを得ません。 

  獅子や虎の如くに勢力の大部分を牙や爪に消費せずして、哲学者や慈善

家の如くに、之を脳と心に蓄え置かなければなりません。 

            Photo_5

  之を為さずして、目下の勢いに駆られ、万事を犠牲に供して戦争の準備

を為すが如き、之を愚の極と言わざるを得ません。   【了】

 (『聖書之研究』明治四十一年八月)

 

 

 

 

2013年4月27日 (土)

非戦論の原理〔2 〕(内村鑑三)

     歴史に於ける戦争


 しかるに、人はさらに言います。若し、天然が平和を教えるとするも、

人類の歴史は、戦争の必要を説いて止まない、戦争なくして興った国は

ない、人類の歴史は、実に戦争の歴史であると。

 

  成程、戦争に由て国は興りました。しかし、其滅ぶのも、また戦争に由り

ます。戦争は、もともとは破壊性のものであります。 

  ゆえに、他を破壊すると同時に、自己(おのれ)をも破壊します。戦争を

以て、他を破壊しておきながら、己れは破壊を免れんとするは、出来るよ

うで出来ません。

 

  基督教の聖書では、「剣を採る者は、剣にて滅ぶべし」と教え、仏教の

教典では、「呪詛諸毒薬、還着於本人」と説いております。 

 是れは、神の法律(おきて)であると同時に、また天然の法則であります。 

而して、歴史在りて以来、此法則に洩れた人も国も無いと思います。 

  和漢西洋いずれの国の歴史を見ましても、此法則の働きは、有々と顕わ

れております。



  而して、其理由は、探るに難くありません。戦争は、勢力の消耗でありま

す。負ければ勢力を補わんとし、勝てばさらに進んで消耗の途を設けんとす。 

  人も国も戦争の方面に発達膨張して、終に立つ能わざるに至ります。 

古きは、アッシリア、バビロニア、マケドニア、ローマ(*下の写真)の滅びた

るのも、全く是れがためであります。

              Photo

  国費の大部分は、戦争の方面に注がれ、才能の大部分もまた同一の

方面に使用され、人物という人物、天才という天才が生産的ではなくて

消費的な軍事一方に引かれて、国は其根本において衰え、甚だしきに

至っては、終に亡ぶに至ります。

 

  国の宝は、第一に其人物であります。而して、戦時に於いては、之を

戦場に消費し、平時に在っては、之を兵営の中に囲い置いて、国は発達

せんとするも得ません。 

  誠にギリシャ(*下の写真)が亡びたのは、全く連続せる戦争の結果に

由る人物欠乏が、其最大原因であったとのことであります。 

            Photo_8

  一時は大詩人、大哲学者、大美術家、大政治家を続出して止まざりし

ギリシャが、今日の如くに衰えしは、全く戦争に由て人物を消費し尽くした

からであると言います。

 

 実に而(こ)うであろうと思います。ローマの滅亡も、また同一の理由を以

説明することができます。

  一時は世界の半を握りしスペイン(*下の写真:セビリアのスペイン広場)

が三百年後の今日、世界の第三等国とまで下りましたのも、全く引き続く

戦争に由て、国の第一の宝たる人材を消費し去ったからであります。 

          Photo_2

  フランス(*下の写真)が、今や其第一等国の地位を失わんとしつつある

のも、また同一の原因に由るのであります。 

          Photo_3

  国民の精華は悉く軍人と成り、其屑のみが残って教師となり、文人となり、

美術家となり、実業家となるのであります。それで、国の衰えない理由

(わけ)はありません。 

  社会の道徳の日々衰え行くは、決して怪しむに足りません。 

徳性涵養の任に当る教育家宗教家の殆どすべてが、国民の滓(かす)

であるからであります。 

  聖賢君子の為すべき業が小人愚物に委ねられるからであります。 

軍人たるは貴くして宗教家たるは卑しき国に、道徳が盛んになる筈はあり

ません。

 

  戦争に由て国家は顕揚されますが、それと同時に国力は減退します。 

而して、顕揚が虚栄となり、減退が空乏と成って終に亡国となるのであり

ます。

  天然に於けるが如く歴史に於ても、之を見ずして広く見て御覧なさい。短

く見ずして、永く見て御覧なさい。

 

  戦争が、決して国を興し国を保つ途(みち)でない事が分かります。

戦争で興った国で亡びない国は、未だかつてありません。唯、時日の

問題であります。 

  同一の原因は、同一の結果で終わります。剣を以て興った国は、剣と

其悪結果とに由て亡びます。



  世に、剣を以て興らず、また剣を以て維持されない一つの国があります。

それは、猶太(ユダ)国であります。牧人アブラハム(*下は、愛息イサクを、

生贄に捧げようとするアブラハム、神の使いにより制止される。)の家より

出で、連綿として四千年後の今日に至ります。 

            Photo_4

  其王政時代に於いて、また其マカビー家執権の時に、武を以て隣国を

圧したことがありましたけれども、それは国民としては、至って僅かな間

でありました。

 

  猶太(ユダヤ)人は、主として無抵抗主義の民であります。迫害せられ

るのが、彼等の特性であります。ユダヤ人の歴史は、戦争史ではなくして

迫害史であります。 

  遠くは、紀元前三百年頃、シリヤ王アンチオカス・エビフハネスの虐待

凌辱する所となりし以来、近くは露国キシネフに於いて、彼らの多数が

虐殺されしまで、ユダヤ人に、迫害の絶えたことはありません。

 

  しかるに、彼らは、之に対して一剣を磨かずにいまして、彼らは、唯あし

らわれるがままに、己が身を任しました。 

  もし腕力の勝敗が、民の興亡を決するものでありますならば、ユダヤ人

は、すでに此世より絶たれたのであります。しかし、事実は、どうでありま

すか?



  アブラハムが初めてカルデヤを出た時には、未だアッシリアも興らず、

バビロニアも立たず、エジプトは隆盛の極に居り、ギリシャやローマも、

未だ時の胎内に在った時でありました。 

  然るに世紀は変わり、紀元は改まりて、是等の国民は衰え、興きては

亡びましたけれども、常に変わらないのは、いやしめられる無抵抗主義の

ユダヤ人であります。

 

  ローマは滅びても、ユダヤは滅びませんでした。 

欧州に国は興り、国は衰えましたけれども、依然たるは、やはりユダヤ人

であります。 

  而して、其数、今や一千一百万以上、世界各国至る所に散在し、其財産

を握り、其思想を左右し、其哲学と美術に貢献し、実に敬すべき一大勢力

であります。

 

  世界第一等の人物を産出すること多きユダヤ人の如きはありません。 

哲学者としてはスピノザを出し、音楽家としてはメンデルスゾーンを出し、

政治家としてはデズレリーを出し、新聞記者としてはブローヴイッツを出し、

其他数を切れません(*下の肖像画は、スピノザ、メンデルスゾーン、

デズレリー)

                          Photo_5


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  もし文明世界よりユダヤ人を除いたならば、其最良最善最美のものは

なくなります。民として継続することの長きことユダヤ人に及ぶものはあり

ません。 

  世界第一等の人物を産出することの多きユダヤ人に及ぶものはありま

せん。 

 すべての点に於いて(勿論、軍事を除き)勢力の充溢することユダヤ人

に及ぶものはありません。

 

  ユダヤ人は、ロシア人が亡びた後も、尚存(のこ)ります。 

ユダヤ人は英人、仏人、独逸人が消え去った後にも、尚、栄えます。 

  而して、此民が特に無抵抗主義の民であることを知って、民は戦争に

由て存在するものではないことが最も明らかに分かります。 【つづく】 

2013年4月26日 (金)

3.11の真実(後)

    3.11の真実(後)  

 「3.11大震災は、アメリカとイスラエルの裏権力が核兵器を使った!」 

 

 (ケリーさんが問う。) 

  さて、ジム、あなたの肩書きが何であったのかを、教えて頂けますで

しょうか?

 

  (ジムが答える。) 

  ある意味では、信号過程保管システム修復を保持するための電子労働者

(=コンピューター・エンジニア)でした。基本的には、そこでの最高レベル

にいました。 

  新しいシステムの開発といったものは、私達はしていませんでした。 

ですが、私達は、誰もそれについて知らず、またそれについて訓練された

こともない”ブラックボックス”があったとして、一体、それが何か?、また、

それが何をしたか?を見つけ出すことを期待されて働いていました。

 私達は、そういった類いの人間でした。アメリカ国家安全保障局(NSA:

下の写真、その下は、内部の様子)中で、私達は、ほんの少数でした。

           Photo_11
                  Photo_12


   そこを退職後、私は、コントローラーと自動化システム産業の世界で職

を得ました。そして、福島原発にあった制御システムのタイプに、私は、

非常に精通していたのです。それ(コンピューターウィルスの”植え付け”か)

が可能だと知っていたのです(*下は、イメージ)

                       Photo_13

 私が、実際に福島原発のコンピューターシステムを設計した技師にイン

タビューをした時、私が何も教えられていないのに、どんな事でも知って

いることに、彼らは、心底、驚いていました。 

  なぜなら、私が、システムの詳細を、彼らに話したからです。 

「君は、それを、どうして知っているんだ?どうして、知っているんだ?

どうして、知っているんだ!」とね。 

  一旦、或るレベルの資格を得ると、どんなシステムであれ、よく知ること

ができるのです。


  (ケリーさんが言う。)
 

  何であろうが、あなたは見る(=理解する)ことが可能であると。― 

また、あなたは、電子戦争部門と言っていましたね。 

  それで、あなたは、ストゥクスネットを理解することが可能だったんです

ね? (*下は、スーパーコンピューター)

               Photo_14

 (ジムが答える。) 

  はい、そうです。あなたがしなければならないことは、何でも偽造する

ことができるコンピューターウィルスがあることに気付くことなんです。 

 

  (ケリーさんが言う。) 

  OK.さて、お話しを進める前に、あなたが、まだ愛国者かどうか、お聞き

したいのです。

 

(ジムが答える。) 

  私は、とてもアメリカを愛しています。 

私の祖国ですし、そこに住む人々を愛しています。 

  しかし、現在、アメリカは、犯罪エリートたちによって乗っ取られています。 

自分の命への脅威があり、私は、自分の国から逃げ出したのです。 

アメリカにはいられないのです。無論、私自身は、居続けたいと願いました。

                         Photo_17

    しかし、私の命に対する脅威の試みの後には、「福島原発レポート」の

ことで、私は、二回投獄されましたし、数多くの脅迫も受けました。 

 私は、去らなければならなかったのです。私に、他の選択肢はありませ

んでした。 

  私は、祖国を去りたくはなかったのですが、国内では、随分と傷つけられ

ました。現在、アメリカでは、多くの人々が傷つけられています。 

  ですが、この国の様々なシステムの中で苦しんだり傷つけられたりして

いる人々は、これが、アメリカ(本来)のシステムではないことに気付かな

ければなりません。

 

  アメリカでは、国家を征服し、人々(=国民)を征服するシステムが仕込

まれ、しまいには、そのシステムを牛耳る人々が、国家を地に叩き落とし、

完全に破壊するのです。それが、現実に起きているのです。 

  それゆえ、アメリカに怒っても仕方がないことに気が付かなければなり

せん。 

 むしろ、国家の権力を奪い、国家破壊への道を敷いた人々(1%の国際 

金融資本家)に対して怒るべきなのです。


  (ケリーさんが言う。)
 

  そうですね。まったく仰る通りだと思います。


  (ジムが答える。)
 

  私は、国を失ってしまいました。こういう風になってしまったことが、非常

に悲しいです。ですが、私は、もはやアメリカにはいられないのです。


(ケリーさんが問う。)
 

  (福島の)原子炉3号機が爆発(*下の写真)してしまいました。  何に

よってですか? 

  核(=小型核兵器)によってですか?

                   3

  (ジムが答える。) 

  その通りです。 

  4号機には、二つの「核」が仕込まれていました。 同機では、爆発があっ

た時に、“圧力”下にはありませんでした。なぜなら、これは、サンプルだっ

たからです。

 

  ですが、3号機で「核」が爆発した時には、少なくとも3000PSI、おそらく

5000PSIの圧力が出ていたのです。イランでは、1150PSIでした。  しかし、

これは、あり得ないことです。存在していない制御は、イスラエルのストゥ

クスネットに感染しているのです。

  このウィルスは、全てが破壊されようが、爆発されようが、その前後も、

全ての読み取りを通常に保つのです。

 

  ですから、一ヶ月間、この原子炉は、そこにあって、写真からは明らか

に破壊されていますが、コントロールルームでは、原子炉から、温度の

読み取りや圧力の読み取り、全てが通常の読み取りをするのです。

これはすべて、「ウィルス」を通してなのです。 

  ずっと、そこに”存在する”、これこそが、ウィルスが、そこにあるという、

絶対的な証拠なのです。 

  私の考えでは、この国(日本?)では、本当に何も危険なことは起きて

いません。(*この考えは、リチャード・コシミズ氏も、全く同様ではないか

と思います。)

               Photo_15

  今、私は、メキシコにいます。なぜなら、私は、この「福島原発」の報告書

のことで、国から追われているからです。 

  そんなわけで、メキシコ地震が起きた時、私は、ここにいたんです。

  最初のリンクです。一番右側のコラムにある「メキシコ人工地震の証明」

をクリックして下さい(*下の写真は、この時のメキシコ人工地震の様子)

            Photo_18

        Photo_19


  少なくとも、私の手許に届いた報告書では、オバマ大統領の娘が、この

地震の最中に、チアパス州地区にいたということです。 

  (*実際、2012年3月20日、午後0時2分、メキシコ大地震が起こった時、

オバマ大統領の長女マリアは、被災したオアハカ州で休暇を過ごして

いたが、幸い無事だった。)

  ここで、オバマが「アメリカは、イランとの戦争に向かわない」と、イスラ

エルに言ったことで、同国に脅されていたのです。 

 
  あなたには、このリンクを、是非見てほしいのです。つまり、「メキシコ

地震、人工地震の検証」を。決定的証拠です。 

  この前もって計画された演習で起きた事は、実際の生活の中で、間違い

なく起きた事なのです。

 

  そして、これは、多く語られていることですが、我々(=アメリカ)には、

地震兵器があるので、今やアメリカには、地震の引き金を引く方法(=手段)

があるのです。


  (ケリーさんが問う。)
 

  何故、三つの「計画」で、日本は、攻撃されたのでしょうか? 

お分かりでしょう?  三つとは、地震、核、津波です。


  (ジムが答える。)
 

  911の時のように、各施設を爆破したければ、その手立てがなければ

なりません。 

 タワーを崩壊させたければ、飛行機が突っ込まなければなりません。 

  それと同様、原子炉を破壊させたければ、津波”がなければならなかっ

たのです。

                   Photo_16

  (ケリーさんが語る。) 

  津波は、まるで、”カバー”のようなものだったのですね。


  (ジムが答える。)

  そうです。あの津波は、カバーでした。
 

まさに、津波は、911の”飛行機”なのです。



  国家安全保障局には、道徳的で、非常に優秀な人々が大勢います。
 

彼らは、区別された個別の機関下にあるんです。 

  ですから、彼らが、何か邪悪な事をしていても、それが分からないのです。 

なぜなら、彼らは、自分たちの仕事が何に使われているのか知りませんし、 

命令が、どこから来ているのかも知りません。彼らは、非常に善良で正直

な、頭のいい人たちです。 

 
  私は、この時代“全体の環境”という名の「偽旗テロ」が無くなることを望

んでいます。 【了】


  (後記:今回のYou  Tubeを、下に貼り付けます。

     どうか、よろしくご高覧ください。  

     http://youtu.be/ZCEmFIMrRVE

           実は、これを掲載後、リチャード・コシミズ氏が、

      今月20日〔土〕の奈良講演会で、ジム・ストーン氏に

       言及しておられることに気づいた次第です。

           同講演も、下に貼り付けます。これも、よろしく

     ご覧ください。  

http://www.youtube.com/watch?v=7NnaLtT6C-s&feature=share&list=PLPg7hSdi4rU6EHsNy2nTH4GH8g3ZSCTqn

 

 

 

2013年4月25日 (木)

3.11の真実(前)

 
  「虚偽の世界で、永遠に生きるより、
 

  たとえ、一瞬の生でも、真実の世界に殉じたい。」(渡邉良明)

   3.11の真実(前)

 「3.11大震災は、アメリカとイスラエルの裏権力が核兵器を使った!」



  大場光太郎氏のブログ「今この時&あの日あの時」は、非常に詩情豊か

で格調高く、そればかりか、実に正義感に満ちた、たいへん素晴らしいブ

ログです。 

  そのブログの中に、You Tube「3.11&原発テロ」=「3.11大震災は、

アメリカとイスラエルの裏権力が核兵器を使った!」が貼り付けてありま

した。その内容は、一部には知られていますが、とても衝撃的なものでした。

 

  それは、元アメリカ国家安全保障局(NSA)に勤務していたJim  Stone

氏 (*下の写真)が、昨年3月28日、AFR(American  Freedom Radio)の

ケリー・キャシディ(Kerry  Cassidy)さんのインタビューに対して答えたもの

でした。その内容は「福島原発事故の真実」ついてです。 

  (*尚、この記事に就きましては、すでに、昨年の2月、著名なブロガーの

「飄(つむじ風)」氏が、取り上げておられます。)         
                    
 

Photo_8

              Photo_9

 (ジムが、こう切り出します。・・・*尚、翻訳文を、多少、読み易く意訳し

ました 

  最初、私は、国家安全保障局(NSA)で働いていました。そこで、技術面

での教育を受けました。1992年に、大きな問題があることに、私は気が付き

ました。 

  国がどのように運営されようとも、大学(いわゆる、知的な世界)に問題が

あることに気付いたのです。 

  そして、その事が、この国(アメリカ)で、誰が問題を引き起こしているか

を明らかにしようとする主要な証跡(trail・・・この場合、「きっかけ」の意か)

だったのです。

 

  つまり、誰が、(国家を)バラバラに引き裂いているのか、誰が、経済的

に私達を奴隷にしているのか、誰が、それら全ての狂った法律を書いてい

るのかを知りたいと思ったのです。

  そのため、私は、”事の真相”を得ようと、20年間を費しました。 

  私は、ユダヤ・コミュニティ内部で2年間を費やし、沢山の、呆れ果てるよ

うな事実を発見しました。 

  私は、沢山の事実を見出しましたが、それを発表するのに躊躇し、怠惰

にも、来年やろう、また来年やろう、と先延ばしした状態でした。 

  そんな中で、福島の原発事故(実際は、事件)が起こったのです。

 

 それで、私は”福島原発問題を調べ始めました。私は、すべての機密

情報入手しました。 

  まず第一に、日本では、絶対に震度9.0の地震は起きていませんでし

た。それは、そても明快な事実によって証明されています。例えば、仙台

では、建物は倒れていませんでしたし、全ての都市を破壊した、あの津波

のビデオを観てもらえば分かりますが、あの地震では、それらの建物は、

殆ど無傷だったのです。

 

  そんなわけで、今日、福島に関して私達が知っていることは、東北の

に核兵器が埋設されていたという事なのです。これは、

新しい形の「テロ」なのです。



( ここで、ラジオ局のケリーさんが、口を差し挟む。)
 

  OK.私も、あなたに同意します。 

 
  事実、私も、内部告発者の証言を聞きました。
 

実際、福島原発の下に、核が埋められていたのだと、私は聞きました。

 

  (ジムが、続ける。) 

  そうですね。埋めた会社名も分かっています。 

埋めた理由も分かっていますし、全て分かっています。

 

  (ケリーが、話題を変える。・・・もっと、ジムに語らせればいいのに。) 

  OK.ストゥクスネット(=コンピューターウィルス・プログラム)については、

どうですか? 

  と言いますのも、ストゥクスネットこそが、イスラエルに起因するものだ

と思うのですが、違いますか?



  (ジムが、答える。)
 

  そうです。イスラエルは、ストゥクスネットと呼ばれるコンピューターウィル

スに手を染めています。このコンピューターウィルスは、対象のコンピュー

ターに入り込んで、産業用制御システムを破壊する目的で設計されていま

す。

 

  それで、何をするかと言うと、全ての読み出しを維持しながら、全ての

機械を故障させるので、オペレーターには、通常通りに見えるというもの

ですしかし、実際、機械は完全に故障してしまうのです。 

  ストゥクスネットは、システム内に入り込み、「通常(あるいは、正常)」と

はどんなものかを学習するのです。 

  ですから、そこに、アイドルモードが残り、一ヶ月か、若しくは彼らがシス

テムを学ばせたい期間、設置させるのです。

 

  福島原発の場合は、ストゥクスネットは、四ヶ月間、植え付け”られてい

ました。 

 それで、「ウィルス」は、学んだのです。オペレーターが完全に燃料棒の

温度を制御していることや、温度は、こんな方法で、この割合で落ちるの

だということなどをです。 

 それから、燃料棒を入れると、この方法で温度が上がり、圧力が上がり、

タービンの速度が上がったり下がったりするだとか、現在、機能している

“振り(=擬態)”をするのです。

 

  そんなわけで、ストゥクスネットは、その施設でオペレーターがする全て

を学ぶのです。それも、四ヶ月に亙ってです。それを植え付けた会社は、

マグナBSP社と呼ばれています(*下は、同社のロゴ・・・リチャード・

コシミズ氏も語っていたが、まるで”邪悪そのもの”といった感じ。)

             Photo_5

  私が言いたいのは、私は彼らにメールを送っていて、彼らが施設に埋め

込んだ(小型)核兵器の写真を持っているということです。

                
  彼らがした事とは、イスラエル国内に座って、津波を引き

起こし、津波が原発を襲うのを待っていたことなんです。 

               Photo

                     Photo_2
                    Photo_3


  地震に襲われると直ぐに、原子炉は自動的に緊急停止します。 

なぜなら、これらの原子力施設は、本質的に安全に設計・設置されている

からです。 

  ですから、地震が起きたとしても、あるいは電気的なトラブルが起きたと

しても、原子炉は、自動的にスタンバイモード(休止状態)になるのです。 

  そして、これが、福島原発で起きました。津波が起きて約40分後に起き

た事は、彼らが発電機を停止させたことです。

 

  彼らは、どうにかして、原子炉への遠隔インターネットリンクを得たの

です。これは、エルサレム・ポストで報告されています。 

  このマグナBSP社は、必要以上に巨大な核用カメラを、福島原発内部

に持っていました。そのカメラへのインターネット接続も持っており、その

施設を撮影するために、このカメラは、災害を通して、ずっとそこに置かれ

ていたのです。 

  そして、ご存知のように、彼らは、読み取り自動モーターを爆破させるか、

若しくは、その全てが爆破されるまで、ストゥクスネットの管理を遂行した

のです。

 

 vanished  reactor  のところをクリックして頂ければ、図表のリンク

が出てきます。お分かりでしょう? 

 どのようになっているかという、「福島」の図表ですね。 

  彼ら(マグナBSP関係者)が、(小型)核兵器を設置した場所に、私は、

矢印を付けています。

 

  この写真の下の方にスクロールを下げると、「福島」のニュースの写真と

実際のニュースを見ることができます。 

  この写真の一番下ですが、そこに、偽装立体鏡カメラが在りました。 

銃型核兵器の図が二つあります。これ(=小型核兵器)が、その中に在

ったと、私は考えています。明らかに一致しているのです。


              Photo
                   Photo_2



  (ここで、ケリーさんが言う。) 

  そうですね。私も、この情報を知っています。確か、あなたにコンタクトを

取るずっと前でした。 

  ところで、あなたへの質問なのですが、この情報を手にして、何が起きた

とお思いですか?

 

  換言しますなら、拝見したあなたの文章は、非常によく出来ています。 

それで、どう思われますか? 

  基本的には、それ(3.11)は、イスラエルによる「偽旗作戦」なのでしょ

うか?

 

  (ジムが、答える。) 

そうです。これは「偽旗作戦」です。

 

  (ケリーさんが、言う。) 

  この議題から離れたくないのですが、この「作戦」では、イスラエルが単独

で行動したと、お思いですか? 

  お分かりかと思いますが、こう言うのは悲しいことですけれど、この「作戦」

に、私達(米国)が、深く関わっているようなのです。

 

   (ジムが、答える。) 

  この件に関して、私は、沢山の報告書を持っています。それは、米国海軍

が、核爆発の起きた日本海溝にいたというものです。 

  「福島」のページをスクロークで下げると、本当の震源地を載せています。 

メディアが報告した震源地も載せています。

             Photo_10

  この地震の震源地は、60マイル(96km)内側にあり、また、メディアが報告

した震源地は、日本海溝にある半島に近い沖合24マイル(38km)の所です。 

  これらの地震は、全部作られた(=人工的)なもなのです。  【つづく】

 

 

 

 

2013年4月23日 (火)

非戦論の原理〔1〕(内村鑑三)

  毎年夏期は、講談会を開くを例とす。然るに、今年は之を為さず。

空しく夏を過ごさんことを恐れ、ここに机に対しながら数千の聴衆の

我目前にいるを瞑想し、此演説文を章す。


    学者の態度

 私は、今日は、非戦論の原理について申し上げたく思います。 

しかし、本論に入るに先立ちて、私は一言諸君に申し上げておかなけ

ればならないことがあります。 

  即ち、私が非戦主義を懐くのは、私が悉く其真理なるを証明し尽くした

からではないという事、其事であります。

 

  世の中の大抵の人は自己の奉ずる主義信仰と言えば、之に一点の

懐疑、一点の批難の加うべきものの無いものであるように思います。 

  しかし、是れ、真理を愛する学者の持つべき心の態度ではありません。 

学者は、懐疑を許します。批難を歓迎します。而して、主張と批難とを

較べてみまして、二者何れか真理の多い方を採ります。故に、彼の提供

する説は、完全な真理ではありません。かかる真理を提供し得る者は、

人間の中に一人も無いはずであります。

 

  我が奉持する真理は完全な真理なりと称する者は、神にあらざれば

狂人であります。 

 我等人間は、より大なる真理を供するまでであります。 而して他人の

批評を俟(ま)って、更に大なる真理に達するまでであります。 

  私は今は非戦主義を懐きます。私は、非戦論は道理として最も正しく、

道徳として最も高く、政略として最も慧(かしこ)き主義であると思います。

 

  しかし、かく思いますればとて、非戦論に多くの批難すべき点が無いと

は言いません。其反対の主戦論にもまた多くの採るべき所があります。 

  少なくとも同情を寄すべき点があります。私は、非戦論を証明し尽くした

とは言いません。

 

  之を宇宙進化の理から考えてみましても、また実際に之を行なう点から

考えてみましても、之に多くの批難すべき点のあることを認めます。 

  私は、より大なる真理として非戦論を採るのであります。絶対の真理と

して、之を懐くのではありません。

 

  而して、若し諸君の中に、かかる信念は是れ半信半疑の信念であって

聞くに足らずと言わるる方がありますならば、其方は、公平を愛する学者

の精神を有(も)たない方と認めますから、私の講演中は、今より直に

此場を退かれんことを願います。





   戦争の悪事なること
 

 

  さて、戦争の悪い事であることは誰でも承知しております。如何に戦争

好きの人でも戦争は善い事であると言い得る人は一人もありません。 

  戦争に対する普通の弁護は、「戦争は戦争を止めることである」との事で

あります。漢字の「武」は、戈(ほこ)を止めるの意であるとの事であります。 

  平和のための戦争であって戦争のための戦争でない、とは誰でも言う

ことであります。故に、私はここに戦争の悪い事を述べる必要はありません。

 

  其事は、世界一般に知られております。しかも、買淫制度の悪い事が

一般に知られていると同然であります。 

  誰も、貸座敷は善いものであると言う者はありません。唯、悪いけれど

も止むを得ないと言うまでであります。

 

  人類一般が其悪事なるを認める一点に於いては、戦争は売淫と少し

も異なりません。 

 故に、道徳の立場から見て、私は勿論戦争を悪(にく)みます。しかし、

ドレ丈悪むか、其れが問題であるのであります。 

  憎悪(にくみ)にも、強いのと弱いのとがあります。悪んでも恕して置く

憎悪(にくみ)があります。之を排除せざれば止まない憎悪があります。

 

  貸座敷は悪いものであるけれども、存(のこ)しておいて左程害がない

という憎悪(にくみ)と、貸座敷を存しておけば、我家庭も社会も、

ついには国家までも滅びてしまうという激烈な憎悪とがあります。 

  而して、戦争に対する私の憎悪は、前のぬるい憎悪ではなくて、後の

熱い憎悪であります。 私は、私の全心全性を傾けて、これを嫌います。

 

  しかも、故ビクトリア女王(*下の肖像画)が、之を嫌い給いしように

之を嫌います。 

                             Photo

 伝え聞く所に由りますれば、彼女は老年に進むに従い、戦争を嫌い給

うこと益々甚だしく、「朕は、朕の在世中、再び戦争の宣告に署名せざる

べし」とまで言い給うたこともあるそうであります。

 

  しかるに、英国の憲法に由り、民の欲する所は皇帝もまた之を可とせ

ざるべからざる所より、止むを得ず、かの最も不幸なる戦争、南阿戦争の

宣告に署名し給ひしより、彼女の心、常に安からず、終に彼女の崩御を

数年早めたとの事であります。

 

  憎悪は勿論感情でありまして、道理を以て量(はか)るべきものでは

ありません。 

 しかしながら、感情にも高いのと低いのと、鋭いのと鈍いのとがあります。 

深い道徳は、鋭い感情を作ります。

 

 女王陛下の戦争に対する憎悪はヒステリー的とばかりは言えません。

彼女は、最も常識に富み給う婦人でありました。彼女の戦争を嫌い給い

しは、彼女と同時代同国の人なりし哲学者スペンサー(*下の肖像画)

非常に之を嫌いしと同一の原因に基づくのであると思います。

                     Photo_2
 

  道理の問題は別にしまして、小さき私も今は、非常に戦争を嫌います。

私は今は、英国非戦主義第一等の政治家なりしジョン・ブライト(*下の

肖像画)と共に言います「人類の罪悪一括せしもの、是れ戦争なり」と。

 

                                Photo_3




    戦争と天然

 

   しかし、人は言います。戦争は広く天然に行わるる所、戦争は天然の

法則であって、また進化の理である、と。 成程、戦争は、広く天然に行な

われます。優勝劣敗の理は、天然界至る所に行なわれます。

 

  私は、天然界に於ける戦争の実在と、また或る点から言えば、其利益を

認めます。

  しかし、一つ注意しておくべき事があります。それは、天然の法則は、

戦争のみに限らないことであります。

 

  天然界には、戦争と共に協同一致も行われます。愛憐犠牲も行われます。 

万物が進化して今日に至ったのは戦争のみに由りません。 

  優勝劣敗を戦争のみに限るは、極く浅薄なる天然観であります。 

獅子は成程、鹿や兎を食います。獅子と鹿と相対すれば、勝利は勿論

獅子に帰します。

                          Photo_4 

  されど、鹿には獅子に無いものがあります。群居の性があります。 

従って、多少、和合一致、相互共済の性があります。 

  故に、戦争に於いては、鹿は獅子に負けますが、繁殖に於いては、

獅子は鹿に負けます。

                          Photo_5

  故に、印度阿弗利加の地方に於いて、獅子が絶えても鹿の絶えない

所が沢山あります。 

  獅子は、其牙と爪が鋭いために鹿に勝ちますが、其猛烈なる呑噬

(*どんせい・・・本来は、「飲むことと噛むこと」の意。転じて、他者を襲う

攻撃性の意か)の性を有つために、終には弱い鹿に負けます。 

  天然界を修羅の街(ちまた)と見るは、大なる間違いであります。

天然界は、修羅の街ではありません。やはり、愛と正義が最後の勝利を

占める家庭の一種です。

 

  広く天然界を、其大体に就いて観察して御覧なさい。その中で、最も

高い、最も貴い、最も麗しい物は、強い、猛々しい、厖大なる物では

ありません。 

 若し力の一点より言えば、最も強い者は王蛇(おうじゃ)と鱷魚(がくぎょ)

であります。 

 しかし、誰が、王蛇と鱷魚が此世界の主人公であると言いますか。

 

  詩人ワーズワース(*下の肖像画)が歌った牝鹿は弱く、かつ脆いです

が、しかし、遥かに王蛇、鱷魚以上の動物であります。

                    Photo_6
  鷲は一番強い鳥でありますが、鳥類の王は、鷲ではありません。

木陰涼しき所に五色の錦繍(にしき)を水面に映す翡翠(かわせみ:下の

写真)は、遥かに鷲以上の鳥であります。

           Photo_7 

  若し力の一点から言いまするならば、原始の人はゴリラ、チンパンジー

等の猿猴類に遥かに劣った動物でありました。

  しかるに、此弱い人類が、終に世界の主人公と成ったのであります。

若し戦闘的な優勝劣敗が天然界を支配する唯一最大の勢力であります

ならば、此世界は今や全く王蛇、鱷魚、鷲、ゴリラ等に属して居ったで

ありましょう。

  しかるに、そうではなくして、獅子や虎は絶えるも其餌物となりし鹿や

兎は繁殖し、鷲は山深き巌(いわ)高き所に其巣を作るに代えて、翡翠は

里に下りて水辺を翔(かげ)り、ゴリラ、チンパンジーは、僅かに熱帯地方

の深林に其種族を保存するに代えて、人は全世界を蔽いて至る所に文明

を進めつつあるのを見て、天然界は決して強者必盛、弱者必滅の世界で

ないことが最も明白に分かります。

  主戦論は、之を天然界の事実に訴えて其説を維持することはできません。

天然を深く学んで其、戦争の奨励者でなくして、反って平和の宣伝者であ

ることが明らかに分かります。 【つづく】

 

 

2013年4月22日 (月)

日露戦争より余が受けし利益(内村鑑三)〔後〕

  二、日露戦争に由て、私は一層深く戦争の非を悟りました。戦捷(=勝)

国に在って連戦連捷(れんしょう)を目撃しまして、私は再び元の可戦論者

に化せられませんでした。 

  否(いな)、戦勝の害毒の戦敗のそれに劣らぬことを目前に示されました

私は、益々固い非戦論者となりました。

 

  捷(しょう)報至る毎に、国民は抃舞雀躍(べんぶじゃくやく)しつつある間

に、その内心に如何なる変化が起こりつつあるかを思いまして、私は自ら

進んで、其狂気の群に加わることは出来ませんでした。 

  日露戦争は、我国民の中に残留せし僅かばかりの誠実の念を根こそぎ

取りさらいました。既に非常に不真面目なりし民は、更に一層不真面目に

なりました。

 

  其新聞紙の如き、一つとして真事実を伝える者なく、味方の非(=秘)事

と言えば、悉く之を蔽い、敵国の非事と言えば、針小を棒大にして語るを

歓び、真理其物を貴ぶの念は全く失せて、虚を以てするも実を以てするも 、

ただ単に同胞の敵愾心(てきがいしん)を盛んにして戦場に於いて敵に勝

たしめんとのみ努めました。戦争最中の新聞紙は、真理を外にして勝利を

のみ、是れ求むるものでありました(*下の絵は、「203高地」)

                 Photo_2

 私は、信じて疑いません。戦争二十箇月間日本国に、一箇の新聞紙も

りませんでしたことを、即ち事実を報道し、吾人をして公平な判断を下さし

むるに足る一箇の新聞紙のありませんでしたことを。戦争は吾人を不道理

なる、不真面目な民となしました。

 

  而して、若し民の道徳に何か価値(ねうち)があるとしますならば―而して、

私は、無上の価値があると信じまする―かくて、道徳的に蒙りし国民の損害

は、戦争に由て獲(え)し僅かばかりの土地や権利を以て、到底償うことの

出来るものではないと思います。



  而して、真理を貴ぶの念が失せたのみではありません。人命を貴ぶの念

までが失せました。常には人命の貴重を唱えて止まざる民は、戦争に由て

人の生命の牛馬の生命と較べてみて左程に貴いものではないように思うに

至りました。

                            Photo_8

  敵の死傷二十万と聞けば歓びの余り、我死傷五万との報に接しても、

一滴の涙を注がざるに至りました。我死傷五万とよ! 

  五万の家庭は、あるいは其夫を、あるいは其父を、あるいは其子弟を失っ

たのであります。五万の家庭より、悲鳴の声は揚がりつつあるのであります。

 

  然るに、之を悲しむ者とては一人も無く、祝杯は全国至る所に於いて挙げ

られ、感謝の祈祷は、各教会に於いて捧げられたのであります。人命の

貴尊も何もあったものではありません。同胞の愛も何も有ったものではあ

りません。

 

  同胞の屍は山を築き、其血は流れて何を為しましても、それは深く国民の

問う所ではありませんでした。 

  「戦いに勝てり」、「敵を敗れり」、此事を聞いて、同胞の苦痛はすべて忘

れ去られました。戦争は、人を不道理になすのみならず、彼を不人情にな

します。

 

  戦争に由て、人は敵を悪(にく)むのみならず、同胞をも省みざるに至り

ます。 

 人情を無視(なみ)し、社会を其根底に於いて破壊するものにして戦争

如きはありません。戦争は、実に人を禽獣化するものであります。



  戦争は、戦争を止めるためであると言います。「武」の字は、戈を止める

意味であると言います。しかしながら、戦争は実際、戦争を止めません。

否な、戦争は、戦争を作ります。日清戦争は、日露戦争を生みました。

日露戦争は、また何(ど)んな戦争を生むか分かりません。

                 Photo_7
 
  戦争に由て、兵備は少しも減ぜられません。否な、戦争終わる毎に、

軍備は益々拡張されます。戦争は、戦争のために戦われるのでありまして、

平和のための戦争などは、嘗て一回もあったことはありません。 

  日清戦争は、其名は東洋平和のためでありました。然るに、此戦争は、

更に大なる日露戦争を生みました。日露戦争は、また其名は東洋平和の

ためでありました。

 

 しかし、これまた、更に更に大なる東洋平和のための戦争を生むので

あろうと思います。戦争は飽き足らざる野獣であります。 彼は人間の血を

飲めば飲む程、更に飲まんと欲する者であります。

  而して、国家は、かかる野獣を養いて、年に月に其生血を飲まれつつあ

るのであります。愚の極とは、実に此事ではありませんか。

 

  日露戦争は、決して戦争の利益を示しません。その獲(え)し所は、逆に

費やせし所を償うに足りません。日露戦争の獲し所と同じく空名誉でありま

す。是れは、智者が努めて獲んと欲する所のものではありません。 二十億

の富を消費し、二十五万の生命を傷つけて、獲し所は、僅かに国威宣揚で

あります。

 

  而して、是れでも戦争は好いものであるというのでありますか。これでも、

非戦争論は、非なりというのでありますか。 

  非戦争論を証明するものは戦争其物なりとは、私共が戦争最中に度々

言ったことであります。日清戦争の非なる説明は、下関条約と三国干渉と

であります。

 

  日露戦争の非なる説明は、ポーツマス条約であります。ポーツマス条約! 

ポーツマス条約! (*下の写真)

  願わくは、此屈辱が、再び臥薪嘗胆の愚を演ぜしむることなく、反(かえっ)

て、戦争廃止を援(たす)くる有力なる声とならんことを。 

           Photo_4

             Photo_5

           Photo_6

  三、日露戦争に由て、私は多くの友人を失いました。しかし、それと同時に

また、多くの新たなる友人を得ました。此戦争は、私にとり、友人の真偽を

分かつ為の好箇の試験石でありました。

 

  詩人カウパーは言いました。「心に何の苦痛を感ずることなくして、虫一匹

を踏み殺す者を、余は余の友人名簿の中に留めず」と。まして戦争を狂喜

する者をやです。 

  良心の呵責を感ずることなくして同胞の屠殺に賛成する者は、其名を我

が友人名簿の中に留め置くべきではありません。彼は生類の敵のみならず、

人類の敵であります。

 

  彼の廃娼論または禁酒論の如きは抱腹絶倒と称すべきであります。

酒を飲んでは悪い、しかし人を殺しても宜しい、姦淫を犯しては悪い、

しかし血を流しても宜しい、孤児は憐れむべしである、しかし幾万の孤児

を作りても宜しいと、世に多くの矛盾はありまするが、しかし慈善家の主戦

論の如きはありません。 

  若し戦争が可(よ)いと言いますならば、慈善は全く之を廃しするが可(よ)

かろうと思います。

 

  しかし、酒は人を殺すものなりとの理由を以て禁酒論を唱える人が、

人を殺すを以て目的とする戦争に大賛成をするとは何の事やら、私には

少しも分かりません。 

  私は今より後、かかる人とは慈善または救済について一切共に語るまい

と決心しました。



  殊に基督信者の最大多数が戦争の謳歌者であったことを見まして、

私は一層深く今の基督教界なるものの我が活動の区域でないことを覚り

した。 

  平和の君を救主と仰ぐと称する今の基督信者は平和の熱愛者ではあり

ません。 

 今や平和の主張者は基督教会の内には少なくて、反(かえっ)て其外に

於いて多くあります。

 

  哲学者スペンサー、文豪フレデリック・ハリソン、同じくモノキュアー

・コンウェーのような人が殆ど劇烈なる戦争廃止論者でありまして、

大監督とか小監督とか称しまして、基督教会の牛耳を握る者は、大抵は

熱心なる主戦論者であります。是れは、実に奇態なる現象であります。 

 

  今より百三、四十年前に、米国にトマス・ペーンという人(*下の肖像画)

がいました。

 此人は、当時の基督教会に反対し、『道理の書』なる書を著わして、今に

至るも、誰も彼の本名を以て彼を呼ぶ者なく、只「無神論者の巨魁トム・

ペーン」としてのみ、彼の名は基督教会に知られています。

                          Photo_3

  しかしながら、此人が米国に於ける最始の非戦論者であったことが、

今に至って分かりました。彼は、無神論者ではありませんでした。 

  彼は無教会信者であったのであります。彼は、即ち彼の在世当時の

基督教会なるものが人道の維持者でないことを知りまして、之に反対した

のであります。

 

  「トマス・ペーン」は、教会の柔和なる服従者ではありませんでした。 

しかし、彼は、人道の勇敢なる戦士でありました。基督教会が腐敗した

ことで、神は、近世の最大慈善事業たる戦争廃止運動を教会より奪って、

之を教会以外の人に賜ったのではあるまいかと思います。今日の基督

教会の恥辱にして此名誉剥奪の如きはあるまいと思います。



  かくて、日露戦争は、多くの新しき友人を私に紹介しました。私は、平和

の名に由て多くの未知の人と親交を結びに至りました。平和の神は、平和

主義を以て私をして多くの人と平和を結ばし給いました。

 

  私には今や全世界に二種の人があるのみであります。 

即ち、戦争を好む人と戦争を嫌う人のみであります。 

  前者は、仮に彼が基督信者であろうが、あるまいが、慈善家であろうが、

あるまいが、私の友ではありません。

 

  之に反して後者は、仮に彼が不可思議論者であろうが、或いは甚だしき

に至って無神論者であろうが、私の尊敬する友人であります。 

  戦争の如き世界の大問題は、実にかかる性質を備えるものではあるまい

かと思います。 

  即ち、之に由て人類を両別し、平和の子供と戦争の子供と、白き羊と黒き

狼とを判別すべき性質を備えるものではないかと思います。 

  而して、日露戦争は、私にとりましては、友人の精錬所でありました。 

之に由て純金と金漬(かねかす・・・「メッキ」の意か)とは、明白に両分され

ました。 

  是れ私にとりましては実に大なる利益であります。



  此外にもまだ私が此戦争より受けた利益は大分あります。
 

しかし、以上の三つが其最も大なるものであります。 

  しかしながら、是等の利益がありたればとて戦争は勿論決して善いことで

あるとは言われません。 

  しかも、人が罪を犯して罪の罪たるを知りたればとて罪は善い事である

と言われないと同じであります。

 

  しかしながら、凡ての事は、神を愛する者には悉く働きて益と為すとあり

ますれば、近世の最大惨事とも称すべき日露戦争もまた多くの人に多くの

利益を与えしならんと信じます。 

  しかし、其利益の余りに高価なるが故に、私はかかる恩沢に浴するの

機会が、再び私に供せられんことを祈ります。  【了】 

 (『新希望』明治三十八年十一月)

 

 

 

 

 

 

 



 

2013年4月20日 (土)

日露戦争より余が受けし利益(内村鑑三)〔前〕

  私は今は非戦主義者であります。かつては、オリバー・クロムウェルを

私の理想に最も近き人として仰ぎし私は今や、戦争の罪悪と害毒を唱え

て止まざる者であります。 

 私は、戦争は、キリスト降世二千年後の今日、文明国の間に在るべから

ざるものと信ずるものであります。

 

  それゆえに、私は日露戦争に最初から反対しました。私は第一に宗教、

倫理、道徳の上から反対しました。第二に、両国の利益の上から反対し

ました。第三に、日本国の国是の上から反対しました。而して、徹頭徹尾、

反対を表しましたこの戦争に対して、私は、何の熱心をも注ぐことはできま

せんでした(*下の絵は、日本海海戦時の三笠艦上における東郷平八郎)

                   Photo

  私は勿論、日本国民の一人として、私の守るべき普通の義務は守った積

りであります。 

 しかしながら、私はほとんど惟(ひと)り泣き通して、この戦争時期を通過

しました。 

  私は、この戦争は、決して良き事を此国(このくに)にもたらすものではな

いと信じました。 

 私は、その結果たるや日清戦争のそれと多く異なる所なきを信じて疑い

せんでした。

 

  私は、甚だ驕慢なる申分かは知れませんが、日本国民が此戦争に熱狂

するのを見て、我が最愛の友が放蕩遊堕に身を持ち崩しつつあるのを目

撃して居るような感が致しました。

 

  此戦争に対して斯かる態度をとりました私は、之より、何の利益をも望

む権利を持ちません。私に内閣諸公のように授爵陛(?)位の希望がない

のみならず、普通の祝勝会に参加して、その快楽を頒(わか)つの権利も

ありません。 

  私は、日露戦争の結果は、その大となく小となく、之を私の身より辞退す

べきであります。蒔かぬ種は生えません。賛成を表せざりし日露戦争より、

私は何の実(み)をも刈り取ることはできません。 

 

  しかしながら、奇なることには、私も、此戦争より、或る利益を得ました。

然り、多くの利益を得ました。是れは勿論、日本の政府、または社会から

得た利益ではありません。是れはまた、私が得んと欲して得た利益では

ありません。 

  是れは私に、自然に臨んだ利益であります。非戦論者として私が受け

ても恥ずかしくない利益であります。 

  凡ての事は神の旨に依りて召されたる者の為に悉く働きを為とは申し

ますものの、非戦主義者に戦争の利益が及ぶとは、最も奇態なることであ

ります。

 

 一、私は、第一に此戦争において、活ける人類の歴史を目撃しました。

而して、人類の歴史とは、その根元に遡りますれば、国民の上に顕われ

たる神の裁判であります。神は有るといい、無いといいますのは、之を

私人の経歴に就いて見るからであります。

 

  之を国民の運命に就いて見て、神の存在は疑うべからざる事実であり

ます。或る人がかつて「歴史は、神の摂理を大書した書である」と言いまし

たが、実にその通りであります。 

  摂理は、人事という人事には、その大なる者にも小なる者にもあります。 

しかしながら、走りながらも明白に読むことの出来るような大文字を以て

記されたる神の摂理論は、国民の歴史であります。 

  而して、日露戦争は、ことさらに明白に此理論を私に示してくれました。 

 

  神の摂理論といえば、如何にも困難(むずかし)いようでありますが、

しかし、その原理は、至って単純なものであります。 

  世界歴史の法則とも称すべきものは、僅かに是れであります。すなわち、

驕慢は滅亡に先立ち、誇る心は、傾跌(たおれ)に先立つ(箴言十六章

十八節)、是れは、智者ソロモン(*下の肖像画)の言であると記されて

います。

                    Photo_2

 

  しかし、史学の始祖ヘロドトス(*下の肖像画)の言に依れば、是れで

あります。即ち、 

   神の意は、すべて高く聳(そび)えるものは斬り倒すにあり、神は、神以

外の者の己(おのれ)を高くするを許さず。
                                                                                          
 

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                    Photo_6
   
   是れ、彼(ヘロドトス)が、その『大世界史』の劈頭に掲げし標語でありま

て、彼の著わした歴史はすべて、単純なるこの原理を証明せんためで

あったとのことであります。 

  高ぶる者は仆れ、謙遜(へりくだ)る者は起こる、是れが、

歴史の原則であります。 

 東洋史といい、西洋史といい、歴史という歴史は、凡て悉く此簡単なる

原則に依って支配せらるるものであると思います。

 

 
  日露戦争とても、その源を遡れば、何でもありません。この原則の表顕

であります。 

 南山、得利寺、旅順、遼陽、沙河、奉天、対馬海峡における露国の敗北

は、高ぶりたる者が低くせられんがためでありました。 

  史家ヘロドトスの言を以て言いますれば、東洋に独り高く聳えんとせし露

国を斬り倒さんがためでありました。

 

  露西亜人は高ぶりました。彼は、道理と節制の境を越えて他国の領地を

侵さんとしました。故に、彼は神に罰せられました。彼は倒されました。 

  雨降り大水出で、嵐吹きて其当たりたれば、その傾覆は大なりでありまし

た。(マタイ伝七章二十八節) 

 

  此事は、全世界の人が認めた事実であります。殊に日本人が認めた

事実であります。而して、私もまた、之を認めて正義のために悦びました。 

  しかしながら、神は公平の神であります。彼は、高ぶる者は、何れの国民

たるに拘わらずして、之を罰し給います。

 

  彼は、高ぶりたる露西亜人を引き下げ給いました。彼はまた、日本人の

罪をも罰し給いました。 

  エホバはまた、罰すべき者をば必ず許すことを為さず(出エジプト記

三十四章七節)、日本人なればとて、高ぶる時には罰せられます。 

 

  彼なればとて道理と節制の境を越えて栄華の空中楼閣を築きし時には、

その楼閣は、たちまちにして取り崩されました。 

  償金七十億を夢み、バイカル湖東全部を想像せし時に、ポーツマス条約

(*下は、会談風景と、日本の全権・小村寿太郎外務大臣)の一撃は下り

て、連戦連勝に由って天の高きにまで引き上げられし日本国は、地の低きに

まで引き下げられました。

               Photo_4

        Photo_5


  しかも、頼るに頼りし米国の地に於て、世界環視の下に於て我等は、此

屈辱を受けました。
 
  しかし、止むを得ません。歴史の原則が働いたのであります。神の摂理

が行なわれたのであります。公平なる神が公平に裁判(さば)き給うたの

であります。 

  日本人なればとて、天則の束縛より離るることは出来ません。日本人は、

終に高ぶりました。故に傾跌(たお)れました。 

 

  かくて、日露戦争は、其供すべき大教訓を人類に伝えました。而して神

の正義が行なわれまして、戦争は其終わりを告げました。而して、私は、

其進行を日々の新聞紙に於いて読んで、活けるヘロドトスより其歴史談

を聞く心地が致しました。 

 神は終に欺くべからず。外交に於いて巧みなる露国は、軍事に於いて

敗れました。軍事に於いて巧みなる日本は外交に於いて敗れました。

 

  我にも智慧あり、と神は宣べ給いました。彼は、何かの方法を以て其

聖意を遂げ給います。彼は実(まこと)に罰すべき者をば、必ず赦すことを

為し給いません。 

  此活ける歴史を目撃するのは、私にとり、精神上の利益でありました。

勿論、私の普通の情に訴えまして、私の国の勝つのを見るは喜ばしくあ

りまして、負けるのは見るのは悲しくありました。

  しかしながら、正義は私情を以て律すべきではありません。正義の遂行

は、全人類(我国をも含む)のために利益であります。

 

  故に、私は、私のヨリ高き情、即ち信仰に訴えまして、米国ポーツマスに

於ける日本国の失敗を聞いて、反(かえっ)て、神に感謝しました。  

  【つづく】

 

 

 



 







 

2013年4月19日 (金)

余が非戦論者となりし由来(内村鑑三)

   私も武士の家に生まれた者でありまして、戦争は、私にとりましては、

祖先伝来の職業であります。 

  それでありますから、私が幼少の時より聞いたり、読んだりしたことは、

大抵は、戦争に関することでありました。 

  源平盛衰記、平家物語、太閤記、はては川中島軍記というように、戦争

に関わる書を多く読んだ結果として、私もついこの頃まで、戦争が悪いと

いうことが、どうしても分からず、基督教を信じて以来、すでに三十三、

四年にわたりしも、私も可戦論者の一人でありました。

 

  現に、日清戦争の時においては、今とは違い、欧文を取って、日本の

正義を世界に向かって訴えようとするが如きものは、極々少数でありまし

た故に、ヨセばよろしいのに、私は、私の廻らぬ鉄筆を揮(ふる)いまして、

「日清戦争の義」を草して、これを世に公にした次第であります。 

  カーライルの『クロムウェル伝』を、聖書に次ぐ書と看做しました私は、

正義は、この世においては、剣を以て決行すべきものであるとのみ思い

ました(*下の写真は、日清戦争における日本軍歩兵による一斉射撃)

                     Photo

  然るに、近頃に至りまして、戦争に関する私の考えは全く一変しました。 

私は永い間、米国にいるクェーカー派の私の友人の言に逆らって可戦説

を維持して来ました。

 

  然るに、この二、三年前頃より、終に彼らに降参を申し込まねばならなく

なりました。 

 或る人は、これが為に「変説」を以て私を責めますが、ドーモ致し方があ

りません。 

  私は、戦争問題に関しましては、実に変説いたしました。西洋の諺にも

「智者は変ずる」ということがありますから、私の如き愚かなる者も、もし

充分なる理由がありますれば、かかる問題に関しては、説を変じてもよろ

しかろうと思います。



  ところで、何が私を終に非戦論者となしたかというに、それには大分理由

があります。 

 私は、ここでは、その主なるものだけを述べようと思います。

 

  一、私を非戦論者にしたものの中で最も有力なるものは、申すまでもなく

聖書であります。殊に新約聖書であります。 

  私は、段々とこの研究を続けて、終に争闘なるもののすべての種類を、

避くべきもの、嫌うべきものであることを覚るに至りました。

                        Photo_3

  新約聖書の此句彼語(このくかのご)を個々に捉えないで、その全体の

精神を汲み取りまして、戦争は、たとえ国際間のものでありとするも、これ

を正しいものとすることは出来なくなりました。 

  十字架の福音が、ある場合においては、戦争を可(よ)しとするとは、

私には、如何にしても思われなくなりました。

 

  二、私をして殆ど極端なる非戦論者とならしめし第二の原因は、私の

生涯の実験であります。私は、三、四年前に、或る人たちの激烈なる攻撃

に遭いました。 

 その時、或る友人の勧告に従いまして、私は我慢して無抵抗主義を取り

ました結果、私は大いに心に平和を得、私の事業は、その人たちの攻撃に

由り、さしたる損害を被ることなく、それと同時に、多くの新しい友人の起こ

り来たりて、私を助けてくれるのを実験しました。

 

  私は、その時に、争闘が如何に愚かにして、如何に醜きものであるかを、

しみじみと実験しました。私は、確かに信じて疑いません。 

  私が、もしその時に、怨を以て怨に報い、暴を以て暴に応じましたならば、 

多少の愉快を感じましたろうが、私の事業は全く廃れ、今の私は、最も憐

れな者であったろうと思います。

 

  ロマ書十二章にあるパウロの教訓を充分に覚りましたのは、実にその時

でありました。 

  この事は、もちろん私事でありまするが、しかし、私は、それに由って、

すべての争闘が愚にして、かつ醜なることを覚りました。 

  何人(なにびと)でも、おのれ自ら無抵抗主義の利益を実験したる者は、

必ず彼の国に対しても同一の主義の実行を勧めるであろうと思います。



  三、私をして非戦論者とならしめし第三の動力は、過去十年間の世界

歴史であります。日清戦争の結果は、私にツクヅクと、戦争が害あって利

のないことを教えました。

 

  その目的たる朝鮮の独立は、却って危うくせられ、戦勝国たる日本の

道徳は、非常に腐敗し、敵国を征服し得しも、故古河市兵衛氏(*足尾

銅山の経営者:下の肖像画、その下は、旧古河庭園)如き国内の荒乱

者は、少しもこれを制御することができなくなりました。 

  これは、私が生国なる日本において見た戦争(しかも戦勝の)結果で

あります。
                        Photo_4

                         Photo_5


 もし、それ米国における米西戦争の結果を想いますれば、これよりも、

さらに甚だしいものがあります。 

  米西戦争によって、米国の国是は、全く一変しました。自由国の米国は、

今や明白なる圧制国とならんとしつつあります。 

  現役兵、わずかに二万を以て足れりとし来たりし米国は、今や世界第一

武装国(=軍事大国)とならんと企てつつあります。 

  而して、米国人のこの思想の変化に連れて来た彼らの社会の腐敗堕落

いうものは、実に言語に堪えない程であります。

  (*下の写真は、ハバナで爆沈したアメリカ海軍の軍艦メイン号

       ・・・・真実は、アメリカによる「自作自演」だった。)      

          Photo_2

  私は、私の第二の故国と思い来たりし米国の今日の堕落を見て、言い

尽せぬ悲嘆を感じる者であります。 

  而して、この堕落を来たしました最も直接なる原因は、言うまでなく米西

戦争であります。



  四、私を非戦論者になした第四の機関は、米国マサチューセッツ州スプ

リングフィールド市において発行せらるる The  Springfield  Republican と

いう新聞あります。私は白状します。私は、過去二十年間、この新聞の

愛読者であります。

 

  かくも永く私が読み続けた新聞は勿論、日本にもありません。

私の世界智識の大部分は、この新聞の紙面から来たものであります。

之を読んで、頭脳(あたま)が転倒するような思いは少しもありません。

  常に平静で常に道理的で、実に世界稀有の思想の清涼剤であると思い

ます。而して、この新聞は平和主義者であります。

 

  絶対的非戦論者というわけではありませんが、しかし、常に疑いの眼を

以て、総ての戦争を見る者であります。 彼(=同紙の主幹)は、常に英国

帝国主義の主導者なるチャムバーレン氏(*下の写真)の反対者であり

ます。  
                       Photo

  而して、この新聞を二十年間読み続けまして、私も終に、その平和主義

に化せられました。その紙上において、世界的に有名な平和主義者の名論

説を読みまして、私の好戦的論城は終に、全く壊されました。

  或る人がこの新聞を評して、「共感化力に新約聖書のそれに似たるもの

あり」と言いましたが、実に、その通りであります。

 

  『スプリングフィールド共和国』は、その二十年間の説教の結果、終に

私をも、その信者の中に加えました。 

  この外にも、まだ私を非戦論者になした勢力はありましょう。しかし、この

四つのものが、その重要なるものであります。

 

  殊に、近頃、私をして非戦論に関する私の確信を固めしめましたものは、

哲学者故スペンサー氏の戦争に関する意見であります。氏の戦争論に

ついては、他日、別に御話しいたしたく思います。

 

  私は、終に非戦論者となりました。しかし、非戦論とは、ただ戦争を非とし、

これに反対するというばかりではありません。

  非戦論の積極的半面は、言うまでもなく、平和の回復、並びにその再構築

であります。 

 私は、神に祈り、神もし許し給はば、国民の輿論に逆らって、此時に際して

非戦論を唱えた賠償として、微力ながらも、出来得るだけの力を尽くして、

平和回復の期を早め、敵国との好意交換の基を作りたく思います。 

  ドウゾ本誌読者諸君においても、このために御祈り下さらんことを願います。 

   【了】  (『聖書之研究』明治三十七年九月)

2013年4月18日 (木)

日蓮上人(完)

  かつて、ある権力者に向かって、彼は、次のように言った。

  私は、つまらない、平凡な僧侶にすぎません。しかし、法華経の伝道者と

しての私は、釈迦が特につかわされた御使いであります。 

 それゆえ、梵天は右に、帝釈は左にあって、私に仕え、太陽は私の先導

し、月は私に従い、わが国の神々はすべて頭を垂れて私を敬うのであり

ます。                         Photo_5

   彼自身の生命は、彼にとり全く価値のないものであったが、このような法

の担い手である彼を国民が迫害するということは、彼にとって、言い尽せ

ほど歎かわしいことであった。 

   彼が狂気であったとしても、それは尊い狂気である。すなわち、自己に課

せられた使命に価値あるがゆえに自己を尊しとする、かの最高の自尊心と、

区別しがたい狂気であった。

   そして、自分自身を、このような眼で評価した者は、歴史上、日蓮一人で

はなかったはずである。



    それゆえ、激しい迫害の月日の間にも、聖教のかずかず、ことに彼自身

の法華経は、つねに彼の慰めの源であった。 

   かつて日蓮を乗せた船が、流刑地へ向かって船出しようとしたとき、

愛弟子の日朗は、船に追いすがろうとして、怒った船頭の櫂(かい)の

一撃に、腕を折られたが、そのいたましい姿に向かって、日蓮は次のよう

な慰めの言葉を述べた。

 

  末世に法華経をひろめる者は、杖で打たれ、流刑に処せられると、二千

年前の法華経の『勧告』の章に書かれたことが、今、君と私との上に起こ

ったのだ。 

   それゆえに、喜びなさい、法華経の勝利の時は間近いぞ。



   流刑地から弟子たちに宛てて書いた彼の書簡は、経典からの引用句に

満ちている。その中の一つに、彼は、こう書いた。 

  涅槃経に、「重きを軽きに変える法」という教義があります。私どもは、この

世で、このような重い苦しみを受けましたがゆえに、来世の苦しみの軽いこ

とが保証されているのであります。・・・・

   提婆菩薩は異教徒に殺され、師士尊者は首をはねられ、龍樹菩薩は、

多くの試練に会われました。

   しかるに、この方々は、正法の世、仏陀の生まれたもうた国において、

この災難に会われたのであることを思えば、この辺境の地、しかも末法の 

世の始めに住むわれわれが、この災難に会うのは実に当然のことであり 

ます。・・・

 

   法華経が、日蓮にとり、尊かったことは、聖書がルターにとって尊かった

のにも劣らなかった。 

   もし法華経のために死ぬことができたら、わが生命は、

少しも惜しくない、 

というのは、幾度かの危機に際して、日蓮が発した言葉である。

                       Photo_6

   ある意味で、われらのルターが聖書崇拝者であったように、日蓮もまた

経典崇拝者であったかもしれない。

   しかし経典は、あらゆる偶像や権力よりも尊い崇拝の対象物である。

そして、経典のために死ぬことのできた人は、英雄の名をもって呼ばれる

多くの人たちよりも高貴な英雄である。

   日蓮を悪しざまに言う現代のクリスチャンは、“自分の”聖書が、ほこりに

まみれていはしないかを顧みるがよい。 

   また、たとえ彼が聖書を日々、口に唱え、聖書から得た霊感に燃えてい

たとしても、彼は、はたして聖書の宣伝者としての使命のために、十五年

にわたる剣難と流刑とに堪え、その生命と霊魂とを危険にさらすことがで

きるであろうか。 

   すべての書にまさって人類の諸問題を善導して来た聖書の所持者であ

るクリスチャンが、日蓮を非難することは、見当違いもはなはだしい。

 

   日蓮の私生活は、簡素を極めたものであった。鎌倉に草庵を構えてか

ら三十年の月日が経ち、その間には、富んだ俗人の幾人かも彼の弟子

に加わって、安楽な生活は望むがままであったにも拘わらず、彼は身延

におけると同様の草庵生活を変えなかった。

 

   そして「仏敵」と彼が名付けた者に対しては、厳しさを極めた日蓮も、

貧しい者、悩める者に向かっては、この上なく優しかった。 

   弟子に対する彼の手紙は、おだやかな調べに満ち、それは、あの有名

な『立正安国論』の激しさとは、きわ立った対照を示している。弟子たちが

日蓮を慕ってやまなかったのも無理のないところだ。

   日蓮の生涯を見る時、われわれは、“多妻主義を除いた”マホメットの

生涯を思い出さずにはいられない。

 

   両者とともに、同じ熱烈さと、同じ病的熱狂とを示し、また目的の純粋

なこと、内心にあるあわれみと柔和さとの豊かなことにおいて、この二人

はよく似ていた。 

   しかし私は、日蓮の法華経に寄せる信頼が、マホメットのコーランに対

する信頼よりも強かったところから、日蓮の方が偉大だったと信ずるもの

である。

 

   心から信頼できる経典を有していた日蓮は、現世的な力を必要と

なかった。” 

  法華経は、それ自体、大きな勢力であるから、その価値を確立するために、

いかなる力をも必要としないのである。 

  マホメットから偽善者の汚名を拭い去った「歴史」は、日蓮に対しても、

より正当な評価を与えるべきではなかろうか。


                            Photo_8

   日蓮から、十三世紀の衣と、批評的知識の錯誤と、彼に存在したかも

しれない、わずかな精神異常(これは、すべての偉人にあることだと思う)

とを取り去ると、われわれの眼前に現われるのは、一個の著しい偉人像で

あって、これは、世界史に現われる同種の人物の中でも最も偉大な一人で

ある。               

 

   われらの国人中、日蓮よりも独立の人を考えることはできない。まこと

に彼は、その独創性と独立心により、仏教を日本人の宗教とした者である。

    他派の仏教の始祖がすべて、インド人、シナ人、朝鮮人であるのに対し、

彼の宗派のみは、純粋に日本生まれである。

    彼はまた、当時の世界を呑むほどの大志をいだいていた。すなわち、

彼が出るまでは、仏教はインドから日本へ”東”進して来たが、今後は、

より“改善された形”で、日本からインドへ“西“進するのだと、彼は、常々

語っていたのである。



    従って彼は、消極的、受動的な日本人の中で、全く型破りな人物であった。

自分自身の意志を有していたがゆえに、確かに扱いにくい人物ではあった

ろうが、しかし、このような人物のみが国民の中軸となるのである。

    愛嬌、卑下、ほしがり屋、物乞い性というような名で呼ばれるものは、

国家の恥辱にほかならず、それはただ、改宗勧誘者たちが本国へ報告

する「回心者」の数をふやすのに都合のよいものであるに過ぎない。

  “闘争性を取り去った日蓮”こそは、われらの理想の宗教家である。

    【了】                         (内村美代子・新木〔内村〕桂子訳)

2013年4月16日 (火)

日蓮上人(11 )

    8.性格の評価

 

  日蓮は、わが国の歴史を通じ、最も不可解な人物である。彼は、敵に

とっては冒涜者であり、偽善者であり、貪欲漢であり、いかさま師の親分

のたぐいであった。 

  彼のいかさまぶりを証拠立てるために、多くの本が書かれたが、その中

には全く、まことしやかなものもある。

                      Photo

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 日蓮は、敵が仏教をあざける時の絶好の対象であるのみか、彼の兄弟

であるはずの他派の仏教徒までが、仏教の受ける非難のすべてを彼一人

に押しつけようとするのである。彼ほど中傷の的となった日本人は他に居

ない。 

  そして、わが国にキリスト教がはいって来たとき、キリスト教もまた、日蓮

攻撃に参加し、この方面からも、彼に対して、さらに多くの石を投げた。

 

  ある著名なキリスト教の牧師が、ひととき、日蓮攻撃に全力を集中して

いたことを、私は知っている。 

  まことに、日本のクリスチャンとして、日蓮に賛辞を呈することは、イスカ

リオテのユダをほめるぐらい、けしからんことなのである。 

  (要するに、誰かが異教徒をほめる場合でも、最後まで取り残されるの

は日蓮というわけだ。)

 

  しかし、私のみは、必要とあらば、日蓮のために、わが名誉を賭けようと

思う。 

 彼の教義の多くは、現代の批判に堪え得ぬということを、私は認めるし、

彼の論争は粗野で、また狂気じみている。彼は確かに均衡のとれない

性格で、ただ一方に偏していた。

 

 しかし、彼に付随している知識上の誤りや、生来の気性や、時代や環境の

影響等取り去った彼自身は心の底まで高貴な魂、最も正直な人、最も

勇敢な日本人である。 

  二十五年以上も偽善を続けられる偽善者など居るものではなく、また

偽善者は、彼のために命を投げ出そうとする何千人もの崇拝者を集める

ことなどはできない。

 

  「不誠実な人間に宗教が創(はじ)められようか? 不誠実な人間は、煉瓦

の家すら建てることができない」と、カーライルは叫んだ。

  日蓮の死後七百年の今日、日本全国には五千の法華寺院があって、

四千人の僧と八千人の教師が配置され、百五十万から二百万の信徒が、

日蓮の定めた方式に従って礼拝している。

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  それでもなお、これは恥知らずの、いかさま師の仕事であると言うのか?
 

人間性に深い信頼を寄せる私は、そんなことを信じない。 

  この地上において、虚偽がそれほども長く続くものだとしたら、われわれ

は、どのようにして、虚偽と真実とを区別したらよいのか?



  最も恐れを知らぬ人間は、日蓮の勇気は、自分は仏陀が地上につかわ

したもうた使者であという確信に基づくものであった。 

  彼自身は、言うに足りない者である―「海辺の旃陀羅の子」にすぎない―。 

しかし、法華経の伝道者としての日蓮は、天地にも等しい重要性

を持つ者ある。   【つづく】

 

 

2013年4月15日 (月)

本日の痛快ブログ(7 )

   物事の「真実」に目を向けよう!

  皆さん、お早うございます。

お元気でしょうか?

  この度の「淡路島」の震災で、被災された方々に、

心よりお見舞い申し上げます。

  ところで、この度の「地震」につきまして、井口和基博士が、

たいへん興味深い記事を掲載しておられます。

  この度、「本日の痛快ブログ」(7 )として、本ブログに転載させて

頂きます。それは、以下の通りです。

  淡路島で「震度6」:ケーリー国務長官の

「地震外交」ってやつか!?

   近畿地方で最大震度6弱の地震が発生、
 

     震源は、淡路島

4月13日5時33分ごろ、淡路島を震源とする地震が発生しました。

地震規模はマグニチュード6.0、最大震度は兵庫県淡路市で震度

6弱。

  みなさん、こんにちは。


 以下は、今回の淡路島についての、私個人のメモである。地震メカニズム
に対する見解を異にする人には不快なはずだから、スルーして欲しい。


 すでに今朝から淡路島の震度6強地震についてはいろいろ報告されて
いるので、ここでは書くこともないだろうと思っていた。そんなわけで、メモ
するのが遅くなった。


 さて、ここ最近、ここで私が「テスラ波」なる電磁波の縦波のことばかり書
いていたせいか、それを思い知らせるかの如く、今回の地震の最大の特徴
は、「『縦揺れ』地震であった」ということである。


 我が家も、5時半過ぎに、何の前触れもなく、いきなり縦揺れがやった
きた。私は縦揺れだから20秒後に本震の横揺れが来るかと身構えたが、
その後もずっと同じような縦揺れがかなり長く続いただけだった。結局、
それだけで収まった。



 以前震度3が来た時には、海の向こうから「カタカタカタ。。。ガタガタガタ
ガダガダガダ。。。ダダダダダダ」というふうに、横揺れが表面を伝播してくる
というのが普通なのだが、そういうものはまったく無し。


 そんなわけで、このことが震度の割には被害が非常に少なかった原因と
いえるだろう。実際、家具もほとんど揺れなかったし、倒れるものも落下する
ものもなかった。


 さて、上で「何の前ぶれなく」と書いたが、実際には「ハザードラボ」は、
1週間ほど前からこの地域のM5クラスの地震を予報していた。

ハザードラボ


 だから、いつ来るか注目していたのである。そしてやってきた。もちろん、
ハザードラボで注意予報が出たとしても、必ず地震が来るということは言え
ないから、予報が出てもスルーという場合も何度かあった。


 一方、私自身は、衛星写真もアラスカHAARPモニターもカナダの地磁気
モニター群も毎日観察はしているから、衛星写真から、HAARP照射らしき
ものがある痕跡はきちんと把握していたというわけである。

衛星写真4月4日

4月5日ハープモニター

(2・5ヘルツ人工電磁波が出ていた。)

 というわけで、私個人は、今回の地震は、「HAARP照射による震源地地下
10km人工地震」の可能性がもっとも高かっただろうと思う。一週間ほど前
から準備していたからである。


 なぜか?


 おそらく米民主党のケリー国務長官のアジア訪問とリンクしていたのだろ
うと思う。
 言い換えれば、目の前で地震を起してみせては、交渉相手に激震を起す
という、「地震外交」というものである。


 なぜなら、ケリー国務長官は、ジョージ・ブッシュ元大統領と同じく、米
フリーメーソンの最高階級33階級といわれているからである。ケリーと
ブッシュは大の仲良しであり、共にいまでは有名になった「NWOのプリンス」
である。
 それゆえ、今回のものは、私個人の見解として、かつての阪神淡路、
南海沖トラフ地震とは、直接の関係はないと見る。ちなみに、二年前の
311東日本大地震が起こってから、こちらの海岸地形がかなり動いた気
がする。東の方に引っ張られたのである。
 結果としてこのあたりの地盤や地殻が若干沈んだと見ている。そのため、
これまでの歪みが開放されたために、いわゆる南海地震の確率は急激に
減ったと私個人は感じるのである。したがって、この南海沖に巨大地震が
起こる場合には、東日本同様に、爆発物による人工的なものしかあり得
ない。国家テロのような場合だけだろうと思う。
 そんなわけで、イルカの大量死とか、不審な現象がない限りは、あまり
南海地震を恐れる必要はないだろうと私自身は感じている。


 一方、注目すべきは、アラスカのHAARPモニターが最近再び人工電磁
波を捕らえていることである。
 はたして、お次ぎはどこにお見舞いしましょうか?


というやつですナ。備えあれば憂いなし。
  (後記)   井口和基 博士は、”知る人ぞ知る”、天才的な物理学者です。
      
              また、まことの愛国者だとも感じます。
                  「3.11」、並びにこの度の「淡路」地震に関する同氏の
      指摘・分析を、私は、心より信じております。
              また、そのことが、「物事」の真実に目を向けることだと思う
      のです。

           NWO(=国際金融資本)は、限りなく邪悪です。目標達成の
 
              ためには、どんなにあくどい事でもやってのけます。
 
           心ある方々は、すでにご存知のように、TPPの交渉相手は、
 
              単にアメリカと言う国家ではなく、まさに、この悪鬼のごとき、 
      
           超権力者たちなのです。

 

 

 
  

 

 

 

 

2013年4月13日 (土)

日蓮上人(10 )

  7.晩年



 日蓮今や五十二歳、これまでの生涯の大半を、徹夜の勤行と、この世に

対する戦いとに費やして来たが、今こそは国人に対し、自由に布教できる

立場に立ったのである。

  しかし、幕府がこの許可を与えた由来を考えると、日蓮は少しも喜べなか

った。
                              Photo_8


 彼の目的は、支配者と国民が、心から法華経に帰依することであるのに

対し、北条氏が布教の自由を与えたのは、恐怖のためであったからだ。

  彼は、引退を考えるようになった。かの、ヒンズーの師、仏陀にならい、

山に入って、静かな黙想と、弟子たちの教化に、余生を捧げようと考え始め

たのである。

  彼の偉大さと、彼の宗旨の永続する主な理由は、実にこの点にあると、

われわれは信ずる。世が挙げて彼を受け入れようとするときに、彼は世を

捨てたのだ。彼より劣る人物がつまずくのは、実にこの時点においてで

ある。



  しかし彼の弟子たちは、宗派の禁制が解かれたのを機として、旧来の

諸派の信徒に対する攻撃活動を公然と開始した。

  彼らは寺から寺を廻り歩き、問答攻撃によって、それらを攻略していった

という。

 それら熱狂者たちのやり方といえば、各自が手に手に太鼓を持ち、口を

そろえて、南無、妙法、蓮、華、経の題目を唱えつつ、その五つの音節に

合わせて、太鼓を五度、叩くのである。

                   Photo_2

  彼らが二十人も集まれば、耳も聞こえぬくらいのすさまじさだが、それが

何百人の集団となり、新しい元気と情熱に燃えて、鎌倉中の家から家、

寺から寺を練り歩きながら、すみやかに法華宗へ帰依せよと呼びかけた

さまは、目に見えるようだ。

  宗祖日蓮の熱情と不寛容の精神は、現代の宗徒の間にも、はっきりと認

められる。

―この戦闘的熱情は、本来、非攻撃的また厭世的な宗教である仏教の中

で、唯一の例外である。



  われらが主人公の晩年は平和であった。彼は、富士山の西にある身延山

に居を構え、南に太平洋の絶景を見下ろし、周囲を霊峰に囲まれた所で、

日本全国から集まる崇拝者たちの礼を受けた。

                      Photo_3

  そして、彼の予言が一二八一年の蒙古来襲となって、さながらに実現する

のを、そこで見たのである。これによって、彼の名声と影響力とが著しく増大

したことは言うまでもない。

                   Photo_4

  この大事件の翌年、彼は、池上(大森駅の近所)にある在家の弟子の家

(*今日の池上本門寺:下の写真)に客となって滞在中、十月十一日、そこ

で死んだ。
                         Photo_10    

  彼の最後の望みは、天皇のいます都、京都で法華経を説き、ついには

天聴に達したいということであった。

  そして、彼は、この仕事を、当時十四歳の少年であった日像(*下の

写真)に託したのである。

                  Photo_9

 ここに、われわれの注意を引くのは、彼の臨終の一場面だ。

  このとき、弟子たちは、臨終の床の慰めにと、仏陀の像を持って来たが、

彼は手を振って、それを直ちに取りのけるように命じ、はなはだ不興気な

様子を示した。

  そこで弟子たちは次に、南無妙法蓮華経と、漢字で大書した“掛け軸”

をひろげて見せたところ、彼は、静かにそちらに向き直り、両手を合わせ

て礼拝しながら、最後の息を引き取ったという。

                   Photo_5

  彼は、経典崇拝者ではあっても、偶像崇拝者ではなかったのである。

【つづく】

2013年4月12日 (金)

日蓮上人(9 )

    6.剣難と追放

    『立正安国論』の発表後十五年間の日蓮の生涯は、世の権力と権威

とに対する戦いに終始した。彼は最初、伊豆に流された。そして、そこに

三年間、とどまるうちに、多くの改宗者を得た。

 

  許されて鎌倉に帰った彼に、弟子たちは、この上は仏敵との戦いをや

めて、自分らの指導に専念していただきたいと懇願したが、彼は決然とし

て次のように答えた。 

  今は末世の始めである。多くの誤りが世に害毒を流しているこのとき、

法戦は、瀕死の病人に対する薬のように必要だ。 

  一見、無慈悲のように見えて、これこそは、まことの慈悲であるのだぞ。

 

  そして、頭上に迫る破滅をものともしないで、この度しがたい僧は、直ち

に以前の攻撃的態度に立ち返った。 

  そのころのある晩、彼が数人の弟子とともに伝道旅行をしていると、突然、

刀を持った一団の暴徒に襲われた。 

  彼らの首領こそは、日蓮が新しい教義の宣言をした四年前の日、この

大胆不敵な改革者を殺そうと計った、あの地頭であったのだ。

 

  日蓮の弟子の内、僧一人と俗人二人の三人が、師の命を救おうとして殺

された。こうして、法華経は、日本における最初の殉教者を出したのである。 

  この三人の名は、今日なお、この教えを信ずる多くの人々に記憶され、

尊ばれている。日蓮は、ひたいに傷を受けたが、危うく逃れ、その傷は、

この教えに対する彼の忠信のしるしとなった。 

 

  だが、真の危機がおとずれたのは、一二七一年の秋だった。彼がそれ

まで無事に過ごせたのは、ひとえに当時の法律が、僧籍にある者の死刑

を禁じていたからである。

 

  彼の不謹慎な態度は目に余ったが、その剃髪と袈裟とが強力な隠れ蓑

となって、法の励行を妨げていた。 

  しかし、彼の毒舌がますます激しくなって、国内の諸宗派のみか、政治、

宗教両面の権威者にまで、攻撃が及ぶに至るや、北条氏はついに例外

的非常手段として、彼を死刑吏の手に渡すこととしたのである。いわゆる

「龍の口の御法難」というのは、日本宗教史上、最も有名な出来事である。

 *下は、「龍の口」の場所と、その刑場跡)

                     Photo

          Photo_2
  この事件の歴史的真実性が、近ごろ疑われているが、後世の信徒が

この事件に付け加えた奇跡の衣を取り去った「危機」そのものは、疑う

余地なく存在したと思われる。通説による事件のあらましは次のような

ものだ。

 

  ―刑吏が、まさに刀を振り下ろそうとした瞬間、日蓮が法華経の経文

繰り返すと、突然、天から烈風が吹き起こり、周囲の人々があわてふた

めくうちに、刀身は三つに砕け、刑吏の手はしびれて、もはや二の太刀を

下ろすことはできなかった。

                           Photo_3


  かくするうちに、鎌倉から、赦免状を携えた使者が駆け付けて、法華経

の道は救われたのである。―

 

  しかし、この事件を、奇跡の力を借りることなしに説明すれば、当時、

聖職にある者を死に至らしめようとする刑吏の心が、迷信から生ずる恐怖

におののいたのは実に当然であった。

 

  それゆえ、読経しながら自若として死の一撃を待ち受けている僧の威厳

に満ちたさまを見た、あわれな刑吏が、この無辜の血を流したならば、どの

ような天罰が下るであろうかと、恐怖に駆られたのは、もっともなことである。

 

  一方、この先例のない処刑を決意した北条氏自身も、それと同様の恐怖

に襲われたであろうことは確かだ。 

  そこで、彼は直ちに使者を飛ばして、日蓮に対し、死刑に代わる流刑の

判決を申し渡したという次第である。

 

  まさに危機一髪ではあるが、しかし、きわめて自然の成り行きであった。

    *処刑台上に命を終えんとして
 

    観音の力を念ずれば 

    刀身、片々と砕かれなん  (「観音経」より) 

 

  死刑に代わる流刑は、きびしいものであった。

日蓮は、今度は佐渡(*下の写真)に流されることになった。日本海の

孤島、佐渡に渡る旅は、当時は困難をきわめ、それゆえ、ここは、重罪

犯人の流刑地として最適の場所であった。

                Photo_4

                 Photo_5

  彼がここに、五年間、流人として生き抜いたことは、まさに奇跡である。

ある厳しい冬などは、その心の糧である法華経よりほかに、ほとんど糧も

なしに過ごした。

  彼の糧は、ここで再び獲得した、肉に対する心の、また力に対する精神

の勝利あった。

  それのみか、彼は、その流人生活が終わりに近づく頃には、その霊的

領土に、さらに一つの地域を加えたのである。



  この時以来、佐渡と、その隣国で人口の多い越後とは、彼の宗旨に

熱烈な忠信を誓って今日に至っている。

  彼の、このような不屈の闘志と忍耐とを見て、鎌倉の権威者は、彼に

対し、恐怖と賞讃との念を抱くに至った。

  のみならず、彼が予言した外国からの侵略が、現に蒙古襲来となって

迫って来たので、鎌倉幕府は、一二七四年、日蓮の鎌倉帰還を許すこと

とした。

                      Photo_7

                 Photo_8


 
  そして、鎌倉に帰った日蓮に対し、その宗旨を国内にひろめてもよいと

いう免許状を与えた。精神は、ついに最後の勝利を得たのである。

  これ以後、七百年の間、彼の宗旨は、この国内の一大勢力となるので

ある。  【つづく】

                Photo_10

 

2013年4月11日 (木)

日蓮上人(8 )

    5.孤独の反逆児


  故郷を追われた日蓮は、「真理をひろめるのに最適の場所」である、

首都の鎌倉へ直行した。 

  そして、今日なお松葉ヶ谷(やつ)と呼ばれている、持ち主のない土地に、

小さな草庵を建て、法華経を携えて移り住んだ。

                                Photo


  一個独立の人たる日蓮は、今後、ここを拠点として、誤謬に満ちた周囲

と戦おうとする。 偉大な日蓮宗門も、その端緒を、この小さな草庵に発し

たのである。

 

  身延、池上をはじめ全国に散在する五千の壮大な寺院と、二百万の信徒

とは、実にこの小さな草庵と、この一人とから始まった。偉大な事業は、常

にこのようにして始まる。

  世に抗する一個の不屈な魂―永遠に偉大なるものは、その中から生ま

れるのである。

 われわれ二十世紀に住む者は、彼の教義は別としても、彼の信念と勇気

に学ぶところがなくてはならぬ。

  ところで、日本におけるキリスト教の始まりは、はたしてどのようなもので

あったろうか?

  否、宣教師学校や教育など、物心両面にわたる多くの援助が与えられた

のではなかったか。

 ―偉大なる日蓮は、このような助けを一つも借りず、すべてを独力で始

めたのである(*下は、身延山久遠寺と池上本門寺)

                          Photo_2

         Photo_3


  その後の一年間、彼は再び勉学と黙想とに明け暮れる日を送った。

後の日昭を、最初の弟子として迎えたのは、この間のことである。日昭は、

日本仏教の現状に関する日蓮の見解に共鳴し、はるばる叡山から、日蓮

のもとに参じたのである。日蓮の喜びは非常なものであった。

  あとに日昭ありと思えば、わが教えの、この国で絶えはせぬかの恐れなし

に、一命をなげうって公衆の前に立つことができるからだ。

  そこで、翌一二五四年の春、日蓮は、この国人がかつて聞いたこともない

”路傍説教”(辻説法)なるものを始めた。

  首都の聴衆の、あざけりと、ののしりの中で、故郷で行なった最初の宣言

を、再び強調したのである。

                  Photo_4

         Photo_5


  路傍で説教をするなどは、僧としてあるまじき所業だという非難に対しては、

「戦時には立食すら許されるではありませんか」と、断固、反駁した。

  また、国の統治者の抱く信仰を悪しざまに言うべきではないとの叱責に対

しては、「僧侶は、仏の御使いであります」と、明快に答えた。

  「他の礼拝形式が、すべて誤りであるはずはない」という、もっともな疑問

に対しては、簡単に答えた。「辻説法は、寺を建てるまでの足場のようなも

のにすぎないのです」と。

  こうして日蓮は六年間というもの、春夏秋冬を問わず、この辻説法を続け

た。人々は、ようやく彼の努力と人柄に注目するようになり、少なからぬ高

官をはじめ、将軍の家族までが、彼の弟子となった。

  もし適当な時期に制圧を加えなければ、彼の感化は鎌倉全市に及びそう

な勢いである。

  そこで、これを憂えた建長寺の道隆、光明寺の良忠、極楽寺の良観、大仏

寺の隆観などの、権威ある高僧連が一所に集まって、首都における新興宗

教の弾圧を協議した。

  しかし、大胆不敵な日蓮は、彼に対する連合勢力などを、ものの敵とも思

わない。

 あたかも、この頃、多くの災害が国土を襲ったのを機として、”『立正安国

論』(国に平和と正義をもたらすことに関する所論)”執筆に取りかかった。

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  今もなお、この種の本の中で最もすぐれたものと思われているこの本の

中で、彼は、当時の日本を苦しめていた災害をことごとく数え上げ、それら

はすべて、民衆の間に誤った教義が伝えられているためであるとした。

  彼は、これらのことを、諸種の経文からの広汎な引用によって証明した

のである。


 
  彼の見解によれば、この大難から救われる道は一つしかない。それは、

最高の経典たる法華経を全国民が受け入れることである。

  もし国民が、この貴い賜物を拒み続けるならば、その結果として、必ず

“国内の戦乱”と”外国の侵略”とが起こるであろうと、彼は指摘した。

  かほどまでに辛辣な言葉が高僧連に向けて発せられたのは未曽有のこ

とである。

 全文が雄叫びであり、決然たる宣戦布告であって、この戦いの行き着くと

ころは、彼の宗派の絶滅か、他のすべての宗派の全滅か、そのどちらかよ

りほかはない。それは狂気と見まがうほどの熱信であった。

  ここに至って、北条時頼(わが国における最も賢明な統治者の一人

:下の肖像画)は、この宗派の弾圧を決意し、この熱血漢を首都から追放

したのである。
                         
Photo_7


  しかし政治家である時頼には、日蓮の人物がわからなかった。

すでに死を恐れず、また、多くの共鳴者を獲得したほどの誠意と、あらゆ

る試練に堪える覚悟(それは、後に証明される)とを持っている日蓮のよう

な人に対しては、どんな脅迫も効がないのだ。

  かくて「仏敵に対する戦い」は、飽くことなく続けられ、ついにこの小集団

は解散を命ぜられた。

  そして、この指導者たる日蓮は、遠い地方へ追放されることになったの

である。 【つづく】

 

 

 
 

2013年4月 9日 (火)

日蓮上人(7 )

   4.宣言




 「予言者は、おのが故郷において尊まるることなし」という。それにもかか

わらず、予言者が常にその公生涯を、その故郷で始めるというのは、痛ま

しい事実である。

 

  この世に枕する所のないのを、おのが運命と知りつつも、なお故郷に引か

れ、そこで、どのように扱われるかを知り尽くしながらも、鹿が谷川を慕いあ

えぐように、そこに行き、そこで、拒絶され、石で打たれ、追い出される。

―それが、予言者の運命である。連長の場合もまた例外ではなかった。 

 

  彼の故郷、小湊の、ささやかな生家では、彼の父母が息子の帰りを待ち

わびていた。 

  そして彼はここで、生涯の試練の中の最初にして最大のものと戦わねば

ならなかった。

 

  ここには、青年時代の彼を、はぐくんだ寺があり、その寺の住職としてお

さまる息子の姿を見たいという、両親の無理からぬ願いに、彼はそむいた

からである。彼は、名を日蓮と改めた。

 

  すなわち、彼に生を与えた神「日輪」と、彼が、これから広めようとする

「妙法蓮華経」、この二つを意味する名前である。

  建長五年(一二五三年)四月二十八日、紅の太陽が東方海上に半ば姿

を現わした時、日蓮は、広い太平洋に面した断崖の上に立ち、前なる海と、

後ろの山と、さらにこの山とを通して全宇宙へ向かって、彼自身が定めた

祈祷の言葉、南無妙法蓮華経を繰り返した。

                       Photo_8
                      Photo_9
                      
 

  この言葉こそは、すべて他の人の口を封じ、彼の弟子たちを地の果てま

でも導き、永遠に弟子たちの合言葉とするようにと定められたものであって、

―実に仏教の真髄、ならびに人間と宇宙との大理を現わしたものである。 

  「南無妙法蓮華経」、その意味は、「私は心から妙法蓮華経に帰依いたし

ます」である。

                              Photo_13


  朝、大自然へ語りかけた彼は、午後は、村人に語りかけようとした。彼の

名声は、すでに近隣に隠れもない。鎌倉、叡山、奈良で十五年の研学を積

んだこの僧は、新奇で、深遠で、有益な何事かを教えてくれるに違いないと

信じた村人は、老いも若きも、男も女も、群れをなして彼のもとに集まった。

  ある者は、真言宗の”ハラハリタヤ”を、また、ある者は、浄土宗の〝南無

阿弥陀仏”を唱えながら―。

 

  堂に人があふれ、香が四隅に立ちこめたとき、日蓮は、太鼓の音とともに

壇上に現われた。 

  当時まさに男盛りの日蓮、連日の徹夜の後は顔に残るが、両眼は熱心に

燃え、予言者の威風堂々として、満堂の注目を一身に集め、会衆は息を潜

めて彼の発言を待ち受けた。 

  彼は、経典である「法華経」を取り上げて、第六巻の一部を読み、顔色お

だやかに、声張り上げて、次のように語り始めた。 

 

   私は長年にわたり、あらゆる経典の勉学に努め、諸宗の主義、主張につ

いてことごとく究めました。 

  一説によれば、「仏の入寂以後、五百年間は、多くの人は、努力なしに

成仏することを得、次の五百年間は、勤勉と黙想とによって成仏することを 

得るだろう」とのことであります。これを正法の千年と言います。  

 

  次いで来るのが、読経の五百年、その次が造塔の五百年であって、

この二つを合わせて、像法の千年と言います。 

  それに続いて、「純粋な法が覆い隠される五百年」が始まりますが、ここ

で仏の御利益は尽き果て、人類成仏の道はすべて閉ざされるとのことで 

あります。

 

  これが、末法の始めであって、これが一万年続きましょう。・・・・ 

  今日は、末法の世に入ってより二百年という末の世でありまして、仏が、

この世に御教えを垂れたもうたのは、遠い昔のこととなりました。

                             Photo_11


  今のわれわれにとり、成仏を得る道とては、たった一つしか残されており

ません。これぞ、妙、法、蓮、華、経の五字であります。 

  しかるに、浄土宗は、この貴き経文を閉じて、これに耳を傾けるなと教え、

真言宗は、これを、彼らの経典である大日経の足下にも及ばぬものだと、 

ののしるのです。

 

  かかる者については、法華経の第二巻、『比喩品』の中に、「かかる人々

は、仏陀の教えの根絶者であり、その終わりは無間地獄である」と、記され

ております。

 

  聞く耳を持ち、見る眼を備えた人は、この理をわきまえ、虚偽と真実を

区別なされよ。 

 浄土は地獄に落ちる道、禅は悪魔の教え、真言は国を滅ぼす邪法、律は

国賊でありまするぞ。これを言うのは、この日蓮ではありませぬ。

                          Photo_12

 

  日蓮が、法華経の中で読んだことであります。雲上の、ほととぎすの声を

聞かれよほととぎすは正しい時を知り、今は田植えの時だと教えておりま

す。 

  それゆえに、みな様は、今、田に下りて植え、刈り入れの時に至って悔い

ることのないようにせねばなりませぬ。 

  今こそは、法華経を広めるべき時であり、私は、この目的のために遣わ

された御仏の使いであります。

 

   彼が語り終わるや否や、猛り立った聴衆から怒りの叫びがあがった。 

ある者は、「彼は気違いだ。そう思えば、腹も立たぬ」と言ったが、他の者は、 

「彼の不敬は極刑に値する」と、いきまいた。

 

  そこに出席していた地頭は、この不敵な僧が、この寺の境内から一歩で

も足を踏み出したが最後、直ちに彼を殺そうとした。 

  しかし、彼の老師は親切だった。この弟子が、やがて悔い改めて、正道

に立ち返り、悪夢から覚めるであろうと思って、二人の弟子に命じ、夕闇

にまぎれて、地頭の目の届かぬ裏道から、日蓮を連れ出させたのである。

  【つづく】

 

 

 

 

 

2013年4月 8日 (月)

日蓮上人(6 )

  彼の最初の目的地は、時の将軍の首都たる鎌倉であった。 

都に出て来た一介の田舎者、連長―ローマにおけるルターもそうで

あったが―とっては、目に映る現象のすべて、耳に聞く教義のすべて

が奇怪であった(*下の写真は、「鶴岡八幡宮」)

                      Photo
 

  豪壮な寺院と華美な僧のひしめく鎌倉は、今や虚偽の町と化していた。 

禅宗は、上層階級の人々を導いて、無益な思弁の泥沼におちいり、浄土

宗は、下層の人々に迎えられて、阿弥陀仏盲信の熱に浮かされ、仏陀

仏教は、どこにも見出すことができなかった。

 

  いや、それのみか、仏陀の像が、なんと子供のおもちゃとして与えられ

ている一方、”ここの人々”の称する仏教礼拝で、本尊の地位を占めるも

のが、伝説的存在にすぎぬ阿弥陀仏であることを彼は見たのである!

 

  聖なる法衣をまとう人たちが、大っぴらに恥さらしをしている。 

彼らの教えによれば、阿弥陀仏の名を唱えることによってのみ、人は救わ

れるのであって、徳行や戒律は、救いに何の関係もないという。 

  それゆえ、南無阿弥陀仏の唱名をかしましく唱える人々の間に、最悪の

放埒が横行したのである。

 

  鎌倉に滞在した五年の間に、彼は、現在はすでに「末法」の世であること、

彼の奉持する法華経の中で如来が予言されたように、光明の新時代をも

たらす新しい信仰が世に出る必要と機会が熟したことを、十分に確信する

に至った。

 

  つい最近には、万人崇敬の的である大阿上人が死んで、その死にざま

が、信徒のすべてを恐怖に陥れた。 

  上人の体は、「子供のように小さく縮まり」、その皮膚の色は真黒く変わっ

たのだ―これこそは、上人が地獄に落ちた、まぎれもない証拠であり、

また、彼が代表していた信仰の、魔性のものであることの証明ではないか。

 

  それからまた、空中に現われるこれらの怪異は何を意味するのであろう? 

西の空に白と赤との三筋の形が、はっきりと現われ、白の二筋が消えた後

も、赤の一筋は残って、さながら「天頂を貫通する火柱のように」立ったと

思うと、続いて激しい地震が起こった(*下の写真は、イメージ)
             Photo_6
              Photo_7


  多くの寺は地に倒れ、人や獣は、その破片の下敷きとなって、自分たちの

救いのために建てたはずの建物の下で、うめいたのである。 

  「すべてこれらの事は、この国で真の経典が説かれず、誤りが教えられ

信じられているために起こるのだ。 

  私は、この国の宗教を復興すべき使命を天から与えられている者ではな

かろうか?」 

・・・・このような思いを胸に、連長は、鎌倉を去った。 

  「一国の首都とは、真理をひろめる場所であって、真理を学ぶ所ではない」

と、彼は賢くも気づいたのである。

 

  故郷の両親のもとに、しばし立ち寄ってから、彼はさらに知識を求めて、

遠く旅立った。 

 帝(みかど)のいます京都を、すべての災厄から守るため、その鬼門

(悪魔の門)の方角に建てられた叡山は、過去一千年の間、仏教知識に

関しては、日本最大の宝庫であった。 

  高い杉木立に囲まれ、波静かな琵琶湖の壮観を見下ろす、海抜二千

五百フィート(=763m)の高地で、仏教の学徒は、釈迦の教えを探究し、

熟考し、継承してきたのである。

                          Photo_2

  繁栄を極めた頃のこの山には、三千もの托鉢僧が住み、全山はさながら

一大特殊部落の雑踏を呈していたという。 

  ここの僧兵は、民衆の脅威であるとともに、代々の天皇をも悩ませたの

であった。

                Photo_3
       
          Photo_4



 かの源空もまた、ここで学び、叡山の教義とは正反対の、大衆的仏教で

ある浄土宗を作り上げ、それは、後に広く民衆に受け入れられたのである。 

  源空の弟子で、浄土真宗の創始者である範宴も、この山の学徒であった

し、仏教の奥義をきわめて国民的名声を博した多くの僧たちも、ここの出身

である。 

  そして今や、われらの連長が、日本に真の仏教をひろめようとの大志を

胸に抱き、安房の国の漁夫の小屋から、この山まで、四百マイル(640km)

の道を歩いて、啓発を求めて来たのである。 

 

  この地で、真理探究への新しい手がかりを得た連長は、手の届くかぎりの

ものを、むさぼるように取り入れた。 

  しかし、彼の専門は、あくまでも法華経―“彼”の経―である。 

そして、ここでは、法華経の貴重な写本や注解書も手にすることができた。 

  事実、ここを本山とする天台宗は、法華経に非常に重きを置いていたの

である。 

 天台宗の『六十巻』と呼ばれるものは、実に法華経だけについての注解

書であった。

 

  法華経が、いかに偉大な書であるということは、天台宗の開祖である、

シナ人の天台(=智顗〔ちぎ〕:538~597*下の写真)が、これについて

三十巻の注解書を書き、彼の弟子である妙楽が、それになお注解を付け

る必要を感じて、最初の三十巻の注解のために、さらに三十巻の注解書

を著わしたことによっても、わかるであろう。

                 Tigi

  そして、その内の十巻は、この経典の名を構成する六個のシナ象形

文字の一つ一つについて論じているのである! 

  われわれには、さして驚くべきものと思われぬこの本が、昔の人には

意味深長なものに映ったと見える。 

  十年もの長い間、連長は叡山にとどまって、これらの複雑な問題の研究

に没頭した。

 

  ここにはただ、彼の到達した結論のみを掲げよう。すなわち、法華経は、

他のいかなる経よりも、すぐれていること、叡山の開祖、最澄は、この経を、

純粋な形で日本に伝えたが、“彼のあとに来た僧たちが、その純粋度を

相当に損ねたのである”こと等、以前から抱いているこれらの見解を、

彼は今や確信するに至った。

 

  京都へ足しげく通い、奈良、高野へ一度ずつ行って研究した結果も、

彼の確信を強めるばかりであった。 

  そして、心にもはや一点の疑問もないという時に至って、法華経のため

に一身をなげうつ覚悟を決めたのである。

 

  これより先、日本の主な神々が現われて、彼の身を守ろうと約束された

のを、その眼で見た。そして、神々の姿が空中に消えると、 

  斯人行世間(しにんぎょうせけん)

  能滅衆生闇(のうめつしゅじょうあん)
 

  (この人は世界をめぐり、人心の闇を打ち砕くであろ

う) という、この世ならぬ合唱が空に聞こえたのである。

 

  しかし、古来、これに類する幻を見たり、神仏の降臨を経験した者は、

日蓮一人ではなかった。

  日蓮今や三十二歳、友もなく、名も知られぬながら、しかも独立であり、

不屈であった。

  浄土真宗の範宴とちがって*、おのが主張を押し通す際にたよりとなる

祖先の系譜も彼にはなかった。 

  (*範宴=親鸞上人は、貴族の皇太后宮大進、日野有範の子で、彼の妻 

〔恵信尼〕は、九條兼実の娘、玉日姫である。)

  対する彼は、一介の漁夫の子、後に自称したように「海辺の旃陀羅

(せんだら)」*に過ぎない(*旃陀羅・・・インドの四姓外の最下級の

種族で、屠殺などに従事する賎民。)

 

  また彼の研究も、最澄、空海をはじめとする高名な「学僧たち」のように、

外国で行なわれたものではなかった。 

―昔も今も、この国では、外国留学が必須の条件である。 

それなしには、いずれの知識の分野であれ、奥義を究めた者として、国人

に認められなかったのだ。

 

  彼はまた、後楯と名の付くようなものを、いっさい、持たなかった。まして

や、他宗の設立者の多くに恵まれていたような皇室の庇護などの、あろう

はずもない。

  彼はただひとり、独力で出発した。あらゆる種類の権力と対立し、当時の

有力な諸宗派と根本的に相容れない見解を携えての出発であった。

  私の知る限りにおいて、彼の場合は、日本の仏教徒中、唯一の例外で

ある。
              Photo_5


 誰に見習うこともなく、一つの「経」と「法」とのために、その生涯をひっさ

げて立ったのであった。

  彼の生涯において興味深いのは、彼が主張し広めた教義上の見解その

ものよりも、むしろ、それを貫き通した勇敢な生き方にある。

  日本における、本当の意味での宗教的迫害は、実に日蓮をもって始まっ

たのである。 【つづく】
 

 

 

 

 

2013年4月 6日 (土)

日蓮上人(5 )

  3.暗黒の中と外にて

 

 解決せねばならぬ幾つかの疑問を、心中に抱いていた彼は、ついに、

仏教の根本義は何かという問題に直面するに至ったが、そのうち最も差し

迫った問題は、”仏教に多くの宗派が存在するのはなぜか?”という点であ

る。彼は、自分自身に問うてみた。 

   一人の人の生涯と教えとに始まった仏教が、かくも多くの宗派と分派と

に分かれているのはなぜであろうか? 

  仏教は、一つより多いものであろうか?  私の周囲に見られること、

つまり、一つの宗派は、他のすべてを悪く言い、どれもが、“自分たちこそ” 

仏陀の真の心を持つものであると主張しているのは、どういうことなので

あろうか? 

  海水は、おしなべて同じ味であり、仏陀の教えに二種あるはずはない。 

ああ、この宗派分離の説明は、どこにあるのであろうか? 

  そして、これらの宗派の内、どれが仏陀の道で、ひいては私の歩むべき

なのであろうか?

                         Photo
 
  これが、彼の、最初でまた最大の質問であった。極めて当然の疑問で

あると、私も思う。 

  われわれも、仏教につき、また他の宗教について、同じ疑問を抱く者で

あるから、われらの主人公の苦悩に対して、心からの同情を寄せることが

できる。 

  しかし、彼を、この懐疑から救い出してくれる者は、彼の周囲に一人とし

てなく、彼の師もまた、この疑問を解いてはくれなかったので、彼は勢い、

祈りにのみ頼るようになった。

 

  こうしたある日のことである。日頃から深く帰依する菩薩の堂に熱い祈り

を籠めて帰る際、彼は、非常なる重荷に圧せられ、口から多量の血を吐い

て、土の上に倒れた。 

  同僚たちに助け起こされた彼が、意識を回復したのは、それからしばし

後のことであった。

 

  この出来事のあった地点は、今も正確に指示されており、そのかたわら

にある小藪の竹の葉の、やや赤みを帯びた色は、そのとき飛び散った血

に染められたものと伝えられている。

                  Photo_2

  ところが、ある夕暮れ、涅槃経(仏陀が、涅槃という恵まれた状態に入る

前に述べたものと言われる)に読みふけっていた彼の眼は≪依法不依

人≫”人に頼まず、法に頼め”という一句に引き付けられた。 

  そして、この句は、この悩める青年の心に、名状しがたい救いをもたらす

ものとなったのである(*下は、涅槃図)


         Photo_3
 

  すなわち、彼はこれより後、人の意見に依ることなく(それが、いかにまこ

としやかに、また立派に見えるものであっても)、偉大な教師、仏陀の残さ

れた経典に頼り、すべての疑問も、ただ経典によってのみ解決しようと、

心に決めたのである。 

  彼の心は、今や安らかになった。流砂の上に立つようであったこれまで

とは打って変わって、しっかりとした足場を、彼は見出したからである。

 

  ところで、この日本僧侶の話を読んで、四百年前のエルフルト修道院に

おける、ドイツの若き僧(=マルティン・ルター:下の肖像画の、同じよう

な場合を思い起こさぬ人はないであろう。

           Photo_5

       

  彼もまた、多くの疑問に苦しみ、「意識を失う」ほどの煩悶の後、古いラテ

ン語の聖書の中の一句に、ふと目を奪われ、ここに心の安らぎを見出した。 

  そして、その時以後、彼の信仰と人生との拠りどころとして、ひたすら聖

書にのみ、依りすがったのである。

 

  しかし、仏教の僧である蓮長の場合、権威ある経典は何かという問題

は、キリスト教徒であるルターの場合のように簡単ではなかった。 

  ルターが、ただ一冊の聖書に頼ればよかったのに反し、連長は、相互に

矛盾することの多い幾十という経典の中から、最高の権威あるものを選び

出さねばならなかったからだ。

 

 
  とは言っても、いわゆる「高等批評」などというものが全く存在せず、

人々は古人の記述に単純に信頼し、「何故?」とか、「どんな理由で?」と

かいう疑問を発しなかった当時にあっては、それも比較的やさしい仕事で

あった。

 

  ある経典の中に、大乗小乗にわたるすべての大経典が、年代順に示さ

れているのを見出した時、われらの主人公は満足したのである。 

  そこに示された順序は、次のようなものであった。
 

 すなわち、仏陀の最初の公的説教を含んでいると思われる華厳経を筆頭

に、その伝道の最初の十二年間の教えを載せた阿含経、伝道の第二期た

る、次の十六年間の教えを収めた方等経、第三期の十四年間の説教集で

ある般若経、仏陀の生涯の最後の八年間の教えを載せた妙法蓮華経、

またの名、法華経である(*下の写真は、「中阿含経」・・・国立奈良

博物館所蔵より)
                    Photo_6
  この順序から推論すれば、最後の法華経こそ、仏陀の生涯にわたる教

精髄を含むものだということになる。 

  また、日蓮自身の言葉によれば「万物の原理と、永遠の真理と、仏陀

本然の姿と、その教化の徳との重大な秘義」が、この経の中に記されて

いるという。 

  それゆえに、この経典には「妙法蓮華経」という美しい名が与えられた

のである。
                  Photo_7
                            Photo_8

  しかし、仏教の経典の正確な序列につき、また一つの経典が他にすぐれ

て価値あることにつき、批判的に検討することが、今のわれわれの目的で

はない。 

  日蓮があれほどまでに重要視した法華経は、仏陀の死後およそ五百年

という後代に書かれたものであり、また、日蓮がそれに依って、種々の経

典の序列を知った無量義経なるものは、この新著の法華経に、確実性と

最高権威とを与えることを、特別の目的として書かれたものだということが、

今では定説となっているようだ。
 

  しかし、これら経典の本体が何であるにもせよ、われらの主人公が、

そこに書かれた経典の序列をそのままに受け入れ、法華経の中に、仏教

信仰の基準を見出し、法華経をもってすれば、仏教内に、かくも多く存在

する異説も、単純、明快に解明し尽くすことができると悟ったと知るだけで、

われわれは十分なのである。

 

  この結論に達した時、彼の胸中の歓喜と感謝とは、あふれる涙となって、

ほとばしった。彼は、ついに心中で次のように言った「私は、父母を捨て

て、この至高の教えへの奉仕に身を委ねた者だ―その私が、凡僧どもに 

よって因襲的に伝えられる教えにのみ依りすがり、仏陀自身の金言を尋

ね求めなくてよいのか?」

  この聖い野心が心中に燃え上がった時、彼は二十歳であった。
                  Photo_9 

 この上は、もはや田舎の僧庵に隠遁していることはできない。そこで、

彼は、老師と僧らとに別れを告げ、遠く、また広く、真理を探り求めるため、

大胆に世の中へ乗り出したのである。  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年4月 5日 (金)

日蓮上人(4 )

   2.誕生と献身

 

  貞応元年(1223年)の春、波打つ水平線上に昇った太陽が、地上の

国々のうちの最東方の一点に、バラ色の光を投げかけた時、安房の国の

東端の岬に近い小湊村の漁師の家に、一人の赤子が生まれた。

                                Photo_7

  子供の父親は、ある政治的な理由から、この地に亡命して来た者である

が、今は、他と何も変わったところもない貧しい漁夫である。

  同じく生まれの卑しくない母親は、太陽神の熱心な崇拝者であった。彼女

は、その神に、男の子を授けたまえと、長い間、祈っていたのであるが、

その祈りが、今こそ叶えられたのである。

                              Photo_8


  神の恵みを記念して、両親は、その子に善日麿という名をつけた。

この事実は、この子の成人後、この世界に対する彼の使命を決定しようと

する際に、重要な意味を持つのであるが、そのことは後にわかるであろう。

  彼の誕生に伴って、あらゆる驚異や奇跡が現われたことが伝えられて

いる。

 例えば、「出産の汚れを洗い流すために」、その漁夫の家の庭先には、

透き通る泉が自然に噴き出したとか、世の常ならぬ大輪の白蓮が、家近く、

季節はずれに花を開いて、「空中に芳香を放った」という類である。

                            Photo_9

                     Photo_10



  現代に生きるわれわれは、これらの話を、信心深い当時の人々の空想

のなすところと考えがちであるが、しかし、彼の誕生の年月日だけは、ここ

に特筆する価値がある。

  なぜならば、それは、後年、この若い熱血漢の心中に、日本国の救済

という、きびしい問題が持ち上がった時、彼が幾たびも思いめぐらしたこと

であったからだ。

  彼の誕生の年は、仏陀の入寂後二一七一年であって、すなわち第一

の「正法千年」が終わり、第二の「像法千年」もまた過ぎ、第三で、かつ

最後の「末法千年」に入ったばかりの時であった。

  「大いなる教師」(仏陀)の予言によれば“彼の東方”に一つの光が現

われて、最後の暗黒の日々を照らすであろうとされていた時代である。

  また善日麿の誕生の日は陰暦二月十六日であるが、これは、仏陀の

誕生日である二月十五日の一日あとである。

                              Photo_11

  そして、われらの主人公のような性格の人は、このような一致を、きわめ

て重大なものと考えるのだ。

  善日麿(*下の写真の像)が十二歳になった時、信心深い両親は、

息子を僧侶とすることに決めた。

 後年の彼の行動と考え合わせて、われわれは、彼の幼時の非凡さを物

語る多くの逸話を、十分信用するに足るものだと信ずる。

                        Photo_12

  また、亡命漁夫である彼の父親が、息子を僧職にささげることによって、

息子が世に出る機会を作ろうと熱望したことも、当然であると思う。

  なぜならば、階級差別の厳しい当時にあっては、低い階級に生まれた

秀才が、世に頭角を現わそうとすれば、宗教に入るよりほかに道はなかっ

たからである。

  彼の生まれた地から遠くない所に清澄寺(*下は、今日の清澄寺)とい

う寺があって、そこの住職の道善は、学徳ともにそなわった僧として、

その地方に名高かった。

                        Photo_13


  善日少年は、そこに連れて行かれて、慈愛深い師に預けられたが、師は

この少年に対し、特に目をかけていたように思われる。

  四年間の修業期を過ぎて、十六歳になった時、少年は、正式に僧職に

任ぜられて、蓮長という新しい名を与えられた。

  この若い弟子の異常な才能を見守って来た善き師は、この時、すでに

彼を、自分の後継者として指名しようと考え始めていたのである。

  しかし、両親の望みであり、師の誇りでもあった少年の心の中には、

人知れぬ争闘行なわれつつあった。

  そして、この心中の争闘に駆り立てられて、彼は、ついに生まれ故郷を

捨て、道を求めて日本全国を巡るようになるのである。  【つづく】

2013年4月 4日 (木)

皆さんへ

    〔皆さんへ〕


  皆さん、お早うございます。

お元気ですか?

  東北、北海道地方はまだかも知れませんが、

他の地域は、桜の季節から新緑の美しい季節に

移ろうとしています。

         Photo
                Photo_2

  ところで、感動が感動を呼び、

感謝が感謝を呼びます。

  わが師、清水幾太郎は、「人間の美しさの基本は、

スポーツのファインプレーに見られる」と申しました。

  確かに、われわれは、各種のスポーツに見られる

美技に、人知れず感激し、かつ感動することがあり

ます。

  それが野球であれ、サッカーであれ、はたまたその

他のスポーツにしましても、サポーターや観客を、

あれほど熱狂させるのは、その純なしさ”や強さ、

それに逞しさを、観客の一人一人が、自ら感取する

からに相違ありません。

                Photo_3

  今年のWBCで、日本は、惜しくも連覇を逸しました

が、あそこまで至る過程で、日本の各選手は各々、

最後まで健闘しました。

  でも、これは、他国の選手も同様でしょう。

  今回、私は「WBC台湾戦の奇跡円陣お辞儀の

秘密」というYou  Tube  を観ました。正直、たいへん

感動しました。

 すでにご覧になった方も多いかと存じますが、

もし、ご覧になっていらっしゃらなければ、

是非、ご高覧ください。

  このYou Tube  には、一人の心ある人の思いや行動

が、多くの人々を動かすという事実、また感動が感動を

呼び、感謝が感謝を呼ぶいう事実、さらにスポーツを通

して、人は互いに信頼と友情を深め合うことができるとい

う事実など、様々な事実真実がちりばめられています。



  このYou Tube を通して、私は、他者の善意、他民

(*この場合は、台湾の人々)の善意や美しい行為に、

大いに学ぶべきものがあると、たいへん深く感じました。

   そのYou  Tube  を、下に貼り付けます。

    http://youtu.be/53E1f2FNkdY   【了】

2013年4月 2日 (火)

日蓮上人(3 )

  第十二世紀の終わり近く、長い間の内乱がようやく終わって、国内に

平和が甦ると、宗教思想の新しい活動が始まった。 

  源頼朝(*下の肖像画)は、僧侶の俗的権力を奪いはしたが、人民の

精神的指導者としての僧侶には、それ相応の敬意を表したので、学徳

すぐれた大教師が続々として起こるに至った。

                        Photo

  頼朝の後を継いだ北条氏は、一族の多くが忠実な仏教徒であったが、

当時行なわれていた宗派の、虚飾と浮華とに飽きた彼らは、仏教の瞑想

派である「禅宗」を、シナから導入して、京都や鎌倉や越前に、壮大な寺

院を多く建て、この新しい礼拝様式を、この国に永存させようと計った。

  西暦千二百年のことである(*下は、臨済宗の栄西と曹洞宗の道元)

                         Photo_2

                           Photo_3


  新しい宗派「禅宗」の神秘性と、無限の抽象性とは、旧来の諸宗派の

外面的儀式と著しい対照をなし、こうして禅は、上流知識階級の特愛の

宗派となった。 

    ― その一方、禅哲学の高い知性や、旧来の諸宗派の近づき難い荘厳

無縁の大衆は、別個の信仰を求めていたが、それを彼らに与えたのは、

源空(法然上人:下の肖像画)という僧侶であった。

                       Photo_4

 

  西暦一二○七年ごろ、源空は、それ以後「浄土宗」と呼ばれるようにな

った宗派を民衆の間に伝えたのである。 

  この宗派は、仏の名を唱えることによってのみ、極楽浄土へ行くことが

できると教えるものであった。それゆえ、これを一名「念仏宗」とも言う。 

  会衆が、手に手に振る鈴の音に合わせて、哀愁を帯びた単調な声音で、

「南無阿彌陀仏」(わが身を、あなたにおまかせ申します。阿弥陀仏様)と

いう念仏を唱え、時に身振り手振りをも交える、この宗派の礼拝様式は、

それまでの各派の、尊厳極まる信仰様式とは、がらりと変わる目新しいも

のであった。

 

  浄土宗の一分派である「浄土真宗」も、ほとんど同じころ、範宴(親鸞

上人:下の肖像画)という僧によって創始されたが、この宗派の影響力が

国民の大部分に及ぶに至って、他の各派は、ことごとく光を失った。

                         Photo_5

  浄土真宗の、他と著しく異なるところは、僧侶にそれまで科せられていた

純潔の誓約(=肉食妻帯を禁じる戒律)を免除し、彼らもまた人生普通の

楽しみを味わうことができるようにした点である。 

  仏教はこうして通俗化され、たちまち庶民の間に浸透して行った。 

もはや皇室の力で普及を促すまでもなく、民衆の間に力を張り始めたの

あって―これは、後に続く時代に著しい影響を及ぼすこととなった。

  「念仏宗」のもう一つの分枝を「時宗」という(*下の写真は、時宗の

開祖、一遍上人)

                  Photo_6

  浄土宗、浄土真宗、時宗の三宗派がそろうことによって、日本における

大衆的仏教の開発は完成した。 

  そして、神秘的な禅宗が当時の教養社会に入り込むのに対し、これらの

三派は、ほとんど時を同じくして大衆の間に受け入れられて行ったので

ある。 

  時宗が完成した直後、この国には、さらにもう一つの宗派が加わった。

これで、合計十二である。 

  それゆえ、十三世紀は、日本仏教の最後にして最大の”形成期”であった

と言うことができよう。

 

  というよりも、実は、この時期は、ヒンズーの宗教の、日本における“再

形成の時代”であった。この時期に見たような光は、もはや再び現われ

ない。 

  今世紀に生きるわれわれは、時代の信念を籠めて発せられた当時の

言葉のかずかずに依りすがっているのである。

 

  他の諸国におけると同じく、この国でも、宗教的熱狂は、迷信とともに

消えてしまった。 

 現代のわれわれは、非科学的であることを恐れて、臆病な人間となり、

目に見えるものに頼って行動することしか、できない。 

  そして、人々が、現代人のような知識がなくても誠実であった時代、また

雑事に心を煩わされず勇敢に生きた時代の、かすかな名残りというべき

ものを、行動の頼りとしている。

 

  そこで、われわれは、ここに一人の英雄を呼び起こそう。それは、天と地

とが、われわれに、より高貴な行為と、より大きな犠牲とを求めている今の

世に、教義を鼻にかけ安逸を楽しむことしかしないわれわれを恥じ入らせ

るためである。   【つづく】

 

 

 

 

 

2013年4月 1日 (月)

日蓮上人(2 )

 日本の仏教が渡来した時期は、第二十九代、欽明天皇の治世の第十三

年であった。 

 これは、西暦で言えば、五二五年、また仏教の年代学者流に数えれば、

「仏陀の入寂後、一五○一年」に当たる。

 

  そして、早くも西暦五八七年には、壮大な天王寺が、聖徳太子によって、

難波(大阪)の地に建てられた。 

  太子は、日本歴史上、最も賢明な皇子であり、かつ「日本仏教の父」で

ある。

                            Photo_4

 

 次の第七世紀には、帝国内に続々と改宗者が起こり、歴代の天皇自ら、

この運動の先達となった。 

  あたかもこのころ、シナは唐の時代で、名僧、玄奘(*下の肖像画)

指導のもとに、仏教の大復興が行なわれていた。(玄奘のインド冒険旅 

行については、バーセレミー・ヒレールの、目に見るような叙述がある)。

          Photo_5

  仏教発生の地インドで、この教えを探究して来た玄奘に学ぶため、

多くの日本の学者は、海のかなたの唐へ派遣された。 

  奈良朝(七○八~七六九)の歴代の天皇はみな、仏教の強力な支持者

であった。 

 日本渡来後、幾ばくもなくして、この新しい宗教が、かちとった力が強大

であったことは、奈良の旧都を今もいろどる大寺のかずかずに見ること

ができる(*下の写真は、東大寺と、同寺の大仏)

           Photo_9

          Photo_10


  しかし、新しい宗教熱が最高潮に達したのは、第九世紀のはじめ、最澄

と空海という二人の学僧が、シナ留学を終え、それぞれの選んだ宗派を

携えて帰国した時である(*下は、最澄と空海)

            Photo_6
                     
                             Photo_7

  奈良から京都へ、首都を移した恒武天皇(*下の肖像画)は、この二人

に対し、寺院建設のための、すぐれた敷地、ならびにそれに付随する基金

と特権を与えた。

                     Photo_8


  最澄は、新都の北東、あらゆる災いがこの方角から来ると思われてい

地を選んで、叡山を建立し、空海は、紀伊の国の高野山を本山と定めた。

  しかし彼はその他に、首都の南端にも敷地を与えられて、有名な東寺を

建てた。京都駅の真南には、今もこの寺の塔が見える。

  七八七年の叡山の開基、八一六年の高野山の開基によって、日本仏教

は堅く祖国の土に根をおろしたと言うことができよう。

  他のいかなる宗教も、仏教と競うことはできなかった。最澄や空海が、

仏教の基礎は、彼らの住む山のように、ゆるぎなく据えられたと考えたの

も道理である。



  このようにして、九世紀の初期には、いわゆる「仏教八宗」が、この国に

確立された。八宗とは、(一)三論、(二)法相、(三)華厳、(四)律、

五)成実、(六)俱舎、(七)天台、(八)真言などである。

  空海の死後四百年の間、この他に新しい宗派が渡来したとか、設立され

たとかいうことを聞かない。

  八宗の勢力と影響力とは次第に強まり、とりわけ最澄の天台宗が他を

圧していた。

   そして、ここでも、他の場合同様に、宗団の勢力獲得に伴う、あらゆる

腐敗が生じたのである。

  やがて僧侶は、“天皇の天皇”となり、ある天皇などは、「私の力に及ば

ぬものが二つある。加茂川(*下の写真)の流れと山法師だ」という有名

な言葉で、僧侶の横暴を歎かれたほどである。

            Photo_11

  歴代の天皇や貴族は、自分たちの帰依する宗派の寺を建てたり、寄付

したり、飾ったりすることを競い合った。

  広大な京都市街とその郊外とには、今もなお、至る所に、山門や、塔や、

六角堂や、鐘楼などの、壮大な宗教的建築物がそびえて、われわれの間

に、かつて栄えた信仰の巨大な記念碑となっている。  【つづく】

 

 

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