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2013年4月13日 (土)

日蓮上人(10 )

  7.晩年



 日蓮今や五十二歳、これまでの生涯の大半を、徹夜の勤行と、この世に

対する戦いとに費やして来たが、今こそは国人に対し、自由に布教できる

立場に立ったのである。

  しかし、幕府がこの許可を与えた由来を考えると、日蓮は少しも喜べなか

った。
                              Photo_8


 彼の目的は、支配者と国民が、心から法華経に帰依することであるのに

対し、北条氏が布教の自由を与えたのは、恐怖のためであったからだ。

  彼は、引退を考えるようになった。かの、ヒンズーの師、仏陀にならい、

山に入って、静かな黙想と、弟子たちの教化に、余生を捧げようと考え始め

たのである。

  彼の偉大さと、彼の宗旨の永続する主な理由は、実にこの点にあると、

われわれは信ずる。世が挙げて彼を受け入れようとするときに、彼は世を

捨てたのだ。彼より劣る人物がつまずくのは、実にこの時点においてで

ある。



  しかし彼の弟子たちは、宗派の禁制が解かれたのを機として、旧来の

諸派の信徒に対する攻撃活動を公然と開始した。

  彼らは寺から寺を廻り歩き、問答攻撃によって、それらを攻略していった

という。

 それら熱狂者たちのやり方といえば、各自が手に手に太鼓を持ち、口を

そろえて、南無、妙法、蓮、華、経の題目を唱えつつ、その五つの音節に

合わせて、太鼓を五度、叩くのである。

                   Photo_2

  彼らが二十人も集まれば、耳も聞こえぬくらいのすさまじさだが、それが

何百人の集団となり、新しい元気と情熱に燃えて、鎌倉中の家から家、

寺から寺を練り歩きながら、すみやかに法華宗へ帰依せよと呼びかけた

さまは、目に見えるようだ。

  宗祖日蓮の熱情と不寛容の精神は、現代の宗徒の間にも、はっきりと認

められる。

―この戦闘的熱情は、本来、非攻撃的また厭世的な宗教である仏教の中

で、唯一の例外である。



  われらが主人公の晩年は平和であった。彼は、富士山の西にある身延山

に居を構え、南に太平洋の絶景を見下ろし、周囲を霊峰に囲まれた所で、

日本全国から集まる崇拝者たちの礼を受けた。

                      Photo_3

  そして、彼の予言が一二八一年の蒙古来襲となって、さながらに実現する

のを、そこで見たのである。これによって、彼の名声と影響力とが著しく増大

したことは言うまでもない。

                   Photo_4

  この大事件の翌年、彼は、池上(大森駅の近所)にある在家の弟子の家

(*今日の池上本門寺:下の写真)に客となって滞在中、十月十一日、そこ

で死んだ。
                         Photo_10    

  彼の最後の望みは、天皇のいます都、京都で法華経を説き、ついには

天聴に達したいということであった。

  そして、彼は、この仕事を、当時十四歳の少年であった日像(*下の

写真)に託したのである。

                  Photo_9

 ここに、われわれの注意を引くのは、彼の臨終の一場面だ。

  このとき、弟子たちは、臨終の床の慰めにと、仏陀の像を持って来たが、

彼は手を振って、それを直ちに取りのけるように命じ、はなはだ不興気な

様子を示した。

  そこで弟子たちは次に、南無妙法蓮華経と、漢字で大書した“掛け軸”

をひろげて見せたところ、彼は、静かにそちらに向き直り、両手を合わせ

て礼拝しながら、最後の息を引き取ったという。

                   Photo_5

  彼は、経典崇拝者ではあっても、偶像崇拝者ではなかったのである。

【つづく】

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