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2013年3月 7日 (木)

二宮尊徳(5 )

  尊徳の前に反対は多かった。しかし、彼は「仁術」によって、それらを

取り除いた。 

  小田原公が、彼の協力者として差し向けた一人を、彼と彼のやり方とに

従わせるために、実に三年の辛抱をしたこともある。

 

  また、村の中に一人の、きわめ付きの怠け者がいて、この男は、尊徳の

計画のすべてに対して猛烈な反対をした。 

  彼の家は、今にも倒れんばかりの状態であったが、彼は、それを直そう

ともしないで、自分の貧乏こそ、新しい当局者のやり方のまずさを示す何

よりの証拠だと、いつも近所の人たちに語っていた。

 

  あるとき、尊徳の召使の一人が、その男の家の便所(ママ)にはいった

ところ、長年の間、投げやりにされて、朽ち果てていたその便所は、ちょっ

と手を触れただけで、地に倒れてしまった。 

  その男の怒りは凄まじく、棒を手にして飛び出すと、あやまちをわびる

召使を一打ち二打ちした後、なおも後を追って、ついに、その主人である

尊徳の家まで来た。

 

  その男は、門前に立ちはだかって、彼の蒙った損害のひどいこと、また、

長官が無能なばかりに、村に平和と秩序とが来ないことを、周囲に集まっ

た多勢に聞こえよがしに述べ立てた。 

  尊徳は、その男を自分の前に連れて来させると、できるだけの、おだや

かな態度で、召使のあやまちを詫びた後、こう言った。 

「便所が、それほど、倒れやすくなっているからには、住まいの方も完全

ではなかろうね。」 

 

  「ごらんの通りの貧乏人だ。家を直すことなど、できるものかね」と、その

男は、ぶっきらぼうに答える。 

「そうか」と、道学者尊徳は、おだやかに答えた。 

  「では、私が、おまえの家を直す人をつかわしたら、どうであろう。 

  承知してくれるかね?」

  びっくりするとともに、恥ずかしくなってきたその男は、
 

  「それほど親切に言っておくんなさる言葉にそむくことはできないね。 

  もったいない話です。」

 

  男は、すぐに家に帰された。そして、古い家を取り壊し、新しい家を建て

る地面を整えるように命じられた(*写真は、イメージ)

                      Photo

  翌日、新しい建築材料のすべてを用意した長官の部下が来て、数週間

のうちに、近所でも、ひときわ目立って立派な家の一つが完成した。 便所

も修繕されたので、もう誰がさわっても、こわれない(*同上) 

             Photo_2

  村一番の難物が、このようにして征服されたのである。その後、この男は、

誰よりも、長官に忠実な者と変わった。 

  あの時、”どれほど”恥ずかしい思いをしたかを語る時、彼の目からは、

いつも、涙がほとばしるのであった。 

 

  また、こんなこともあった。村人の間に不満が高まって来て、いかに

「仁術」もってしても、これをしずめることができなくなったのである。 

  われらの長官は、すべてこれらの責任は自分にあると考えた。 

「わが誠実の足りないことを、天が罰したもうのだ」と。彼は、心の内で

言った。

 

  そして、ある日、彼の姿は忽然と村人の間から消えた。村人が彼の

ゆくえを案じ暮らしていると、数日後に、彼が遠くの寺に参籠(さんろう)し

ていることがわかった。

                    Photo_3

  村人を導くために、より一層の誠実の与えられんことを祈り、かつ黙想

して、二十一日間の”断食”をするためである(*下の写真は、イメージ)

         Photo_4

  幾人かの村人が、彼に、はやく帰ってくれるように懇願するために、その

寺に向かった。彼のいない村は、無政府状態におちいっている。彼なしで

は何事もできぬことを、今や村人は悟ったのである。 

  尊徳は、村人の後悔のさまを聞いて喜んだ。三週間にわたる断食の期

間が終わると、軽食をとって元気をつけ、その翌日は、もう二十五マイル

(=40km)の道を歩いて村に帰った。この人物は、鉄の身体を持っていた

に違いない。

                  Photo_5

  数年間の、たゆまぬ勤勉と節約と、とりわけ「仁術」によって、荒廃は

く姿を消し、村には相当な生産力とも言えるようなものが甦えって来た。 

  そこで長官は、他国から移民を呼び寄せて、入植させたが、彼らに対して

は、土地の者に対するよりも、もっと手厚く、いたわった。

 

  「他国の者に対しては、わが子以上に、親切にしてやらねばならない」

というのが、彼の考えであった。 

  彼はまた、土地が再び肥えて来たことだけで満足しなかった。彼の考え

によれば、ある地方の完全な復興とは、「十年の飢饉に堪え得る食料」の

用意があることだ。

 

  その点で、彼は、「九年間の食料の蓄えのない国は危険であり、三年間

の蓄えもない国は、もはや国とは言われない」と言ったシナの聖人の言葉

に、文字通り従った者である。それゆえ、われらが農聖人の見るところに

よれば、現代の諸国のうちで最も尊大な国も、「国とは言われない」わけだ。 

 

  しかし、彼の準備がまだ整わぬうちに、飢饉が襲来したのであった。一八

三三年は、東北地方一帯が、ひどい災害に襲われた年である。 

  尊徳は、この夏、なすを食べた時に、すでに飢饉の襲来を予言した。 

そのなすは、秋なす(*下の写真)そっくりの味がしたからである。

              Photo_6

  これは、「太陽がすでに一年間の光を注ぎ尽くし」た明らかな兆候だと、

彼は言って、すぐさま村人に、一戸につき一反の割で、雑穀をまくように

命じた。 

  これによって、米の収穫の不足を補おうとしたのである。この命令は

実行されて、その翌年、近くの地方がことごとく飢饉に襲われたときも、

尊徳の管下にある三村では、食料の不足に悩む家は一軒もなかった。

 

  「誠実な人は、未来に起こる事を予知することができる」というが、われ

らが長官はまた予言者でもあったのだ。

  こうして、約束の十年が終わったときには、日本国中で貧しかった国が、

最も秩序正しく、最も多くの蓄えのある、そして自然の恵みの続く限り、

最も大きな生産力を持つ地方へと変わったのである。

 

  今やこの三村は、以前の繁栄の時と同じく、年収一万俵の米を産する

ようになったばかりか、何年続く飢饉にも堪えられるほど、穀物の満ち

満ちた倉庫を、幾棟か、持つまでになった。

                 Photo_7
 

  そして喜ばしいことには、長官自身もまた、この地で数千金の蓄えを得、

後年、これを、思うまま、慈善のために使ったのである。 

  尊徳の名声は今や遠方にまで広がり、全国各地の大名は、彼のもとに

使者を送って、領内の荒廃した村々の復興につき、教えを乞うた。

 

  誠実のみによって、このような著しい結果が現われたとは、前代未聞の

ことである。実に単純で、また安価な改革ではないか。 

  ただ「天」と共に歩む人のみが、これほどの事を成し遂げることができた

のである。 

   小田原藩三村の復興という、尊徳の最初の公共事業の成功が、当時の

怠惰な社会に与えた道徳的影響は、実に大きなものであった。 【つづく】



 

 

 

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