中江藤樹(2 )
このような次第ですから、教師と生徒との間柄も、この上なく密接でした。
われわれは、教師を、あの近づきがたい教授という名では決して呼ばず、
“先生”と呼びました。
先生とは、「先に生まれた人」という意味ですが、それは必ずしも、この
世に現われた時期が早かったというばかりでなく、(教師が年下の場合も
ありますから)、真理を悟るに至った時期も、生徒たちより早かったことを
意味するのです。
こうしたわけですから、われわれは、先生に対して、両親や藩主に対す
ると同様の、最高の尊敬を捧げねばなりませんでした。
まことに“先生”と、両親と、“君“(藩主)こそは、われわれが敬虔の念を
もって仰ぐ三位一体であったのです。
そして、この三者が同時に水におぼれようとしており、しかも自分には
ただ一人を救う力しかないときに、三者のうちの誰を救ったらよいかとい
うことは、日本の青年を最も悩ませた問題でありました。
それゆえ、“先生”のために命を捨てることは、“弟子”たる者の最高の
徳と考えられていたのです。
近代教育“制度”のもとでは、教授のために死んだ学生の話など、聞い
たこともありません。
先生と弟子との間柄に関し、このような考え方をしていたればこそ、
キリスト教の聖書の中に、主とその弟子たちとの密接な関係を読んで、
直ちにそれを理解し得た者が、われわれの中にいたのです。
弟子は師にまさらず、しもべは主にまさらぬこと、良き羊飼い(*下の
絵)は、羊のために命をも惜しまぬこと、その他、これに類した言葉を聖
書の中に見出したとき、われわれは、それを、自分たちが、ずっと昔から
知っていた真理として、すんなりと受け入れました。
これに対して、師を教授、弟子を学生としか考えぬ西洋のクリスチャン
は、われわれに伝道するために持参した聖書の中の、このような教訓を、
そもそも、いかにして理解することができたのかと、いぶかったものです。
〔それですから、旧日本の教育制度は、少なくともこの点において、
キリスト教的なものであったと信ぜざるを得ません。
それに反し、近代の教育制度は、その悪魔学や批評哲学等の講義と
いい、その日曜学校といい、強制的な教会通いといい、総じて、“非”キ
リスト教的な、時には“反”キリスト教的な要素を”備えた”ものだと断じ
ます。
このように、物事の真相を突き詰めて行くと、後のものが先になること
もあれば、また”その反対”の場合もあるのです。〕
もちろん、われわれは、すべての点において、古いものが新しいもの
に勝っていたと主張するのではありません。
〔先にも述べたように、古い教育には、現在のような、悪魔学や、かぶと
むし学の講義はありませんでした。
しかし、人類と自然とに関係のあるものは、すべて知る価値があります。
そして、博士の学位を望む者があふれている一方、教授の俸給が非常
に高くなっている現在では、残された道は一つしかありません。
すなわち、オーストラリアの牧羊制度を採用して、学生をクラス別に分
け、“集団的”授業を行なうことです。
われわれは、必要に迫られて、この手段を執ったのであり、これ以外に
執るべき道はありません。〕
しかしながら、古いもののすべてが悪いのではなく、また新しいもの
のすべてが良くて完全ではないと、われわれは言いたいのです。
新しいものにも、なお大いに改善の余地があり、古いものもまた復活
すべきです。
今のところはまだ、古いものはことごとく捨て去り、新しいものにはす
べて心服せよと、勧める時期ではありますまい。
以上のように、われわれは自分の所信を表明し、今もなお、それを続
けている。だが、それに対して、西洋人の盛んな拍手は得られなかった。
日本人は、自分たちが思ったほど、御しやすい従順な民ではないよう
だと、西洋人は気づいたのである。
私はここに、われわれの「強情」と、「受容性のなさ」と、「排外主義」と
を、さらに維持するために、われらの理想の学校教師(先生)の一人の
生涯を記そうと思う。
これによって、日本の青年の教育に心からの関心を寄せている西欧
の良き友人たちに、一、二の手掛かりを与えようと思うからである。
【つづく】
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