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2013年3月 1日 (金)

二宮尊徳(3 )

   3.能力の試験

  尊徳の名声は、日に日に高くなり、彼の領主で、また当時、幕府の

老中として、並ぶ者ない勢威をふるっていた小田原公も、ついに彼の

真価を認めるに至った。 (*下の写真は、小田原城)

  これほど有能な臣下を、片田舎に、無名の人として埋もれさせておく

わけにはいかない。

                         Photo

  とはいえ、階級の差別の極めて厳しい当時の社会において、一農夫

にすぎない者を、重要な地位に登用するのは、非常に珍しいことであ

った。 

  そのためには、社会の常軌に反したことをする際に必ず起こる非難を

静めるに足るだけの、並外れた才能を、尊徳が所有していることを、

疑う余地なく示さなくてはならない。

  そして、この目的のために選ばれた仕事は、ひとり尊徳の不屈の忍耐

力だけが成し遂げることのできるような性質のものであった。― 

 

  小田原藩は、下野(しもつけ)の国に、物井、横山、東沼という三つの

村を領していたが、この三村は、数代にわたる支配者の放任により、

当時、救うべからざる荒廃におちいっていた(*写真は、イメージ)
                           
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  かつては、戸数四百五十を数え、年貢一万俵を領主に納めた三村で

あったが、今は、荒々しい「自然」にその田畑を侵され、たぬきや、きつ

ねは人里までもはいり込み、人口は往時のわずか三分の一に減り、

貧困におちいった農民から取り立て得る年貢は、二千俵がようやくと

いう始末である。

  貧乏とともに道徳が堕落し、かつての繁栄した村々が、今は賭博者

の巣と化した。

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 三村の復興はたびたび試みられたが、村民自身が常習的な盗人や

怠け者であるところに、金や権力をもって臨んでも何になろう。 

  血気にはやる領主だったら、この三村の住民に、断固として立ち退き

を命じ、新しい、より道徳的な労働者を、他から移入して、怠惰な領民

によって荒廃にまかせられた耕地の復興を計ったであろう。



  しかし、この三村には、何の役に立たずとも、小田原公の胸中にある

目的には、打ってつけのものであった。 

  この三村を、往時の富と繁栄とにかえすことができる人ならば、国内

の荒廃した村々のすべて(それは、非常に多数であった)の復興を任

せることもできるだろう。

 

  そして、前任者がすべて失敗した所で、成功したならば、その人は、

万民の納得する指導者として立って、彼にふさわしい権威を与えられて

も、上層階級の不満を招くことはないであろうと、藩公は考えたのである。 

  尊徳が、藩公から、折り入って頼まれたのは、この仕事であった。しかし、

農夫尊徳は、自分は卑しい生まれであり、また、このような公共的な仕事

を仕遂げる能力は全く自分にないという理由で、その栄誉を辞退した。

 

 ―自分は一人の貧しい農夫にすぎず、自分の一生のうちに成就しようと 

しているのは、自家の財産の回復がせいぜいである、しかも、それさえも 、 

自分の才能よるのではなく、祖先から受け継いだ力によるのだというの

が彼の考えであった。 

 

  三年もの長い間、藩公が自分の要求を主張し続けたのに対し、尊徳も

また、わが家の、わらぶき屋根の下で平和な家庭生活を営みたいという

謙虚な願いを、終始変えなかった。

 

  だが今は、尊敬する主君の切なる頼みを、ついに拒み切れなくなった。

そこで、尊徳は、彼の復興すべき村々の状態をくわしく調べることを許さ

れたいと願い、そこまで百三十マイル(=208km)の道程(みちのり)を歩い

て行った。

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  そして、数ヶ月間、現地にとどまり、親しく隅々の村人の家をおとずれて、

その暮らし方をくわしく観察する一方、土質や、荒地の広がりや、排水や、

灌漑の方法などについても、注意深い観察をして、荒廃したこの地方の

復興につき、完全な見込書を作るための資料を、ことごとく集めたので

ある。

  小田原公に提出した彼の仕方書は、非常に悲観的なものであった。

だが、この場合とて、全く望みなきにあらずである。その中で、彼は言う。

                            Photo_7

  仁術(愛のわざ)のみが、これらのあわれな民を救って、彼らに再び

平和と繁栄とを、もたらすでありましょう。

  金銭を恵み税を免除することは、窮迫の中にある彼らを救う道では

ありません。

 まことに彼らを救う唯一の道とは、彼らに対する金銭的援助をすべて

撤回することであります。

  金銭的援助を与えることは、彼らを強欲に、また怠け者にするばかりか、

彼らの間に紛争を起こす原因ともなるのであります。

  ”荒地をひらくに、荒地の資源をもってし、貧困を救うに、貧者自身の

力をもってせよ”であります。

  主君におかせられては、この飢えたる土地より、分相応の収穫を得る

をもって足れりとなしたまい、それ以上を期待されぬよう、お願いいたし

ます。

  すべての田、一反から、米二俵を産したとするならば、その一俵を民

の食糧に宛て、あとの一俵は、残る荒地をひらく資とすべきであります。

  神代に、この豊かな日本の水田が開かれたのは、まさにこの方法に

よってでありました。

  当時は、いずこも荒地であり、外からの援助は一つもなかったにも

かかわらず、ただ住民の努力と国土の資源とによって、今見るような

田や畑や町が作られたのであります。

                        Photo_8

  愛と、勤勉と、自ら助けること―この三つの徳をきびしく実行する

以外に、三村復興の希望はありません。

  そして、われわれの誠意の限りを尽くし、忍耐をもって、仕事に当た

るならば、十年の後には、この三村が当初の繁栄にかえること、間違

いなしと私は信じます。  【つづく】

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