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2013年3月22日 (金)

中江藤樹(4 )

   3.母親崇拝


  はじめ彼は、母親を自分の手もとに招いて、伊予の藩主に仕えようと

したが、それが難しくなったので、この上は、藩主のもとを去って、母のも

とへ帰ろうと決心した。

                       Photo_2

 

  しかし、この決定に行きつくまでには、心中の激しい戦いを戦わなけれ

ばならなかったのである。 

  彼は、藩主の家老に宛てて手紙を書き、一身上の事情に由り、藩公へ

の奉公よりも、母への孝養を選ぶに至った理由を記した。次は、その

一節である。



  この二つの勤めについて、深く考えましたが、主君は、給与を与えること

によって、私のような家臣を幾人でも、お招きになることができるに反し、 

私の母は、私という、つまらぬ者のほかに、頼る者のない身の上でござい

ます。



  彼の「三位一体」についての悩みは、このようにして解決したのである。

彼は、米や、家屋敷や、家具など、すでに相当の額にのぼっていた全財産

を置き去りにして、母の許へと旅立った。



  母のかたわらで暮らすようになって、彼は全く満足だったが、母を慰める

術とては何もなかった。 

  母の家へ着いたときの彼の所持金は、わずか百“文”(現在の通貨の

一“銭”。しかし、価値の上では、おそらく一円にあたるだろう)にすぎなか

ったという。

 

  彼は、その金で、わずかの酒を買い、それに少しの利を加えて、近隣の

村々を売り歩いた。 

  かつての学者で、また先生とも呼ばれたほどの人が、今や行商人と変わ

ったのも、すべては母のためである(*下の写真は、イメージ)

           Photo_3

  彼はまた、「武士の“魂”」である刀までを手放し、その代金の銀十枚を

村人に貸し付けた。 

  この貸し金からあがるわずかの利益に、行商に由る利益を加えたものが、

母子二人のささやかな生活を支える収入であった。

                          Photo_6
 

  藤樹先生は、これらの卑しい労働を、少しも恥とは感じなかった。母の

笑顔の中に、彼の天国はあった。 

  その笑顔を一たび見るためには、何を代償としても惜しまなかったので

ある。



  このような、低い卑しい生活状態が二年間、続いた。彼の書いたもの

から想像すると、これは、彼の生涯のうちで最も幸福な時間であったらしい。

  母を離れては、夜もよく眠ることができず、「夢の中にも母を思って、寝返

りを打つこと幾たびか」であったという。

  なぜならば、彼の道徳体系はすべて、親に対する義務≪孝≫われ

われはそれを、孝行と呼ぶ)を中心として組み立てられており、この中心

的義務を怠ることは、彼にとっては、すべてを怠ることであったから、母への

孝養に至らぬところがありはせぬかと、不安に堪えなかったのである。

                         Photo_4

  われわれがすでに知る通り、彼の生涯の目的は、聖人すなわち完全な

人間となることであった。

  彼の目から見れば、聖人になることは、学者や哲学者となるよりも偉大な

ことと思われた(*下の写真は、史跡藤樹書院跡)

           Photo_5

  だが、ここに、藤樹の学者としての力量もまた必要とされる時が来た。

彼は、ついに説き伏せられて、その学問を世の人々に伝えるようになるの

である。 【つづく】

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