フォト
2017年9月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
無料ブログはココログ

« 中江藤樹(5 ) | トップページ | 中江藤樹(7 ) »

2013年3月25日 (月)

中江藤樹(6 )

  隣の室で、この物語を聞いていた青年は、ひざをたたいて叫んだ。 

「これこそ、私の探し求める聖人だ。明日の朝、その方のもとをたずねて、

奉公人とも、お弟子とも、していただこう」。

 

  そして翌日、青年は、直ちに小川村に向かい、聖人をたずね当てて、

来訪の目的を打ち明け、弟子として受け入れていただきたいと、謙虚に

願い出た。

 

  驚いたのは、藤樹先生である。 

自分は、村の一教師にすぎない、身分のある遠国の方が、わざわざ訪

ねて見えるような者ではありませんと言って、若い武士の願いを謙虚に

断わった。

 

  しかし、青年は、あきらめない。心に師と定めた人のもとから立ち去ろう

とはしないのである。 

  これに対し、教師の決意もまた堅かった。客の考えは、根本からまちが

っている。 

 自分は、村の子供たちの先生よりほかの者ではないというのが、藤樹の

考えであった。 

  今や、ねばりと謙虚と、どちらが勝つのかの競争である。両人とも、最後

まで一歩も譲るまいとの決意は堅い。 

 

  どんなに言葉を尽くしても、また嘆願しても、先生の心を動かすことが

できないと知った武士は、ついに、ねばりの一手のみで、聖人の謙虚に

打ち勝とうと決心した。 

  そこで彼は、先生宅の門のわきに、上着をひろげ、刀をわきに、両手を、

ひざの上に置き、武士らしく端然と、座った。

 

  そして、日光にも、雨露にも、通る人々の取り沙汰にも、姿勢をくずさず

に、座り続けたのである。 

  折から夏のこととて、この地方の蚊は、うるさい。しかし正座した青年の

姿勢は、一点に集中したその心同様、何ものをもってしても、崩すことが

できなかった。 

  三日三晩にわたり、彼の沈黙の願いは、家の内なる藤樹に向けられて

いたが、内からは、一言の許しの言葉も出なかった。

 

  藤樹の母、彼にとっては全能の母が、青年のために、とりなしに出たの

は、このときである。 

  これほどの真心をこめた青年の願いを、無下に斥けてよいものであろう

か、息子は、青年を弟子として迎え入れるべきではなかろうか、迎え入れ

るほうが、斥けるよりも立派なことなのではあるまいかと、母は考えたの

である。

 

  そこで先生は、改めて情勢について検討し、母上が正しいと思われる

ことは正しいにちがいないと考えた。 

  そして、ついに譲歩して、青年を、彼の“弟子”とした。この弟子こそ、

のちの熊沢蕃山(*下の肖像画、上:青壮年期の蕃山、下:老年期の

蕃山)である。

     Photo_2

                          Photo_3

 

  彼は後に、強大な岡山藩の財政面と行政面との指導者となり、彼の

先導によって行なわれた幾多の改革は、かの地に今なお跡をとどめて

いる。 

  藤樹の弟子が、たとえ蕃山一人だったとしても、なおかつ藤樹は、わが

国の大恩人の一人として記憶されたことであろう。

 

  藤樹の手に委ねられることになった仕事の重要さを十分に理解するた

めには、その弟子、蕃山に関して、別に一篇を綴る必要があるほどだ。 

  このようにして、「摂理」は、夜の影を好む宝玉を、光の中へと導いたの

である!

                   Photo_4


  ところで、この静かな人の外面生活について、残りなく記すためには、

もう一つの挿話を書き加えなくてはならない。 

  それは、岡山藩の藩主自身(*池田光政公:下の肖像画、藤樹のも

とを訪れたことである。

 

           Photo_5

  今はその家臣となった蕃山が、自分の先生の偉大さを伝えたことから、

この訪問となったのである。 

  階級の差別のきびしい当時において、藩主が、このような訪問をすると

いうことは、例外中の例外である。 

  藤樹が、まだ無名の人物であるのに対して、彼を訪問した大名は、この

国中でも最強の一つに数えられる岡山藩の当主であることを考えれば、

この訪問は、まれに見る謙遜の行為であり、また、訪問した大名と、彼に

その気持ちを起こさせた藤樹と、この雙方の名誉となることであった。

  ところが、この大大名の予期に反して、藤樹の自宅と、彼の村とには、

かほどの貴人を迎える用意が全く整っていなかった。

 

  多勢の従者を従えて、大名が藤樹の家におもむくと、先生は、村の子供

数人を相手に、『孝経(*下の写真)の講義の真っ最中。 

           Photo_6

  特に彼に会おうとて岡山藩主が来訪された旨を取り次いだ者に対し、

藤樹は、講義が終わるまで、家の入口でお待ち願いたいと伝えた。 

  大名は、これまでに、このような奇妙な取り扱いを受けたことがない。

 

  しかし、彼は従者と共に、そこで待っていた。その間も、家の中では、

外で何事も起こらなかったかのように、授業が続けられていたのである。

藤樹は、この高貴の客に対し、普通の人に対すると同様のもてなしをした。 

  大名はこの日、自分の師また顧問として、藤樹を迎えたいと申し出たの

であるが、藤樹は、自分の使命は、この村に住んで、母と共に生活するこ

とであると言って、その申し出を断わった。

 

  そして、大名の名を藤樹の弟子の名の中に連ねることと、藤樹の代わ

りに、その長男を岡山に送るという、二つの事を許したのみであった。 

  彼の教えにあずかろうとして来る貧しい青年に対しては、あれほど謙遜

な彼が、栄華の絶頂にある貴人に対しては、かくも威厳に満ちた態度で

臨んだのである。

 

  まことに彼は、後に全国民がこぞって彼に名付けた”近江聖人”の名に

ふさわしい人である。 

  彼は、ひろく万人の尊敬の的となり、他の多くの大名も、その領内の出

来事に関し、彼の勧めをきくために、彼のもとを訪れたのであった。

       Photo_7

  これらの事を除けば、きわめて平穏無事な、彼の生涯に関するこの章を

終わるに際し、欧米の読者は、彼と妻との関係を知りたいと思われるで

あろう。

  欧米人は、人を評価するに際し、いかなる対人関係よりも、夫妻の関係

を重く見るように思われるからである。

 

  藤樹は、シナの聖人、孔子の弟子であって、一夫一婦主義の信奉者で

あった。 

 孔子の教えに従い、三十歳で結婚したが、彼の配偶者となった婦人が、

肉体的にあまり美しくなかったところから、彼の母は、家に降りかかる不評

判をおそれて、彼に再婚を迫った。当時は、こうした場合、そのようにする

ことも、珍しくはなかったのである。

  しかし、母が望むことなら、ほとんど何事も聞き入れる温順そのものの

息子が、この場合に限り、母に従わなかった。
 

  「たとえ、母の言葉であろうとも、天の道にそむくことは正しくない」と、

彼は言ったのである。 

  こうして、その婦人は生涯、彼の家にとどまって、二人の子を生み、

「自分の名誉はすべて斥けて、夫の名誉たらしめよう」とする、典型的な

日本の妻の一人となった。

 

 彼女の、この“精神的美しさ”から暗示を受けて、彼は、『女訓』と題する

小冊子中に、理想の女性像を述べたのである。そこには、次のように書

かれている。
 

  男と女の間柄は、天と地との関係にひとしい。天は力であり、万物の源

である。 

  地は、受ける側であって、天で作ったものを受け入れて、それを養育する。 

  このようにしてこそ、夫婦の間も調和するのである。 

夫が始めて、妻が、それを完了する。・・・・

                        Photo_8

  そして私は信じるのである、キリストの教えそのものも、女性に対する、

このような考え方に反するものではないことを。  【つづく】

 

 

 

 

« 中江藤樹(5 ) | トップページ | 中江藤樹(7 ) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Links