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2013年3月

2013年3月30日 (土)

日蓮上人(1 )

    日蓮上人―仏教の僧


  1.日本における仏教


  宗教は、人間の最大の関心事である。本来の意味において、宗教を

持たない人間がいることは考えられない。 

  われらの欲望は、はるかにわれらの能力を超え、われらの願望は、

世界の総力をもってしても満たし得ないという、この不思議な世において

は、この不釣り合いを除くために、何かをなさなくてはならぬ。

 

  行動で、それをすることは不可能であるとしても、少なくとも、思考の中

では、何かをなさなくてはならぬ。 

  「自分は、無宗教の者だ」と自称する人が多くいることは事実だが、

それは、彼らがただ、特殊な教義に署名せず、聖職者の命令を世渡りの

しるべとせず、また木や、金属や、心霊の像を、神として崇拝しないという

ことにすぎない。

 

  だが、それにもかかわらず、彼らは、宗教を持っている。彼らの内にある

測り知れぬ欲望は、黄金崇拝やウィスキー礼讃をはじめ、それぞれ好む

ところの催眠的また鎮静的方法によって、抑えつけられているのである。 

  ある人の宗教とは、人生に対する、その人自身の解釈だ。そして、それ

らの解釈の中には、この戦闘の世にあって、安心立命を得るために欠くこ

とのできぬ”もの”があるのである。

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  次には、最大問題なる死の問題がある。貧しき者には望みであり、富め

る者には恐れである“死”こそは、人生最大の問題である。

  “死のあるところには、必ず宗教がなければならぬ”。これは、人間の弱

さの証拠であるかもしれないが、それと同時に、これは、われわれが高貴

な生まれであること、また、われわれの内に不死の生命があることの証明

である。

 

  “死んで死なないこと”―これこそは、すべてアダムの末裔が望んでやま

ぬことであり、その点にかけては、日本人も、宗教心に厚いと聞くヘブライ

人やヒンズー人に劣るところはない。

 

  日本人は、「復活」の教えに接する以前の二十五世紀間、何らかの形で、

死に対処して来た。 

  われらの先人の中には、実に立派な死を遂げた人もあるが、これは

とえに、われわれが抱いていた良き宗教のお蔭である。

 

  桜に飾られる楽しい春、もみじに染められる澄んだ秋、かくも美しい国土

に生を享けて、楽しい平和な家庭を営むわれわれが、人生を重荷と感じる

ことは稀であっただけ、死は、われわれにとって大きな悲しみであった。

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  「千代に八千代に」生きたいと願うわれわれは、死を、二重の苦痛と感 

じた。そして、この苦痛を和らげるものとしては、死後のわれわれを、 

さらに良い国へと導くことのできる信仰だけしか、なかったのである。

  それは、神道でいう、天にある聖人の家でもよかったし、また仏教で教え

る、極楽の蓮の園でもよかった。 

  われわれは、臆病からというよりは、むしろ、この美しい国への愛着の断

ちがたさのゆえに、死を恐れた。

 

  それゆえ、定命(じょうみょう=寿命)が尽きて、または義務に強いられて、

われらの生を享けた、この国を去らねばならぬときに、われわれの身を託

すものとして、われわれは宗教を求めたのである。



  日本人は、独自の宗教を持っている。それは、おそらく、中央アジアの

われわれの発祥地から携えて来たものであろう。

  その宗教が、本来どんな性質のものであったかを正確に語ることは

むずかしい。

 それが、「モーセ(*下の写真)の信仰」に似ていることが、近ごろ指摘

されたし、また、ユダヤ人の記録に残る「失われた十支族」を、日本人の

中に見出そうとする研究がなされたこともある。

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  しかし、われわれの最初の宗教が何であったにせよ、その宗教はやがて、

それよりすぐれて複雑な、また、あえて言うならば、さらに洗練された、

インド生まれの宗教に、その座を譲り、光を失う時が来た。

  このヒンズーの宗教が初めて日本人の中にはいって来たときの効果を、

われわれはたやすく想像することができる。

  その豪華な儀式と、高度の神秘性と、大胆で複雑な理論とによって、

単純な日本人の心は驚かされたにちがいない。

  無学な者は、その儀式を見て満足し、学ある者は知識欲をそそられ、

統治者は、この宗教が自分たちの目的に叶うものであることを認めた。

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  異国の宗教を全面的に受け入れることについて、愛国者の反対があっ

たにもかかわらず、このヒンズーの宗教は、猛烈な勢いで日本に広がり、

少なくとも一時は、古来の宗教が、すっかり蔭に押しやられたかとさえ見

えた。

  そして、新しい宗教は、その後、何百年にもわたって、この国に君臨し

続けたのである。  【つづく】

2013年3月29日 (金)

皆さんへ

   皆さんへ 〕


    お早うございます。

  皆さん、お元気ですか?

  
    今年の桜は、例年より早かったようですね。

 

  ところで、「悪事、千里を走る」といいます。 

善い行いは、なかなか人に伝わりません。 

  これに対して、悪い事をしたという評判は、あっと

いう間に知れ渡り、遠方まで、広がるものです。
 

  この原典は、中国・宋の孫光憲による『北夢瑣言

(ほくむさげん)』にある、「好事門を出でず、悪事千里

に行く」だと言われます。

  英語では、Bad  news  travels fast. となります。

(「故事ことわざ辞典」参照)

  しかし、今日、真理や真実、つまり”善い事”ほど、

早く、多くの人々に伝えなければなりません。

  例えば、植草一秀氏による透徹した政治・経済分析

や孫崎享氏による、勇気あるTPP論や戦後政治史論

など、より多くの日本国民に知ってもらいたいことばか

りです。

   とりわけ、植草氏の指摘にありますように、今日、

あらゆる意味で「国民主権の根本原理が踏みにじ

られている」安倍独裁政治である現実は、すべての

国民に深く、かつ強く認識されなければなりません。

 今は、日本国存亡の危機なのです。

 (*当方は、上の語句を、”大文字で記しました”が、ココログの

管理者は、どうしても、小文字で表示したいようです。でも、その方が、

却って、目立ちますね。)

 その意味で、両氏の慧眼と、その勇気ある行動は、

日本国民のであり、かつ国民力の源泉でもあり

ます。

  普段、私は、テレビを好んでは観ません。でも、中に

は、素晴らしい内容のものがあります。それを、以下に

貼り付けます。

  すでに、ご存知の方も多いかと存じますが、そうでな

い方は、是非、ご高覧ください。

  〔*尚、(2)は、少し古い内容です。〕

 

 

 (1)  テレビ朝日(そもそも総研)での孫崎氏の「TPP」観

      http://youtu.be/j5lUk8K-VEA

   (2) 知らないとヤバいTPP(1~3)

   ① http://youtu.be/UaAa9WFN3fQ   

   ② http://youtu.be/Y_hnysiyXYM 

    ③  http://youtu.be/9jwhTBmSY1A 

2013年3月28日 (木)

中江藤樹(完 )

  しかし、この恐れを知らぬ精神、この独立の精神を持つ彼が、その倫理

大系の中で、謙遜の徳に最上位を与えたことは、実に画期的なことである。 

  彼によれば、謙遜は、他のすべての徳の源となる根本の徳であり、謙遜

の徳を欠く人間は、何ものをも持たぬにひとしい。


  学者とは、まず自尊心を捨て、謙遜の徳を求める者だ。この徳を欠く者は、
 

いかに学識と豊かな天分に恵まれていようとも、凡俗を超越した地位につ  

く資格はない。  

  満ち足りることは、損失のもととなる。謙遜は、天の法である。謙遜とは、 

おのれを空虚にすることだ。心が虚となれば、善悪の判断は、おのずから 

生じよう。

 

  ”虚”という言葉の意味を説明して、彼は次のように言う、 

   昔から、道を追求する者は、この言葉につまずく。霊的であるがゆえに

であり、虚であるがゆえに霊的なのだ。このことをよく考えよ。
 
  この徳の高さに達するために、彼が執った方法は、きわめて単純なもの

であった。 

   彼は言う、 

  もし有徳の人となるのが目的ならば、われわれは日ごとに善をなさねば

ならぬ。 

  一つの善を行なえば、一つの悪が消滅する。日ごとに善を行なえば、

日ごとに悪が消滅する。 

  日が長くなれば夜が短くなるように、つとめて善を行なえば、悪は残りな

く消え去ってしまう。

 

  そして、自分の心中が、この「虚」であることに、無上の満足を感じる藤樹

は、まだ心中の利己心に縛られている人々をあわれんで、次のような言葉

を綴った。

 

   牢獄のほかに牢獄があり 

      その大きさは世界を包む 

  その四方の壁を作るのは、名誉欲と 

  利欲と、高慢と、情欲― 

  ああ、いかに多くの人々が 

  そこにつながれて、永久に悩むことか
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藤樹は、どのような形を探るものであろうとも、「願望」、欲望の類を軽

蔑した。 

  仏教に、こういう要素が濃いところから、彼は、これを嫌って、全く仏教を

離れたのである。

 

  報いを目的として善行をするということは、その報いが、たとえ来世で与

えられるものであっても、彼の心にかなわぬことであった。 

  正義を行なうのに、正義以外の動機は要らぬと、彼は考えていた。

 

  たとえ、彼が来世の存在を信じ、来世に生きることを期待していたとして

も、そのことは、彼の正義を愛する心と、「天の道」を実践する喜びとに、

いささかの影響をも与えなかった。

 

  次に引用する彼の手紙は、息子が仏教の信仰を捨てて孔子の弟子とな

ったことを悲しむ、ある母親に宛てたものである。 

  来世に、それほどまでに重きを置かれるあなたのお気持ちは、私にもよ

く分かります。 

 しかし、来世がそれほど大切なら、現世は、それ以上に大切だということ

に気付いていただきたい。 

  なぜならば、この世で道に迷った者は、来たるべき世においても、永遠

に迷い続けるにちがいないからです。・・・・ 

 
  明日のこともわからぬ、定めなきこの世では、心の中で、たえず仏を崇

めまつることこそ、最も肝要です。・・・・


  藤樹が無神論者でなかったことは、この国の神々に、彼が深い敬意を

ささげたことに、よく現われている。しかし彼の信仰は、ひたすらに正しく

ありたいという一つの願望のほか、あらゆる種類の「願望」を拒否すると

いう、驚くべきものであったのだ。



  それでいながら、彼は、人生を十分に楽しんだ人のように思われる。
 

彼の書いたものを読んでも、失望の一ふしすら見つけることはできない。 

  孔子の流れをくむ王陽明派の学者であるこの人が、どうして、かほどま

でに幸福であり得たかということは、神と宇宙とに関するわれわれの考え

方からは、想像することもできない。〔ある月夜の夜、湖上に浮かぶ小舟

の中で、彼は、次のような漢詩の一節を得た。

 

  念慮一毫の差も 

応酬千里訛(あやま)る 

 人心よろしく静を主とすべし 

名月、波に沈まず〕 


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  彼の心が、つねに変わらぬ喜びで満たされていたればこそ、「冬の日に」

と題する、次のような和歌も生まれたのであろう。

 

  世の中の桜をたえて思わねば  

      春の心はのどかなりけり

                  
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  次も、同じような調子である。
 

  思いきやつらく憂(う)かりし世の中を 

      学びて安く楽しまんとは



  しかし、彼は、長寿を楽しむことができなかった。妻に先立たれて二年後

の、一六四八年の秋、四十歳で、その生涯にふさわしい死を遂げたので

ある。 

  いよいよ最期が来たことを悟った彼は、弟子たちを呼び集め、平常通りの

正しい姿勢をとって言った。 

  私は、逝く。この国で、私の道が失われぬように、心掛けてくれよ
 

  そして、彼の生命は絶えた。近隣の人々はすべて喪に服し、大名たちは、

その師に敬意を表するために、特使を送った。 

  彼の葬儀は、国家的な行事として行なわれ、徳と正義とを愛するすべて

の人々は、国家の大きな損失として、彼の死を悲しんだのである。

 

  彼が生前住んでいた家は、後年、村人の手で修理され、今日に至るま

で保存されている。  
                  

  村人はまた藤樹を神として祭り、年に二回、彼を記念する祭典を催す。

彼の墓をたずねて行けば、簡素な礼服をまとった村人が案内役をつとめ

てくれるであろう(*下は、中江藤樹神社と彼のお墓)

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  その人に向かって、三百年も昔の人物が、なぜ、今もこのように敬われ

るのかと聞けば、次のように答えるであろう。

  この村や近在では、父は子にやさしく、子は父に孝をつくし、兄弟は互い

に睦み合っています。

  どの家からも怒り声は立たず、一同の顔に平和があふれているというの

も、ひとえに藤樹先生のお教えと、後に残る感化の賜物です。 

  それゆえ、私どもは一人残らず、感謝をもって先生のお名前を崇めてお

ります。

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  そして、現代に生きるわれわれが、太鼓のとどろき、ラッパの響き、新聞

広告等によって、「感化」を他に及ぼそうとするならば、感化の真の秘訣は

何であるかを、藤樹先生に教わるがよい。

 

  バラが、おのれの香りに気づかぬように、おのが感化力に気づかなかっ

た人、藤樹のような、静かな生涯を送ることができないならば、一生の間、

いかに書き、説教し、怒号し、身ぶり手ぶりで訴えようとも、われらの死後

には、「“畳”一枚ほどの土の塚」より他は残らぬであろう。藤樹は、かつて

言った、

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  聖人は、この国の至る所に散在している。谷の合い間、山の蔭に住む、 

これらの方々に、われわれが気づかないのは、この方々が、自分を世に 

現わそうとなさらないからだ。 

  これらの方々こそ、真の聖人であって、この世にとどろいている人などは、 

実は数うるに足りないのである。

 

  幸か不幸か、藤樹の名は、「世にとどろいた」。(これが、まったく彼の

意志に反したものであることは、われわれが知っている。) 

  これは、気高い目的を抱いて送る静かな生涯が、いかに力あるもので

あるかを、われわれ一同が、この人によって学ぶためである。

 

  「谷合い」の住み家を学校として、あらゆる種類の卑しさに染まらぬよう、

旧日本を守ったのは、これらの聖人たちであった。 

  そして、現代の学校制度が、徳をたたき込み、天才を仕立てることに、

いかに懸命になろうとも、われわれの周囲に、かほどにまで充満する

卑しさを、おさえることができるかどうか、われわれは疑わざるを得ない。

 

  「血は、みんな頭にあがってしまった。手足は、空っぽだ。われわれは間

もなく卒中で死ぬだろう」と現代人は叫ぶ。 

  ”もし、この国に多くの藤樹が現われないならば”、この叫びは、やがて

現実のものとなるであろう。  【了】

 

 

2013年3月26日 (火)

中江藤樹(7 )

     5.心の人

   
  その外面の貧しさと単純さとはうらはらに、藤樹の内面は豊かで、また

変化に富んでいた。

  彼の内には大きな王国があり、彼は、その王国の完全な支配者であっ

た。彼の外面の静けさは、内面の満足から自然に生ずるものにほかなら

ない。

 

  まことに彼こそは、天使のような人について、よく言われる「九分が霊

魂で、一分のみが肉体」という言葉で評すべき人であろう。 

  進歩した「救拯論(きゅうしょうろん)」や「来世論」を抱いているわれわれ

にしたところで、この人の半分も幸福であるかどうか疑わしい。



  藤樹の著作が、幾代か後の弟子二人によって、注意深く編集され、一つ

にまとめられたのは、つい最近のことであって、現代のわれわれは、かな

り大きな和風十巻の本に収められた彼の著作に接することができる。

 

  その全巻を通して、われわれの眼前に繰り広げられるのは、わが国に

系統的思考が存在したことさえ疑われる時代にあって、まさしくわれわれ

の間に実在した人物の全貌である。

 

  その中には、彼の短い伝記、彼についての村民の回想、彼の、シナ古

典の注釈、講話、随筆、問答、手紙、思索の断片、座談、和歌、漢詩が収

められている。 (*下は、彼の著作『翁問答』)

  私にできることは、ただ読者を、この人の内なる世界へ案内することだ

けだ。 

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  知的方面の彼の生涯には、二つの、はっきりした段階がある。その第一

は、当時の日本人がみな、そうであったように、保守的な朱子学によって

育てられた時期である(*下は、朱子:1130~1200  の肖像画) 

  この朱子学は、何ものにもまして、不断の自己批判を重んじるものであ

った。

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 感受性の強い藤樹が、自己の内なる欠点と弱点とを絶えず内省する結

果、いよいよ敏感な青年となったことは想像に難くない。過度の自己批判

の影響は、彼の青年期の行動や著作に、はっきりと現われている。

 

  彼の二十一歳の時の著作である『大学啓蒙』は、このような気分の中で

書かれたものである。 

  もし彼が、シナの進歩的学者である王陽明(*下の人物:1472~1529)

の著作によって、新たな希望に接しなかったならば、ただでさえ内省的な

彼は、悲観的哲学に圧倒されて、彼のような性質の多くの人々同様、病的

な隠遁者となり終わったかもしれない。

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  この傑出した哲学者、王陽明については、すでに大西郷の章で少し触れ

たが、陽明学という形に現われたシナ文化は、われわれを、小心で、臆病

で、保守的で、反進歩的な人間とするものではなかった。 

  私のこの見解は、日本歴史の上で明らかに実証された事実であると思う。

 

 今では、思慮深い孔子評論家のすべてが、この聖人自身、非常に進歩的

な人であったことに同意するであろうと私は信ずる。 

  孔子の同胞である反進歩的なシナ人が、自己流に彼を解釈して、世界の

人々の心の中に、反進歩的な聖人という印象を刻み付けたのである。 

  しかし王陽明は、孔子の中にあった進歩性を表に引き出し、古い流儀で

孔子を解釈しがちであった人々の心に希望を吹き入れた。


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  われらの藤樹先生もまた、この人の助けにより、孔子に対して新しい

見解を抱くに至ったのである。 

  近江聖人は今や実践の人となった。彼の陽明主義を示す断片を、ここに

揚げよう。

 

   暗くともただ一向に進み行け  

    心の中のはれやせんもし 

 

 志つよく引き立て向こうべし  

      石に立つ矢の聞くにも 

 

   うえもなくまた外もなき道のために 

    身を捨つるこそ身を思うなれ 

 

 

  これらの和歌から、もの静かな村の教師の像を描き出せる人が、はたし

ているであろうか?

   藤樹が、シナの古典について多くの注釈書を書いたことは、さきに述べ

た。 

 まことに、これらの注釈書は、彼の全著作中でも、すぐれて重要な部分を

占めている。

 

  しかしながら、彼が、ありふれた意味での”注釈者”であったと考えてもら

いたくはない。 彼は、非常に独創的な人であった。 

  注釈という、文学の一形式を、自己表現の手段としたのは、ひとえに彼の

生来の謙虚さのゆえである。

 

  古典の解釈にあたり、彼が、何ものにもとらわれぬ自由な態度を執った

ことは、生徒に対し繰り返し語った言葉に明らかである。 

  昔の聖人たちの“講話”の中には、今日の社会の事情に当てはめること

のできぬものが多い、 

という意見を持っていた彼は、古典の中から不必要なものを抜き去った改

訂版を作り、それを自分の学校で用いた。

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  彼が、もし今日、生きていたならば、異端裁判の立派な対象となったこと

であろう!

 

  藤樹が、人の作った法律(≪法≫ノモス)と、永遠に存在する真理

(≪道≫ロゴス)とを、はっきり区別したことは、次に掲げる卓論の中に示

されている。

 

  道と法とは別個のものである。両者を混同して考える者が多いが、

これは、非常な誤りだ。法は、時代と共に変わる。  

  たとえ、シナの聖人でも、これをいかんともすることができないのだから、 

ましてや、それがわが国に移し植えられた場合、変わるのは当然のこと 

である。 

 

  これに反し、道は、永遠に変わらない。徳という名の、まだ無かった時 

から、道は立派に存在し、人類がまだ現われぬ前に、道はすでに行なわ 

れていた。  

  そして人類が消滅し、天地が無に帰した後も、道は存在し続けるであろ 

う。しかし、法は、時代の必要に応じて作られたものである。  

  たとえ聖人の定められた法であろうとも、時代と場所とが変わった場合、

これを強制することは、道のために害をなす。


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  そして、この考えは、いわゆる典籍“経書”が完全無欠の書と考えられて

いた時代に述べられたことである。 

  それは、今日の極端な霊感論者が、聖書を無謬と考えるのと同じような

具合であった。 

 このような時代に、このような精神で書かれた注釈書が、大胆で、驚異

で、新鮮なものでなかろうはずはない。  【つづく】

 

2013年3月25日 (月)

中江藤樹(6 )

  隣の室で、この物語を聞いていた青年は、ひざをたたいて叫んだ。 

「これこそ、私の探し求める聖人だ。明日の朝、その方のもとをたずねて、

奉公人とも、お弟子とも、していただこう」。

 

  そして翌日、青年は、直ちに小川村に向かい、聖人をたずね当てて、

来訪の目的を打ち明け、弟子として受け入れていただきたいと、謙虚に

願い出た。

 

  驚いたのは、藤樹先生である。 

自分は、村の一教師にすぎない、身分のある遠国の方が、わざわざ訪

ねて見えるような者ではありませんと言って、若い武士の願いを謙虚に

断わった。

 

  しかし、青年は、あきらめない。心に師と定めた人のもとから立ち去ろう

とはしないのである。 

  これに対し、教師の決意もまた堅かった。客の考えは、根本からまちが

っている。 

 自分は、村の子供たちの先生よりほかの者ではないというのが、藤樹の

考えであった。 

  今や、ねばりと謙虚と、どちらが勝つのかの競争である。両人とも、最後

まで一歩も譲るまいとの決意は堅い。 

 

  どんなに言葉を尽くしても、また嘆願しても、先生の心を動かすことが

できないと知った武士は、ついに、ねばりの一手のみで、聖人の謙虚に

打ち勝とうと決心した。 

  そこで彼は、先生宅の門のわきに、上着をひろげ、刀をわきに、両手を、

ひざの上に置き、武士らしく端然と、座った。

 

  そして、日光にも、雨露にも、通る人々の取り沙汰にも、姿勢をくずさず

に、座り続けたのである。 

  折から夏のこととて、この地方の蚊は、うるさい。しかし正座した青年の

姿勢は、一点に集中したその心同様、何ものをもってしても、崩すことが

できなかった。 

  三日三晩にわたり、彼の沈黙の願いは、家の内なる藤樹に向けられて

いたが、内からは、一言の許しの言葉も出なかった。

 

  藤樹の母、彼にとっては全能の母が、青年のために、とりなしに出たの

は、このときである。 

  これほどの真心をこめた青年の願いを、無下に斥けてよいものであろう

か、息子は、青年を弟子として迎え入れるべきではなかろうか、迎え入れ

るほうが、斥けるよりも立派なことなのではあるまいかと、母は考えたの

である。

 

  そこで先生は、改めて情勢について検討し、母上が正しいと思われる

ことは正しいにちがいないと考えた。 

  そして、ついに譲歩して、青年を、彼の“弟子”とした。この弟子こそ、

のちの熊沢蕃山(*下の肖像画、上:青壮年期の蕃山、下:老年期の

蕃山)である。

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  彼は後に、強大な岡山藩の財政面と行政面との指導者となり、彼の

先導によって行なわれた幾多の改革は、かの地に今なお跡をとどめて

いる。 

  藤樹の弟子が、たとえ蕃山一人だったとしても、なおかつ藤樹は、わが

国の大恩人の一人として記憶されたことであろう。

 

  藤樹の手に委ねられることになった仕事の重要さを十分に理解するた

めには、その弟子、蕃山に関して、別に一篇を綴る必要があるほどだ。 

  このようにして、「摂理」は、夜の影を好む宝玉を、光の中へと導いたの

である!

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  ところで、この静かな人の外面生活について、残りなく記すためには、

もう一つの挿話を書き加えなくてはならない。 

  それは、岡山藩の藩主自身(*池田光政公:下の肖像画、藤樹のも

とを訪れたことである。

 

           Photo_5

  今はその家臣となった蕃山が、自分の先生の偉大さを伝えたことから、

この訪問となったのである。 

  階級の差別のきびしい当時において、藩主が、このような訪問をすると

いうことは、例外中の例外である。 

  藤樹が、まだ無名の人物であるのに対して、彼を訪問した大名は、この

国中でも最強の一つに数えられる岡山藩の当主であることを考えれば、

この訪問は、まれに見る謙遜の行為であり、また、訪問した大名と、彼に

その気持ちを起こさせた藤樹と、この雙方の名誉となることであった。

  ところが、この大大名の予期に反して、藤樹の自宅と、彼の村とには、

かほどの貴人を迎える用意が全く整っていなかった。

 

  多勢の従者を従えて、大名が藤樹の家におもむくと、先生は、村の子供

数人を相手に、『孝経(*下の写真)の講義の真っ最中。 

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  特に彼に会おうとて岡山藩主が来訪された旨を取り次いだ者に対し、

藤樹は、講義が終わるまで、家の入口でお待ち願いたいと伝えた。 

  大名は、これまでに、このような奇妙な取り扱いを受けたことがない。

 

  しかし、彼は従者と共に、そこで待っていた。その間も、家の中では、

外で何事も起こらなかったかのように、授業が続けられていたのである。

藤樹は、この高貴の客に対し、普通の人に対すると同様のもてなしをした。 

  大名はこの日、自分の師また顧問として、藤樹を迎えたいと申し出たの

であるが、藤樹は、自分の使命は、この村に住んで、母と共に生活するこ

とであると言って、その申し出を断わった。

 

  そして、大名の名を藤樹の弟子の名の中に連ねることと、藤樹の代わ

りに、その長男を岡山に送るという、二つの事を許したのみであった。 

  彼の教えにあずかろうとして来る貧しい青年に対しては、あれほど謙遜

な彼が、栄華の絶頂にある貴人に対しては、かくも威厳に満ちた態度で

臨んだのである。

 

  まことに彼は、後に全国民がこぞって彼に名付けた”近江聖人”の名に

ふさわしい人である。 

  彼は、ひろく万人の尊敬の的となり、他の多くの大名も、その領内の出

来事に関し、彼の勧めをきくために、彼のもとを訪れたのであった。

       Photo_7

  これらの事を除けば、きわめて平穏無事な、彼の生涯に関するこの章を

終わるに際し、欧米の読者は、彼と妻との関係を知りたいと思われるで

あろう。

  欧米人は、人を評価するに際し、いかなる対人関係よりも、夫妻の関係

を重く見るように思われるからである。

 

  藤樹は、シナの聖人、孔子の弟子であって、一夫一婦主義の信奉者で

あった。 

 孔子の教えに従い、三十歳で結婚したが、彼の配偶者となった婦人が、

肉体的にあまり美しくなかったところから、彼の母は、家に降りかかる不評

判をおそれて、彼に再婚を迫った。当時は、こうした場合、そのようにする

ことも、珍しくはなかったのである。

  しかし、母が望むことなら、ほとんど何事も聞き入れる温順そのものの

息子が、この場合に限り、母に従わなかった。
 

  「たとえ、母の言葉であろうとも、天の道にそむくことは正しくない」と、

彼は言ったのである。 

  こうして、その婦人は生涯、彼の家にとどまって、二人の子を生み、

「自分の名誉はすべて斥けて、夫の名誉たらしめよう」とする、典型的な

日本の妻の一人となった。

 

 彼女の、この“精神的美しさ”から暗示を受けて、彼は、『女訓』と題する

小冊子中に、理想の女性像を述べたのである。そこには、次のように書

かれている。
 

  男と女の間柄は、天と地との関係にひとしい。天は力であり、万物の源

である。 

  地は、受ける側であって、天で作ったものを受け入れて、それを養育する。 

  このようにしてこそ、夫婦の間も調和するのである。 

夫が始めて、妻が、それを完了する。・・・・

                        Photo_8

  そして私は信じるのである、キリストの教えそのものも、女性に対する、

このような考え方に反するものではないことを。  【つづく】

 

 

 

 

2013年3月23日 (土)

中江藤樹(5 )

  4.近江聖人


  行商の仕事をやめて、村に学校を開いたのは、藤樹が二十八歳の時

ことである。 

  当時は、学校を開くほど簡単なことはなかった。先生の住む家が、同時

に、寄宿舎とも、礼拝堂とも、講義室とも、なったからである。

         Photo_5
 

Photo_3

  室の正面には、孔子(*下の肖像画)の肖像が掲げられ、生徒を従え 

た先生は、その前に進んで、然るべき儀礼のうちに、香をたいて、

敬意を表した。

                   Photo_3      

  科学と数学とは、教科の中に無く、シナの古典、多少の歴史、作詩、

習字が、当時の学科のすべてであった。 

  学校の教師とは、地味で、目立たぬ仕事である。その影響は、実にゆっ

くりとしか現われない。 

  世の派手好きな人には卑しまれようとも、天使に羨まれる事業、それが

教師の仕事である。



  この国の片田舎に根をすえて、彼は、平和にあふれる生涯を、その死

に至るまで、楽しんだ。まもなく、わかることだが、彼の名が世間に知られ

るようになったのは、ほんの偶然のことからである。評判を立てられること

を、彼は何よりも嫌った。

 

  彼にとっては、彼の心こそ彼の王国であり、彼は自分自身の中に、自分

のすべて、否、それ以上を有していたのである。 

  彼が、村の出来事に常に関心を持っていたこと、村の裁判所に訴えられ

た村人のために、とりなしをしたこと、自分をのせた”駕籠”かきにさえ、

「人の道」を教えたことなど、彼にまつわる幾つかの話を、純な村人は語り

伝えているが、これらの話は、藤樹自身の人生観と完全に一致するものだ。

                   Photo_4

  次に引用するのは「徳を積むこと」について、彼の述べたところである。
 

  人はみな、悪い評判を立てられることを嫌い、良い評判が聞こえること 

好む者である。  

  そして、小さな善行は、積り積もらぬかぎり、評判とはならぬから、凡人 

は、これを心に留めないが、”君子”は、日々行なわねばならぬ小さな善 

行を決して、おろそかにしない。  

  君子とても、大きな善行に直面する場合には、これを行なうが、ただ、 

それを探し求めようとしないだけである。  

  大きな善行をする機会は少ないのに反し、小さな善行を積む機会は 

多い。 

  そして、前者は、人の評判となり、後者は“徳”を積むに至る。世の人が 

大きな善行を探し求めるのは、評判を立てられることを好むからだ。  

  しかしながら、評判のためにするのでは、たとえ大きな善行であっても、 

小さなものとなり終わる。  

”君子”とは、小さな善行を積み重ねて徳を建てる人

のことである。まことに徳より、偉大な行為はない。

  徳は、あらゆる大きな善行の源である。


  彼の教え方には、一つの著しい特徴があった。彼は、生徒の徳と人格
 

とに非常に重きを置き、文学と知識の習得とを、極めて軽く見たのである。 

  真の学者とはいかなる者であるかについての彼の考えは、次の通りで 

あった。 

 

  「学者」とは、徳に対して与えられる名であって、学芸に対して与えられ  

る名ではない。 

  文学は学芸であるから、生まれながら文才に恵まれた人が文学者にな  

るのは、難しいことではない。  

  しかしながら、いくら文学に精通していても、徳がない人は、学者ではな  

い。それは、文学を解する凡人である。   

  これに反し、たとえ無学でも、徳のある人は、凡人ではない。それは、  

文学ぬきの学者である。                


  こうして藤樹が、彼の身近な小さな社会以外には名を知られることもな

い静かな生活を数年も送っていた頃、ついに、「摂理」は、彼を引き出して、

無名の彼を世の中へ知らせたのである。 

  ある一人の青年が、岡山を立って旅に出たことから、この物語は始ま

る。

 

 その青年は、彼の“先生”として仰ぐ聖人を、この国の中に探し求めて、

故郷を後にしたのである。 

  しかしながら、単身、探索の旅に出たこの青年が、かつてユダヤ人の

王を求めて旅立った東方の老博士たち以上に明らかな目標を持ってい

たわけではない。

 

  彼は、岡山から東の方、首都を指して道を急いだ。首都には、大名や

名士も住めば聖人も住むと、彼が考えたのは無理もないことである。 

  彼は、ついに近江まで来て、そこの、田舎宿に一泊した。薄い仕切り

壁で隔てられた隣室から、二人の旅人の話声が聞こえる。 

  近づきになったばかりらしいこの二人の交わす会話は、青年の注意

を引いた。 

 二人のうちの一人は武士で、彼は自分の経験を、こんなふうに話して

いた。



  私は、主君のお使いで都に上りましたが、国へ帰るに際し、数百両の

金を持ち帰ることを命じられました。 

  私は、その金を肌身離さず持っていたのですが、どうしたわけか、この

村に着く日に限って、いつもの習慣を違え、その日の午後雇った馬の鞍に、

金のはいった財布を結び付けたのです。

 

  そして宿に着くと、鞍に付けた宝のことをすっかり忘れ、”馬子”と共に

馬を帰してしまい、しばらく経ってから、恐ろしい忘れ物をしたことに気付

きました。 

  その時の私が、どんな絶体絶命の場に立ったかを想像してください。 

“馬子”の名も知らぬ私に、どうして彼を探せましょう。 

  万一、探し出すことができたとしても、彼が金を使ってしまったあとでは

何もなりません。 

  私の失態は、申し開きの余地のないものです。主君に対して、おわび

をする道は、ただ一つしか残されていません(当時は、人の命が、それ

ほど貴重でなかった。)

 

  私は、遺書をしたためました。一通は、御家老に宛て、他は、親戚の

者たちに宛てて書いて、最後の瞬間に処する決心を固めたのです。 

  口に言い表わせぬ苦悩のうちに時は過ぎて、真夜中となった頃、誰か

が宿の表戸をたたく音が聞こえましたが、まもなく宿の人が来て、人夫

の男が私に会いたいと言っている旨を取り次ぎました。

 

  その男に会ってみて、私が仰天したことは、まさしくその男こそ、その日

の午後、私を運んだ馬の“馬子”であったからです。彼は、すぐに話しか

けました。 

  「お武家様、あなたは、馬の鞍に大切な物をお忘れになりましたね。 

  私は、家に帰ってから、それを見付け、あなたにお渡しするために、

引き返してまいりました。それは、ここにございます」。

 

  そう言いながら、彼は、財布を私の前に置きました。それを見て、私は

思わず喜びで有頂天になりましたが、ようやく気持を落ちつけて言いま

した、「君は、私の命の恩人です。どうか、この金の四分の一を受け取っ

てください。それは、私が生きることのできたお礼なのです。君は、私の

第二の父上ですよ」と。


                     Photo_6


  しかし、その人夫は、私の言葉に動かされる様子もなく、「そのような物を、

私がいただくいわれはありません。 

  その財布は、あなたのものですから、あなたが、それをお持ちになる

のは、当然すぎるほど当然なことです」と言いながら、前に置かれた金に

手を触れようともしません。

 

  そこで、私は、では十五両、次には五両、次には二両、おしまいには

一両でもいいから受け取ってくださいと頼みましたが、駄目でした。 

  ついに、彼は、こう言いました、「私は貧乏人ですから、わらじ代として、

四“文”(一銭の百分の四)ください。財布をお返しするために、家から

四里の道を歩き通して来ましたので」。

 

  そして、ようやくのことで彼に押し付けることのできたのは、わずか二

百文(二銭)でした。 

  彼が、いそいそとして立ち去ろうとしたとき、私は、彼を呼び止めて、

尋ねました、 

  「どうか教えてください、君をこんなにも無欲で、正直で、誠実な人間

にしたのは何なのですか。この年になるまで、私はこの世で、こんな正

直な人に会おうとは、夢にも思っていませんでした」。

      Photo

  「私の住む小川村に、中江藤樹 (*上の肖像画という方がおられまし

て」と、その貧しい 男は答えました。 

  「その方が、私ども村の者に、このようなことを教えてくださるのです。 

その方は、金もうけが人間の目的ではない、正直と、正義と、人の道とが

大切なのだ仰います。村の者はみな、この方のお言葉を聞き、その教

えの通りに歩んでいるのです」。  【つづく】

 

 

 

2013年3月22日 (金)

中江藤樹(4 )

   3.母親崇拝


  はじめ彼は、母親を自分の手もとに招いて、伊予の藩主に仕えようと

したが、それが難しくなったので、この上は、藩主のもとを去って、母のも

とへ帰ろうと決心した。

                       Photo_2

 

  しかし、この決定に行きつくまでには、心中の激しい戦いを戦わなけれ

ばならなかったのである。 

  彼は、藩主の家老に宛てて手紙を書き、一身上の事情に由り、藩公へ

の奉公よりも、母への孝養を選ぶに至った理由を記した。次は、その

一節である。



  この二つの勤めについて、深く考えましたが、主君は、給与を与えること

によって、私のような家臣を幾人でも、お招きになることができるに反し、 

私の母は、私という、つまらぬ者のほかに、頼る者のない身の上でござい

ます。



  彼の「三位一体」についての悩みは、このようにして解決したのである。

彼は、米や、家屋敷や、家具など、すでに相当の額にのぼっていた全財産

を置き去りにして、母の許へと旅立った。



  母のかたわらで暮らすようになって、彼は全く満足だったが、母を慰める

術とては何もなかった。 

  母の家へ着いたときの彼の所持金は、わずか百“文”(現在の通貨の

一“銭”。しかし、価値の上では、おそらく一円にあたるだろう)にすぎなか

ったという。

 

  彼は、その金で、わずかの酒を買い、それに少しの利を加えて、近隣の

村々を売り歩いた。 

  かつての学者で、また先生とも呼ばれたほどの人が、今や行商人と変わ

ったのも、すべては母のためである(*下の写真は、イメージ)

           Photo_3

  彼はまた、「武士の“魂”」である刀までを手放し、その代金の銀十枚を

村人に貸し付けた。 

  この貸し金からあがるわずかの利益に、行商に由る利益を加えたものが、

母子二人のささやかな生活を支える収入であった。

                          Photo_6
 

  藤樹先生は、これらの卑しい労働を、少しも恥とは感じなかった。母の

笑顔の中に、彼の天国はあった。 

  その笑顔を一たび見るためには、何を代償としても惜しまなかったので

ある。



  このような、低い卑しい生活状態が二年間、続いた。彼の書いたもの

から想像すると、これは、彼の生涯のうちで最も幸福な時間であったらしい。

  母を離れては、夜もよく眠ることができず、「夢の中にも母を思って、寝返

りを打つこと幾たびか」であったという。

  なぜならば、彼の道徳体系はすべて、親に対する義務≪孝≫われ

われはそれを、孝行と呼ぶ)を中心として組み立てられており、この中心

的義務を怠ることは、彼にとっては、すべてを怠ることであったから、母への

孝養に至らぬところがありはせぬかと、不安に堪えなかったのである。

                         Photo_4

  われわれがすでに知る通り、彼の生涯の目的は、聖人すなわち完全な

人間となることであった。

  彼の目から見れば、聖人になることは、学者や哲学者となるよりも偉大な

ことと思われた(*下の写真は、史跡藤樹書院跡)

           Photo_5

  だが、ここに、藤樹の学者としての力量もまた必要とされる時が来た。

彼は、ついに説き伏せられて、その学問を世の人々に伝えるようになるの

である。 【つづく】

2013年3月21日 (木)

中江藤樹(3 )

    2.初期の時代と、自覚の発生 

 

  西暦一六○八年といえば、関ヶ原の合戦(*下の絵)からわずか八年の

後、大阪城落城に先んずる七年という戦国の世であって、男の主な仕事は

戦うことであり、女のそれは、泣くことであり、文学や学問は、学ぶ価値のな

いものだという考えが、まだ世間の実際家の間に行なわれていた頃である。


             Photo_5


  この年に、日本の生んだ最も徳の高い、最も進歩的な思想家の一人が、

近江の国に生まれた。そこは琵琶湖(*下の写真)の西岸で、近くにそび

える比良の峰が、その円い頂きを、鏡のような眼下の湖に映す所である。

          Photo

  しかし、彼は幼いころ、近江の父の家から遠く四国の祖父母のもとに送ら

れ、主として彼らに育てられた。

                     Photo_2

  彼は幼いころから、その年に似ぬ、また武芸を仕込まれる武士の子にし

ては珍しい敏感さを示した。 

  すでに十一歳のとき、孔子の『大学』の一部を読んで、その後の全生涯を

決定する大望を抱いたほどである。その中には、次のように書かれてあっ

た。

 

  ”天子をはじめ、庶民に至るまで、人間の主たる目的は、その生活を正し

く整えることにある。”  

    このような本が、ここにあるとは!   ああ天に感謝します、 

と言い、さらに次のように叫んだ。 

    私自身とても、怠らず務めたならば、聖人になれないことがあろうか! 

  彼は泣いた。このときの感動は 、一 生涯、彼の心から消えなかった。 

「聖人になる」 ― これはまた何という大望であろう!



  この少年はしかし、祈りや内省にのみ明け暮れる、甘受性過多の柔弱者

ではなかった。 

  あるとき、暴徒の群れが祖父の家を襲ったが、そのとき、彼は、刀をふる

って真っ先に賊の真ん中へ飛び込み、見事に賊を退散させた。しかも、

その後は、「平然として以前の通り」であったという。わずかに十三歳の時

のことであった。

  同じころ、彼は、天粱(てんりょう)という、学識ゆたかな仏教の僧侶のも

とへ 、作詩と習字とを学ぶために通わせられた。

 

  この早熟な少年は、その師に向かって多くの質問を発したが、次の質問は、

特に彼の人と成りをよく表わしている。 

  先生のお言葉によれば―仏陀は生まれたとき、片方の手で天を指さし、

もう一方の手で地を指さして、「天上天下唯我独尊(*下の写真)と言わ

れたということですが、仏陀は、天が下で最も高慢な人間ではありませんか。 

  それにもかかわらず、尊敬する先生が佛陀を理想としておられるのは、

そもそもどういうわけでございますか?

                    Photo

   そして少年は、その後も決して仏教を好きになれなかった。少年の理想

は、完全な謙遜であったのに対し、仏陀は、そういう人ではなかったからで

ある。 

  十七歳のとき、彼は孔子の『四書』下の写真)の完全な一揃いを手に

入れることができた。(このことは、当時の書籍の欠乏のさまを示すもので

ある)。

           Photo_3


  これ以来、彼の勉学欲はさらに高まり、今は自分のものとなったこの貴重

な書庫から、知識を吸収するために、余暇のすべてを捧げたのであった。 

  しかしながら、武士の主な仕事は戦うことであり、読書などは、僧侶か世捨

て人にのみ、ふさわしい仕事として、さげすまれていた当時のことであるか

ら、若き藤樹の勉学も、隠れて行なうほかはなかった。 

  それゆえ、昼間の時間はすべて武芸のために費やし、夜だけ読書に没頭

したのである。しかし、秘密がいつまでも現われずにいるわけはない。

 

  あるとき、同僚の一人が、彼を「孔子さん」と呼んだ。これは、彼が夜ごとに

読書に没頭することと、当時の粗野で好戦的な若者とは違う、彼の温和な

性質とを、嘲ったものであることは確かだ。

 

  「君は、なんと無学な人なのか!」 

  さすが温厚な若者も、怒りに声を荒ららげた。 

  「孔子は二千年も前に亡くなられたお方だ。その聖人のお名前を、あだ名

扱いする君は、聖人を冒涜するのか! 

  それとも、私が学問を好むのを、あざ笑うのか? あわれなやつ! 

戦争ばかりが武士の勤めではないぞ。 

  平和の時の仕事もまた、武士の励むべきものだ。無学の武士は人間では

ない。物質だ。奴隷だ。君は、奴隷であることに甘んじるのか?」

           Photo_4
 

  藤樹の一喝は効き目があった。その同僚は自分の無学を認め、その後

全く、おとなしくなったのである。

  彼、今や二十二歳となって、彼を、はぐくんでくれた祖父母はすでに世を

去り、近ごろ、父をも失った。父と共に暮らした月日は、ほんのわずかなも

のだった。

  残るは母一人。重なる不幸に、彼は、一層、感じやすく、涙もろく、情ぶか

い人となり、彼の思いは今はひとすじに、近江に残した母親に向けられる。

  当時の彼は、その学識と、その潔白な人格とのゆえに、日々、名声を高め

つつあり、前途には栄誉と高給とが待ち受けていたが、彼にとっては、全世

界よりも、ただ一人の女性―彼の母の方が大切であった。この時以来、母は、

息子の心尽くしを一身に集めるようになるのである。  【つづく】

 

 

 

2013年3月19日 (火)

中江藤樹(2 )

  このような次第ですから、教師と生徒との間柄も、この上なく密接でした。 

われわれは、教師を、あの近づきがたい教授という名では決して呼ばず、

“先生”呼びました。

 

  先生とは、「先に生まれた人」という意味ですが、それは必ずしも、この

世に現われた時期が早かったというばかりでなく、(教師が年下の場合も

ありますから)、真理を悟るに至った時期も、生徒たちより早かったことを

意味するのです。

                        Photo
  こうしたわけですから、われわれは、先生に対して、両親や藩主に対す

ると同様の、最高の尊敬を捧げねばなりませんでした。 

  まことに“先生”と、両親と、“君“(藩主)こそは、われわれが敬虔の念を

もって仰ぐ三位一体であったのです。

 

  そして、この三者が同時に水におぼれようとしており、しかも自分には

ただ一人を救う力しかないときに、三者のうちの誰を救ったらよいかとい

ことは、日本の青年を最も悩ませた問題でありました。 

  それゆえ“先生”のために命を捨てることは、“弟子”たる者の最高の

と考えられていたのです。 

  近代教育“制度”のもとでは、教授のために死んだ学生の話など、聞い

たこともありません。



  先生と弟子との間柄に関し、このような考え方をしていたればこそ、

キリスト教の聖書の中に、主とその弟子たちとの密接な関係を読んで、

直ちにそれを理解し得た者が、われわれの中にいたのです。

 

   弟子は師にまさらず、しもべは主にまさらぬこと、良き羊飼い(*下の

絵)は、羊のために命をも惜しまぬこと、その他、これに類した言葉を聖

書の中に見出したとき、われわれは、それを、自分たちが、ずっと昔から

知っていた真理として、すんなりと受け入れました。

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  これに対して、師を教授、弟子を学生としか考えぬ西洋のクリスチャン

は、われわれに伝道するために持参した聖書の中の、このような教訓を、

そもそも、いかにして理解することができたのかと、いぶかったものです。

                        Photo_2
                  
                   Photo_3


〔それですから、旧日本の教育制度は、少なくともこの点において、 

キリスト教的なものであったと信ぜざるを得ません。  

  それに反し、近代の教育制度は、その悪魔学や批評哲学等の講義と 

いい、その日曜学校といい、強制的な教会通いといい、総じて、“非”キ

スト教的な、時には“反”キリスト教的な要素を”備えた”ものだと断じ

ます。  

  このように、物事の真相を突き詰めて行くと、後のものが先になること

あれば、また”その反対”の場合もあるのです。〕



  もちろん、われわれは、すべての点において、古いものが新しいもの

勝っていたと主張するのではありません。

 

〔先にも述べたように、古い教育には、現在のような、悪魔学や、かぶと 

むし学の講義はありませんでした。 

  しかし、人類と自然とに関係のあるものは、すべて知る価値があります。  

そして、博士の学位を望む者があふれている一方、教授の俸給が非常 

に高くなっている現在では、残された道は一つしかありません。  

  すなわち、オーストラリアの牧羊制度を採用して、学生をクラス別に分 

け、“集団的”授業を行なうことです。 

  われわれは、必要に迫られて、この手段を執ったのであり、これ以外に 

執るべき道はありません。〕


                  Photo_5

  しかしながら、古いもののすべてが悪いのではなく、また新しいもの

すべてが良くて完全ではないと、われわれは言いたいのです。 

  新しいものにも、なお大いに改善の余地があり、古いものもまた復活

すべきです。

 

   今のところはまだ、古いものはことごとく捨て去り、新しいものにはす

て心服せよと、勧める時期ではありますまい。 

  以上のように、われわれは自分の所信を表明し、今もなお、それを続

ている。だが、それに対して、西洋人の盛んな拍手は得られなかった。

 

  日本人は、自分たちが思ったほど、御しやすい従順な民ではないよう

だと、西洋人は気づいたのである。 

  私はここに、われわれの「強情」と、「受容性のなさ」と、「排外主義」と

を、さらに維持するために、われらの理想の学校教師(先生)の一人の

生涯を記そうと思う。 

  これによって、日本の青年の教育に心からの関心を寄せている西欧

良き友人たちに、一、二の手掛かりを与えようと思うからである。

  【つづく】                            
                        

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2013年3月18日 (月)

中江藤樹(1 )

  中江藤樹―村の教師



    1.旧日本の教育


 
 われわれ西洋人が、君たちを救いに行く前、日本の学校教育は、どんな 

形のものだったのですか。君たち日本人は、異教徒の中では、最も賢い 

国民であるように思われる。  

  何らかの道徳的、知的な訓練を受けたればこそ、君たちは、過去におい 

て、また現在において、これほどに成り得たのだと、われわれは信じるの 

ですがね。  

  故国を離れて、初めて西洋人の間に立ち交じった日本人に対し、文化的  

な西洋人は、往々、こんな調子の質問を発する。これに対するわれわれの  

答えは、ほぼ次のようなものだ。 

 

   そうです。われわれは学校教育を受けました。それも相当なものです。 

われわれがまだ母のひざの上にいた頃、われわれは少なくとも、十戒の

内の八つまでを、父の口から学んだと信じます。 (*下の写真は、会津藩

の藩校・日新館の正門)

          Photo

  すなわち、力は正義では”ない”こと、宇宙は利己主義の上に立つもので

”ない”こと、いかなる形を取ろうとも、盗みは正しく”ない”こと、生命と

財産とは、われわれ究極の目的とすべきものでは”ない”こと、その他多

くの事どもです(*下は、日新館の「什の掟」)

                     Photo_2

  われわれには学校もあり先生もいましたが、それは、あなた方、偉大な

欧米人の間で見られるもの、また、今やわが国でも、それをまねしている

ものとは全く違うものであります。 

  第一、学校が知的な年季奉公をする所だなどとは、われわれは考えた

こともありません。 

  われわれが学校にやらされたのは、卒業の後に生活費をかせぎ出すと

いうよりは、むしろ”真の人間”われわれの言葉で言えば〝君子”になる

ためでありました。 

  君子とは、英語のジェントルマンに似かよったものです。

 

  また、われわれの学校では、一ダースもの違った学科を、同時に教える

ということもありませんでした。 

  昔も今も、人間の脳髄は、一ダースどころか、わずか二葉しかないと決ま

っていますから、昔の教師は、数年の短期間に、あらゆる種類の知識を詰

め込んではならぬと考えていたのです( 賢い考えだと、われわれは思いま

す)。(*下は、寺子屋)

                 Photo_3

  〔それゆえ、われわれの学校には、悪魔学、天使学、蛙(かえる)学、かぶ

とむし学などを専門にするような教授はいませんでいた。 

                      Photo_4   

            Kabutomusi

  いなごの研究に二十五年間も費やしたと自慢したあとで、しかし、自分は、

いなごについて、実は何も知っていないのだと、人知に限りのあることを、

さも悲しげに告白するような者はいなかったのです。 

  また、生徒にだって、かぶとむしや、かえるや、悪魔学等の専門家に育て

られようと思う者は一人もいませんでした。〕



  これは、旧日本の教育制度のすぐれた特徴であります。われわれは主と

して、歴史、詩歌、作法を学びましたが、しかし、最も力をこめられたのは

道徳であり、それも、実践的な性質のものでありました。 

  純理論的、神知学的、神学的な道徳を、われわれの学校で強いられたこ

とはありません。 

〔例えば、天の中心にあって日輪を支える人や、人語を語る驢馬(ろば)の

ことなどで、われわれは決して頭を悩ましませんでした。〕

 

  わが国の仏教学者が、山中の幽居で、実在しない動物である亀甲の毛

の数その他、取るに足りない事などを論じていたのは事実ですが、しかし、

われわれのように、下界に住んで、人間世界の実際問題に携わらなけれ

ばならぬ者は、このような問題を一々、気にかけなくてもよかったのです。 

  要するに、われわれの学校では、神学を教えませんでした。 

神学を学びたい者は、寺(教会)へ行くことになっていましたから、他の国

々のように、宗教上の論争が学校で行われるなどということはありませ

でした。 これもまた、旧日本の教育のすぐれた面であります。



  次に、われわれは、クラス別に学ぶこともありませんでした。魂を持った

人間を、オーストラリアの農場の羊よろしく、クラス分けにする制度は、旧

日本の学校にはなかったのです。

                Photo_5

  われわれの教師は、人間とは分類できない者であり、誰しもが個人として、

すなわち、顔と顔、魂と魂とをつき合わせるようにして扱われねばならぬ者

あることを、本能的に知っていたと、私は思うのです。

  それゆえ、教師たちは、生徒一人一人を対象に、それぞれの肉体的、

知能的、精神的特性に応じた教え方をしました。

  “教師が、一人一人の生徒の名前を知っていたことはもちろんです。”

こうしたやり方でしたから、驢馬と馬とが一つの馬具に繋がれるようなこと

は決してなく、驢馬は、打ちのめされて、愚か者扱いされ、馬は、卒業生

総代の墓*に追い込まれるような危険は、極めて少なかったのです。

(*大学の卒業生代表として、卒業式で告別演説をする名誉をになった

  優秀な学生が、そのために身を誤ることを指す。)

  適者生存の原理に基づく当世流の教育制度は、人類愛にあふれた、

寛容な君子(紳士)を作るのには不適当なものと考えられていました。

  それゆえ、この点で、旧日本の教育者は、ソクラテスやプラトン(*下の

肖像画:上、ソクラテス、下、プラトン)の教育論と一致した考え方をして

いたわけです。 【つづく 】
              Photo_6

               Photo_7

 

 

2013年3月16日 (土)

「TPP参加は、国家百年の計」?

 「TPP参加は、国家百年の計」?


  安倍総理は、15日(金)の記者会見で、「TPPへの

参加」を表明した。 

  そこで、安倍氏は、「(TPPへの)参加は、国家百年

の計と信じる」と述べた。

 

  しかし、この場合の「国家百年の計」とは、いったい

如何なる意味であろうか? 

 言った本人も、その意味が、本当に分かっているの

だろうか?

 

  正直、真の知性も人間的な深みも信頼性すら、ほと

んど感じられないニセモノ総理に、「百年の計」などと

いう大層な言葉など使ってほしくない。

 

  それを言うなら、「百年の計」などではなくて、むしろ

アメリカの国際金融資本家(別名、国際金融マフィア)

から科される、日本国民に対する「百年の刑」(!)なの

ではあるまいか。

 

  かつて、菅直人氏が総理時代、「TPP参加を、第3の

開国」と述べた。

  だが、この言葉も、日本の歴史を全く知らない愚か者

の戯言だった。それを言うなら、同じカイコクでも、 

開国ではなく、むしろ「壊国」である。

 

  また、それを推進する政治家は、単なる売国奴に過ぎ

ない。しかし、今回の安倍氏の言にも、かつての菅氏に

酷似した本質的な無知と軽佻浮薄さ、それに何よりも、 

徹底した“売国”を感じる。 

 

  ところで、古代、「トロイの木馬」で、トロイは、滅んだ。

これは、単なる神話ではなく、歴史家シュリーマンが発

掘、発見した歴史的な事実である。

 

  今、日本は、TPPへの参加で、亡国の危機に瀕して

いる。心ある人々が感じているごとく、TPPは、日本を

滅ぼす「トロイの木馬」である。

  TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)は無論、テレ

ビなどで強調されるような、単なる自由貿易協定など

ではない。

 

  それは、先ず、ASEAN+3(中国、日本、韓国)に

対する牽制である。 

  だが、何よりも、それは、「アメリカ(とりわけ、国際金

融資本)」による、日本に対する全面的な“市場開放要

求”と、それに伴う国富の簒奪、あるいは剥奪である。

 

  巷間、心ある人々の間で語られているように、TPP

の持つ破壊力は、日本の農業を破壊するだけにとどま

らない。これに参加すれば、24分野における規制の 

撤廃や制度変更が強制されることになる。

 

  端的に言えば、国際金融マフィアたちによる飽くなき

利益追求が、各国の主権や国益、それに法体系、条例、

慣習などよりも、常に優先される。

  むしろ、彼らは、限りなき欲望と、その際限のない

暴力性によって、後者の全面な改変を迫ること

なろう。



  そこでは、今まで、主要な農産物に課された関税が、

なし崩し的に撤廃され、コメを始め、多くの安い農産物

輸入されることで、日本の農家が、壊滅的な打撃を

受ける。 

  無論、その結果が、国内の食糧自給率にも、著しい

悪影響を与える。

 

  そればかりか、農協、漁協、各種共済組合などの共済

制度が撤廃を余儀なくされ、苛酷な市場原理に組み込

まれる。これは、アメリカの保険会社が日本での業務を 

拡大させるための重要な戦略である。

 

  これに関連して、郵貯・かんぽの350兆円やJA共済の

310兆円といった国民資産の収奪が計画されている。

  それに、農薬の使用規制、残留農薬規制などの撤廃、

加えて遺伝子組換え食品の無提示などが要求され、

日本国民の健康と安心・安全が犠牲にされる。

 

  また、自動車の排ガス規制でも、アメリカ自動車産業

界の利益が優先され、国民に不利な規制緩和が強要

されることとなる。

  さらには、医療に混合診療が持ち込まれ、貧乏な人々

は、充分な医療を受けられなくなり、日本が世界に誇る

国民皆保険制度が崩壊させられる。

 

  そればかりか、アメリカの会計、税務、法務関連の事

業者に、日本での活動を認めざるをえなくなり、日本の

関連事業者が、多大の悪影響を受けることになる。 

  端的には、日本がアメリカ並みの、苛烈な〝訴訟社会”

に変貌することにもつながる。

 

 加えて、ISD条項やラチェット規定などを通じて、アメ

リカの国際金融資本(=NWO・ニュー・ワールド・オー

ダーの推進者)本位での日本の国富簒奪が各所で見ら

れ、日本の弱体化や植民地化が、益々現実のものとな

る。 

 

  まさに、心ある愛国的な識者や一般市民が訴えるごと

く、TPPは、“完全な罠”であり、かつての『年次改革要

望書』の完成である。 

  また、植草氏の言われる「現代版マッハッタン計画に

おける核爆弾級の経済兵器」なのである。

 

  これに易々と与(くみ)する政党や政治家、それにマス

コミ関係者は、まさに売国奴以外の何者でもない。

  言うなれば、安倍氏が「TPP参加を表明」した3月15日

は、今まで、日本国民が営々として築いてきた国富や国

益、伝統、それに文化や「徳」を破壊する“鍵”を、悪辣な 

国際金融マフィアに易々と手渡した、日本史上最大の

「国辱の日」になったと思うのだ。  【了】

 

 

 

 



 

2013年3月15日 (金)

二宮尊徳(完)

  かの偉大なるフランスの技術者レセップス(*下の肖像画)に、日本の

農聖人の道徳的先見の何分の一でもあったならば、その結果はどうで

あったろう。

                     Photo


  そして、事業そのものに六億ドルもの大金を、つぎ込む代わりに、その

一部を人間の霊魂に投資して「仁術」を施す資としたならば、どうであっ

たろう。

 

  もし、この事が行なわれていたら、レセップスは、その白髪の上に、

まさしく“二つ”の運河(*スエズ、パナマ両運河の建設に関わった)

王冠を戴いたことであろう。 

  そして、一方の恥ずべき失敗によって、他方の輝かしい成功までが光

を失うようなことはなかったであろう。 

  金銭は多くのことをなすことができるが、徳は、それ以上だ。運河の工

事計画を建てるにあたり“道徳的要素”を考えに入れる人は、究極に

おいて、最も非現実的な人ではないのである。



  尊徳が、その生涯の中で、実際に完遂した事業は、それほど広い

地域にわたるものではなかった。 

  しかし、当時は階級の差別がきびしく、また彼の社会的地位が低かっ

たことを考えれば、これは実に素晴らしいことである。

 

  彼の業績の中でも、特筆すべきは、現在の磐城地方(*今日のいわき市

周辺か)に当たる相馬藩の復興であった。 

 ここには二百三十の村があって、本来、相当な地方(*「いなか」の意か)

あった。 

  現在では、国中でも、最も富み、また繁栄している地域の一つである。 

事業の規模が大きかろうと、小さかろうと、彼がそれに取り組むときの

やり方は、きわめて簡単であった。

 

  彼はまず、その中から、代表的な村―多くは、その地方で最も貧しい村

―を選び、そこに全精力を集中し、ひたむきな努力をもって、その村を

自分の方針通りに改める。事業の前後を通じて、最も困難なのは、おお

むね、この部分である(*下の写真は、イメージ)

                      Photo_2

                     Photo_3


  彼は、こうして最初に救われた村を基地として、この地方全体の改革

に取り掛かるのであった。

  すなわち、彼によって救われた農民の間に、彼は一種の伝道精神とも

言うべきものを吹き込み、彼ら自身が尊徳によって救われたように、彼ら

もまた、近隣の村々を助けるよう、要請したのである。

  現に目の前に、驚くべき実例を示され、新しい感化のもとに動く人々の

惜しみない助力を得て、その地方全体がまた、同じ方法で救われようと

志すに至る―このように簡単な伝播の方式によって、改革は完成したの

である。

                Photo_4

  教えを求めて来る人々に向かって、彼はつねに、こう言っていた。

  一村を救い得る方法は、同時に、全国を救い得る方法です。原則は全

く同じです、と。

また、日光地方の荒廃した数村の復興案を作っていたとき、弟子たちに

言った言葉は、

  一同で、真心をこめて、この仕事の一部を受け持とうではないか。われ

われのした事を手本として、いつの日か、この日本国全体が救われる

かも知れないのだから、

というものであった。

  この人は、宇宙を貫く永遠の法則を体得しているという自覚を持っていた。

そして彼は、どんなむずかしい仕事をも、むずかしいと感じない一方で、

どんなにやさしい仕事にも、全心全霊を打ち込んで、献身的に当たったの

である。

  当然のことながら、彼は死の間際まで、たゆまず働いた。

〔彼は、安政三年(一八五六年)十月十日に死んだ。〕(*下の写真は、

彼のお墓)

           Photo_5

  その生涯の間、遠い将来をも見越して計画し、また働いた彼の事業と

感化とは、今なお、われらの間に生きている。

  彼自身の手によって復興した村々の繁栄のさまは、彼の知恵と、彼の

計画の永久性とを証明するものにほかならない。

  また、彼の名と教えとによって結ばれた農民の団体は、今なお日本帝

国の各所に散在して、失意の勤労者たちの心に彼が吹き入れた精神の

火を、永久に伝えている。

  〔そして、これらの農民より、いくらか知識程度の高い(?)階級に属する 

われわれにとっても、尊徳の教えは、同じ福音ではあるまいか?

  彼は、自分自身の行為を通して、次のようなことを、われわれに教えた。 

すなわち「自然」は人類の最上の友であること、人類が誠意を持って当 

たれば、「宇宙」さえ、彼の味方となって、彼を助けること、鋤一本によって、

彼は地上の王ともなり“得る”こと「徳」は「富」よりも大きな力を持つこと

「仁術」によってのみ、大偉業は遂行され得ることである。



  彼こそは、まさに「人類の教師」の名に値する人ではあるまいか?

このような教えが守られ、実行されるかぎり、日本の農業は安泰であり、

ひいては日本国全体も安泰である。

  日本国に、かつてこのような教訓が与えられて今に至っていることを、 

「天」に感謝しよう。 

  「無数の家庭を救おうと思う者は、まず自分自身の家庭を犠牲にせねば 

ならぬ」という。「他人を救ったが、自分自身を救うことができな」かった 

「彼(=十字架上のイエス・キリスト)」の精神と、尊徳の精神とは、等しい 

ものではあるまいか。〕  【了】

                        Photo_6

2013年3月14日 (木)

二宮尊徳(9 )

  尊徳は、右(あるいは、上)のような皮肉を、まじめに語りはしたものの、

それが実行に移されようとは考えてもいない。難民の救助は、彼一流の

簡明さで遂行された。

 

  すなわち、彼の行なうすべての事業に通じる特徴―敏速、勤勉、苦しむ

人々への強い同情「自然」と、その恵み深い法則とに対する”信頼”

裏打ちされた救済法である。 

  苦しむ農民に対しては、穀物と金銭とを貸し付け、その返済は五年以

内に、穀物をもって分割払いすればよいことにした。

 

  この方法によって、四万三百九十人の難民が救われたが、彼らはこの

約束を、忠実に、喜んで守り、契約期間の終わりまでに、負債を返還せぬ

者は一人もいなかったという! 

                      Photo_4

  この事実こそは、救助された純真な農民と、彼らを信じて、この救助を

提供した当局者、その雙方の名誉のために、特筆大書すべきことでは

あるまいか!



  「自然」と繋がれている者は、急がないし、また現在のためにのみ事業

を計画しない。 

 言わば「自然」の流れの中に身を置いて「自然」を助け、また強め、

それによって、彼もまた助けられ、前進させられるのだ。

 

  宇宙を後盾とする彼は、事業の大きさに驚かない。尊徳はつねに、こう

言っていた

  ”すべて”の物事には、自然の道筋が備わっている。 

  それゆえ、われわれは、自然の道を探り出し、それに自分を順応させて

行かねばならぬ。そうすることによって、われわれは、山を平らにし、海を

乾(ほ)し、この大地そのものを、われらの目的のために役立たせることが

できる。



  あるとき、彼は、利根川下流の大きな沼沢地の干拓につき、仕方書を

提出するよう、幕府から命ぜられた。 

  このような大事業が完成したとするならば、それは三つの大目的が叶え

られることであって、公衆の受ける利益は測り知れない。
                     
                  
 Photo_5

 
   まず第一は、浅く、かつ毒気の立ち上る沼沢地が、何千エーカーという

肥えた土地に生まれ変わることであり、 

  第二は、洪水の際、あふれた水を放流させて、この地域の年ごとに蒙る

損害を、大幅に除くことであり、 

  第三は、利根川と江戸湾との間に、新しく、短い水路を開くことである。

          Photo_10

  切り開くべき距離は、沼沢地と江戸湾との間の十マイル(=16km)と、

沼沢地の主要部分である二つの沼を繋ぐ五マイル、合計十五マイルで

あって、泥土の丘と砂地とを掘り割る仕事であった。 

  この試みは、これまでにも、一再ならず、なされたが、とうてい不可能な

事として、見捨てられていたものだ。

 

  しかし、この事業はなお、これを完成にまで運ぶことのできる、ある傑出

した頭脳の持ち主―日本のレセップスを待ち受けていたのである。

  この巨大な事業に対する尊徳の報告書は、やや、謎めいているが、

しかしそれは、同様の大工事の失敗に終わる急所を突いていた。 

  できるとも言えるし、できないとも言えますと、その報告書は言う。

                       Photo_7

  自然な、また、唯一の可能な水路を選び、それに従って行くならば、成功

しましょう。 

 だが、総じて、人間の性として、このような水路に従うことを好みませぬ

ゆえに、その場合は、成功せぬものと思います。 

  私は、運河の掘られる地方の道徳的腐敗の状況を知っておりますが、

”これこそ”は、まず第一に「仁術」をもって正さねばならぬことであって、 

仕事に着手する前の必要欠くべからざる準備は、これであります。 

  このような民を工事に動員して、金銭を与えても、それは、彼らの間の

悪習を募らせるばかりであって、彼らによって遂げられる仕事の量は、

微々たるものに違いありません。

  私の観察したところによれば、この事業は、金銭をもってしても、強制

をもってしても、成功の見込みの薄いもののように思われます。 

  強い報恩の念に動かされた人々が一致団結してのみ、初めてこれを

完成させることができます。 

  それゆえ、政府は、住民に「仁術」を施し、寡婦を慰め、孤児を保護し、

現在の敗徳(=背徳)の民を徳行の人となさねばなりません。 

  ひとたび彼らの内なる誠実を呼び覚ますことができたならば、山をくずし

岩を砕くことも心のままでありましょう。 

  この方法は、廻り遠いように見えますが、最も速い、最も効果の挙がる

方法であります。 

  植物の花や実は、すべてその根の中に隠されているではありませんか? 

道徳が第一であって、次が事業であります。事業を道徳の前に置いては

なりませぬ。

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  今日の読者諸氏は、このような夢想的な計画を受け付けなかった当時

の政府に共感されるかも知れない。 

  しかし、「パナマ疑獄事件」を目前に見て、この巨大な事業の失敗の原因

が主として道徳的なものであったことを見落とす人があるであろうか? 

  あれは、決して財政上から失敗したものではなかった。コロンとパナマ

との両市を盗人の巣窟と化し去った黄金は、今もなお、ちり、あくたのよう

に、むなしく、かの地に埋もれている。 

                   Photo

                    Photo_2
                     

  そして、二つの大洋の間の距離は、この地峡の土を、最初のシャベル

すくい取ったときに比べて、実際上、少しも縮まってはいないのである。 

  (*今では、アメリカの黄金により、われらの予言に“反して”運河は開通

した。黄金主義の力は大なるかな!)  【つづく】

2013年3月12日 (火)

二宮尊徳(8 )

  5.広範囲な公共事業



 
  尊徳の信念により、下野国の荒廃した三村の復興が実現し、それに

よって彼の名声が確立すると、彼は、日本中の大名に絶えず煩わされ

る身となった。 

  押しかける訪問者を、彼は例のぶっきらぼうな応対法で撃退したが、

しかし、彼の「信念のテスト」に堪えた者も少なくはなく、これらの人々は、

彼の賢明な助言と、実際的な援助との恩恵を、余すところなく受けること

ができた。

 

   荒廃した広い国土の改良のために、彼の助けを求めた大名の数は

十指にも余り、同じ恩恵を受けた村々の数は数えることもできない。 

  晩年近くになると、日本国に対する彼の貢献は計り知れぬほどのもの

となり、彼は幕府にまで登用された。

 

  しかし、彼の使命は、もともと家庭的な性質を帯びた素朴なものだった

から、彼は、要人階級の公約、社会的な慣例から逃れて、自分と同じく

貧しい労働者階級の中に身を置くとき、その最高の能力を発揮すること

ができた。 

  それにつけても驚くべきは、素性も卑しく教養も乏しい一介の農夫、

尊徳が、「高位の人々」の間に交わって、「真の貴族」のようにふるまい

得たことである。

 

  大名たちの中でも、彼の援助を最も多く受けたのが、彼自身の藩主、

小田原公であったことは言うまでもない。 

  小田原城(*下の写真)に属する広い領地は、彼の管理の下に置か

れ、その中にある多くの荒廃地が、彼のたゆまぬ勤勉と、尽きせぬ

「仁術」とによって復興した。

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  ことに一八三六年の大飢饉(=天保の大飢饉:下の絵は、その紙芝居)

は、彼が同藩の人のために最も目覚ましい働きをした一つである。 

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  まさに餓死しようとしている数千の民を急ぎ救済することを、小田原

公(当時、江戸在住)から委任された尊徳は、当時、まる二日の道程

であった小田原へ急行して、餓民を急ぎ救うため、城の穀倉を開く鍵を

渡されたいと、その筋の役人に申し出た。

 

  「殿のお許しの書面を見るまでは、なりませぬ」 

と言うのが、役人たちの侮ったような答え。 

「それならば、よろしゅうございます。しかし皆様方、殿様のお許し状が 

届くまでの間には、なお多くの領民が餓死するでありましょう。 

  その民を守る役目にある私どもは、民と同じように食を断ち、御使者が 

帰られるのを、この城内の一室で、断食しながら待つべきであると信じ  

ます。そうすれば、私どもも、民の苦しみの幾分かを察することができま 

しょう」

  四日間の断食とは、考えただけでも恐ろしい。役人たちはすぐさま、

穀倉の鍵を尊徳に渡した。そして、救済は直ちに実施されたのである。

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  願わくは、いかなる時代の、”いかなる国”の為政者も、ひとたび民が

飢えに瀕した場合には、この道徳家の、この時の申し出を思い起こされ

んことを!

  苦しむ民に救いをもたらす前に、無用の形式を踏まねばならぬが

官僚主義であるにもせよ―。

 

  「飢えた民を救う手段のない時の、救済の方法はいかにすべきや」

題して、尊徳が、有名な講話を行なったのは、この時であった。 

  聴衆の筆頭は、藩主によって領主の執政官に任命されている家老で

ある。 

  この時の講話は、尊徳の特徴をよく現わすものであるから、ここに

その一部を引用してみよう。

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 国土は飢え、穀倉はむなしく、民の食すべきものは

一物(いちもつ)もない―

 れは、為政者の罪でなくして何でありましょう!

  為政者は、“天民”を 委ねられている者ではありませんか? 
 
  この天民を、悪から遠ざけて、善に導き、彼らに平和を与えるのが、
 

その使命ではありませんか?  

  この役目を遂げるためにこそ、殿から高給を賜って、家族を安穏のうち 

に養うことができるのであります。  

  しかるに今、その民が飢えて死のうという時に、為政者がこれを自分 

の責任と感ないとは―天が下に、これほど歎かわしいことがありまし 

ょうか。 

 

  この時にあたり、救助の道を見出すならば、よし。もし見出せぬときは、 

為政者は、その罪を天の前に告白し、進んで断食して、“死す”べきであ 

ります。  

  それに続いて、郡奉行、続いて代官が、同じく断食して、“死ぬ”べきで 

あります。  

  なぜならば、彼らもまた、その義務を怠り、民を死と苦難とに陥らせた 

からであります。 

 

  こうした犠牲的行為が、飢えに苦しむ民に及ぼす道徳的効果は直ちに 

現われるでありましょう。民らは互いに、次のように話し合うことと思います。

  「御家老様や御奉行様は、御自分たちに何の罪があるでもないのに、
 

飢饉の責任を取って、お果てなられた。

  このような飢饉の苦しみに会うというのも、豊年の年に万が一のことを
 

考えず、贅沢に流れ、無駄遣いをしたためだ。 

 

  お歴々のお役人が悲しい最期をお遂げなされたその責任はわれわれ 

にある。われわれが今、飢えのために死ぬのは当然のことだ」   

と。  

  こうなれば、飢餓の恐れは去り、それとともに死の恐れもまた消えて、 

民の心は平和となります。 

 

  ひとたび恐怖が去れば、食物を得る手だては彼らも手近に見付けられ 

ます。  

 富める人は、貧しい人に、その持つものを分けてやるでありましょうし、 

あるいは山に登って、草木の葉や根を食とすることもできましょう。 

  わずか一年ぐらいの飢饉で、国中の米や雑穀を食べ尽くすということは 

あり得ず、丘や山には緑の食物があります。 


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  人の心が餓死の恐怖でいっぱいになると、食物を探す気力もくじけ、 

ついに死に至るのであります。 

  ”それはちょうど、臆病鳥が空砲の音に驚いて落ちることがあるのと 

同じで、人も、窮乏の年月を送るうちには、飢餓の声を聞いただけで、  

魂消えて死ぬようになるのであります。” 

 

  それゆえ、民の指導者たる者が、まず、まっさきに、自ら進んで断食して 

死ねば、飢餓の恐怖は人々の心から消え去り、すべての者が食を見出  

して、救われるでありましょう。  

  しかし、窮民救済の実を挙げるためには、御奉行や御代官様までが 

死なねばならぬ必要はありますまい。  

  御家老様一人の犠牲で十分だと信じます。飢えに悩む民を救う手段の 

尽きたる時、民を救う道は実にこれ一つであります。

 

  講話は終わった。家老は恥じ入り、また狼狽して、言葉もなかったが、

ようやくにして言った、「言われることは一々もっとも。われらにおいて、

異議の申し立てもない」と。 

  【つづく】

2013年3月11日 (月)

二宮尊徳(7 )

  この男のような強欲な人間が、このような徹底した改革を行なおうと

すれば、心中に長い苦しい闘争があるのは当然のことだ。 

  しかし、尊徳という道徳的医師の名声はあまりに高く、その処方の

効能は疑うべからずである。

 

  そこで、男は、友人、親戚の驚き、また(こう言ってもよいだろう)、

あきれる中で、尊徳の教えを実行した。

  すなわち、手もとに残った七百両の大金を、町の人々に施して、自分

は船頭になったのである。

  これは、少年時代からの手慣れのわざで、彼が「裸一貫」で始めること

のできる唯一の職業であった。

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  男の側のこのような決意が、彼自身を始めとして、町の人々の上に、

どれほど大きな道徳的感化を与えたかは、たやすく推測することができる。 

  彼の強欲に対する反感は、すべての人の心から消え、彼の不幸を喜ぶ

人々は、今は彼の助け手と変わり、彼が自ら舟を漕いだ期間は、ごくわ

ずかであった。 

  彼の上には、幸運がほほえみ始めた。しかも今度は、町の人々すべて

の好意が、彼の上にある。 こうして、彼の後半生は、前半生にもまさって

繁栄したという。

 

  ただ残念なことには、年がすすむとともに、彼は再び強欲となり、その

晩年は、貧困のうちに過ごしたということである。 

  孔子の書にも、次のように、記されているではないか?

  不幸も幸福も、向こうから来るものではない”みな、人が招くの

である”と。



  われらの尊徳先生は、たやすく人を近づけなかった。どのような身分の

人が訪問しても、「仕事に追われていますので」という、例の東洋風の口

実によって、門前で追い返されてしまう。 

  よほど、しつこく頼み込んで初めて、彼に話を聞いてもらうことができるの

だった。

 

 訪問者の忍耐が足りない場合、先生は、こう言うのが常であった。

「まだ、私が、この人を助ける時機ではない」と。 

  あるとき、一人の僧侶が、遠路はるばる先生のもとをたずねて、檀家の

人々の救済につき、先生の教えを仰ごうとした。

 

  彼は、例の面会謝絶の言葉で追い払われたが、しかし、すぐれて忍耐

強い人だったので、先生宅の前の地面に衣をひろげ、三日三晩、そこに

座り続けた。 

  難行と不屈さとをもってすれば、先生の心も動いて、自分の話に耳を傾

けてくれるだろうと思ったのである(*写真は、イメージ)

               Photo_5

  しかるに尊徳は、「乞食坊主」が、彼の門近くに、「犬のように」座ってい

ると聞いて激怒し、直ちにそこを立ちのいて「人々の霊魂のために、祈り、

かつ断食せよ」と、僧に命じた。

 

  こうした取り扱いを何度か受けたのち、彼は初めて信頼されて、迎え入

れられ、数年の後には、尊徳から、金銭と、知恵と、友情とを、自由に与え

られる身となったという。 

  彼の友情を得るのは、非常に高価であったが、ひとたび獲得すれば、

これほど貴重で、長続きするものはなかったのである。

 

  しかしながら、不正直で、不誠実な人に対しては、彼の力も及ばなかった。

宇宙と、その法則とにそむいているこれらの人々を、不幸と堕落とから救う

力は、さすがの尊徳にもなかった。もちろん、他の何びとも、そんな力は持

ち合わせていない。

  彼らに対しては、尊徳はまず「天地の理」を説く。そして、彼らが、それに

従うのを見定めてから初めて、彼らが絶対に必要とする人間的援助を与

えるようにした。

  きゅうりを植えて、きゅうりの実(*写真)以外のものを収穫しようとしては

ならぬ。 人は、その植えたものを刈り取らねばならぬ。 

                      Photo_3

  不幸を幸福に変えることのできるものは誠実のみ。政略の類は何の役 

にも立たない。 

  一人の人間の心は、大宇宙の中にあって、極めて微々たる存在にすぎ 

ないが、その誠実は、天地をも動かすことができる。 

  義務は、その結果いかんにかかわらず、義務として、なさなければなら 

ぬ。

  これらは、彼の残した教えの一部である。彼は、こうした教訓を与えるこ

とによって、彼に教えと救いを求める、多くの悩める霊魂を救い上げた。

  このようにして、彼は「自然」と人間の間に立ち「自然」が、かくも惜し

みなく人間に示す道理の道を、おのれのよこしまな心ゆえに見失っている

人々を「自然」との本来の関係に引き戻したのである。

                 Photo_4


  そしてこれは、われわれの同族、われわれと血を同じくする者から生ま

れた福音である。

  このような福音に比べるとき、近来、わが国に押し寄せて来た「西洋」の

知恵とは、そもそも何ものであろうか!   【つづく】

2013年3月 9日 (土)

心から怒れ! 君が、真の日本人なら!!(TPPに関して)

   心から怒れ!  君が、真の日本人なら!!

 
  今、われわれ日本人は、一大国難の中にいる。

「TPP」が、それである。

 ところで、「貪・瞋(じん)・痴・慢・疑・(悪)見」という

仏教用語がある。これらは、人間が避けなければな

らない、「悪意」や「悪行」のことである。

  中でも、「瞋」は、”怒り”を意味し、自己中心的な心

で怒ること、腹を立てることだと解されている。

  無論、自己中心的な怒りは避けるべきであろう。

だが、人は時折、様々な“不正”や不条理に対して心

からの怒りを覚える。

 むしろ、”怒りの心”なく生きることはできない。

そこには、正当な怒り”さえあろう。



  古来、日本人は、従順で大人しいという徳性や美徳

を持つ。だが、これは、時には、盲信や依存、あるい

は無責任といった悪徳にも繋がる。

  しかし、この種の悪徳を打破して、日本人は今、正当

に怒るべき時なのではあるまいか。

 つまり、「TPP」に対して、また「オスプレイ」に対して 

である。

  とりわけ、その怒りの矛先は、自らの限りなき我欲

邪(よこしま)な野望の完遂のために、わが国を奴隷の

国に陥れようとしているワンワールドの超権力者たちに

向けられなければならない。

  また、彼らの走狗となり、日本国民を騙し続けようと

する安倍総理や極めて傲慢、かつ欺瞞的な自・公政権

に対しても向けられなければならない。 

  彼らは、日本を売り、日本国民を地獄に陥れようとす

る全き売国奴たちである。

  「オレオレ詐欺」が云々される今日、安倍氏は、昨年

の衆議院選挙で、「票を入れろ詐欺」を働いた。

  これに気がつかない国民は、余程の能天気か愚か者

である。

 日本国民も、そろそろ目覚めよ、そして、心から怒れ!

彼らの欺瞞と裏切りと売国に対して。―



  人が、まことの人生を歩もうと願うなら、こう思うことで

あろう、つまり、私は、”真を求め、美を愛し、そして、

善を行なえる、そんな人生を歩みたい”と。

  また、”人生、君は美しい!」と言って瞑目したい

ものだ”と。

  日本人たちは古来、常に天を畏れ、心の
「真実」を

求めた。

 二心のない、清明心(清き明き心)は、その典型であっ

た。「赤心」も、同様である。

                 Photo


 誠(まこと)や正直(せいちょく、あるいは、しょうじき)を

愛する心も、この心に基づいている。

                 Photo_2


  また、古来の日本人は、様々な美の中に在り、自らも、

精妙な美や美しさを愛した。

  そこには、真の中に美があり、また、美の中に真もあっ

た。

  さらに、彼らは、こよなく善を愛した。つまり、彼らは、

天にも、地にも、心から畏れ敬う“存在”を持っていた。

  それは、常に、彼らが善を求め、それを行なうことにも

繋がった。

  「善因善果」、「悪因悪果」は、常に彼らの常識だった。

まさに、人間は、「自ら播いた種は、自ら刈り取らねば

ならない」。また、“播かぬ種は、生えぬ”のである。



  今日の日本において、この「真と善と美」が一体化
した

ような人がいる。

  そのような類い稀なる人との出会い(あるいは、邂逅)

は、人間にとって、まさに”千載一遇のこと”と言える。

私にとって、植草一秀氏が、そのような方である。

  しかし、残念なことに、「真・善・美」を愛する心を失い

つつある今日の日本人は、まさに酩酊か盲目の状態で

ある。

               Photo_3

  それゆえ、「真・善・美」を具有するまことの“光”を感じ

ことなく、むしろ様々な偽物の”スター”たちに、その目

とを奪われている。

  そのため、心ある人々以外、本来の“光”を光と感じら

れず、単なる無明や欺瞞を”光”と錯覚している。

  その意味で、日本はまだ、無明長夜の中に在る。

むしろ、政界を始め、日本の社会では、数々の虚偽

と欺瞞が跋扈するゆえ、その漆黒の闇は、ますます深

まるばかりだ。

 それゆえ、私は、声を大にして訴えたい、

  TPPに対して、心から、怒れ! 君が、真の日本人な

ら!!と。


(後記:今、皆さんに最も観てほしいYou Tubeを、

     下に貼り付けます。

      どうか、是非、ご高覧ください。 )

 http://www.youtube.com/watch?v=2l7sqtZyAHc&feature=share&list=PLPg7hSdi4rU793jEmiMHRc22CWqpMEP8V

2013年3月 8日 (金)

二宮尊徳(6 )

    4.個人的な援助

 ここで、その後、尊徳がその生国に対して行なった社会的な貢献を語る

のが順序であるが、その前にちょっと、彼が、悩める人々の求めに応じて

与えた友愛の援助について語らせてもらいたい。 

  彼は、自分自身、全く独立独行の人であったので、勤勉と誠実とをもって

当たれば、独立と自尊とを、かち得られぬことはないと信じていた。


                             Photo_2



  宇宙(*下の写真)は、絶え間なく動き、われらの周囲の万物は、一刻も

休まずに生長 している。 

  人間が、この絶え間ない生長の法則に従って、働き続けるならば、たとえ

貧乏になりたいと思っても、なれるものではない、というのが、彼の信念だ

った。

                     Photo_3

               Photo_6

   あるとき、貧に迫った農夫の群れが、領主の失政に不満を唱え、先祖

伝来の家を捨てて、まさに他郷へ去ろうとして、尊徳のもとに、導きと教え

を求めて来たことがある。尊徳は、彼らに、この信念を語ったのち、 

  鋤(すき)を一ちょうずつ、君たちにあげよう。君たちが、私のやり方を採用

して、この先、それを守り続けて行くならば、君たちは必ず、荒れた田畑を 

楽園と変え、借金をすべて返済し、他国に行って幸福を求めなくても、その 

国の中で、再び豊かな暮らしを楽しむことができるようになるだろう、 

と言った。

                  Photo_4

   農夫らは、この言葉に従い、一人ずつ、聖人の手から鋤を受け
取り、

教えられたとおり、真剣に働いた。そして、数年の後には、彼らが失

たものをすべて取り返したばかりか、それ以上の富をさえ、得たので

ある。 

〔神の造りたもうたこの宇宙にあって、われらにかしずく、やさしい大地と、 

われらを恵む慈悲深い天とに囲まれた人間は、わずか「鋤一ちょう」を持っ 

て、その生涯の出発点に立って、幸福と独立とを、かち取ることができる。  

  尊徳は、こうして出発して、あの通りの立派な人物となった。世の人々は 

なぜ、その通りにしないのか?  そして、われわれもまた、なぜ、その通りに 

しないのであるか?〕



  次は、村人の信望を全く失った、ある名主の話である。尊徳のもとに知恵

を借りに来た彼に対し、この聖人が与えた答えは、簡単きわまるものであっ

た。 

 「自己を愛する心が、あなたのうちに強いからです。利己主義は、獣の性

(さが)であり、利己的な人間は獣類です。 

  村の者に信頼されたいと思ったら、あなたは、自分を捨て、持ち物のすべ

てを村人に施さなければなりません。」(*下の写真は、名主の屋敷のイメ

ージ)

 Photo_8
       

   「それには、どのようにすればよろしいのでしょうか?」

と、名主はたずねた。

  それに対して、尊徳は答える。 

  「あなたの土地や、家や、衣類など、持ち物のすべてを売り、その代金の

すべてを村に寄付し、自分というものを全く捨てて、村のために尽くすことで

す。」


  しかし、人間の本来の性(さが)として、このような、厳しい行為を、たやす

く実行できるものではない。名主は、心を決めるまでに数日の猶予をもらい

たいと言った。 

  そして、これは、自分にとって余りに大きすぎる犠牲だとつぶやくのを聞

いて、尊徳は、次のように答えた。 

 「察するところ、あなたは、家族が飢えるのを恐れておられるのでしょう。

しかし、”あなた”が、”あなたの”分を尽くされるのに対し、それをあなたに

勧めた私が、”私の”分を尽くさないということがありましょうか?」

 

   尊徳のもとを辞した名主が、教えられた通りを実行すると、村人の信望

は、たちまち彼の上に集まった。 

  彼の一時的な窮乏は、尊敬する師が、自分の蓄えの中から補填してく

れたが、今度は、村人が彼を見捨ててはおかなかった。 

  村の者すべてが、この名主を後援するようになり、まもなく彼は、前にも

まさる富者となったのである。 

 〔報いを目的とした犠牲などは、あり得ない。しかし、犠牲なしで報いを得 

るということもまた考えられない。〕



  次は、藤澤の町に住む一人の米商人の話である。彼は、飢饉の年に、

高い値で米を買って、相当の財産を作ったが、その後、家族の上に不幸

が続いて、まさに破産せんばかりの状態となった。

                             Photo_5
 

  この人の親類の一人が、尊徳の親しい友人であったところから、彼らは、

失われた財産を回復するために、この聖人の知恵を借りようとした。

  私利を目的とする相談に乗ることを、ひどく嫌う尊徳は、この要求を拒み

続けていたが、あまり、せがまれるので、やむなく、その要求に応じること

とし、この男を道徳的に診断した結果、その災難の原因は一つしかない

ことを、直ちに見抜いた。 

  今、あなたの手もとに残っている財産のすべてを、慈善のために使い、

裸一貫から出直すことです、 

と尊徳は教えた。

 

  彼の目から見れば、不正手段で得た財産は、財産と呼ばれるべきもので

はない。 

  「自然」の正当な法則に従うことにより「自然」の手から直接に授けられ

たものだけが、自分のものなのである。 

  この男の財産は、本来、彼のものではなかったから、彼はそれを失ったの

だ。 

 彼の手もとに残っている財産とても、同じく「不潔」なものであるから、その

財産を基として、事をなすことは許されない。  【つづく】

 

 

 

 

2013年3月 7日 (木)

二宮尊徳(5 )

  尊徳の前に反対は多かった。しかし、彼は「仁術」によって、それらを

取り除いた。 

  小田原公が、彼の協力者として差し向けた一人を、彼と彼のやり方とに

従わせるために、実に三年の辛抱をしたこともある。

 

  また、村の中に一人の、きわめ付きの怠け者がいて、この男は、尊徳の

計画のすべてに対して猛烈な反対をした。 

  彼の家は、今にも倒れんばかりの状態であったが、彼は、それを直そう

ともしないで、自分の貧乏こそ、新しい当局者のやり方のまずさを示す何

よりの証拠だと、いつも近所の人たちに語っていた。

 

  あるとき、尊徳の召使の一人が、その男の家の便所(ママ)にはいった

ところ、長年の間、投げやりにされて、朽ち果てていたその便所は、ちょっ

と手を触れただけで、地に倒れてしまった。 

  その男の怒りは凄まじく、棒を手にして飛び出すと、あやまちをわびる

召使を一打ち二打ちした後、なおも後を追って、ついに、その主人である

尊徳の家まで来た。

 

  その男は、門前に立ちはだかって、彼の蒙った損害のひどいこと、また、

長官が無能なばかりに、村に平和と秩序とが来ないことを、周囲に集まっ

た多勢に聞こえよがしに述べ立てた。 

  尊徳は、その男を自分の前に連れて来させると、できるだけの、おだや

かな態度で、召使のあやまちを詫びた後、こう言った。 

「便所が、それほど、倒れやすくなっているからには、住まいの方も完全

ではなかろうね。」 

 

  「ごらんの通りの貧乏人だ。家を直すことなど、できるものかね」と、その

男は、ぶっきらぼうに答える。 

「そうか」と、道学者尊徳は、おだやかに答えた。 

  「では、私が、おまえの家を直す人をつかわしたら、どうであろう。 

  承知してくれるかね?」

  びっくりするとともに、恥ずかしくなってきたその男は、
 

  「それほど親切に言っておくんなさる言葉にそむくことはできないね。 

  もったいない話です。」

 

  男は、すぐに家に帰された。そして、古い家を取り壊し、新しい家を建て

る地面を整えるように命じられた(*写真は、イメージ)

                      Photo

  翌日、新しい建築材料のすべてを用意した長官の部下が来て、数週間

のうちに、近所でも、ひときわ目立って立派な家の一つが完成した。 便所

も修繕されたので、もう誰がさわっても、こわれない(*同上) 

             Photo_2

  村一番の難物が、このようにして征服されたのである。その後、この男は、

誰よりも、長官に忠実な者と変わった。 

  あの時、”どれほど”恥ずかしい思いをしたかを語る時、彼の目からは、

いつも、涙がほとばしるのであった。 

 

  また、こんなこともあった。村人の間に不満が高まって来て、いかに

「仁術」もってしても、これをしずめることができなくなったのである。 

  われらの長官は、すべてこれらの責任は自分にあると考えた。 

「わが誠実の足りないことを、天が罰したもうのだ」と。彼は、心の内で

言った。

 

  そして、ある日、彼の姿は忽然と村人の間から消えた。村人が彼の

ゆくえを案じ暮らしていると、数日後に、彼が遠くの寺に参籠(さんろう)し

ていることがわかった。

                    Photo_3

  村人を導くために、より一層の誠実の与えられんことを祈り、かつ黙想

して、二十一日間の”断食”をするためである(*下の写真は、イメージ)

         Photo_4

  幾人かの村人が、彼に、はやく帰ってくれるように懇願するために、その

寺に向かった。彼のいない村は、無政府状態におちいっている。彼なしで

は何事もできぬことを、今や村人は悟ったのである。 

  尊徳は、村人の後悔のさまを聞いて喜んだ。三週間にわたる断食の期

間が終わると、軽食をとって元気をつけ、その翌日は、もう二十五マイル

(=40km)の道を歩いて村に帰った。この人物は、鉄の身体を持っていた

に違いない。

                  Photo_5

  数年間の、たゆまぬ勤勉と節約と、とりわけ「仁術」によって、荒廃は

く姿を消し、村には相当な生産力とも言えるようなものが甦えって来た。 

  そこで長官は、他国から移民を呼び寄せて、入植させたが、彼らに対して

は、土地の者に対するよりも、もっと手厚く、いたわった。

 

  「他国の者に対しては、わが子以上に、親切にしてやらねばならない」

というのが、彼の考えであった。 

  彼はまた、土地が再び肥えて来たことだけで満足しなかった。彼の考え

によれば、ある地方の完全な復興とは、「十年の飢饉に堪え得る食料」の

用意があることだ。

 

  その点で、彼は、「九年間の食料の蓄えのない国は危険であり、三年間

の蓄えもない国は、もはや国とは言われない」と言ったシナの聖人の言葉

に、文字通り従った者である。それゆえ、われらが農聖人の見るところに

よれば、現代の諸国のうちで最も尊大な国も、「国とは言われない」わけだ。 

 

  しかし、彼の準備がまだ整わぬうちに、飢饉が襲来したのであった。一八

三三年は、東北地方一帯が、ひどい災害に襲われた年である。 

  尊徳は、この夏、なすを食べた時に、すでに飢饉の襲来を予言した。 

そのなすは、秋なす(*下の写真)そっくりの味がしたからである。

              Photo_6

  これは、「太陽がすでに一年間の光を注ぎ尽くし」た明らかな兆候だと、

彼は言って、すぐさま村人に、一戸につき一反の割で、雑穀をまくように

命じた。 

  これによって、米の収穫の不足を補おうとしたのである。この命令は

実行されて、その翌年、近くの地方がことごとく飢饉に襲われたときも、

尊徳の管下にある三村では、食料の不足に悩む家は一軒もなかった。

 

  「誠実な人は、未来に起こる事を予知することができる」というが、われ

らが長官はまた予言者でもあったのだ。

  こうして、約束の十年が終わったときには、日本国中で貧しかった国が、

最も秩序正しく、最も多くの蓄えのある、そして自然の恵みの続く限り、

最も大きな生産力を持つ地方へと変わったのである。

 

  今やこの三村は、以前の繁栄の時と同じく、年収一万俵の米を産する

ようになったばかりか、何年続く飢饉にも堪えられるほど、穀物の満ち

満ちた倉庫を、幾棟か、持つまでになった。

                 Photo_7
 

  そして喜ばしいことには、長官自身もまた、この地で数千金の蓄えを得、

後年、これを、思うまま、慈善のために使ったのである。 

  尊徳の名声は今や遠方にまで広がり、全国各地の大名は、彼のもとに

使者を送って、領内の荒廃した村々の復興につき、教えを乞うた。

 

  誠実のみによって、このような著しい結果が現われたとは、前代未聞の

ことである。実に単純で、また安価な改革ではないか。 

  ただ「天」と共に歩む人のみが、これほどの事を成し遂げることができた

のである。 

   小田原藩三村の復興という、尊徳の最初の公共事業の成功が、当時の

怠惰な社会に与えた道徳的影響は、実に大きなものであった。 【つづく】



 

 

 

2013年3月 5日 (火)

現代日本の一大国難・TPP参加(後)

   「アメリカ市民団体がTPPについて報道した驚異の

内容とは」(2)


ここで、女性キャスターが、言葉をはさみます。) 

  「米国通商代表部から届いたコメントを読みます。

『TPPの交渉過程に
は、高い透明性を確保してきた。

  議員たちと協力し、関係者を毎回の交渉に招き、説明会や個別交渉に

よって透明性と市民参加を高めてきた。』 

  これについては、どうですか?」


( ウォラックさんの言葉です。)
 

  「透明性といっても、市民には『映らない鏡』です。 

説明会で、意見を言うことはできます。でも、公益団体の意見は、何も

草案には反映されていません。 

  環境から消費者・労働者まで、公益は何一つ反映されない。 

国民をまったく無視した過激なまでの強硬策です。

 

  金融制度の安定のため、各国が施行する金融規制にすら、米国は反対

しています。そこには、米国民の意見が無い。 

  でも、まだ間に合います。

 

  歴史的な観点で見てみましょう。 

  1990年代のFTAA(米州自由貿易協定)は、2年かけて、34ヶ国で協議し、

全草案が各国で公開されました。       

  他方、TPP交渉は3年目ですが、一行たりとも公開していません。 

おまけに、締結後4年間は非公開という密約もありました。秘密を、さらに

隠すのです。 


  カーク通商代表に聞きました。
 

なぜ、公開しないのか?と。 

  お世辞にも透明と言えない、WTO(国際貿易機関)さえ草案を公開した

のに、と。 

  彼の答えは、「FTAA交渉は、公開したら暗礁に乗り上げた」というもので

した。 

  私が、「それは、どういう意味ですか?」と尋ねますと、 

「密室で、こそこそやる理由は、国民や議会に知られるだけで、危うくなる

ような内容だから」ということでした。 

  皆さん、しっかり押さえておいて下さい。 

TPPの狙いは貿易ではなくセメントのような作用です。 

 一度固まったらおしまい。 

全員が同意しないと変更できない。 

                  Photo


  リーク草案が示唆するのは、司法の二重構造です。
 

国民は、国内法や司法を使って権利を護り、要求を推し進めますが、 

企業は、別立ての司法制度を持ち、利益相反お構いなしのお抱え弁護士

たちが、いんちき国際法廷に、加盟国の政府を引きずり出し、勝手に集め

た3人の弁護士が、政府に無制限の賠償を命じるのです。 

  規制のおかげで生じた費用を弁済しろとか、不当な扱いを受けたとか言

って。― 

  国内の企業には、同じ規制が一律に適用されているというのにです。



  NAFTAにも似た制度があり、有害物質規制や都市区画法の補償として、

3億5千万ドルが企業に支払われました。 こういう悪巧みは、明るみに出

せば阻止できます。

                   Nafta3_2
            


( 男性のキャスターが尋ねます。) 

「交渉に関わっている8ヶ国の国名は? 

交渉方法の問題や参加国が急増する可能性は?」と。



( ウォラックさんが答えます。)
 

  「リークが重要な意味を持つのは、これが、最後の交渉になる恐れが

あるからです。 

  NAFTA以来、大企業は、貿易協定を姑息に使って、規制を抑え込み、

底辺の競争を煽りました。 

  交渉のたびに規制が緩和され、企業の権限は拡大しました。今回が

トドメです。 

                     Nafta2_2

いったん固まれば門戸を開き、広く参加国を募ります。 

  企業の特権化を保証する世界的な協定になりかねません。 

為替と貿易制裁が強制手段です。

Tpp1

              Photo_2


  TPPは、強制力のある世界統治体制に発展する恐れがあります。
 

世界的なオキュパイ運動に対する企業側の反撃です。 

旧来の悪弊が、一層ひどくなります。 

  さらに、交渉のゆくえによっては、既存の国内法が改変され、進歩的な

良法が無くなるばかりか、新法の制定さえもできなくなります。

 

  交渉国は米国、豪州、ブルネイ、シンガポール、ニュージーランド、チリ、

ペルー、ベトナムで、マレーシアも加わります(*そこに、日本の参加が

云々されているのです。)

              Tpp2


  NAFTAと同じく、企業の海外移転をうながす特権があり、新たな特権も

付与されます。 

  医薬品や種子の独占権が強化され、医薬品価格をつり上げるため、

後発医薬品(ジェネリック)を阻止する案まであります。 

  オバマ政権が医療制度改革法案に入れた医薬品についても、他国が

使用する権利を奪おうとの密談がなされています。 

  各国の金融規制も緩和させられ、高リスク金融製品も禁止できません。 

米国政府が金融制度改革で規制強化を進めている時にです。



  また、TPPは、地方財政にまで干渉します。
 

  全国で搾取労働の撤廃や生活賃金を求める運動が広がる中で、TPPは、

地域産業の優先を禁じます。地産地消や国産品愛好は許されないのです。

環境や人権に配慮する商品も提訴されかねません。

  TPPは、企業に凄まじい権力を与えます。密室だから、過激になりました。
 

どの国の人も、こんなものは御免です。

 

  過激な条項を推進するのは、米国政府です。だから、陽(ひ)の目にさら

して、分析することが重要です。 

  何が起きているか、人々に知ってほしい。」

                

  ( 女性キャスターの言葉です。) 

  「ダラスで説明会が行なわれた際、カーク通商代表(*下の写真)

演説しました。 

   『イエスマン』が元市長になりすまし、ニセの受賞式を行ないました。

                 Photo_3

  (その時の場面です。 そのイエスマンが言います。) 

  「ご参集、ありがとうございます。 

テキサス企業協会からのお知らせです。 

  2012年企業パワー・ツール賞の受賞者は、米国通商代表部です!」 

  (会場、拍手)



  (イエスマンが、続けます。)
 

  「通商代表部のたゆまぬ努力に感謝します。 

特に力を入れているTPP交渉は、市民の意見にお構いなく、企業利

最大にするためです」と。

                   Tpp4


      

( 女性キャスターの言葉です。) 

  「次回のTPP交渉は、(2012年)7月4日の週末です。 

   いかがですか?   オバマ大統領は、どう対処するのでしょう?

 

  サラ・ジェシカ・パーカー邸で、資金集めパーティをするようですが、金融

業界の献金額は、ロムニー候補に約4千万ドル、オバマ陣営は480万ドル

で、ウォール街も、オバマ離れしています。オバマ氏は、金融業界にはロム

ニー氏以上に、良くしているつもりでしょうけど。



( ウォラックさんは言います。)
 

  「オバマ大統領については、二通り考えられます。 

一つは、TPPが密室交渉だったので、把握していなかったケース。 

だから、”リーク”が重要でした。国民や議会に警告したのです。 

  大統領は、通商代表部に対する監督が甘かったのです。 

クリントン時代にNAFTAを通過させた連中が好きにやったのです。

                 Nafta4

  もう一つは、結局、お金です。 

「1%」を喜ばせる協定なのです。「1%」の夢なのです。 

ありったけの金とロビイング力をつぎ込んで、未来永劫に力を振うのです。」

【了】

  (後記:下に、上記のYou  Tube を貼り付けます。

     どうか、よろしくご高覧ください。 

       尚、昨日の文章中、「罰則を貸す」とありましたが、これは、

     正しくは、「罰則を科す」でした。謹んで訂正いたします。)

 http://youtu.be/HLVKAalmD48

2013年3月 4日 (月)

現代日本の一大国難・TPP参加(前)

    【 皆さんへ】


  皆さん、お早うございます。  お元気ですか? 

  拙ブログでは今、「二宮尊徳」について連載しています。 

唯、日本の一大国難とも言える「TPP参加」について座視できず、二回

にわたって、この問題について言及したいと存じます。

 

  すでに、「植草事件の真相掲示板」で風太さんやsagakaraさんが論じら

れ、また、ブログ「暗黒夜考」氏や「ELG35's  blog」、さらにはakiraさんの

ブログ「平凡な日常」や「マスコミに載らない海外記事」さん、投稿者の

sarabandeさん、加えて、神州の泉氏や天木直人氏のブログなどでも言及

されている通り、目下、「アメリカ市民団体がTPPについて報道した驚異

内容とは」というYou  Tube  が注目されています(*これは、元々、

ニューークの独立放送局「Democracy  Now !」から発信されたものの

ようです)

  すでに昨年の6月の時点で公にされていたものですが、皆さんのご指摘

にもありますように、今になって、その重要性がクローズアップされています。

 

  このYou  Tubeを、「ELG35's  blg」氏は、完璧に文字起こしをなさって

います。実は、後で、そのことを知ったのですが、この度、私も、同じ事を

した次第です。 それは、次の通りです。

 

 「アメリカ市民団体がTPPについて報道した驚異の  

内容とは」(1)




(男性キャスターが語ります。)
 

  「密室で進む米国と環太平洋諸国の貿易協定草案がリークされました。 

環太平洋経済連携協定(TPP)です。 

  リーク草案によると、米国で営業する外国企業は、重要な規制について、 

国際法廷に持ち込むことができます。

 

  その裁定は、国内法に優先され、違反には、罰則を貸すこともできます。 

交渉担当は、オバマ大統領が任命した米国通商代表のカーク氏(*下の

写真)です。

                       Photo

  しかし、リークされた草案は、オバマ氏の選挙公約に反しています。
 

2008年の選挙公約では、「環境や食の安全や国民の健康が守れなか

ったり」「外国の投資家を優先する貿易交渉はしない」とありました。

                  Obama


  (続いて、女性キャスターが語ります。)
 

「リークされたTPP草案には、著作権の保護を強化したり、医薬品のコスト

を押し上げる規定もあります。

  通商代表部は出演を断わり、声明を送ってきました。
 

  『TPPの投資関連の提案には、公益保護のための正当で非差別的な

政府規制を妨げるものはない』と。 

  市民団体パブリック・シチズンのロリ・ウォラックさん(*下の写真:「神州の

泉」氏のブログより、拝借)です。」

                     Photo_5
 


 (女性キャスターが続けます。)

  「リーク文書は、同団体のウェブサイトで公開されました。
 

リーク草案でわかったTPPの正体とは?」



  (ウォラックさんが答えます。)

  「表向きは『貿易協定』ですが、実質は、企業による世界統治です。
 

加盟国には、例外なく全ての協定が適用され、国内の法も規制も行政

手続きも、TPPに合わせなければなりません。

  全26章のうち、貿易関連は2章のみー。
 

他はみな、企業に多大な特権を与え、各国政府の権限を奪うものです。

 

  私たちのサイトに掲載したTPP投資条項によれば、外国の投資家が

TPP条約を盾に米国政府に民事訴訟を起こし、国内規制が原因で生じ

た損害の賠償を請求できるのです。 

  米国の企業はみな、同じ規制を守っているのに、これでは、国庫の

略奪です。」

 

(男性キャスターが、ウォラックさんに尋ねます。) 

  「極秘に進行するTPP交渉には、議会も不満を申し立てています。

約600人の企業顧問は、TPP情報にアクセスできるのに、米国の議員は、

それができないのですね?」



  (ウォラックさんが答えます。)
 

  「こんなひどい内容を、それも、リークで知るとは驚きです。 

内容がひどいだけでなく、これは『1%』が、私たちの生存権を奪う

ツールです。 交渉は、極秘で行われました。 

暴露されるまで2年半も、水面下で交渉していました。

  600人の企業顧問には草案へのアクセス権を与えながら、上院貿易

委員会のワイデン委員長は、カヤの外です。

 

  TPPを監督する立場なのに、草案にアクセスできない。 

たまりかねた委員長が、「監督責任がある協定の内容を知る権利がある」

とする法案を提出したありさまです。

  ワイデン氏は、情報委員ですよ。
 

核関連の機密も知る立場なのに、貿易協定という名の「企業の権利

章典」は見られない。実に見事な「トロイの木馬(*下の絵)です。

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  通りのいい看板の裏に、表に出せない内容を仕込むのです。 

製薬大手の特許権を拡大する条項も入手しました。医薬品価格を急騰

させます。

             Photo_4

  TPP情報の分析や行動への誘いが、私たちのサイトにあります。 

TPPは、いわばドラキュラです。陽(ひ)に当てれば退治できます。 

米国や全ての交渉国で市民の反対運動が起きます。 

  企業の権利の世界的強制なんて、私たちは許さない。 

民主主義と説明責任に反します。  【つづく】

 

 

 

 

 

 

2013年3月 2日 (土)

二宮尊徳(4 )

  大胆ではあるが、合理的で、しかも安価な計画ではないか?  このよ

うな計画に同意しない者があろうか?  主として“道徳の力”に頼って、

経済方面の改革をしようというのである。

  こんな農村の復興計画を聞いたためしはない。信仰を経済問題に応用 

しようとしたものである。

  尊徳の内には、ピューリタンの血が通っているように見えた。いや、

むしろ彼は、西洋伝来の「幸福至上主義」に汚されぬ真正の日本人であっ

たと言うべきであろう。

 

  そして当時は、彼の言葉に耳を傾ける人も、またあったのである。彼の

主君は、その最初の人であった。その後の百年の間に、われわれは、

「西洋文明(*下の写真)によって、どれほど変化させられたことであろう!

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                  Photo_10

  尊徳の提出した復興計画は採用され、われらが農民道徳家は、向こう

十年、この三村の実際上の指導者となることになった。

 

  その結果として、祖先伝来の資産を回復する仕事を放棄せねばなら

ぬのは、つらいことだったが、しかし彼のような熱誠の人は、どんな仕事

に対しても、全心全霊をもって当たらぬことを罪と感じるのである。 

  ましてや三村の復興という公共の事業を引き受けた今、個人の利益を

顧みるべきではない。

 

  「数千の家を救おうと思えば、わが家を犠牲にするほかはない」と、彼は

自分に言い聞かせた。そして、自分たちの宿望を犠牲にすることについて、

妻にも同意してもらい、「祖先の墓の前に、もの言うようにして」彼の決心

を告げ、家をたたむと、さながら別の世界へ赴く人のように、帰るべき舟を

焼くほどの決意をもって、故郷の村を後にした。

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  そして、主君と同胞人とに、あれほど大胆に請け合った仕事に入って

行ったのである。

  任地での彼は、土地の荒廃と戦うとともに、人心の荒廃とも戦わねば

ならなかった。その詳細については、ここでは語るまい。

 

  彼は、策略や政略は一つも使わなかった。彼の信念は、ただこれで

あった、すなわち“一人の人間の誠意は、大地をも動かすに足る”

ある。彼は、一切の美食を斥け、木綿の衣服のほかは着けず、村人の家

で飲食をせず、一日にわずか二時間、眠るのみで、朝は誰よりも早く野良

に出で、夕方は、皆が帰ったあとまで残るというような生活を続けた。

 

  このようにして、彼は、あわれな村人の身にふりかかったきびしい運命

を、わがものとして堪えたのである。彼は、自分自身を審(さば)くと同じ

標準で、民を審いた。 

その標準とは、動機が誠実であるということである。

彼の考えによれば、最良の労働者とは、最も多くの仕事をする者では

なくて、最も気高い動機によって働く者である。

 

  あるとき、彼のもとに、村一番の働き者という一人の男が推挙されて

来た。この男は、三人前の仕事をするのみか、至って気立てもよいという。 

  尊徳は、長い間、その推挙に耳を傾けなかったが、この「気立のよい

男」に、相当の賞与を与えなくてはならぬと、同僚の人々が言い張るので、

ついに、その男を呼び寄せ、他の役人の前で行なったのと同じ方法で、

一日の労働を、自分の面前でするようにと命じた。

 

  男は、とてもそれはできませんと言ったのち、賞与がもらいたいばかり

に、身廻りの役人たちの面前で、むりに三人前の仕事をして見せたこと

を白状した。

  自分の経験から、人間の能力の限界を知っていた尊徳は、このような

報告によって、決して欺かれなかったのである。 

  彼は、この男を罰し、その偽善を充分戒めて、野良にかえした。



  もう一つの例を挙げよう。それは、老いて一人前の仕事が難しくなった、

ある農夫の場合である。 

  この老人は、いつも、木の根っ子掘り(*下の写真)という―骨が折れ

て、しかも目立たぬ仕事に精出していた。他の者が休んでいるときでも、

自分が選んだこの仕事をするのが、楽しくてならぬ様子で働いていたの

である。 

  彼は「根っ子掘り」と呼ばれて、村人の注意を引くこともなかったが、

長官である尊徳のみは、彼に目を付けていた。

                              
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  そして、ある給料日、例によって、農民一人一人の仕事ぶりや受け持ち

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に感じて、長官の裁断が下される日に、最高の栄誉と賞与を受ける者と

して呼び出されたのは、ほかならぬ、この「根っ子掘り」だった。 

  皆の驚きもさることながら、誰よりも驚いたのは、当の本人である。

彼は、定まった給料以外に、金十五両を授けられることになった。

 

  農民の一日分の給料が、わずか二十銭であった当時としては、ほとん

ど考えられもせぬ大金である。老人は叫んで言った。 

  「旦那様、私は年寄りで、一人前のお給料さえ、もったいないほどの者

でございます。私の仕上げた仕事は、人様に及びもつきません。 

  旦那様は、おまちがえになっていらっしゃるのです。私は気がとがめて、

とてもこのお金をいただくことはできません。」 

  「いや、そうではない」 

と、長官は、おごそかに答えた。

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  「おまえは、他の人が働きたがらない所で働いた。人が見ていようと、

見ていまいと、ただ村のためになることだけを考えて、働いたのだ。 

  おまえが根っ子を掘り出してくれたおかげで、邪魔物はなくなり、われ

われの仕事は、大いに助かった。 

  おまえのような者に褒美をやらないで、これからさきの仕事を、どうし

て続けることができようか。 

  この褒美は、おまえの正直の報いとして、天から授かったものだ。

ありがたくお受けして、老いの身を養うために用いるがよい。 

  おまえのような正直者に褒美をやることができて、私はこんな嬉しいこ

とはない。」

 

  老人は子供のように泣き、「その袖は、涙にぬれて、絞るほどであった」。 

三つの村々は、深く感動した。 

  ここに、神のような者、すなわち、ひそかになされた善行を、明らかに

報いる者が、彼らの間に現われたのである。  【つづく】


 

 

2013年3月 1日 (金)

二宮尊徳(3 )

   3.能力の試験

  尊徳の名声は、日に日に高くなり、彼の領主で、また当時、幕府の

老中として、並ぶ者ない勢威をふるっていた小田原公も、ついに彼の

真価を認めるに至った。 (*下の写真は、小田原城)

  これほど有能な臣下を、片田舎に、無名の人として埋もれさせておく

わけにはいかない。

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  とはいえ、階級の差別の極めて厳しい当時の社会において、一農夫

にすぎない者を、重要な地位に登用するのは、非常に珍しいことであ

った。 

  そのためには、社会の常軌に反したことをする際に必ず起こる非難を

静めるに足るだけの、並外れた才能を、尊徳が所有していることを、

疑う余地なく示さなくてはならない。

  そして、この目的のために選ばれた仕事は、ひとり尊徳の不屈の忍耐

力だけが成し遂げることのできるような性質のものであった。― 

 

  小田原藩は、下野(しもつけ)の国に、物井、横山、東沼という三つの

村を領していたが、この三村は、数代にわたる支配者の放任により、

当時、救うべからざる荒廃におちいっていた(*写真は、イメージ)
                           
                          Photo_3


  かつては、戸数四百五十を数え、年貢一万俵を領主に納めた三村で

あったが、今は、荒々しい「自然」にその田畑を侵され、たぬきや、きつ

ねは人里までもはいり込み、人口は往時のわずか三分の一に減り、

貧困におちいった農民から取り立て得る年貢は、二千俵がようやくと

いう始末である。

  貧乏とともに道徳が堕落し、かつての繁栄した村々が、今は賭博者

の巣と化した。

                     Photo_4

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 三村の復興はたびたび試みられたが、村民自身が常習的な盗人や

怠け者であるところに、金や権力をもって臨んでも何になろう。 

  血気にはやる領主だったら、この三村の住民に、断固として立ち退き

を命じ、新しい、より道徳的な労働者を、他から移入して、怠惰な領民

によって荒廃にまかせられた耕地の復興を計ったであろう。



  しかし、この三村には、何の役に立たずとも、小田原公の胸中にある

目的には、打ってつけのものであった。 

  この三村を、往時の富と繁栄とにかえすことができる人ならば、国内

の荒廃した村々のすべて(それは、非常に多数であった)の復興を任

せることもできるだろう。

 

  そして、前任者がすべて失敗した所で、成功したならば、その人は、

万民の納得する指導者として立って、彼にふさわしい権威を与えられて

も、上層階級の不満を招くことはないであろうと、藩公は考えたのである。 

  尊徳が、藩公から、折り入って頼まれたのは、この仕事であった。しかし、

農夫尊徳は、自分は卑しい生まれであり、また、このような公共的な仕事

を仕遂げる能力は全く自分にないという理由で、その栄誉を辞退した。

 

 ―自分は一人の貧しい農夫にすぎず、自分の一生のうちに成就しようと 

しているのは、自家の財産の回復がせいぜいである、しかも、それさえも 、 

自分の才能よるのではなく、祖先から受け継いだ力によるのだというの

が彼の考えであった。 

 

  三年もの長い間、藩公が自分の要求を主張し続けたのに対し、尊徳も

また、わが家の、わらぶき屋根の下で平和な家庭生活を営みたいという

謙虚な願いを、終始変えなかった。

 

  だが今は、尊敬する主君の切なる頼みを、ついに拒み切れなくなった。

そこで、尊徳は、彼の復興すべき村々の状態をくわしく調べることを許さ

れたいと願い、そこまで百三十マイル(=208km)の道程(みちのり)を歩い

て行った。

                     Photo_6


  そして、数ヶ月間、現地にとどまり、親しく隅々の村人の家をおとずれて、

その暮らし方をくわしく観察する一方、土質や、荒地の広がりや、排水や、

灌漑の方法などについても、注意深い観察をして、荒廃したこの地方の

復興につき、完全な見込書を作るための資料を、ことごとく集めたので

ある。

  小田原公に提出した彼の仕方書は、非常に悲観的なものであった。

だが、この場合とて、全く望みなきにあらずである。その中で、彼は言う。

                            Photo_7

  仁術(愛のわざ)のみが、これらのあわれな民を救って、彼らに再び

平和と繁栄とを、もたらすでありましょう。

  金銭を恵み税を免除することは、窮迫の中にある彼らを救う道では

ありません。

 まことに彼らを救う唯一の道とは、彼らに対する金銭的援助をすべて

撤回することであります。

  金銭的援助を与えることは、彼らを強欲に、また怠け者にするばかりか、

彼らの間に紛争を起こす原因ともなるのであります。

  ”荒地をひらくに、荒地の資源をもってし、貧困を救うに、貧者自身の

力をもってせよ”であります。

  主君におかせられては、この飢えたる土地より、分相応の収穫を得る

をもって足れりとなしたまい、それ以上を期待されぬよう、お願いいたし

ます。

  すべての田、一反から、米二俵を産したとするならば、その一俵を民

の食糧に宛て、あとの一俵は、残る荒地をひらく資とすべきであります。

  神代に、この豊かな日本の水田が開かれたのは、まさにこの方法に

よってでありました。

  当時は、いずこも荒地であり、外からの援助は一つもなかったにも

かかわらず、ただ住民の努力と国土の資源とによって、今見るような

田や畑や町が作られたのであります。

                        Photo_8

  愛と、勤勉と、自ら助けること―この三つの徳をきびしく実行する

以外に、三村復興の希望はありません。

  そして、われわれの誠意の限りを尽くし、忍耐をもって、仕事に当た

るならば、十年の後には、この三村が当初の繁栄にかえること、間違

いなしと私は信じます。  【つづく】

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