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2013年2月16日 (土)

上杉鷹山(2 )

  2.その人と成りと事業

  鷹山は、わずか17歳の時、今の羽前の米沢藩の家督を相続した。九州の

小藩主、秋月家に生まれた彼は、生家より、家の格式も高く、領地も大きい

上杉家の養子となったのである。 

  そうは言うものの、この養子縁組が、彼の側から見て、ありがた迷惑なも

のであったことは、読者にも、やがて分かるだろう。彼は、これによって、

国中に類の無いほどの重責を負わされたのである。

 

  この養子縁組の由来は、少年の伯母が、米澤の老公に対し、「無口で、

思慮深く、非常に親孝行な子でございます」と言って、彼を推薦したことに

始まる。 

  彼は一般の貴族の子と違い、家庭教師に対して、驚くほど従順であった。 

 師の名を細井平洲(*下の写真と肖像画)という。細井は、極めて低い身分

から、この責任の地位に取り立てられたのである。 

                     Photo                  

                          Photo_2

  この立派な教師が、好んで少年に語り聞かせたのは、次のような、従順な

生徒のものがたりであった。

 
  御威勢のさかんな紀伊の徳川頼宣様(*徳川家康の十男:下の肖像画)

が、いつも大切に扱われていたのは、おひざに残る、あざでありました。  

              Photo_3

  それは、紀伊様のお若いころ、何か、先生の教えに従わぬことがあって、 

先生に激しく、つねられた跡でありました。  

  紀伊様は、後年、そのあざを示して、これは、わが恩師が、われに残した 

もうた戒めである。恩師は、これをつねに見ることにより、つねにわが身を 

反省し、自身と人民とに忠実であれと、教えたもうておられるのだ、しかし、 

ああ、あざは、わが年のすすむに従って薄れ、それとともに、わが自戒の心 

もまた衰えてゆくと、歎(なげ)かれるのがつねでありました。



  若き鷹山は、この話を聞くたびに泣いた。― この時代にあって、きわめて

まれな敏感さである。 

  当時、貴族の子弟は、他と隔たった環境で育てられ、目下の者に対する

義務も、自分たちの持つ権力と富との由来も、自覚せぬのが普通だったの

だ。

 

  彼はまた、“民をいたわるに、おのれの体の傷に対するがごとくせよ”とい

う、シナの聖人の言葉を聞いて、心の奥底にまで達するほどの、深い感銘を

受けたらしい。 

  この言葉は、やがて“彼自身”のものとなり、後年、民を治める立場に立っ

た彼の全行為を律したのである。



  非常に敏感な人は、宗教的な感受性もまた強い。初めて藩政を継ぐとい

う日に、鷹山は、生涯の守り神である春日明神(=上杉謙信公の御霊)に

対し、次のような誓いを立てた(*下の写真 は、春日神社)

                     Photo_2
                         

 一、 文武の両道は、これまで通り、将来も怠りなく励みます。  

  二、 民の父となり母となることを、第一に旨といたします。  

  三、次の言葉を、日夜、忘れぬようにいたします。  

        濫費せざれば、危きことなし  

    施しをなして、浪費せず  

  四、 言行の一致せぬこと、賞罰の不正なること、不誠実、不作法―すべて 

         これらの不徳におちいらぬよう、務めて身を守ります。  

         以上を、将来堅く守ることを誓います。万一、怠るようなことがあった 

        場合には、たちどころに神罰を下し、家の繁栄も永久に失わせたまえ。

 

                                    上杉弾正大弼 

                                藤原治憲

 

          明和四年(一七六七年)八月一日



  鷹山が、これから直面しようとする仕事は、彼ならでは、とうてい、引き

受けかねるようなものであった。

  彼の養家、上杉家は、太閤以前の時代には、日本有数の大藩であって、

広く豊かな越後の国をはじめ、日本海沿岸の数ヵ所を領有していたが、

太閤によって、会津地方に移されてからは、とみに勢力が衰えた。

  とはいえ、なお年収百万石の雄藩であって、その領主は、日本の五大名

の一人に数えられていたのである。

  しかし、関ヶ原の一戦(1601年)で、反徳川方に味方したばかりに、今度は、

遠い米澤地方に移され、三十万石に減収の憂き目を見た。

  のみならず、その後また、石高は半分に減らされ、鷹山が領主になった時、

上杉家の石高は十五万石に過ぎなかった。しかし、石高は減っても、なお

百万石当時からの多数の家臣を養い、大藩時代の格式に基づく習慣を維持

せねばならなかったのである。



  それゆえ、この新しい領地では、藩を支えることができず、藩の負債は、

数百万両にのぼり、税金と強制取り立てとにおびえる領民は他国に流れ、

領内は貧窮と欠乏との極に達した。

  羽前の国の南部に位置する米澤は、海に臨まず、地味は痩せ、天然資

源にも乏しいという、日本の中でも極めて貧しい地方であった。

  すべての情勢が、このように絶望的であったから、藩の崩壊と、その保護

の下にある領民の破産とは、早晩避けられぬことと見られていた。

  藩の総力を挙げて、なお、五両の金を調(ととの)えられぬことがしばしば

であったという話からも、藩の落ち込んだ困窮のほどは思いやられる。―

  750平方マイルの領土と、十万人余の人口を有する大名とは信じられぬほ

どの貧困の状態である。

  若き鷹山が第一になすべき仕事は、まず現在の窮境を切り抜け、どうに

か忍び得る程度にまで、藩を建て直し、その上で、もし彼の守り神たる春日

明神の恵みが得られるならば、彼の領地を、いにしえの聖賢が考えたよう

な“理想の国”とすることであった。



  藩主となってから二年目に、鷹山は、米澤の領地へ、初のお国入りをした。

晩秋の風情が、さらぬだに哀れな領内の様子を、さらに悲惨なものとしてい

る。

 行列が、村から村を進むうち、若い領主の鋭敏な心は、眼前に横たわる

村々の、荒廃し、打ち捨てられ、住む人もまれな光景に深く動かされた。

  付き添いの家来たちが、“乗り物”の中の主君をふと見たのは、その時で

ある。

 主君は、ひざの前にある〝火鉢”の炭火を吹き起こしている最中であった。

  「殿様、良い火をお持ちいたしましょう」と、家来の一人が言うと、鷹山は、

「いや、要らぬ。私は今、大きな教訓を学んでいるのだ。それが何であるか

は、後で、おまえたちに話そう」と答えた。

  そして、一行がその夜の宿にはいった時、鷹山は、家来たちを呼び集めて、

その日の午後、学んだ、新しく貴重な教訓を語った。

  わが民の悲惨なありさまを、この目で、じかに見て、絶望に沈もうとした時、 

私は、火鉢の炭火がまさに消えようとしているのに気付いた。 

  そこで、火鉢をそっと取り上げ、静かに、根気よく、吹いているうちに、とう 

とう火を起こすことができた。私は、実に嬉しかった。 

  その時、これと同じやり方で、私にゆだねられた領土と領民とを生き返らせ 

ることもできるのではないだろうかと、自分に問うてみた。そして、私の心に  

は、また希望がわいて来たのだ。

                     Photo_5

  〔鷹山よ、それこそは天の声である。それと同じようなやり方で、神は、昔

の預言者に語りたもうた。鍋の召しによって、民を悔い改めさせ、星の示し

によって、諸国民に平和を与えたもうたのである。

  われわれに、聞く耳があれば、自然の語る声を聞くことができる。鷹山は

誠実であったがゆえに、その声を聞いた。なぜならば、誠実な人間のみが

自然と結ぶことができるからである〕  【つづく】

 

 

 

 

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