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2013年2月15日 (金)

上杉鷹山(1 )

   上杉鷹山―封建君主


  1.封建政体

 

 「神の国」の出現は、この、みじめな地上では、ついに望み得ぬことで

あろうか? 

  人類は、これを全く望みなきことにあらずして、切望してきたし、人類の

歴史は、そもそもの始めから、それと明らかに自覚はしないながらも、

神の国を、この地上に実現しようという試みの連続であったように思われる。

 

  クリスチャンは、ヘブライの預言者の理想を受け継いで、十九世紀もの間、

神の国の出現を祈ってやまなかった。 

  神の国は確かに地上に実現されると、気早くも想像した人々があり、アダ

ムの堕落した子らの間に神の国を来らせようとの大胆な試みも、幾たびか

なされたが、これらの試み以上に、聖い勇気と、気高い自己犠牲の精神とを

現わすものは、歴史上にかって存在しなかった。

 

  サボナローラ(*下の肖像画)のフィレンツェ共和国、クロムウェルのイギ

リス共和国、デラウェア河辺に試みられた、ベンの「聖なる実験」などは、

地上で人類が試みた勇敢な企画のうちの最も高貴なものである。

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  しかし、それらとても、理想は実現にやや近づいたという程度にすぎない。
 

政治機構としては、非常に進歩したものを持つにもかかわらず、現在のわ

れわれが、理想の国から遠ざかっていることは、十世紀前の祖先の時代

と少しも変わらない。 

 事実、われわれの状態には、いささかの進歩もないのである。さればこそ、

ある賢人は、人類はただ一つの方向、すなわち“堕落”への道を歩んで来た

にすぎないと述べて、われわれを驚かした。



  〔何十年か前には、立憲政治こそ、黄金時代をもたらすものだと考えられ

ていたが、それが実現した今日では、さらに遠い未来に希望をつなぐほか

はない状態である。 

 ある者は、責任内閣制が、われわれに、待望の自由を与えるものだと説く

が、われわれは、すでにこれらの政治的奇術師どもの言葉に信を失って

いる。 

  彼らは、われわれを、”まぼろしの国”へと導く者ではあるまいか。選挙政

治によって神の国が実現することなどは、断じてあり得ない。〕

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  もちろん、われわれは、あらゆる種類の圧制政治を憎み嫌う。専制的な

圧制政治は、今や熱帯地方に行なわれるのみであり、それすら、やがて

滅びるであろう。

 しかし、投票箱の中には、いかなる圧制政治も忍び入らないと想像する

のは愚かなことだ。

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  圧制政治は、われわれが悪魔どもと結んでいるかぎり存在し、この、紳士

と名乗る悪魔どもが、われわれの中からことごとく追い出されぬかぎり、

滅びないであろう。 

  それゆえに、私は言う、人類を苦しめた二種類の圧制政治、すなわち専制

的なそれと、投票箱によるそれとを比べるならば、後者はただ、前者より悪

の程度が少ないというにすぎないと。それだけのことである。 

  この二者より善いもの、または最善のものは、まだ現われない。そして、

それが、いつ、いかにして来たるかについては、われわれは発言を禁じら

れている。


  しかし、いかなる制度といえども、に取って代わることはできないという

ことを、われわれは断固として信じよう。 

  のみならず、徳が現実に存在”する”場合には、制度は、徳の助けになる

どころか、むしろ妨げとなる。
 

  「進歩した機構」は、聖人を助けるよりも、盗人を縛るに適したものであっ

て、代議政体とは、進歩した警察制度の一種だと、私は考える。 

  それによって、無頼漢や悪者を取り締まることはできよう。しかし、いかに

多数の警官が集まっても、一人の聖人、一人の英雄の代わりをつとめる

ことはできない。 

  「非常に悪いものではないが、さりとて非常に善いものでもない」というの

が、代議政体に対する批評でなければならない。



  封建制度には、さまざまな欠点があり、その欠点のゆえに、日本はそれを

廃して立憲制度を採用した。しかし、ねずみを焼くはずの火は、同時に、

納屋をも焼いたのではあるまいか。 

  そして、封建制度が失われるとともに、それと結びついていた、忠義や

武士道等、男らしく情ある心情の多くも、われわれの中から消えたのでは

あるまいか(*下は、大政奉還と王政復古〔=小御所会議〕の場面)

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  真正の意味における忠義は、君主と臣下とが直接に結びついている

場合にかぎり存在するものであって、この両者の間に「制度」が、はいり

込んだならば、もはや忠義は存在しない。なぜなら、主君はもはや主君で

はなくて、統治者となり、臣下もまた、人民に変わったからである。

 

  そのうちに、やがて憲法上の権利をめぐる争論が始まる。そして、その

解決を求めた人々は、これを心に、正すというやり方を改め、法律の成文

によって解決しようとするのである。

  自己犠牲のうるわしい精神が、残りなく発揮されるのは、仕えるべき”

わが”主君、または、心にかけてやるべき”わが”臣下を持つ場合に限ら

れる。

  封建制度の強みは、治める者と、治められる者との間に、この“人間的

な”つながりがある点にあり、封建制度の真髄とは、国家に適用された

家族にほかならない。

  ゆえに、封建制度を理想的な形にしたもの、それこそは、理想的な政

治形態だ。「愛の法律」以上に高い、法律も規約もないからである。


  あらゆる本の中で最もすぐれた本をひもとけば、未来の約束の国にお

て、われわれは、「”わが”民よ」と呼ばれ、「”なんじ”のむちと、”なんじ”

つえ」とが、われわれを慰めるであろうと書いてあるのではないか?

  それゆえに、われわれは、封建制度の廃止が一時的なものであって、

永久的なものではないようにと、心から願うのである。

  憲法上の論争を、数百年または数千年も続けた後に、われわれ人類は

すべて、一人の「父」の子であり、それゆえに互いに兄弟であるということ

悟る時、封建制度は、完全な、栄光に満ちた形を採って、再び、われわ

れの間に現われ、そして、“真の”武士が、「征服した者を許し、誇る者を

くじき」、「平和の法の基をすえる」ために、再びその座を取り戻すに至らん

ことを、われわれは望んでやまない。

  しかし、そのような王国の実現を待ち望む間は、それと非常によく似た事

を追想することによって、われわれの心を元気づけようではないか。

  これは、水と陸から成るこの地球上で、しかも異教国の日本において、

実際に行なわれたことである。

  泰西(=西洋、あるいは西洋諸国)の知識がわが国に入る前に、すでに、

われわれは、平和の道を知っていたのだ。

 そして、日本独自の方法で「人の道」を行ない、「英雄の勇気をもって

臨んだ」のである。  【つづく】

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