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2013年2月21日 (木)

上杉鷹山(5 )

   5.社会と道徳との改革




  東洋的考えの一つの美しい特徴は、経済を道徳と切り離して取り扱わ

なかった点である。 

  東洋の哲学者にとっては、富は必ず徳の“結果”であり、富と徳との相

互の関係は、実と木との関係に等しかった。

 

  木に肥料を施せば、努力せずに実を得ることができるように、「人々に愛

を施せば」、必ず富をなすことができる。 

  「それゆえ、偉人は、木を思って実を得るが、小人は、まず実のことを思

うゆえに、実を得ることができない」という孔子の教えは、恩師、細井によ

って、鷹山の心に刻み込まれていたのである。

 

  鷹山の産業改革の偉大さは、彼が、臣下の者たちを“徳行”の人とする

ことを、第一の目的とした点にある。 

  快楽主義的な幸福感は、彼の思想に反するものであった。富は、それに

よって、万人が礼儀正しい人となるために必要であった。

                             Photo_13

  なぜなら、昔の聖人の言葉にもあるように、人は「衣食足って礼節を知

る」からである。 

  鷹山は、天から依託されたその臣を導くにあたり、上は大名から、下は

百姓までを、等しく律する「人の道」に依ろうとしたが、これは、当時の慣習

から驚くほど飛躍した行為であった。



  藩主となってより数年、彼の施した諸種の改革が順調に進行しつつある

時、彼は、長い間、閉ざされていた藩校の再建に着手し、それを「興譲館」

(*下の写真・・・今に残る正門と、その全景)と名付けた。

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               Photo_15



    これは、謙譲の徳を奨励するための学校という意味であって、彼が主

して奨励しようとした徳が何であるかを、非常によく現わすものである。 

  この学校は、その規模といい、設備といい、当時の米沢藩の財政状態と

は全く釣り合わぬほど、優れたものであった。 

  その校長として、当時最大の学者の一人で、また鷹山自身の家庭教師

であった細井平洲(*下の写真)を迎えた上、領内の貧しい有為な青年に、

高等教育を受ける機会を与えるため、多額の奨学金(返済の義務なし)を

提供したのである。

                             Photo

  創立以後、およそ百年の間、この学校は、全国の学校の模範であった。

この学校は今もなお、昔の名前のままで残っているが、これはおそらく、

この種の学校のうち日本最古のものであろう。

  しかし、病者を癒す設備を欠いては、愛の治世は完全とは言われない。

わが賢明な君主は、もちろんその点を見逃さなかった。

 

  彼は医学校を設立して、当時の最も高名な医学者二人を教授として

招く一方、薬草栽培のための植物園を作り、そこで栽培した薬草を材料

として、調剤法の授業や実習が行なえるようにしたのである。 

  ヨーロッパの医術が、まだ恐れと疑いの目で見られていたこの頃に、

鷹山は、数名の家来を杉田玄白(*下の肖像画)のもとに派遣して、

新医学を学ばせた。この玄白は、当時、日本最初のオランダ医学者と

して高名な人であった。

                           Photo_16
 

  ヨーロッパの医学が、日本やシナの医学にまさることを、ひとたび確認

すると、鷹山は、手に入るかぎりの医科器械を買い込むのに、費用を惜し

まなかった。 

  そして、それらを彼の学校に備え付けて、授業と実習との際に自由に使

えるようにしたのである。

 

  こうして、ペリーの艦隊が江戸湾に現われる五十年前に、すでに北日本

の山間地方において、西欧医術が一般にひろく行なわれていたのである。 

  鷹山のシナ的教養は、彼を、シナ的人間にはしなかった。 

 

  鷹山の行なった純粋な社会改革については、わずかにその二つを述べ

るゆとりしかない。

  その一つ、公娼の廃止は、ひとえに「愛の治世」という彼の方針に基づく

ものである。公娼を廃止して、下等な欲情のはけ口を断てば、さらに憎む

べきやり方によって、社会の純潔がおびやかされるかも知れないという、

月並みな反対論に対しては、鷹山は次のように、はっきりと答えた、

「欲情が、公娼によって、しずめられるものならば、公娼は幾らあっても

足りません」と。彼は、公娼廃止を断行した。

 そして社会的に何らの不都合もなく、これを継続することができたので

ある。

 

  鷹山が、「五、十組合の制度」に関して、農民階級―彼の領内で最も

重要な階級―に与えた訓示は、完全国家についての彼の理想を非常に

よく現わすものであるから、できるだけ原意をそこなわぬようにして、

全文をここに訳してみよう。

  百姓の天職は耕作と養蚕(*下の写真)とである。この二つに精を出

すことによって、父母、妻子を養い、また税を政府に納めて保護を願う

のである。

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  だが、それも、互いに助け合わなければ、できることではないから、ここ

に何らかの組合が必要となる。

  今までに、組合がなかったわけではないが、真に、たよりになるものが

あったとは聞かないので、ここに新しく、次のような”五、十組合”と、

“五ヵ村組合”とを設立する。

  一、五人組は、常に一家族のように親しく交わり、喜びも悲しみも分かち

      合わねばならない。

  二、十人組は、親類のように、たびたび行き来して、互いの家事の世話

        をせねばならぬ。

  三、一村の者どもは、友人のように、互いに助け合わねばならぬ。

  四、五ヵ村組合を構成する村々は、真の隣人にふさわしく、災難の時に

       は助け合わねばならぬ。  【つづく】

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