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2013年2月 7日 (木)

西郷隆盛(4 )

   4.征韓論事件

 

   西郷の場合、単に征服の目的だけで戦争をすることは、彼の良心が

許さなかった。 

  東方アジアの征服という彼の目的は、当時の世界情勢に対する彼の

見地から、必然的に導き出されたものである。

 

  すなわち、ヨーロッパの強国に対抗するためには、日本は、ある程度、

領土を拡張することが必要であり、また、国民精神を奮い立たせるため

には、積極政策以外に道がないと、彼は考えたのである。

  その上、彼の胸中には、日本は、東方アジアの指導者としての大使命を

持つものだという自覚もあったと、われわれは信ずる。 

  弱者を圧(お)しつぶす気持ちは毛頭なく、弱者を導いて強者に対抗させ、

驕れる者を粉砕することに、彼は、その全力を注ごうとしたのである。

 

  彼の理想の英雄はジョージ・ワシントン(*下の肖像画)であり、彼は、

ナポレオンと、それと同型の人物を、いたく忌み嫌ったということだが、

この一事のみによっても、彼が低い野心の奴隷でなかったことは分かる

と思う。                    Photo

 

  このように、西郷はかねてから、自国の使命について高い見解を抱いて

いたが、しかし、十分な理由もなしに戦争を始めようなどとは思わなかった。

それは、天の法則にそむくことだと、彼はよく承知していたのである。

 

  しかし、機会は向こうから、おとずれた。これこそ、世の始めから日本に

定められていた使命を達成すべき天与の機会だと、西郷が考えたのも

無理はない。 

  事は、隣国の韓国で起こった。アジア大陸の中で、日本に最も近く位置

する韓国が、維新の新政府から派遣された使節らに無礼な態度を示した

のである。

 

  のみならず、韓国は、在留日本人に対しても明白な敵意を示し、また、

友好的な隣国日本の尊厳を著しく傷つけるような布告を、国民に向けて

発した。 

  「こんな無礼を、黙って見過ごしてもよいものか」と、西郷、並びに彼と

意見を同じくする人々は言い張った。

 

  韓国の横暴は、兵火で報いるほどのものではないとしても、わが国は

直ちに、高官数名から成る新しい使節団を、半島の王宮につかわして、

先の無礼を、とがめねばならぬ、そして韓国がなお、その高慢な態度を

改めずに、わが国の使節を侮辱し、また万が一、彼らの身に危害を加える

ようなことがあったならば、その時こそ、国民は、大陸に軍隊を派遣し、

天の許す限り、その征服を推し進めるべきだと悟るであろう、そして、

この使節の責任は重く、また極度の危険を覚悟せねばならぬから、

この役目には是非、自分を当らせてもらいたいと、西郷は主張した。

 

  国民の前に征服の道を開くために、まず征服者自身が自分の命を投げ

出そうというのである!  このような方法で企てられた征服が、かつて

歴史上に見られたであろうか。



  平素は、ゆったりとした無口な西郷も、閣議の席上、韓国派遣使節の

問題が討議される時には、別人のように激して、活動的となり、自分を

全権使節に任命されたいと、同僚に”哀願”したほどである。

 

  それゆえ、その願いが首尾よく、叶えられた時の喜びは、ちょうど欲しい

物を手に入れた子供が、おどり上がって喜ぶような様子だった。 

  ここに、彼が、友人の板垣(*下の写真)に宛てて書いた手紙がある。

西郷の任命は、板垣の特別の尽力により、秘密のうちに決定したのだった。

                            Photo_5

  Photo_2
 

    板垣様 


  きのう、お宅に参上いたしましたが、お留守だったので、お礼を申し上げる

こともできずに帰宅いたしました。 

  私の願いが”ことごとく”、叶えられたのは、ひとえに御尽力のたまもので

あります。病気もすっかり治りました。 

  私は喜びにわれを忘れ、三條大臣邸から宙を飛んで、お邸(やしき)へ

けつけたのでありました。 

  もう「横槍」のはいる恐れもないと存じます。これで、私の望みを果されま

したから、以後は青山の家に引きこもり、ひたすら発令を待つことといたし 

ます。 

  まずは御礼の心もちのみ申し述べました。 

                                        西郷

  

  この折しも、岩倉、大久保、木戸の三人が、海外視察の旅から帰って来た。 

文明の中心地で、その快楽と幸福とを見て来た彼らは、もはや外国との戦争

などを考えもしなかった。それはちょうど、西郷の頭の中に、パリやウィーン

の生活が存在しなかったのと同様である(*下の写真は、岩倉遣欧使節

団)

             Photo_3

  そこで三人は、虚偽と卑怯とのあらゆる手段に訴えて、自分たちの留守の

間に閣議で決定された決議をくつがえすことに努め、三條大臣の病気に

乗じて、ついにその目的を達した。

 

  すなわち1873年11月28日、韓国へ使節派遣の議は取り止めとなったので

ある。 

 かつて怒りを表に現わしたことのない西郷であるが、「長袖」の廷臣らの、

この卑劣きわまるやり方には心底から怒った。 

  さきの決議が撤回されたことよりも、撤回に至るまでのやり方と、その

動機に対して、おさえきれない憤りを発したのである。

            Photo_4

  この腐敗した政府に再び関わるまいと決意した西郷は、閣議の卓上に

辞表を投げつけると、直ちに東京の家を引き払って、故郷の薩摩に引退

した。 

  こうして、彼は、ほとんど彼一人の努力で出来上がったに等しい政府に、

二度と加わることはなかったのである。



  征韓論の禁圧以来、政府の積極政策はすべて取り止めとなり、それ以後

の全政策は、支持者たちのいわゆる「国内発展」の線に沿うこととなる。 

  そして、岩倉以下の「平和派」の願望さながらに、国内は、彼らのいわゆ

る「文明」の色に染められて行く。

 

  だが、それとともに柔弱の風も生じ、決然たる行為を避け、明白な正義を

犠牲にしても平和に執着するなどの、眞の武士を嘆かせる風潮が、ひろが

って行った。


 文明とは、正義が十分に行われることにほかならぬ。家屋の壮大や、

衣服の美や、外面的な装飾を、文明と呼ぶことはでき”ない”


  これは、西郷が文明に対して与えた定義であるが、”この意味における

文明は、彼の時代以後、あまり進歩しなかったことを、われわれは遺憾と

せざるをえない。

 

 〔西郷の征韓論が、もし実行に移されていたら、国民は、多くの血を流し、

複雑な対外関係の渦に巻き込まれたことであろう。だが、この企ては

同時に、多くの健全な効果を、国民にもたらしたであろうことも、私は疑わ

ない。 

  西郷の計画が斥けられたことにより、国民は、物を得て、精神を失った。 

そして、どちらの道を選ぶべきであったかは、未来が判定するであろう。

・・・内村鑑三記〕  【つづく】

 

   

 

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