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2013年2月 9日 (土)

西郷隆盛(6 )

  6.彼の生活と人生観



  西郷が日本国のために、如何なる貢献をなしたかにつき、歴史的に

正しい評価を下すには、いま少しの時を待たねばならない。 

  だが、彼が、如何なる人間であったかを知るための材料は十分にある。 

そして、彼の人と成りを知ることが、彼の歴史的評価を決定する上の重要

な参考になるとしたら、彼の私生活と私見とについて、私がしばらく筆を

費やすのを、読者は許して下さることを信ずる。

 

  第一に言いたいことは、彼ほど人生の欲望の少ない人はなかったという

ことである。 

 日本陸軍の総司令官、近衛総督、大臣中の最有力者という栄誉を身に

帯びながら、彼の外見は、普通の兵卒と異ならなかった。 

  数百円の月給のうち、十五円あれば十分だとして、残りのすべては、困っ

ている友人に快く分けてやった。

 

  東京の番町の家は、“月の家賃三円”という見すぼらしい建物だったし、

その服装はといえば、薩摩がすりの綿服に、太い白木綿の兵児帯を締め、

足に大きな下駄を突っかけるというありさま。

  この風態で、宮中の正餐の席をはじめ、あらゆる場所に出かけて行った

のである。

 

 食物にしても、出される物は何でも食べた。あるとき、ある人が彼の家を

訪問したところ、主人公は、兵士や従者たちと車座になって、大きな木鉢を

囲み、その中から、冷やそうめんをすくいあげて食べている最中だったと

いう。若者たちと、いっしょの食事をするのが大好きだったという彼自身、

単純きわまる大きな子供であったのだ。

  自分の身体に対してと同様、自分の財産に関しても、彼は至って無頓着

であった。

 

 東京市中の最も繁華な場所に持っていた立派な地所を、当時発足した

国立銀行に引き渡すに際し、値段を聞かれても、答えることを拒んだという。

  それゆえ、時価数十万円のその地所は、今日に至るまで、その銀行の

所有するところとなっている。 

  また高額の恩給はすべて、鹿児島に創立した学校の維持費に宛てた。

 

彼の漢詩にいわく 

 わが家の遺法、人知るや否や  

  子孫のために、美田を買わず

そのようなわけで、彼は妻子に何の遺産も残さなかったが、しかし国家は、 

反逆者、西郷の遺族の生活を保証したのである。近代の経済学は、西郷の 

この「無頓着さ」に対して、多くの異議を唱えるであろう。

 

  しかし、彼にも一つの道楽があった。それは、犬であった。贈り物と思わ

れる物は、何に一つ受け取らなかった彼も、犬に関する物であれば、

大喜びで受け取った。 (*下の写真は、西郷隆盛の愛犬ツンの像)

 Photo_5

  着色石版画、石版画、鉛筆で書いたスケッチなど、犬に関する物は何でも、 

彼を喜ばせた。 

  東京の家を引き揚げる時などは、大きな箱が、犬の画でいっぱいになった

という。 

 大山大将(*下の写真:彼は、西郷の従弟に当る)に宛てた彼の手紙の

一つに、犬の輪について細かく記したものがある。

           Photo_6

  犬の首輪の見本、御親切にお送りくだされ、まことにありがたく存じます。

舶来品よりも上等のものばかりでありますが、ただ、これより三インチばか

り長くしていただけたら、当方の希望にぴったりであります。    

  それを四、五本と、もう一つは、見本より少し幅広で、五インチ長いものを、

お送くだされたく、お願いいたします・・・・。 

 

  彼は生涯、犬を友とした。犬どもを連れ、山の中で、幾日幾夜を過ごすこ

とさえ稀でなかった。 

   最も孤独な人であった西郷は、もの言わぬ獣と、その孤独を分かち合っ

ていたのである。(*下方、上の写真は、ブログ「撮るだけ撮ったら腹ごしら

え  西郷隆盛像」より拝借)

                           Photo_7
               

            Photo_8

  彼は、人と言い争うことが嫌いで、できる限り、それを避けようとした。
 

ある時、宮中の宴会に招かれ、例の薩摩がすりに兵児帯という服装で、

参内したまではよかったが、退出しようとすると、皇居の玄関にぬいだ

下駄がない。

 

  しかし、その事で誰彼を煩わすのは好まないので、はだしのまま、外へ

出て、ぬか雨の中を歩き出した。皇居の門まで来ると、守衛が彼を呼び

止めて、身分を釈明せよと言う。 

ーあまり粗末な身なりなので、怪しい人物と看做されたのだ。

 

「西郷大将だ」と答えても、相手は信用せず、門を通ることを許さない。

そこで、彼は雨の中に立ち、自分の身分を証明してくれる人の来るのを

待つことにした。 

  間もなく岩倉大臣を乗せた馬車が通りかかって、はだしの男は、まさしく

大将であることがわかり、二人は、そのまま馬車に同乗して立ち去ったと

いう。―

 

  西郷はまた、「熊」という名の下男を召しかかえていた。「熊」は、質素な

家風の西郷家に長く仕えて、人にもよく知られていたが、ある時、重大な

罪のために、職を取り上げられるという破目におちいった。 

  しかし寛大な主人は、失業後の下男の生活を気づかって、彼を従前ど

おり家に置き、その後の長い年月、一度として彼に用事を命じなかった。 

  主人よりも、ずっと長生きした「熊」は、この不運な英雄を深く悲しむ者の

一人であった。

 

 西郷の私生活を親しく知るある人は、次のように言っている。 

「私は十三年間、彼と生活を共にしたが、その間、彼が雇い人を叱ったの

を見たことがない。 

  彼は、寝床の上げ下ろし、雨戸の開け閉(た)て、その他、身の周りの事は、 

ほとんど自分でやった。 

  しかし、他の人がやってくれている事には決して手を出さなかったし、また、 

手伝いましょうという申し出を断わることもなかった。 

  彼の無頓着さと無邪気さとは、まるで子供のそれのようだった」と。

 

  ”彼が衷心から嫌ったのは、他人の平和を乱すことだった。 

人の家を訪ねても、声をかけて、中の人を呼び立てるようなことをせず、 

そのまま玄関にたたずんで、誰かがひょっこり現われて、自分に気づくのを 

待っていたという!”

  これが、彼の生き方だった。これほどまでに謙虚で、これほどまでに単純な
 

生き方が、またとあろうか。 

  しかも彼の思想は、聖者や哲学者のそれに等しかったことは、すでに他の 

機会に述べた通りである。

  「敬天愛人」彼の人生観は、この言葉に尽きている。彼にとり、

すべての知恵はそこにあり、すべての非ー知恵は、自己を愛することに

あった。

  西郷が「天」に対して如何なる考えを持っていたか、「天」を、「力」と解し

たか、または「人格」を持つ者と解したか、また、日々の形式的礼拝とは

別に、彼が「天」に対する尊敬を如何なる形で表わしたか等を確かめるこ

とは、われわれにはできない。

            Photo_4

  しかし彼が、「天」とは、全能者であり、不変なる者であり、あわれみに満

ちた者であり、「天の法」は、すべての人の守るべき完全無欠のものであっ

て、しかも極めて恵み深いものであると解していたことは、彼の言動によっ

て、十分に知ることができる。

  「天」と「天の法」とについて彼が語ったことには、さきに触れた。

彼の書いたものは、「天」に関する思想で満ちているが、それらをここに

引用する必要はないだろう。

  「天は、すべての人を平等に愛したもう。それゆえに、われわれは、自身

を愛するに等しい愛をもって、他の人を愛さねばならぬ」という彼の言葉は、

律法と預言者とに関するすべてを言い尽したものである。

  この偉大な教義を、彼がどこから学びとったかを知りたいと思う人もある

であろう。  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

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