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2013年2月23日 (土)

上杉鷹山(7 )

  6.その人と成り


  どんな人間であろうと、これに対し、アダムの“並みの”子以上の取り

扱いをすることは、当世流のやり方ではない。ことに、その人が、恩恵

と天啓とに無縁の異教徒である場合は、なおさらである。

  こうした点から、われわれ日本人が、わが国の英雄を神にまつる風

習も、とかくの非難を受けがちであるが、しかし、あらゆる人間の中で

鷹山ほど、その欠点や弱点を数え上げる必要の少ない人間はなかった

と思う。それは、鷹山自身が、伝記者の誰よりもよく、自分の欠点や

弱点を知っていたからである。

   彼は“人間”という言葉の持つ意味を、すべて備えた人間であった。

責任の地位に就くにあたって、神社に誓詞を納めるのは、弱い人間のみ

のすることである。また、彼自身と藩とが危機に陥った時、守り神の社に

走ったのは、彼の弱さ(この言葉を用いてよければ)のゆえであった。

  ある日、江戸の邸に居た彼の手もとに、一通の公文書が、さし出され

たが、それは、親孝行のゆえに表彰さるべき臣下の名前を書き連ねて、

彼の審査と認可とを待つものであった。

  ざっと、それに目を通した彼は、家庭教師の講義が済むまで、それを、

たんすの中にしまっておくように命じたが、講義の終了後、その重要な

書類のことを、すっかり忘れてしまった。

  これは、「万人の主」として許すべからざる怠りであると、臣下の一人に、

きびしく非難されて、藩公は限りなく恥じた。



  彼はその場に座ったまま、夜もすがら後悔の涙にくれ、朝が来ても、

「後悔のため、朝食に手をつけることさえ、できなかった」。

  招かれた教師(=細井平洲)が、孔子の書の一部を引用して、その罪の

許されることを告げ、ここに初めて「食物が、のどに通るようになった」と

いう。これほどまでに鋭敏な魂に対し、歴史的批評の荒々しい手を触れ

させてはならない。

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  しかし、彼の公明で誠実な性格を知るには、その家庭生活と、家庭内

の諸事とを見るに如(し)くはない。

  彼の生活の質素なことについては、さきに述べたが、彼は木綿の衣服と、

粗末な食事との習慣を、藩庫の信用が全く回復し、自由に多額の金が使

えるようになったその晩年まで続けた。

  畳は、修繕がきかぬほど古びるまで、取り替えようとしなかった。自ら、

破れ畳に紙を張りつけて、つくろいをしている藩主の姿が見られることも、

しばしばであったという(*下の写真は、鷹山使用の調度品)

           Photo_2

  家庭に対する鷹山の考えは、非常に高潔なものであった。この点にお

いて、彼は、次の聖人(=孔子)の言葉に、文字通り従った者である。

  自分を治め得る者のみ、家を治めることができ、その家が正しく治めら

れている者にして初めて国を治めることができる、と。

 

  その当時は、蓄妾の風が“公然”と行なわれ、ことに鷹山の属する大名

社会にあっては、妾の数が四、五名にとどまる者はまれであったにもかか

わらず、鷹山は、“十歳も年上”の妾を一人、持っていただけであり、それ

とても、次のような特別の事情あってのことだった。

  すなわち、彼のまだ成年に達しない前、当時の日本の風習として、雙方

の両親同士の取り決めで結婚させられた妻は、十歳の子供の知恵しか

備えぬ、生まれながらの低能(ママ)であったのである。

  しかし、彼は、心からの愛と尊敬とをもって彼女に接し、彼女のために、

おもちゃや人形を作るなど、あらゆる手段を尽くして彼女を慰め、二十年

に及ぶ結婚生活中、一度として、自分の運命に不満を示したことはなか

った(*写真は、イメージ)

Photo_3

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  夫妻が一年の大半を江戸で暮らす間、もう一人の配偶者(妾)は米澤に

残され、低能の正夫人に与えられていたような権限を、決して与えられな

かった。正夫人には当然、一人の子もいなかった。

(*下の写真は、雪中の上杉神社)

  【つづく】

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