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2013年2月 5日 (火)

西郷隆盛(3 )

  3.維新における彼の役割


  明治維新における西郷の役割を残らず書くことは、維新史全体を書く

に等しい。1868年の革命は、ある意味で西郷の革命だったと言えると、

私は思う。

 

  もちろん、一人の力で国の立て直しができるものではないし、また、

われわれは、新しい日本を西郷の日本とも呼ぼうともしないであろう。 

  それは、この大業に参加した他の偉人たちに対して、大きな不公平を行う

ことであるからだ。

 

  事実、彼の共働者の中に、彼よりも優れた者は少なくなかった。経済

再編成の問題について、西郷は無能力に近かったし、国内行政の細部に

ついて、木戸や大久保のような適任者ではなく、また維新後の国内安定

の手腕においては、三條や岩倉(*下の肖像画の上が三條実美、下が、

岩倉具視)の方が、はるかに西郷よりもすぐれていた

 これら”すべて”の人がいなかったら、今日の新日本帝国は有り得なかっ

たであろう。

           Photo_6

            Imagescaevfewc

  しかし、もしそこに西郷がいなかったとしたら、革命が果たして行われた

であろうかを、われわれは疑うものである。 

  木戸や三條がいなくても、維新はとにかく実現の段階にまでは漕ぎつけ

たであろう。

 

 維新を成就させるために必要欠くべからざるものは、革新の運動そのもの

を引き起こす原動力、その運動に形を与え、そむくべからざる天の法則

命ずる方向に、その運動を推し進めて行く精神である。

 

  ひとたび運動が起こり、その進むべき方向に向かえば、あとに残るのは、

比較的やさしい仕事、その多くは雑役ともいうべきものであって、西郷の

ような大人物より一段劣った人々にもできる事である。

 

  そして、われわれが、西郷の名と新日本帝国とを、これほど密接に結び

つけているのも、彼こそは、その大きな心の中に発生した力を、自ら発展さ

せ、方向づけた人であって、この出来事はみな、その力に起因していると

信ずるからである。

 

  さて徳川将軍の都、江戸で、東湖との、極めて重要な会見を終え、故郷の

薩摩に帰った西郷は、当時、西日本で勢力を増しつつあった反徳川党に

投じた。 

  勤皇主義を奉ずる、仏教の名僧月照(*下の肖像画)と彼との友愛もの

がたりは、彼の生涯に一転機を画したものであるが、この事によって、

彼の掲げる目標は公然と知れ渡った。

                               Photo

  この事件というのは、こうであるー西郷はかねてから、亡命中の月照を

隠まうことを任せられていたのであるが、幕府方の追窮が厳しいため、

隠し切ることができず、ついに客僧と共に死のうと決心して、月照の同意

を得た。

 

  月明の一夜、この二人の愛国者は、海上に船を浮かべ、「心ゆくまで

秋景色を楽しんでから」、手に手を取って水中に投じた。 

  物音に目を覚ました付添いの人々が、直ちに捜索を開始し、二人の体を

引き揚げたが、西郷は蘇生したにも拘わらず、月照は、ついに空しかった

のである。

 

  新帝国の運命を、その雙身に担う身でありながら、西郷は、友に対する

愛と誠意を貫くために、その生命を捨てることを惜しまなかったのである。

 これが、彼の弱点であった。かつて、禅を学ぶことによって殺そうと努めた

ほどの「余りに強すぎる感受性」の弱点である。― 

  これが、ついには彼に最後の破滅をもたらすのであるが、そのことは後に

わかるであろう。



  この事件、および反徳川運動に加担した罪を問われて、西郷は再度、

南海の島に流された。 

  しかし、1863年、イギリス艦隊による鹿児島砲撃事件が起こると、彼は

直ちに帰国して、以前よりは用心深く、倒幕の運動を進めた。長州藩と

徳川幕府との間が平和に解決したのは、彼の進言によるものである。

 

  しかし、一年後に、幕府が、長州に対して、数々の不当な要求を突きつけ、

長州藩が、断固としてこれを拒むと、ここに、いわゆる長州征伐(*下の図)

が始まった。

                           Photo_4
 

  このとき、薩摩藩は、西郷の考えに従い、幕府から割り当てられた征討軍

の送り出しを断わったが、この薩摩の方策が機となって、薩長間に有名な

連合が成立し、維新史に重大な影響を与えることとなるのである。



  ところで、長州征伐の完全な失敗と、対外国政策に明らかに示された

無能ぶりから、幕府は、予想以上に早く崩壊へと向かう。 

  滅亡寸前の幕府追討の勅命が、薩長連合軍に対して下ったその同じ日に、

徳川将軍は、三百年来、保持して来た政権を自ら放棄し、ここに正当な

君主が、表面は何の妨害もなく、再び大権を握るに至った(1867年11月

14日)。

 

  それに続いて、薩長連合軍と同盟軍とによる京都市街の占領、「12月9日

の大詔渙發」、徳川将軍の二条城引き渡し等が、すみやかに行われた。 

  しかるに翌1868年1月3日、京都市外伏見において、新旧政府軍の衝

突があり、官軍は、この戦いに完勝したので、賊軍(徳川の軍は、これ以後、

この名で呼ばれることとなる)は、東に退却した。

  二手に分かれた大軍が、賊軍を追って東に向かったが、この時、西郷は、

東海道を進む軍の指揮を執り、何らの抵抗に会うこともなく、4月4日、

江戸城の引き渡しを受けた。明治維新の残した影響の著しいことを思えば、

これほど安価に購われた革命もないであろう。

  そして、革命がこのように安価に購われたのも、その効果が実に素晴ら 

しかったのも、とえに西郷の力によるのである。

  明治維新に特徴的な、この相反した事実こそ、西郷の真の偉大さを

雄弁に物語るものにほかならない。

  旧制度に与えた影響の深刻さにおいて、「12月9日の大詔渙發」に比す

べきものは、1790年7月14日の、パリにおける革命宣言あるのみである。

  これより先、伏見で最初の戦いが始まって以来、西郷の沈着さは、全

官軍の支柱であった。

  戦場から一人の伝令が走り帰って、「援軍を頼みます。わが軍はわずか

一連隊なのに、敵の砲火は非常なものです」と訴えた時、西郷将軍は、

「よろしい。一人残らず戦場に倒れた時、援軍を送ろう」と答えたという。

  そして、伝令は、戦場に引き返し、敵は撃退されたのである。このような

勇将に率いられた軍隊が負けるはずはない。

  東海道軍は、進んで品川に入り、ここで、西郷は、旧友の勝(*下の

写真)と会見した。

                  Photo_2
   勝は、徳川方で、ただ一人、

旧制度の崩壊の避けがたいこ

とを見抜き、国家を生かすた

には、主家の権威を犠牲に供す

ることもやむを得ないと考えた人

である。

  官軍の将である西郷は、旧政府

の使者である勝を引見して、「今

となっては、あなたも途方にくれて

おられるでしょう」と言った。

  「あなたが、私の立場に立って

くだされば、私の苦境を、

わかってくださるでしょう」と

勝は答えた。

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  西郷は、大声をあげて笑った。彼は、友人の苦境に立つのを見て楽しん

だのである!

 だが、この時を境として、彼の心は、ひとすじに平和を求めるようになった。

  京都に引き返すと、あらゆる反対を押し切って、徳川将軍とその家臣らと

に恩赦の下るべきことを主張し、籠城軍に極めて有利な条件を携えて、

江戸に帰ったのである。

  伝えるところによると、講和を最終的に決意する数日前、西郷は、勝に

誘われて愛宕山に登ったが、眼下に広がる広大な市街を見て、西郷の心

は深く動かされた。

  彼は、友人を顧みて、「もし、われわれが戦うようなことがあれば、その

ために苦しまねばならぬのは、これらの罪なき人々です」と語って、しばし

無言であったという。

  この時、彼の「感受性」が揺り動かされて、それらの罪なき人々のために、

平和を守らねばならぬと決意したのである。

  「強者は、弱者に妨げられぬ時、最も強い」という。西郷の強さの陰には、

婦人のような、憐みの心が隠されていたのである。



  こうして、江戸の町は戦火をまぬかれ、平和は成り、徳川将軍は、武器

を捨てて、その居城たる江戸城を天皇に明け渡した。

  天皇が、その正当の位置に復帰し、国内が、正当の君主の下に統一され、

西郷の意志のおもむく方向に政府が動き出すと、彼は直ちに故郷、薩摩へ

引き揚げて、数年の間、兵士の訓練に没頭した。彼は、他の人々のように、

戦争はすでに終わったとは考えなかった。

  これから社会の大改革を始めるあたっては武力が要る、彼の、もう一つ

の目的のためにも、同じく武力が必要だ、帝国の統一は、わずかに第一

歩にすぎないというのが、西郷の考えであった。

  彼はやがて首都に呼び出され、維新に功のあった人々と共に、参議

(天皇の相談役)の重職に就いた。

  しかし、それらの人たちが、やがて彼に同調し得ない時が来た。これま

では、共通の目的があったればこそ、互いに協力して来たのである。

  しかし、今、彼らは現状にとどまろうとするに反して、西郷は、なおも

前進しようとする。両者の間の協調は、ついに破れた。  【つづく】



 


 

 

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