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2013年2月

2013年2月28日 (木)

二宮尊徳(2 )

  2.少年時代


  二宮金次郎、またの名、尊徳(徳を敬う人の意)は、天明七年(一七

八七年)に生まれた。父は、相模の国の赤貧の農夫であったが、情ぶ

かく、また公共の精神に富むことで、近隣に知られていた。 

  (*下の写真は、彼の生家)

                     
Photo_2


  しかし、尊徳が十六歳のとき、彼は、幼い二人の弟とともに、孤児に

なった。親族会議の結果、このあわれな兄弟は散り散りになることに

定め られ、長兄である彼は、父方の伯父の一人に引き取られて、

その保護の下に置かれた。

 

  少年は、できるだけ伯父に厄介をかけまいと努力したが、まだ年若の

身で、一人前の仕事ができないことを悲しみ、その日のうちに仕上げる

ことのできなかった仕事は、深夜まで働いて、やり遂げるのを常としたと

いう。 

  しかし、働くかたわら、彼が考えたことは、無学のままで生い育って、

古人の残した学問に「明きめくら(ママ)」でありたくはないということで

あった。

 

  そこで彼は、孔子の『大学(*下の写真)の一部を手に入れ、その日

の仕事をすべて済ませた夜更けに、この古典の研究に没頭することと

したのである。 

  しかし、間もなく伯父は、この深夜の勉学に気付いて、きびしく彼を

叱った。 

                       Photo_3

  伯父のために利益にならぬばかりか、少年自身にも何の実用的価値

をもたらさぬ、そんな学問のために、貴重な灯油を使うことは許されぬと

いうのである。

 

  少年は、伯父の立腹を道理と考え、“自分用の灯油”ができるまで、

勉学を中止することにした。そして、翌年の春、川の堤防の上に、持ち

主のないわずかな土地があったのを開墾して、幾ばくかの菜種をまき、

休みの日には必ずこの畑に出て、自分のものである菜種の成長に心を

注いだ。               

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  その年の終わりには、この畑から大袋一杯の菜種がとれた。これは、

彼自身の手によって得た産物であり、彼のまじめな労働に対して、

「自然」が報いてくれたものである。 

  彼は、この菜種を、近所の製油所に持って行って、幾ガロンかの灯油

と換えた。

 

  さあ、これで、伯父の灯油を使わなくても勉強ができると考えた少年の

喜びは、たとえようもないほどであった。 

  喜び勇んで深夜の勉強に戻った少年は、これまでの忍耐と勤勉とを、

伯父がほめてくれるだろうと期待したのだが、それはほとんど間違い

だった。

 

  伯父が言うには、おれに養われている限り、おまえの時間もまた、おれ

のものだ。 

  読書のような無益な仕事に携わる者が、家人のうちに一人でもいるこ

は許されぬというのである。 

  少年は、この度もまた、伯父の言い分をもっともと考えて、その命令に

従った。

 

  すなわち、日中の激しい野良仕事を終えた後は、むしろ編みや、わらじ

作りに精を出し、本を読むのは、伯父の家で使う乾し草や、たきぎを取り

に、毎日、山へ往復するその道すがらとしたのである。 

                        Photo_5

  しかし、休日は、彼のものだった。彼は、休日を遊びに費やすような人

ではない。 

 菜種から油を得たことにより、誠実な労働の価値を悟った彼は、その

経験を、さらに大きな規模で試みようと思った。 

  村の中に、近ごろの洪水で沼地となった土地があるのを、彼は見つ

けた。これこそは、休日利用の絶好の機会である。

 

  彼はまず、その池の水を乾し、底土を平らにし、小さいながら整然と

した稲田を作ってから、農夫らの捨てた稲苗を、そこに植えた。 

  こうして、一夏じゅう、心をこめて丹精した結果は、実りの秋に、

一俵の黄金の米となって、彼の手に返ったのである。

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  謙虚な努力の報いとして、生まれて初めて、その生活の糧を得た

孤児の喜びは、察するに余りある。 

  そして、この年に収穫した米こそは、その後の彼の多事な生涯を

始める資金となった。真に独立の人とは、彼のことだ! 

  これによって、彼は「自然」は正直な労働の子を欺かぬということを

学んだのであり、彼が後に行なった改革はすべて”「自然」は、その

法則に従う者に豊かに報いる”という簡単な原理に基づいて、なされた

ものである。

 

  その数年後に、彼は伯父の家を去り、あの、自分で見付け、改良した

荒地から、自分の手で収穫した、わずかばかりの米を持って、長年、

荒れるにまかせられた父の家に帰った。

  忍耐と、信念と、勤勉とをもって、混沌と荒廃とを、秩序と豊穣とに変え

ようとする彼の試みの前には、何の妨げもなく、山の斜面、川岸や路傍

の空き地、沼地などは、すべて彼の手で立派な耕地に変わって、富と

物産とを彼にもたらした。

                   Photo_7

  数年もたたぬうちに、彼は相当な資産家となり、その模範的な節約と

勤勉とのゆえに、近郷の人々すべての尊敬の的となった。 

  そして、自力で、すべてに打ち勝って来た彼は、他の人々もまた、彼と

同じ勝利を得させようと、常に助力を惜しまなかった。 【つづく】

 

 

 

2013年2月26日 (火)

二宮尊徳(1 )

   二宮尊徳―農聖人


   1.十九世紀初頭の日本農業


 「農業は、国家存在の基礎である」という。これは、わが国のように、

海運、貿易の面であらゆる利益を享受しているにもかかわらず、国民

の主要な食料を、自国の土に仰いでいる国では、ことに本質的に、

その通りである。

  そのうえ、十五万平方マイル(37万8千平方キロ)の国土のうち、わず

か二割という狭い耕作地によって、四千八百万という莫大な数の人口を

養わなければならぬわが国では、自然の生産だけに頼っていることは

できない。

                        Photo


  そのためには、土地の生産力を極限まで高め、人は、持てる限りの

才能と努力とを傾けねばならないのである。

  思うに、日本の農業は、世界の農業の中でも、最も特異なものであろう。

ひとかけらの土に至るまでが、心を込めた取り扱いを受け、その土から

生じる一本の作物に至るまでが、父母の愛情にも似た保護と配慮との

下に置かれる。

  わが国人は、科学知識の欠乏を、たゆまぬ勤勉によって補い、その

結果として、野菜栽培園と見まがうほどの、整然として、管理の行き届

いた、一千三百万エーカーの耕地を持つに至ったのである。 

                       Photo_2                Photo_3

   このような高度な農業経営は、ひとえに国民の並みはずれた勤勉に

よってのみ、維持されるものであって、わずかな怠慢が、目も当てられ

ぬほどの荒廃を招くに至る。

  ひとたびは立派な耕地であったものが、耕作者の怠慢のために荒地と

化したのを見るほど、心の痛むことはない。               

  原始の山野にあるような生命力と生産力とを失った不毛の原野の荒

廃のさまを見れば、ただ絶望あるのみである。

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  処女地の開拓に挑む者が十人いる時、荒廃地の復旧に身を捧げよう

という者は、ただの一人として居ない。

  南北アメリカが、世界の富める国々の人を引き寄せている一方で、

バビロンは、今なお、ふくろうと、さそりの住み家として残されている。

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  十九世紀初頭の頃の日本農業は、最も嘆かわしい状態にあった。

二百年の長きにわたって続いた泰平によって、すべての階層の人々

が、贅沢と浪費とに流れ、勤労の風習は失せて、その影響は直ちに

田畑の上に現われたのである。

  田畑からあがる収入が三分の二にまで減った所も多く、かつては

豊かな実りを結んだ土地は、あざみやいばら(*下の写真)に侵されて、

残ったわずかな土地からあがる収穫は、藩主への年貢を納めるのに

やっとというありさま。村という村は荒廃のどん底におちいった。

                     Photo_5

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  まじめに働くことを、ばからしく思うようになった人々は、こぞって、

不真面目な生活に走った。

  そして、慈しみ深い大地から豊かな贈り物をもらったことを、昔の夢

とあきらめて、互いに欺き合うことにより、その絶望的な生活を支える

に足るだけのものを得ようとするに至ったのである。

  彼らの上に降るすべての災いの原因は、道徳的なものであった。彼

らの心が卑しくあったがゆえに「自然」の恩恵は彼らの上に降らず、

あらゆる悲惨事が、その土地に臨んだのである。

 「自然」の諸法則と堅く結ばれた一人の人が、この世に生まれ出たの

は、ちょうどこのような時であった。  【つづく】

 

2013年2月25日 (月)

上杉鷹山(完 )

 彼が慈愛に満ちた父親であったことは言うまでもない。彼は、子供たち

の教育のために、熱心に努力した。子供たちの教育は、彼の大切な義務

の一つであることを、彼はよく知っていた。 

  なぜならば、封建政体の世襲制度の下では、領民の未来の幸福は、

ひとえに彼が後にのこす統治者の人と成りにかかっていたからである。

 

  「貧民の実情に通じる」教育を、彼は息子たちに授けた。これは、彼らが、

その大きな使命を忘れ、それを私利私欲のために、犠牲にすることのない

ようにと、願ってである(*下は、彼が後継の藩主に遺した伝国の辞)

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               Photo_7


    彼が子供たちの上に施した教育の方針を知るよすがとして、彼が孫娘

たちに与えた美しい手紙のかずかずの中から、一つを選んで掲げよう。

これは、父の家を去って都の配偶者のもとに行こうとする姉娘に宛てたも

のである。 

  人は、三つの感化の下に、一人前の人間となります。その父母と、

先生と、主君の恩とがそれです。そのどれもが、測り知れぬほど深い恩 

ではありますが、とりわけ深いのは父母の恩です。・・・・ 

  私どもが、この世に生を享けたのは、父母あればこそであります。この

体は、父母の体の一部分であることを、片時も忘れてはなりません。

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   それゆえ、いささかの偽りもない心をもって父母に尽くされよ。心に

誠意さえあれば、たとえ失敗したとしても、それほど的はずれなことはな

いものです。 

  また、知恵が足りないゆえに物事が手に余ると考えてはなりません。

その及ばぬところを誠意が補うのです。・・・・ 

  国を治めることは、あなたの力に余る大変なことのように見えますが、

国の根本は、よく整った家庭にあるのです。そして家庭を整えようと思 

えば、夫婦の間が正しい関係なくてはなりません。源が乱れている

ときに、どうして末の整うことが望めましょうか?・・・

 

  年若な婦人は、とかく着物に心を奪われがちなものですが、これまで

に教えられて来た質素の習慣を忘れてはなりません。 

  養蚕その他の婦人の仕事に精を出すとともに、和歌を詠み、歌書を

ひもとくなどのことによって、心を養われよ。 

  しかし、教養や知識そのもののために、それらを追い求めるようなこ

とをしてはなりません(*下は、「百人一首」)

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  学問の目的は、身を修める道を学ぶことにあるのですから、善を勧め

悪を避けるような学問を選ぶことが肝心です。 

  和歌は、心をなごやかにし、これをたしなめば、月や花にも心が動き、

情操が高められます。・・・・ 

  あなたの婿君は、父として民を教え、あなたは、母として民を愛した

ならば、民は、あなた方を父母として敬うようになるでしょう。これに

勝る喜びが、世にあるでしょうか? 

  くれぐれも、そちらの御両親様に孝行の誠を尽くして、お二方を慰め、

また婿君に対しては、おだやかな心で従うことを心がけられよ。 

  願わくは、わが娘が限りなく栄え、わが国にふさわしい有徳の婦人と

して尊敬されるに至らんことを。・・・・
 

    いとしき娘の都へ旅立つに際して 

  春を得て花すり衣重ぬとも 

                  わがふるさとの寒さ忘るな 

                                                治憲

                Photo_8

       
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  骨身を惜しまず働いた節制家の鷹山は、七十年間、変わらぬ健康に

恵まれ、青春時代の大志の大方を実現させた。― 

  すなわち、彼の藩が確固たる基礎の上に立ち、領民の生活が十分に

安定し、領国全体が豊かに甦るのを、彼はその目で見たのである。 

  かつては一藩の力を集めても五両の金を調達できなかったものが、

今は、一万両の金さえ、即座に調えることができるようになった。

 

  このような人の最期が安らかでないはずはない。文政五年(一八

二二年)三月十九日、鷹山は、最後の息を引き取った。

            Photo_10

  領民は、自分らの肉親の祖父母を失ったように泣いた。あらゆる階級

の人々の悲しむさまは、ここに述べることもできないほどである。 

  葬送の当日は、悲しみの群衆数万が、道筋を埋めた。両手を合わせ、

頭を垂れ、声を挙げて泣くこれらの人々の歎きに、山や川や木々まで

が和したと、その光景が記されている。
 

  〔そして、進歩した政治機構や、ベンタムやミルの経済学や、哲学的評

論とキリスト教的道徳等々―に加えて、なおそれ以上のものを有する

われわれもまた、その「父母の恵み」によって、かつてこの世に存在した、

この偉大な霊魂の死を悲しまずにはいられない。 

  憲法上の口論を、世の終わりまで続けても、鷹山が生前に成し遂げた

事績に及ぶことはできないであろう。

 

  彼のような君主を再び戴くことは望めないであろうゆえに、われわれは、

封建制度に別れを告げ、西欧の発明にかかる投票制度をまねて、これを

採用したのである。 

  だが、いつの日か、すべての悪者が影をひそめ、すべての政治家が

みな鷹山のようになった暁には、われわれは、「新しい封建制度」を、

われわれの間に打ち立てよう。 

  そのときには、われわれはすべて満ち足りて、欠けるところなく、喜び

にあふれて、悲しむことはないであろう。〕  【了】 

  (下の写真は、上杉鷹山を心から敬愛したジョン・F・ケネディ大統領)

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2013年2月23日 (土)

上杉鷹山(7 )

  6.その人と成り


  どんな人間であろうと、これに対し、アダムの“並みの”子以上の取り

扱いをすることは、当世流のやり方ではない。ことに、その人が、恩恵

と天啓とに無縁の異教徒である場合は、なおさらである。

  こうした点から、われわれ日本人が、わが国の英雄を神にまつる風

習も、とかくの非難を受けがちであるが、しかし、あらゆる人間の中で

鷹山ほど、その欠点や弱点を数え上げる必要の少ない人間はなかった

と思う。それは、鷹山自身が、伝記者の誰よりもよく、自分の欠点や

弱点を知っていたからである。

   彼は“人間”という言葉の持つ意味を、すべて備えた人間であった。

責任の地位に就くにあたって、神社に誓詞を納めるのは、弱い人間のみ

のすることである。また、彼自身と藩とが危機に陥った時、守り神の社に

走ったのは、彼の弱さ(この言葉を用いてよければ)のゆえであった。

  ある日、江戸の邸に居た彼の手もとに、一通の公文書が、さし出され

たが、それは、親孝行のゆえに表彰さるべき臣下の名前を書き連ねて、

彼の審査と認可とを待つものであった。

  ざっと、それに目を通した彼は、家庭教師の講義が済むまで、それを、

たんすの中にしまっておくように命じたが、講義の終了後、その重要な

書類のことを、すっかり忘れてしまった。

  これは、「万人の主」として許すべからざる怠りであると、臣下の一人に、

きびしく非難されて、藩公は限りなく恥じた。



  彼はその場に座ったまま、夜もすがら後悔の涙にくれ、朝が来ても、

「後悔のため、朝食に手をつけることさえ、できなかった」。

  招かれた教師(=細井平洲)が、孔子の書の一部を引用して、その罪の

許されることを告げ、ここに初めて「食物が、のどに通るようになった」と

いう。これほどまでに鋭敏な魂に対し、歴史的批評の荒々しい手を触れ

させてはならない。

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  しかし、彼の公明で誠実な性格を知るには、その家庭生活と、家庭内

の諸事とを見るに如(し)くはない。

  彼の生活の質素なことについては、さきに述べたが、彼は木綿の衣服と、

粗末な食事との習慣を、藩庫の信用が全く回復し、自由に多額の金が使

えるようになったその晩年まで続けた。

  畳は、修繕がきかぬほど古びるまで、取り替えようとしなかった。自ら、

破れ畳に紙を張りつけて、つくろいをしている藩主の姿が見られることも、

しばしばであったという(*下の写真は、鷹山使用の調度品)

           Photo_2

  家庭に対する鷹山の考えは、非常に高潔なものであった。この点にお

いて、彼は、次の聖人(=孔子)の言葉に、文字通り従った者である。

  自分を治め得る者のみ、家を治めることができ、その家が正しく治めら

れている者にして初めて国を治めることができる、と。

 

  その当時は、蓄妾の風が“公然”と行なわれ、ことに鷹山の属する大名

社会にあっては、妾の数が四、五名にとどまる者はまれであったにもかか

わらず、鷹山は、“十歳も年上”の妾を一人、持っていただけであり、それ

とても、次のような特別の事情あってのことだった。

  すなわち、彼のまだ成年に達しない前、当時の日本の風習として、雙方

の両親同士の取り決めで結婚させられた妻は、十歳の子供の知恵しか

備えぬ、生まれながらの低能(ママ)であったのである。

  しかし、彼は、心からの愛と尊敬とをもって彼女に接し、彼女のために、

おもちゃや人形を作るなど、あらゆる手段を尽くして彼女を慰め、二十年

に及ぶ結婚生活中、一度として、自分の運命に不満を示したことはなか

った(*写真は、イメージ)

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  夫妻が一年の大半を江戸で暮らす間、もう一人の配偶者(妾)は米澤に

残され、低能の正夫人に与えられていたような権限を、決して与えられな

かった。正夫人には当然、一人の子もいなかった。

(*下の写真は、雪中の上杉神社)

  【つづく】

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2013年2月22日 (金)

上杉鷹山(6 )

 五、   このように互いに仲むつまじく助け合うことを忘れてはならぬ。 

       村々のうちに、老年にして子が無いとか、弱年にして両親が無い

      とか、貧しいがゆえに養子をとることができぬとか、夫を失い、または 

       不具のために生活ができぬとか、不治の病気にかかったとか、死ん  

       でも葬式が出せぬとか、火事に会って、雨露をしのぐ所もないとか、  

        その他、さまざまな災難に会いながら、頼るべきところのない者

        対しては、五人組が力を貸して、わがことのように世話をせねば

        ならぬ。 

                   Photo_2
            

                Photo_5

          もし五人組の手に余るときは、十人組がこれを引き受け、それでも

        力が足りぬ時は、村が力を貸して、その災難から立ち直れるように

       してやらねばならぬ。 

          一つの村が大きな災害に襲われ、その存続が危ぶまれるような場

         合に、その隣村は、救いの手を差し伸べないでおられようか?

           五ヵ村の組合を形づくる他の四ヵ村は、これに対して心からの援助

         を送らねばならない。

 

  六、  善を力づけ、悪を諭し、倹約を奨励し、贅沢を戒め、各自、その天職

   にいそしむようにする―それが、この組合設立の目的である。 

           百姓の中に、自分の山地を疎かにしたり、百姓の業を捨てて他の

        職業に走ったり、舞踊、劇、宴会その他の怠りにふける者がある場

     合には、まず
五人組が厳しく訓戒し、それで改めぬ場合には、十人 

         組に引き渡すが、れでもなお手に負えぬ場合には、ひそかに村役  

         人に報告して、その処置これに一任しなければならぬ。

 

                         享和二年(一八○二年)二月

               Photo_3

  これらの文書の中に、官僚主義の匂いはあまり感じられない。のみなら

ず、このような布告がなされ、それが実行に移されたということ、それは、

鷹山の米沢藩を除き、地球上のいずこにもなかったことであると、私は断

言する。

  アメリカその他の土地で、農民ギルドと呼ばれているものは、自己の利

益を主たる目的とする産業協同組合にすぎない。

  鷹山の農業組合に似たものを見付けようと思ったら、われわれは、遠く

「使徒の教会(=原始キリスト教会)」にまで、さかのぼらなければならな

いのである。

 

  警察官や、巡回教師や、学校や、度かさなる訓示に加え、彼自ら模範を

示すことにより、鷹山は、人口十五万人の米沢藩を、徐々ながら、確実に

理想化して行った。

                   Photo_4

  彼が、どの程度にまで、藩の理想化に成功したかは、「聖人の政治」を

視察するために、わざわざ米澤まで行った、倉成龍渚という高名な学者の、

領内視察報告書を読めば、わかる。左(=下)に、その数節を引用してみ

よう。

   米澤には、正札市というものがある。人家を離れた道のかたわらに、

ぞうり、わらじ、果物その他の商品を陳列し、それらに正札を付けて、売り

手は、その場所を離れる。

  そこを通りかかった人は、正札通りの金を置いて、品物を持ち去るという

仕組みだ。

 米澤では、正札市で盗みをはたらくような人がいようなどとは、誰も考え

ない。

  鷹山公の役所では、身分の高い者ほど、貧しいのが普通である。

R(=或る者)は、重臣中の筆頭であって、藩公が最も愛し、かつ信任して

おられる人物だが、彼の生活ぶりを見るに、その衣食の粗末さ加減は、

貧乏書生同様である。

  領内には、税関またはそれに類した妨害物はなく、商品の流通は自由

である。しかも密移入が企てられたためしはない。

            Imagescaz89m7x

  ここに記したことを、遠い時代の、神秘の国の、理想談と思われては困る。

われわれが書いたことは、みな実際にあったことであり、しかも、この地上

の、明確な地点で、これらのことが行なわれてから、まだ百年とは経っては

いないのである。

  そして、あの偉大な統治者の時代に現実であったことが、今では過去の

ものがたりとなったとはいえ、ひとたび、それらが試みられた場所、また

それらを実行した国民の間には、はっきりとした影響が残っている。

  〔 これらはただ、選ばれた環境の下でのみ実行されることであるから、

その再現は望み得ず、ましてや、この地上でそれを永続させることは

不可能だなどと考えてはならない。

  われわれの法律は、「人間は悪者である」という推定の上に作られてい

るし、われわれは今でも、そう考えているが、鷹山は、これと正反対の考

えから出発した。

  人間の中には神のようなところがあるから、誠意をもって当たりさえすれ

ば、神らしさを呼び覚まして、悪に打ち勝たせることができると、彼は信じた

のである。

  彼は、それを“信じ”、その通りに“実行し”、そしてそれを“成し遂げ”た。

鷹山の、大の崇拝家であった西郷隆盛は、次のように述べている。

 「古人の武勇伝を読んで、こんなことは実行できぬと思う輩は、敵前で

逃亡する卑怯者に等しい」と。

  そして、神の国について論議し、その実現を祈りながら、そのようなこと

は実際には不可能だと考えているわれわれすべてもまた、卑怯者、いや

偽善者なのではあるまいか?〕  【つづく】

 

 

2013年2月21日 (木)

上杉鷹山(5 )

   5.社会と道徳との改革




  東洋的考えの一つの美しい特徴は、経済を道徳と切り離して取り扱わ

なかった点である。 

  東洋の哲学者にとっては、富は必ず徳の“結果”であり、富と徳との相

互の関係は、実と木との関係に等しかった。

 

  木に肥料を施せば、努力せずに実を得ることができるように、「人々に愛

を施せば」、必ず富をなすことができる。 

  「それゆえ、偉人は、木を思って実を得るが、小人は、まず実のことを思

うゆえに、実を得ることができない」という孔子の教えは、恩師、細井によ

って、鷹山の心に刻み込まれていたのである。

 

  鷹山の産業改革の偉大さは、彼が、臣下の者たちを“徳行”の人とする

ことを、第一の目的とした点にある。 

  快楽主義的な幸福感は、彼の思想に反するものであった。富は、それに

よって、万人が礼儀正しい人となるために必要であった。

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  なぜなら、昔の聖人の言葉にもあるように、人は「衣食足って礼節を知

る」からである。 

  鷹山は、天から依託されたその臣を導くにあたり、上は大名から、下は

百姓までを、等しく律する「人の道」に依ろうとしたが、これは、当時の慣習

から驚くほど飛躍した行為であった。



  藩主となってより数年、彼の施した諸種の改革が順調に進行しつつある

時、彼は、長い間、閉ざされていた藩校の再建に着手し、それを「興譲館」

(*下の写真・・・今に残る正門と、その全景)と名付けた。

                        Photo

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    これは、謙譲の徳を奨励するための学校という意味であって、彼が主

して奨励しようとした徳が何であるかを、非常によく現わすものである。 

  この学校は、その規模といい、設備といい、当時の米沢藩の財政状態と

は全く釣り合わぬほど、優れたものであった。 

  その校長として、当時最大の学者の一人で、また鷹山自身の家庭教師

であった細井平洲(*下の写真)を迎えた上、領内の貧しい有為な青年に、

高等教育を受ける機会を与えるため、多額の奨学金(返済の義務なし)を

提供したのである。

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  創立以後、およそ百年の間、この学校は、全国の学校の模範であった。

この学校は今もなお、昔の名前のままで残っているが、これはおそらく、

この種の学校のうち日本最古のものであろう。

  しかし、病者を癒す設備を欠いては、愛の治世は完全とは言われない。

わが賢明な君主は、もちろんその点を見逃さなかった。

 

  彼は医学校を設立して、当時の最も高名な医学者二人を教授として

招く一方、薬草栽培のための植物園を作り、そこで栽培した薬草を材料

として、調剤法の授業や実習が行なえるようにしたのである。 

  ヨーロッパの医術が、まだ恐れと疑いの目で見られていたこの頃に、

鷹山は、数名の家来を杉田玄白(*下の肖像画)のもとに派遣して、

新医学を学ばせた。この玄白は、当時、日本最初のオランダ医学者と

して高名な人であった。

                           Photo_16
 

  ヨーロッパの医学が、日本やシナの医学にまさることを、ひとたび確認

すると、鷹山は、手に入るかぎりの医科器械を買い込むのに、費用を惜し

まなかった。 

  そして、それらを彼の学校に備え付けて、授業と実習との際に自由に使

えるようにしたのである。

 

  こうして、ペリーの艦隊が江戸湾に現われる五十年前に、すでに北日本

の山間地方において、西欧医術が一般にひろく行なわれていたのである。 

  鷹山のシナ的教養は、彼を、シナ的人間にはしなかった。 

 

  鷹山の行なった純粋な社会改革については、わずかにその二つを述べ

るゆとりしかない。

  その一つ、公娼の廃止は、ひとえに「愛の治世」という彼の方針に基づく

ものである。公娼を廃止して、下等な欲情のはけ口を断てば、さらに憎む

べきやり方によって、社会の純潔がおびやかされるかも知れないという、

月並みな反対論に対しては、鷹山は次のように、はっきりと答えた、

「欲情が、公娼によって、しずめられるものならば、公娼は幾らあっても

足りません」と。彼は、公娼廃止を断行した。

 そして社会的に何らの不都合もなく、これを継続することができたので

ある。

 

  鷹山が、「五、十組合の制度」に関して、農民階級―彼の領内で最も

重要な階級―に与えた訓示は、完全国家についての彼の理想を非常に

よく現わすものであるから、できるだけ原意をそこなわぬようにして、

全文をここに訳してみよう。

  百姓の天職は耕作と養蚕(*下の写真)とである。この二つに精を出

すことによって、父母、妻子を養い、また税を政府に納めて保護を願う

のである。

                  Photo_17
           
          Photo_18

          Photo_19


  だが、それも、互いに助け合わなければ、できることではないから、ここ

に何らかの組合が必要となる。

  今までに、組合がなかったわけではないが、真に、たよりになるものが

あったとは聞かないので、ここに新しく、次のような”五、十組合”と、

“五ヵ村組合”とを設立する。

  一、五人組は、常に一家族のように親しく交わり、喜びも悲しみも分かち

      合わねばならない。

  二、十人組は、親類のように、たびたび行き来して、互いの家事の世話

        をせねばならぬ。

  三、一村の者どもは、友人のように、互いに助け合わねばならぬ。

  四、五ヵ村組合を構成する村々は、真の隣人にふさわしく、災難の時に

       は助け合わねばならぬ。  【つづく】

2013年2月19日 (火)

上杉鷹山(4 )

   4.産業の改革





  鷹山の産業政策は二つあった。”その一つは、領内に荒地を残さぬ

ことであり、二つめは、領民の中にある怠け者の一掃である”。 

  本来、痩せた土地であっても、彼と領民とが力を合わせて励むならば、

十五万石どころか、二十万石の収穫も挙げ得ようと彼は考え、農事の奨

励に全力を尽くした。

 

  藩主となってから数年の後に、大規模な「土地礼拝」の式を行なったの

も、そのためである。 

  藩主をはじめ、知事、郡役人、村役人、巡回教師、警察官などが、祭服

を身にまとい、まず春日明神に赴いて、彼らの志すところを神に告げる。 

  次いで一行は、新たに開墾した土地に向かって進み、第一に藩主が、

おごそかな態度で、鋤を取り上げ、三度、土に、くわ入れをする。 

  次には知事が進み出て、九度、次の郡役人は二十七度、村役人は八十

一度というふうに、くわ入れを続けて、ついに“農夫”の一人一人にまで及

ぶのである。

 

  鷹山は、この儀式によって、以後、土を神聖に扱いますということ、また

生活の幸福はすべて土から得られるものだということを、最もおごそかに

宣言したのである。 

  要するに、悪い儀式ではない!

 

  鷹山は、平和な時には、武士に農夫の仕事をさせたので、数千エーカー

の荒地を耕地とすることができた。また、広範囲にわたって、うるしの木

(*下の写真:下の二枚目は、米澤城内植えることを命じ、武士の家

の庭には、必ず十五本のうるしの木を植えさせた。

                       Photo_3

                  Photo_4
   

   武士以外の家は五本、寺は、その境内に必ず二十本のうるしの木を植

えなければならなかった。 

  この割合以上の苗木を植えると、一本につき二十文の褒美が出たが、

その反対に、枯れたまま、補充もしないでおくと、同額の罰金を課せられ

るという仕組みである。

 

  こうして、米澤の領内には、きわめて短期間に、百万本以上の苗木が

植えられ、後世に、非常に大きな影響を及ぼしたのであった。 耕作不能

の土地には、百万本以上の、こうぞの木(*下の写真)を植えた。

                        Photo_5

        Photo_6



  しかし、鷹山の真の目的は、米沢藩を、国内有数の絹織物の産地とす

ることであった。 

  これに要する莫大な費用を、藩の貧しい財政でまかなうことは、とうて

い不可能なので、彼は、奥向きの費用として保留しておいた二百九両の

中から、さらに五十両を割き、これを基金として、領内の絹織物生産促進

のために、あらゆる努力を傾けた。

 

  「わずかな資金も、年々継続して出せば、大きな額となる」というのが、

若き藩主の考えだった。 

  その考え通り、彼は、五十年の長きにわたって、これを継続し、最初に

植えた数千本の桑の木(*下の写真)はふえて、ついには領内にもう植え

る余地がないまでに至った。 

                     Photo_7

  今日の米澤地方の見事な絹織物は、往年の藩主の忍耐と慈悲とを証明

するものである。米澤織物の品質は、今日の市場にあって最高のものと

されている。

 

  領内には、なお荒地が残っていた。日本のように、稲作を主とする国

では、土地が肥えているということは、水利の便がよいということである。 

  水利の便が悪いために、広い土地が不毛の状態に残されていることが

多いのだ。

 

  そうは言っても、長い水路を作って水を引くことは、鷹山の窮迫した財政

の許さぬところと思われた。 

  しかし、鷹山の年来の主義である倹約は、けちとは違う。 

「施して、浪費せず」というのが、彼の標語であった。

 

  それによって、社会が幸福になることが確かな場合には、彼は、不可能

ということを考えなかった。彼は、資金の不足を補う忍耐力を持ち合わせ

ていたからである。 

  こうして、最も貧しい大名である鷹山により、昔の日本における最も巨大

な土木事業の二つまでが計画され、完成を見るに至った。

 

  その一つは、高架橋と、長く高い築堤とによって、延々二十八マイル

(=45km)の水路を作る工事であって、そのすべてが水力工事の傑作で

ある(*写真は、イメージ)

                 Photo_8

  もう一つは、トンネルによって、大河の水路を変える工事であった。 

堅い岩をくり抜いて、千二百フィート(=360m)のトンネルを作るこの工事

は、鷹山の治世の二十年を費やして完成し、その領土に対する鷹山の貢

献の中でも最大のものとなった。

 

  これよりさき、彼の家来の中に、黒井という者がいた。のろい、無口な

男で、主君がその長所を発見するまでは、何の役にも立たぬ者と思われ

ていたが、この男が、実は数学の天才であった。

 

  彼は、粗末な機械を用いて、領内を念入りに測量した後、当時の人には

狂気の沙汰としか思われなかった、これらの工事を立案したのである。 

  第一の工事の完成後、第二の工事の進行中に、彼は死んだが、仕事は

彼の設計に従って続けられ、工事開始後二十年目に、トンネルの両端は

通じたのであった(*写真は、イメージ)

                     Photo_9

  その時の高低の差、わずかに四フィート(=1.2m)という。 

この国に、まだ転鏡儀や経緯儀がなかった時代としては、驚くべき計算の

正確さである。これによって、砂漠は花咲きはじめ、鷹山の領地の実りは

豊かになった。 

 東北地方のうち、米澤のみは、今日もなお米不足を知らない。

                 Photo_10

  鷹山の熱心な目は、領民の幸福につながることを、決して見逃さなか

った。 

 そのためには、馬の改良品種を移入し、湖や川に、鯉や、うなぎを放し、

鉱夫や織物工を他領から招き、商業主のすべての障害を除くなど、あら

ゆる手段を尽くして、領内にある限りの資源を開発することに努めた。

 

  こうして、さきに述べた、怠け者一掃という大方針は成功を見、怠け者は

有能な労働者と変わり、日本一の貧しい地方が、彼の晩年には、典型的

な豊かな地方と変じて、今日に至っているのである。

 

〔一人の人間の誠実によって、混沌は秩序と化し、大地も、不誠実な者

には秘めているを差し出した。誠実をもって事に当たる人は、将来とも、

この地方から、さらに多くのを見出すことであろう。

  注意と誠実とをもって探れば、地球の資源は、なお無限にあるように思

われる。

  そして、過剰人口をいかにすべきかの問題は、人類が”尊敬”の気持

をもって、大地の正しい利用に当たるまでは、解決しないであろう。

  ここに示された、鷹山と米澤とに関する事実を、生命と生活とにおびえ

る者たちへの教訓としようではないか。〕

  【つづく】

 

2013年2月18日 (月)

上杉鷹山(3 )

3.藩政の改革



  人間は、生まれながらに、現状維持を好んで、変化を嫌う。これは、

日本と外国を問わず、同じことである。 

  しかし、若き鷹山は、改革をやり遂げねばならぬ。それをやらねば、藩を

救済することはできない。 

  そして、他人に変革を強いようと思ったら、まず自身の改革から始めな

ければならないのだ。

 

  鷹山の場合、まず第一に手を着けねばならぬのは、財政の改革であった。 

藩の秩序と信用とを幾らかでも回復するには、極度の倹約あるのみだ。 

  そこで、藩主たる鷹山自身、まず奥向きの費用を、一千五十両から二百

九両に下げることとし、五十人の女中は、わずか九人に減らし、木綿の着

物以外は身に着けず、食事も一汁一菜にとどめた。 (*下は、鷹山の

朝食)

                           Photo_11

  家来たちも、同じように倹約を申し渡されたが、”その比率は、主君より

も軽かった”。

 

 年の予算も半分に減らし、それによって生じた金は、藩の多額の負債の

支払いに宛てる。 

  この状態を”十六年”続けて、初めて藩は負債の重圧からまぬかれるこ

とができるのである!  これは、しかし、藩の財政改革の消極面にすぎない。

                     Photo_2


  「民の幸福は、統治者の富である」といい、「悪政の下にある民の富むこ

とを期待するのは、きゅうりの蔓(つる)から、なすの実を得ようと期待する

に等しい」ともいう。

 

  しかも、適材を適所に配することなしに、良い政治はできない。 

「能力に応じて、人を起用する」という民主的な思想は、封建政治の世襲

制度に反するものではあるが、鷹山は、あらゆる手段を尽くして、人材を

得ることに努めた。 

  才能のある人に対しては、貧しい財政の中から、高額の俸給を支払い、

これらを、三つの異なった役目につけて、領民を治めさせた。

 

  第一は、総監督たる知事と、その補佐役とである。彼らは、「人民の父と

なり母となって」、その小区画の行政事務の責任を持つ。彼らに対し、鷹山

は、次のような指示を与えた。 

 幼い子供は何の知識も待たないが、母は子供の要求を知って、それを 

満たしてやる。それは、彼女が誠実な心を持っているからだ。 

  誠実な心からは愛が生まれ、愛から知識が生まれる。誠実でありさえ 

すれば、何事も不可能ということはない。  

  役人は、母がその子に対する心をもって、民に接するようにせねばなら 

ない。  

“君たちに、民を愛する心さえあれば、知恵の足りないことを歎くに及ば 

ないのだ。”

            Photo


  第二種の役人は、巡回教師ともいうべき者で、道徳や儀式の事を人民

に教える。 

 たとえば、親孝行をする事、寡婦や孤児をいたわる事、結婚に関する事、

衣服や、食物や、食事の作法や、葬式や、家の修繕に関する事等である。 

  そのために、藩の領分を十二の地区(教区)に分け、各区域ごとに監督

教師(平民司教)を置いた。 

  これらの教師たちは、年に二回、総会を開いて、顔を合わせるが、その

他に随時、領民の間での仕事の進行状況を、領主に報告することになっ

ていた。



  第三種の役人は、厳格な警察官である。彼らは、領民の非行や犯罪を

見つけて、それに相当する厳罰を課する任務を帯びていた。 

  彼らは、いささかの容赦もなく、町村の隅々にまで目を光らせた。罪人を

出すことは、地域の恥であったから、自分の受け持ちの地区の者が、警察

に厄介をかけた場合には、教師自らが責任を取った。

 

  この第二種と第三種との役人に対して、鷹山が与えた指令は、次のよう

なものである。 

  教師は、地蔵尊の慈悲をもって民に臨め。しかし、心の内には不動明王 

の正義を抱くことを忘れるな。  

  警察官は、閻魔大王の正義と義憤とを示せ。しかし心の内にはつねに 

地蔵尊の慈悲を蓄えよ(*下の写真は、不動明王と地蔵尊)

                    Photo_3

               Photo_4

 
  以上、三種の役人は、力を合わせて立派な働きをした。鷹山の計画した

一般政策は、知事と、その補佐役とによって遂行されたが、しかし、彼の

言にもある通り、「教えを受けていない民を治めるのは、費用がかかる上

に効果のあがらぬこと」であるから、彼は、民を教える監督教師を置いて、

民に「生命を与え、温かい血液を体中に行き渡らせ」ようとしたのである。

 

  しかし、規律の伴わぬ教育もまた効き目がない。そこで、教育をさらに効

果的にするため、また、示された思想をさらに明らかにするために、厳しい

警察制度を設けたのだ。

  人間を治めるために、このような三種の制度を考え出した若き鷹山は、

人間性の底にまで徹する、並々ならぬ洞察力を持っていたに違いない。



  新しい組織は、どの方面からの妨害も受けずに、五年間、実施された。

こうして、ようやく秩序が見えはじめ、絶望視された社会に復興の光がさし

そめたその時、試練が、やって来たのである。 

  それは、試練の中でも最もきびしいもの、鷹山ならでは堪えられぬよう

な試練であった。

 

  保守派が正体を現わしたのだ。―  たとえ私利私欲のためではないと

しても、旧そのもののために、旧を愛する人々― このような人々にとって

は、どんな革新も気にくわないのだ。 

  ある日、藩の最高の重臣七人は連れ立って若き藩主の前に出て、新し

い政治組織に対する不満を述べ、その即時廃止の言質を、彼から、もぎ

取ろうとした。 

  藩主は答えない。この時、彼は、領民に自分を裁かせようと決心したの

である。 

 そして、もし“彼ら”が新しい政治に反対だと言うならば、彼は、自分より

も優れた、有能な人に、喜んで彼の位置と領地とを譲ろうとしたのであった。

 (*下の写真は、米澤城)

           Photo_5

  そこで彼は即刻、全家臣を召集した。武装した数千の家臣は、武器を手

にして城内に集まり、藩主の命令を待っている。その間に、藩主は春日

明神の社(*下の写真は、上杉神社)に行って、紛争の平和的解決を祈っ

た。     

         Photo_12
                  


  それが済んでから、初めて愛する家来たちの前に出て、彼の統治は、

天意にそむくものであるかと尋ねた。知事とその補佐役とは答えた、否と。

  すべての警察官も否と答え、指揮官も兵卒も否と言う。一同が「異口同

音に」否と答えた。藩主は満足した“民の声は神の声なり”という。

彼の心は定まった。

  彼は、さきの重臣七人を彼の前に呼び出して、判決を申し渡した。七人

のうち五人は、禄高を半分に減らされて、「隠居閉門」を命ぜられ、謀反

の首謀者二人は、武士の作法に従って処分された。すなわち、名誉ある

自殺の方法たる「切腹を賜わった」のである。

  こうして、保守主義者と不平家とが取り除かれると、幸福は領内に満ち

満ちて来た。

 反対者の一掃という、この荒仕事の終わらぬ限り、完全な改革はない。

  深い信仰と鋭敏な心の持ち主であるこの若い藩主は、その上になお真

の英雄でもあった。彼の力によって、繁栄の治世が到来するのは、期して

待つべしである。  【つづく】
 

 

2013年2月16日 (土)

上杉鷹山(2 )

  2.その人と成りと事業

  鷹山は、わずか17歳の時、今の羽前の米沢藩の家督を相続した。九州の

小藩主、秋月家に生まれた彼は、生家より、家の格式も高く、領地も大きい

上杉家の養子となったのである。 

  そうは言うものの、この養子縁組が、彼の側から見て、ありがた迷惑なも

のであったことは、読者にも、やがて分かるだろう。彼は、これによって、

国中に類の無いほどの重責を負わされたのである。

 

  この養子縁組の由来は、少年の伯母が、米澤の老公に対し、「無口で、

思慮深く、非常に親孝行な子でございます」と言って、彼を推薦したことに

始まる。 

  彼は一般の貴族の子と違い、家庭教師に対して、驚くほど従順であった。 

 師の名を細井平洲(*下の写真と肖像画)という。細井は、極めて低い身分

から、この責任の地位に取り立てられたのである。 

                     Photo                  

                          Photo_2

  この立派な教師が、好んで少年に語り聞かせたのは、次のような、従順な

生徒のものがたりであった。

 
  御威勢のさかんな紀伊の徳川頼宣様(*徳川家康の十男:下の肖像画)

が、いつも大切に扱われていたのは、おひざに残る、あざでありました。  

              Photo_3

  それは、紀伊様のお若いころ、何か、先生の教えに従わぬことがあって、 

先生に激しく、つねられた跡でありました。  

  紀伊様は、後年、そのあざを示して、これは、わが恩師が、われに残した 

もうた戒めである。恩師は、これをつねに見ることにより、つねにわが身を 

反省し、自身と人民とに忠実であれと、教えたもうておられるのだ、しかし、 

ああ、あざは、わが年のすすむに従って薄れ、それとともに、わが自戒の心 

もまた衰えてゆくと、歎(なげ)かれるのがつねでありました。



  若き鷹山は、この話を聞くたびに泣いた。― この時代にあって、きわめて

まれな敏感さである。 

  当時、貴族の子弟は、他と隔たった環境で育てられ、目下の者に対する

義務も、自分たちの持つ権力と富との由来も、自覚せぬのが普通だったの

だ。

 

  彼はまた、“民をいたわるに、おのれの体の傷に対するがごとくせよ”とい

う、シナの聖人の言葉を聞いて、心の奥底にまで達するほどの、深い感銘を

受けたらしい。 

  この言葉は、やがて“彼自身”のものとなり、後年、民を治める立場に立っ

た彼の全行為を律したのである。



  非常に敏感な人は、宗教的な感受性もまた強い。初めて藩政を継ぐとい

う日に、鷹山は、生涯の守り神である春日明神(=上杉謙信公の御霊)に

対し、次のような誓いを立てた(*下の写真 は、春日神社)

                     Photo_2
                         

 一、 文武の両道は、これまで通り、将来も怠りなく励みます。  

  二、 民の父となり母となることを、第一に旨といたします。  

  三、次の言葉を、日夜、忘れぬようにいたします。  

        濫費せざれば、危きことなし  

    施しをなして、浪費せず  

  四、 言行の一致せぬこと、賞罰の不正なること、不誠実、不作法―すべて 

         これらの不徳におちいらぬよう、務めて身を守ります。  

         以上を、将来堅く守ることを誓います。万一、怠るようなことがあった 

        場合には、たちどころに神罰を下し、家の繁栄も永久に失わせたまえ。

 

                                    上杉弾正大弼 

                                藤原治憲

 

          明和四年(一七六七年)八月一日



  鷹山が、これから直面しようとする仕事は、彼ならでは、とうてい、引き

受けかねるようなものであった。

  彼の養家、上杉家は、太閤以前の時代には、日本有数の大藩であって、

広く豊かな越後の国をはじめ、日本海沿岸の数ヵ所を領有していたが、

太閤によって、会津地方に移されてからは、とみに勢力が衰えた。

  とはいえ、なお年収百万石の雄藩であって、その領主は、日本の五大名

の一人に数えられていたのである。

  しかし、関ヶ原の一戦(1601年)で、反徳川方に味方したばかりに、今度は、

遠い米澤地方に移され、三十万石に減収の憂き目を見た。

  のみならず、その後また、石高は半分に減らされ、鷹山が領主になった時、

上杉家の石高は十五万石に過ぎなかった。しかし、石高は減っても、なお

百万石当時からの多数の家臣を養い、大藩時代の格式に基づく習慣を維持

せねばならなかったのである。



  それゆえ、この新しい領地では、藩を支えることができず、藩の負債は、

数百万両にのぼり、税金と強制取り立てとにおびえる領民は他国に流れ、

領内は貧窮と欠乏との極に達した。

  羽前の国の南部に位置する米澤は、海に臨まず、地味は痩せ、天然資

源にも乏しいという、日本の中でも極めて貧しい地方であった。

  すべての情勢が、このように絶望的であったから、藩の崩壊と、その保護

の下にある領民の破産とは、早晩避けられぬことと見られていた。

  藩の総力を挙げて、なお、五両の金を調(ととの)えられぬことがしばしば

であったという話からも、藩の落ち込んだ困窮のほどは思いやられる。―

  750平方マイルの領土と、十万人余の人口を有する大名とは信じられぬほ

どの貧困の状態である。

  若き鷹山が第一になすべき仕事は、まず現在の窮境を切り抜け、どうに

か忍び得る程度にまで、藩を建て直し、その上で、もし彼の守り神たる春日

明神の恵みが得られるならば、彼の領地を、いにしえの聖賢が考えたよう

な“理想の国”とすることであった。



  藩主となってから二年目に、鷹山は、米澤の領地へ、初のお国入りをした。

晩秋の風情が、さらぬだに哀れな領内の様子を、さらに悲惨なものとしてい

る。

 行列が、村から村を進むうち、若い領主の鋭敏な心は、眼前に横たわる

村々の、荒廃し、打ち捨てられ、住む人もまれな光景に深く動かされた。

  付き添いの家来たちが、“乗り物”の中の主君をふと見たのは、その時で

ある。

 主君は、ひざの前にある〝火鉢”の炭火を吹き起こしている最中であった。

  「殿様、良い火をお持ちいたしましょう」と、家来の一人が言うと、鷹山は、

「いや、要らぬ。私は今、大きな教訓を学んでいるのだ。それが何であるか

は、後で、おまえたちに話そう」と答えた。

  そして、一行がその夜の宿にはいった時、鷹山は、家来たちを呼び集めて、

その日の午後、学んだ、新しく貴重な教訓を語った。

  わが民の悲惨なありさまを、この目で、じかに見て、絶望に沈もうとした時、 

私は、火鉢の炭火がまさに消えようとしているのに気付いた。 

  そこで、火鉢をそっと取り上げ、静かに、根気よく、吹いているうちに、とう 

とう火を起こすことができた。私は、実に嬉しかった。 

  その時、これと同じやり方で、私にゆだねられた領土と領民とを生き返らせ 

ることもできるのではないだろうかと、自分に問うてみた。そして、私の心に  

は、また希望がわいて来たのだ。

                     Photo_5

  〔鷹山よ、それこそは天の声である。それと同じようなやり方で、神は、昔

の預言者に語りたもうた。鍋の召しによって、民を悔い改めさせ、星の示し

によって、諸国民に平和を与えたもうたのである。

  われわれに、聞く耳があれば、自然の語る声を聞くことができる。鷹山は

誠実であったがゆえに、その声を聞いた。なぜならば、誠実な人間のみが

自然と結ぶことができるからである〕  【つづく】

 

 

 

 

2013年2月15日 (金)

上杉鷹山(1 )

   上杉鷹山―封建君主


  1.封建政体

 

 「神の国」の出現は、この、みじめな地上では、ついに望み得ぬことで

あろうか? 

  人類は、これを全く望みなきことにあらずして、切望してきたし、人類の

歴史は、そもそもの始めから、それと明らかに自覚はしないながらも、

神の国を、この地上に実現しようという試みの連続であったように思われる。

 

  クリスチャンは、ヘブライの預言者の理想を受け継いで、十九世紀もの間、

神の国の出現を祈ってやまなかった。 

  神の国は確かに地上に実現されると、気早くも想像した人々があり、アダ

ムの堕落した子らの間に神の国を来らせようとの大胆な試みも、幾たびか

なされたが、これらの試み以上に、聖い勇気と、気高い自己犠牲の精神とを

現わすものは、歴史上にかって存在しなかった。

 

  サボナローラ(*下の肖像画)のフィレンツェ共和国、クロムウェルのイギ

リス共和国、デラウェア河辺に試みられた、ベンの「聖なる実験」などは、

地上で人類が試みた勇敢な企画のうちの最も高貴なものである。

                        Photo

  しかし、それらとても、理想は実現にやや近づいたという程度にすぎない。
 

政治機構としては、非常に進歩したものを持つにもかかわらず、現在のわ

れわれが、理想の国から遠ざかっていることは、十世紀前の祖先の時代

と少しも変わらない。 

 事実、われわれの状態には、いささかの進歩もないのである。さればこそ、

ある賢人は、人類はただ一つの方向、すなわち“堕落”への道を歩んで来た

にすぎないと述べて、われわれを驚かした。



  〔何十年か前には、立憲政治こそ、黄金時代をもたらすものだと考えられ

ていたが、それが実現した今日では、さらに遠い未来に希望をつなぐほか

はない状態である。 

 ある者は、責任内閣制が、われわれに、待望の自由を与えるものだと説く

が、われわれは、すでにこれらの政治的奇術師どもの言葉に信を失って

いる。 

  彼らは、われわれを、”まぼろしの国”へと導く者ではあるまいか。選挙政

治によって神の国が実現することなどは、断じてあり得ない。〕

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  もちろん、われわれは、あらゆる種類の圧制政治を憎み嫌う。専制的な

圧制政治は、今や熱帯地方に行なわれるのみであり、それすら、やがて

滅びるであろう。

 しかし、投票箱の中には、いかなる圧制政治も忍び入らないと想像する

のは愚かなことだ。

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  圧制政治は、われわれが悪魔どもと結んでいるかぎり存在し、この、紳士

と名乗る悪魔どもが、われわれの中からことごとく追い出されぬかぎり、

滅びないであろう。 

  それゆえに、私は言う、人類を苦しめた二種類の圧制政治、すなわち専制

的なそれと、投票箱によるそれとを比べるならば、後者はただ、前者より悪

の程度が少ないというにすぎないと。それだけのことである。 

  この二者より善いもの、または最善のものは、まだ現われない。そして、

それが、いつ、いかにして来たるかについては、われわれは発言を禁じら

れている。


  しかし、いかなる制度といえども、に取って代わることはできないという

ことを、われわれは断固として信じよう。 

  のみならず、徳が現実に存在”する”場合には、制度は、徳の助けになる

どころか、むしろ妨げとなる。
 

  「進歩した機構」は、聖人を助けるよりも、盗人を縛るに適したものであっ

て、代議政体とは、進歩した警察制度の一種だと、私は考える。 

  それによって、無頼漢や悪者を取り締まることはできよう。しかし、いかに

多数の警官が集まっても、一人の聖人、一人の英雄の代わりをつとめる

ことはできない。 

  「非常に悪いものではないが、さりとて非常に善いものでもない」というの

が、代議政体に対する批評でなければならない。



  封建制度には、さまざまな欠点があり、その欠点のゆえに、日本はそれを

廃して立憲制度を採用した。しかし、ねずみを焼くはずの火は、同時に、

納屋をも焼いたのではあるまいか。 

  そして、封建制度が失われるとともに、それと結びついていた、忠義や

武士道等、男らしく情ある心情の多くも、われわれの中から消えたのでは

あるまいか(*下は、大政奉還と王政復古〔=小御所会議〕の場面)

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  真正の意味における忠義は、君主と臣下とが直接に結びついている

場合にかぎり存在するものであって、この両者の間に「制度」が、はいり

込んだならば、もはや忠義は存在しない。なぜなら、主君はもはや主君で

はなくて、統治者となり、臣下もまた、人民に変わったからである。

 

  そのうちに、やがて憲法上の権利をめぐる争論が始まる。そして、その

解決を求めた人々は、これを心に、正すというやり方を改め、法律の成文

によって解決しようとするのである。

  自己犠牲のうるわしい精神が、残りなく発揮されるのは、仕えるべき”

わが”主君、または、心にかけてやるべき”わが”臣下を持つ場合に限ら

れる。

  封建制度の強みは、治める者と、治められる者との間に、この“人間的

な”つながりがある点にあり、封建制度の真髄とは、国家に適用された

家族にほかならない。

  ゆえに、封建制度を理想的な形にしたもの、それこそは、理想的な政

治形態だ。「愛の法律」以上に高い、法律も規約もないからである。


  あらゆる本の中で最もすぐれた本をひもとけば、未来の約束の国にお

て、われわれは、「”わが”民よ」と呼ばれ、「”なんじ”のむちと、”なんじ”

つえ」とが、われわれを慰めるであろうと書いてあるのではないか?

  それゆえに、われわれは、封建制度の廃止が一時的なものであって、

永久的なものではないようにと、心から願うのである。

  憲法上の論争を、数百年または数千年も続けた後に、われわれ人類は

すべて、一人の「父」の子であり、それゆえに互いに兄弟であるということ

悟る時、封建制度は、完全な、栄光に満ちた形を採って、再び、われわ

れの間に現われ、そして、“真の”武士が、「征服した者を許し、誇る者を

くじき」、「平和の法の基をすえる」ために、再びその座を取り戻すに至らん

ことを、われわれは望んでやまない。

  しかし、そのような王国の実現を待ち望む間は、それと非常によく似た事

を追想することによって、われわれの心を元気づけようではないか。

  これは、水と陸から成るこの地球上で、しかも異教国の日本において、

実際に行なわれたことである。

  泰西(=西洋、あるいは西洋諸国)の知識がわが国に入る前に、すでに、

われわれは、平和の道を知っていたのだ。

 そして、日本独自の方法で「人の道」を行ない、「英雄の勇気をもって

臨んだ」のである。  【つづく】

2013年2月14日 (木)

西郷隆盛(完)

   彼の書いた評論のうち、「富の生産」と題するものの一部を、ここに取り

上げてみよう。

 

    『左伝』の中に、徳こそ富の源であると、記されている。徳が高ければ、

  富はおのずから集まるが、徳が衰えれば、それに応じて富も減る。 

     その理由は、国土を豊かにし国民に平和を与えることによって初めて

 富を得ることが できるからだ。 

      小人は自己の利益を目指すが、偉人は国民の利益を願う。前者は、

  その利己主義のゆえに衰え、公共心に富むゆえに栄える。 

      心をどこに置くかによって、繁栄と衰微、富と貧、興隆と衰亡との差が

   生じるのである。 このゆえに、われわれは、常に警戒に務めなければな

    らない。 

       俗に、取ることによって富を得、与えることによって富を失うというが、

   これは、大きな誤りである!

 

       そのことは、農事について考えてみると、よくわかる。 

    けちな農夫は、穀物の種を惜しんで、わずかしか、まかず、その後は座し

   て秋の収穫を待つから、得るところは、ただ飢えのみであるが、良い農夫   

    は、良い種をまき、これを丹精して育て上げるから、穀物は彼の手に余る  

    ほど豊かに実るのである。 

       集めることにのみ心を用いる者は、刈り取ることを知って種をまくことを

    知らぬ農夫のような者であるに反し、賢い人は、いそしんで種をまくから、 

    求めずとも、豊かな実りを刈り取ることができる。

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        徳を修めようと努める人には、おのずから富が集まる。それゆえ、世の

    人の言う「損」とは、ほんとうの「損」ではなく、また「得」も、ほんとうの「得」 

  ではない。 

         昔の賢人は、人々を恵み、これに与えることこそ「得」であり、彼らから

   取り立てることを「損」と考えた。今とは全く反対である。 

         ああ、この賢人の道にそむく方法によって、人々に、富と、うるおいを

   与えようとすることが、賢明な道であろうか? 

 

         損得の法(真の)に反して、国家を富まそうと計ることこそ、愚かと言

   わるべきではなかろうか? 

         賢人は、慈善を施すために節約し、おのれの苦難を忘れて、人々の

   苦難をのみ思い煩うから、富は泉のわくように生じ、雨のように下る恵み

   に、人々は、うるおう ことができる。

         これもみな、賢人が、徳と富との正しい関係を知り、徳の結果なる富を

   求めず、富の源なる徳を求めたがゆえである。



  「古めかしい経済学だ」と、近代ベンタム主義者(功利主義者)の言う声が

聞こえる。 

  しかし、これは、ソロモンの経済学であり、また、ソロモンよりも大いなる者

経済学であって、宇宙が過去幾世紀を経て、なお存在していると同様、

決して古びることのないものである。

 

       施し散らして、増す者あり、与うべきを惜しみて、かえりて貧しきに至る

   者あり、まず神の国と、その義とを求めよ。さらば、これらのものは、みな、

   なんじらに加えらるべし。


  西郷の評論は、これらの聖書の言葉の適切な注解ではあるまいか?


  わが国の歴史上、最も偉大な名を二つ、挙げよとすれば、私は少しもため

らわずに、太閤秀吉(*下の肖像画)と西郷との名を挙げる。

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  この両者とも、大陸征服の大望を抱き、全世界を、その活動の場と考えて

いた。 

  そして両者とも、彼らの国人とは比較にならぬほど偉大であったが、この

両者の偉大さは全く異質のものであった。

 

  太閤の偉大さは、ナポレオン(*下の肖像画)のそれに、やや類するもの

ではなかったかと思う。 

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  ナポレオンに、はっきりと現われている山師的な要素は、わずかながら

太閤にもあった。 

  太閤の偉大さは天才的なものであって、彼は、生まれながらに優秀な

頭脳に恵まれ、労せずして偉大となり得たのであるが、西郷は、それと

違った。

 

  西郷の偉大さはクロムウェル(*下の肖像画)的であって、彼は、単に

清教徒主義を知らぬばかりに清教徒たり得なかったのだと、私は思う。 

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  西郷の場合は、意志の力が大いに、ものを言ったのである。―
 

すなわち、同じ偉大さでも、これは道徳的な偉大さであって、偉大さの

で最高のものである。 

  彼は、正しい道徳的基盤の上に国家を再建しようと努

め、これに、やや成功したのであった。 

 

  〔さきにも述べたように、彼は、武士の中の最後にして最大のものであり、

「輝く明けの明星」であった。この明星は、もと来た道である夜を照らすとと

に、彼が道しるべをした昼に、光を投げ与える。もし混迷と争乱とが、われ

を再び暁闇につきもどすようなことがあったとしたら、その時、再びわれら

照らすのは、この星であろう。

 

  彼を殺しながら、彼によって建てられた社会に生きているわれわれにとり、

彼の名は、彼の道徳性のゆえに尊い。新日本は“道徳の産物”であった。 

  明治維新は、卑劣な精神や、下等な必要性から生み出されたものではなく、

また私利私欲から生じたものではない。

 

  われわれは、これらの事実を永久にわれらの心にとどめ、これを世界に

向かって告げようではないか。 

  ルーテルのドイツに、クロムウェルのイギリスに、ワシントンのアメリカに、

この事を理解させよう。

 

  天が、その子であり、その崇拝者である西郷をつかわして、新日本を創造

したのである。

  日本人がクリスチャンで”ない”からといって、こうした言い方をしては悪い

理由が、どこにあろう?

 

  天よ、みそなわしたまえ、彼らは「経札を幅広くし、その衣のふさを大いに

し」十字架を携え、白の法衣を着て、クリスチャンである人々に、クリスチャン

と呼ばれることを好むのです。 

  しかし、クロムウェル、ルーテル、ワシントンら、彼らの偉大なる先人は、

彼らを、その名では呼ばないだろう。

 

  ”正義に基づいて建てられた国家こそ、キリスト教国家と呼ばるべきでは

あるまいか?” 

  そして、その時、日本に対する不当な取り扱いは、初めて影をひそめるで

あろう。西郷の日本は、異教徒たる恥辱に甘んじるべきではない。

 

  西郷よ、起きよ。クロムウェルよ、起きよ。すべて正義を愛する先人よ、

起きて、地球のこの一角に正義の行なわれるのを見よ!〕  【了】

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2013年2月12日 (火)

西郷隆盛(7 )

  彼はまた、人間は至誠の限りを尽くして、この「天」にまで達しなくては

ならぬ、それでなくては、天の道に関する知識は得られないと考えた。

人間の知恵を、彼は嫌った。

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  すべての知恵は、人間の心と目的との真実さからのみ、生まれる。

心が清く、動機が高くあるならば、会議の席であろうと、戦場であろうと、

必要な時には、いつでも、道が開けるであろう。たえず、たくらみをめぐら

す者は、いざ大事という時に途方にくれる者である。

   西郷自身の言葉を借りるならば、 

   至誠の王国は、人目に触れぬ密室にある。一人居るとき強い者は、

どこに居ようとも強い者である。 

  不誠実と、その長子である利己心とは、人生の失敗の最大原因である。

 

  西郷いわく、 

  人は、自分自身に勝つことによって成功し、自分を愛することによって

失敗する。 

  十のうち八まで成功しながら、残りの二で失敗する人の多いのは、なぜ

あるか? 

  その理由は、事業の成功とともに自己愛がきざし、自戒の念がゆるみ、

安逸を慕い、仕事を重荷と感じるようになるからだ。これが失敗のもとで

ある。

 

  それゆえ、われわれは、命を投げ出して人生の大事に当らなければ

ならない。 

  責任の位置にある西郷が、ある行動を提議しようというとき「私は、

命を差し出します」と言うことが、稀れでなかった。完全な犠牲の精神こそ、

彼の勇気の秘訣であったということは、次の重大な発言によって知られる。

 

  命も、名も、地位も、金も要らぬ人ほど、扱いにくいものはない。しかし、

こういう人共にでなければ、人生の苦しみを分かち合うことはできず、 

また、こういう人のみが、国家に大きな貢献をすることができる。

 

   「天」を信じ、「天」の法と時とを信じた西郷は、また自分自身を信ずる人

であった。一つの信念は、必ず他の信念を伴うという言葉の通りである。 

  心に決して、これを行えば、神々ですら、君の前から退くだろうと彼は言い、

また次のようにも言った。

  機会には、二つの種類がある。求めなくても来るものと、自分で作り出す

ものとである。 

  世間で言う機会とは、おおむね前者だ。しかし真の機会とは、理に従い、

時の必要に感じて行動した結果として生まれるものである。 

  危機が目前に迫っている時には、われらは機会を作り出さなければなら

ぬ。

 

  それゆえ、彼は「人」を、有能な人を、何よりも尊重した。 

  方法や制度について、いかに論じようとも、これを運用するに足る人がい

なければ、無益だ。まず「人」があって、その後に、方法が行われるのだか 

「人」は第一の宝ある。すべての人が、まず「人」たるように努

なければならぬ。

 

   「天を敬う者」は、必ず正義を敬い、正義の道を守る者である。文明とは、

正義が実際に行なわれること」であると、西郷は考えた。 

  彼にとり、天が下に正義より大切なものはなかった。わが命はもとより、

わが国さえも、正義より大切ではなかった。

  正義の道を踏み、”正義のためとあらば、国もろともに倒れる”ほどの精神

がなければ外国と満足な交際に入ることは望めない。 

  外国の強大を恐れ、事なかれと念ずるあまり、彼らの要求に卑屈に応じ

るならば、やがて彼らの侮りを招くに至る。 

  その結果として、友好関係は終わりを告げ、われらはついに彼らの奴隷

と化するであろう。



  同じ調子で、彼はまた言う。
 

  何らかの形で、国家の名誉が傷つけられた場合には、”たとえ国家の存

在が危険にさらされようとも、公正と正義との道に従うのが、政府の絶対の

義務である。・・・・ 

 「戦争」という言葉におののき、怠惰な平和を保つのに専心するような

政府は、商社の支配人ではあっても、政府と呼ばるべきものではない。



  そして、このような言葉を述べた西郷は、当時、東京に在留していたすべ

ての外交使節の尊敬を一身に集めたが、中では特に彼を尊敬したのは、

イギリス女王の派遣公使、ハリー・パークス卿(*下の写真)であった。 

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  パークス卿は、東洋外交に精通するところから、長く公使として日本にと

どまり、わが国におけるイギリスの利権を、抜け目なく擁護した人である。 

「正義に立って恐れるな」というのが、西郷の政府運営法であった。

 

  〔これは、ヘブライの預言者たちの考えるところと同じである「誠意」

外交の精神であることは、今も昔と変わらない。地球上の大国になりたい

ことを望むなら「天」の法をなおざりにしてはならぬ。〕

 

  西郷の考えは、このように簡明であったから、周囲の情勢の見通しも、

実に、はっきりしていた。 

  明治維新というものが、その唱道者たちにとってすら、なお白日夢で

あった頃、それは西郷の心中で、すでに完成された現実となっていた。 

(*下の写真は、沖永良部島に潜居中の西郷隆盛の像) 

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  久しく孤島で流刑の月日を送った西郷のもとに、彼を再び往時の要職に

呼びもどすための使者がつかわされた時、彼は海岸の砂の上に画を描い

て、新帝国建設の提案を、使者に示したが、後の事実と照らし合わせて、

その予見が余りにも正しかったため、使者は後に、友人にこう語ったという、

「西郷は、人間ではなくて、神様だ」と。

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  また、革命の進行中、西郷は終始、冷静さを失わなかったが、これも、

彼に明確な見通しがあったればこそである。 

  いよいよ革命が始まろうというとき、新機軸の中における天皇の位置に

ついて、新政府内の一部の人々は、非常に心を痛めていた。 

  過去の、ほぼ十世紀の間、天皇の立場は、きわめて曖昧なものであった

からだ。 

高名な宮廷歌人福羽氏は、この事について、次のように西郷にたずねた。 

  革命は、私も願うところでありますが、しかし、新政府が成立したとき、

天皇の御位置は、どうなるのでありましょうか?

 

  これに対する西郷の答えは、次のように明白なものであった。 

  新政府においては、天皇を本来の位置にお迎えいたします。  

これによって、天皇は、自ら国事をみそなわしたまい、天の定めた使命を 

遂行されるでありましょう。



  西郷には、廻りくどいところが、少しもなかった。正義の道が常にそうで

あるように、彼は、簡潔であり、率直であり、太陽の光のように明確であった。 

  西郷は、著書を書かなかったが、多くの詩歌と、数編の論文とを残した。 

折に触れて、彼の心からあふれ出たこれらの作品を通して、われわれは、

彼の内なる世界をうかがうことができ、彼の行為は、まさしく彼の内心の

反映であることを知るのである。

 

  彼の書いたものには、学者ぶったところは一つもない。同じ程度の学識を

持つ他の学者れんとちがい、彼の言葉と、たとえとは、およそ考え得る限り

の簡潔なものであった。例えば、彼の詩よりも簡潔なものが、またとあるで

あろうか。

 

  われに千絲の髪あり 

  さんさんとして墨より黒し 

  われに一片の心あり 

  皓々として雪より白し 

  わが髪はなお断つべし 

  わが心は截つべからず

 

  また、次ぎのものは、彼の特性をよく現わしている。 

  一貫、唯々の諾(だく) 

  従来、鉄石の肝 

  貧居は、傑士を生み 

  勤業は、多難にあらわる                     

  雪に耐えて、梅花はうるわしく 

                         Photo_3
  霜を経て、楓葉丹(あか)し

  もしよく天意を知らば

  あに、あえて自ら安きを謀(はか)らんや


  われわれはまた、次の「山の歌」の一節に、自然のままの彼の姿を見る

ことができる。

  池、古く、山、深く

  夜よりも静かなり

  人語を聞かず

  ただ天を見る

                           Photo_4

   【つづく】

 

 

2013年2月 9日 (土)

西郷隆盛(6 )

  6.彼の生活と人生観



  西郷が日本国のために、如何なる貢献をなしたかにつき、歴史的に

正しい評価を下すには、いま少しの時を待たねばならない。 

  だが、彼が、如何なる人間であったかを知るための材料は十分にある。 

そして、彼の人と成りを知ることが、彼の歴史的評価を決定する上の重要

な参考になるとしたら、彼の私生活と私見とについて、私がしばらく筆を

費やすのを、読者は許して下さることを信ずる。

 

  第一に言いたいことは、彼ほど人生の欲望の少ない人はなかったという

ことである。 

 日本陸軍の総司令官、近衛総督、大臣中の最有力者という栄誉を身に

帯びながら、彼の外見は、普通の兵卒と異ならなかった。 

  数百円の月給のうち、十五円あれば十分だとして、残りのすべては、困っ

ている友人に快く分けてやった。

 

  東京の番町の家は、“月の家賃三円”という見すぼらしい建物だったし、

その服装はといえば、薩摩がすりの綿服に、太い白木綿の兵児帯を締め、

足に大きな下駄を突っかけるというありさま。

  この風態で、宮中の正餐の席をはじめ、あらゆる場所に出かけて行った

のである。

 

 食物にしても、出される物は何でも食べた。あるとき、ある人が彼の家を

訪問したところ、主人公は、兵士や従者たちと車座になって、大きな木鉢を

囲み、その中から、冷やそうめんをすくいあげて食べている最中だったと

いう。若者たちと、いっしょの食事をするのが大好きだったという彼自身、

単純きわまる大きな子供であったのだ。

  自分の身体に対してと同様、自分の財産に関しても、彼は至って無頓着

であった。

 

 東京市中の最も繁華な場所に持っていた立派な地所を、当時発足した

国立銀行に引き渡すに際し、値段を聞かれても、答えることを拒んだという。

  それゆえ、時価数十万円のその地所は、今日に至るまで、その銀行の

所有するところとなっている。 

  また高額の恩給はすべて、鹿児島に創立した学校の維持費に宛てた。

 

彼の漢詩にいわく 

 わが家の遺法、人知るや否や  

  子孫のために、美田を買わず

そのようなわけで、彼は妻子に何の遺産も残さなかったが、しかし国家は、 

反逆者、西郷の遺族の生活を保証したのである。近代の経済学は、西郷の 

この「無頓着さ」に対して、多くの異議を唱えるであろう。

 

  しかし、彼にも一つの道楽があった。それは、犬であった。贈り物と思わ

れる物は、何に一つ受け取らなかった彼も、犬に関する物であれば、

大喜びで受け取った。 (*下の写真は、西郷隆盛の愛犬ツンの像)

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  着色石版画、石版画、鉛筆で書いたスケッチなど、犬に関する物は何でも、 

彼を喜ばせた。 

  東京の家を引き揚げる時などは、大きな箱が、犬の画でいっぱいになった

という。 

 大山大将(*下の写真:彼は、西郷の従弟に当る)に宛てた彼の手紙の

一つに、犬の輪について細かく記したものがある。

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  犬の首輪の見本、御親切にお送りくだされ、まことにありがたく存じます。

舶来品よりも上等のものばかりでありますが、ただ、これより三インチばか

り長くしていただけたら、当方の希望にぴったりであります。    

  それを四、五本と、もう一つは、見本より少し幅広で、五インチ長いものを、

お送くだされたく、お願いいたします・・・・。 

 

  彼は生涯、犬を友とした。犬どもを連れ、山の中で、幾日幾夜を過ごすこ

とさえ稀でなかった。 

   最も孤独な人であった西郷は、もの言わぬ獣と、その孤独を分かち合っ

ていたのである。(*下方、上の写真は、ブログ「撮るだけ撮ったら腹ごしら

え  西郷隆盛像」より拝借)

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  彼は、人と言い争うことが嫌いで、できる限り、それを避けようとした。
 

ある時、宮中の宴会に招かれ、例の薩摩がすりに兵児帯という服装で、

参内したまではよかったが、退出しようとすると、皇居の玄関にぬいだ

下駄がない。

 

  しかし、その事で誰彼を煩わすのは好まないので、はだしのまま、外へ

出て、ぬか雨の中を歩き出した。皇居の門まで来ると、守衛が彼を呼び

止めて、身分を釈明せよと言う。 

ーあまり粗末な身なりなので、怪しい人物と看做されたのだ。

 

「西郷大将だ」と答えても、相手は信用せず、門を通ることを許さない。

そこで、彼は雨の中に立ち、自分の身分を証明してくれる人の来るのを

待つことにした。 

  間もなく岩倉大臣を乗せた馬車が通りかかって、はだしの男は、まさしく

大将であることがわかり、二人は、そのまま馬車に同乗して立ち去ったと

いう。―

 

  西郷はまた、「熊」という名の下男を召しかかえていた。「熊」は、質素な

家風の西郷家に長く仕えて、人にもよく知られていたが、ある時、重大な

罪のために、職を取り上げられるという破目におちいった。 

  しかし寛大な主人は、失業後の下男の生活を気づかって、彼を従前ど

おり家に置き、その後の長い年月、一度として彼に用事を命じなかった。 

  主人よりも、ずっと長生きした「熊」は、この不運な英雄を深く悲しむ者の

一人であった。

 

 西郷の私生活を親しく知るある人は、次のように言っている。 

「私は十三年間、彼と生活を共にしたが、その間、彼が雇い人を叱ったの

を見たことがない。 

  彼は、寝床の上げ下ろし、雨戸の開け閉(た)て、その他、身の周りの事は、 

ほとんど自分でやった。 

  しかし、他の人がやってくれている事には決して手を出さなかったし、また、 

手伝いましょうという申し出を断わることもなかった。 

  彼の無頓着さと無邪気さとは、まるで子供のそれのようだった」と。

 

  ”彼が衷心から嫌ったのは、他人の平和を乱すことだった。 

人の家を訪ねても、声をかけて、中の人を呼び立てるようなことをせず、 

そのまま玄関にたたずんで、誰かがひょっこり現われて、自分に気づくのを 

待っていたという!”

  これが、彼の生き方だった。これほどまでに謙虚で、これほどまでに単純な
 

生き方が、またとあろうか。 

  しかも彼の思想は、聖者や哲学者のそれに等しかったことは、すでに他の 

機会に述べた通りである。

  「敬天愛人」彼の人生観は、この言葉に尽きている。彼にとり、

すべての知恵はそこにあり、すべての非ー知恵は、自己を愛することに

あった。

  西郷が「天」に対して如何なる考えを持っていたか、「天」を、「力」と解し

たか、または「人格」を持つ者と解したか、また、日々の形式的礼拝とは

別に、彼が「天」に対する尊敬を如何なる形で表わしたか等を確かめるこ

とは、われわれにはできない。

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  しかし彼が、「天」とは、全能者であり、不変なる者であり、あわれみに満

ちた者であり、「天の法」は、すべての人の守るべき完全無欠のものであっ

て、しかも極めて恵み深いものであると解していたことは、彼の言動によっ

て、十分に知ることができる。

  「天」と「天の法」とについて彼が語ったことには、さきに触れた。

彼の書いたものは、「天」に関する思想で満ちているが、それらをここに

引用する必要はないだろう。

  「天は、すべての人を平等に愛したもう。それゆえに、われわれは、自身

を愛するに等しい愛をもって、他の人を愛さねばならぬ」という彼の言葉は、

律法と預言者とに関するすべてを言い尽したものである。

  この偉大な教義を、彼がどこから学びとったかを知りたいと思う人もある

であろう。  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

2013年2月 8日 (金)

西郷隆盛 ( 5 )

  5.反逆者としての西郷

   西郷の生涯で最も痛ましいのは、その最後の時期である。これについて

多くを記す必要はない。

 時の政府に対し、彼が一転して反逆者となったのは、紛れもない事実で

ある。

  彼がなぜ、このような立場に追い込まれたかについては、様々な説が

あるが、その生来の弱点である「鋭すぎる感受性」のゆえに、反逆の群れに

与(くみ)したのだという説が、最も眞相をついているように思われる。

  西郷を天下唯一の人と崇める五千人ほどの青年が、明らかに反逆の旗を

翻したのであるが、これは西郷の知らぬことであったらしく、もちろん彼の

意志に反したことであった。

  ところが、この挙の成功のためには、彼の名と影響力とを貸してやること

が絶対に必要であった。

  窮地に追いつめられた青年たちの必死の懇請を前にしては、最も強い人

であるはずの西郷も、全く無力であったのだ。

  二十年前、客僧月照に対する眞心のしるしとして、その命を捨てようとし

た西郷は、この度は、彼を崇拝する後進に対する友情のしるしとして、命も、

名誉も、何もかもを犠牲にしようと心に決めたのであろう。これが、彼を最

もよく知る人々の見方である。



  時の政府に対し、彼が強い不満を抱いていたことは確かである。しかし、

彼ほど穏健な人が、憎しみのためだけで戦争をするとは考えられない。

  少なくとも彼の場合、その生涯の大目的が失望に終わった結果として、

反逆の群れに投じたのだと想像するのは誤りであろうか?

  1868年の革命が、彼の理想とは、およそ反対の結果に終わったのを見

たとき、その直接の責任者ではないにもせよ、彼は、言い尽くしがたい心

の苦痛を味わったのである。

  万が一、反乱が成功したら、自分の生涯の偉大な夢を実現させる機会を、

もう一度、つかむことができるのではあるまいか?

  確実とは言えないが、全く望みがないわけではない。こうして彼は反徒に

加わり、自分では本能的に承知していたと思われる運命を、同志と共に

分け合ったのである。

  しかし、彼の生涯のこの部分が、歴史の上で残りなく解明されるのは、

今後、さらに百年の後のことであろう。

                          Imagescaq83xui_2

                     

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  この西南戦争(*上の図と写真・・・当時の熊本城)を通じ、西郷は、 

受身の立場に終始して、桐野(*下の写真)らが、戦争の作戦方面を

担当した。

   戦争は、1877年の2月から9月まで続いたが、反乱軍の敗北が決定的

なるに及び、全軍は死にもの狂いで鹿児島へ退却しようとした。彼らは、

「先祖の墓」に葬られることを願ったのである。

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  官軍は、彼らを追って、ついに城山で反徒を包囲した。官軍が、その総力

を山のふもとに集結したとき、主人公は、上機嫌で“碁”を打っていたが、

従者の一人を顧みて、   「いつか、私が駄馬を引いて野良から帰る途中、

下駄の鼻緒を、すげてやったのは、君ではなかったかね?」と言った。

  従者は、当時のことを思い出し、恐縮して、ひたすら彼の許しを乞うた。

  「なに、いいのさ。あまり、ひまなので、ちょっと君をからかってみただけだ

よ」というのが、西郷の答えだった。

  事実は、こうである。― あるとき、大将は、生意気な二人の若者が言う

がままに、その下駄の鼻緒を、すげてやった。

  薩摩の風習として、武士たる者は、道で出会う農夫に、それを命じる権利

があったが、その時の農夫こそ、計らずも大西郷であったのだ。

  彼は、一言の不平も言わずに、その卑しい仕事を済ませると、きわめて

謙虚な態度で立ち去ったという。

  西郷の死の瞬間に立ち合った人の回顧談として、こうした話が残されて

いることを、われわれは心から感謝する。われらの西郷の謙虚さには、

聖アクイナス(*下の肖像画:トマス・アクイナス)も及びはしない。

                      Photo_3


  1877年9月24日の朝、官軍は城山に向かうため、総攻撃を開始した。

同志に取り巻かれた西郷は、敵に向かうため、立ち上がろうとして、

その刹那、飛んできた銃弾に腰を撃たれた。*下の絵は、城山の戦い)

         

                Photo

  城山に籠った小部隊が全滅して、西郷の遺骸が敵の手に落ちたのは、

それから間もなく後のことであった。

  「遺骸に無礼を加えてはならぬぞ」と、敵将の一人が叫び、他の一人は、

「なんと安らかな顔だろう!」と言った。 彼を殺した者どもは、ひとしく悲嘆

にくれ、涙ながらに彼の遺骸を葬った。今に至るまで、涙ととともに彼の墓

をおとずれる人は絶えない。

  こうして、武士の中の最大の者、そしておそらくは、その最後の者は世を

去ったのである(*下の写真は、南洲墓地)

           Photo_2


    〔さきに私は、この書の中で、偉大という言葉は、現在までのところ、日本

人の特色を現わすものではないと書いた。西郷は偉大であったがゆえに、

彼の国人(*この場合、「国の指導者たち」の意か)に斥けられ、反逆者と

なるまでに追い詰められたのである。

 彼が大陸に生まれなかったのは、惜しんでも余りあることながら、しかし、

”このような英雄を生んだ島国は幸いなるかな”。

  摂理が、遠い昔に結んだ契約の保証として、西郷をこの国に送ったのだ

と、私は信ずる。

 無知のゆえに、汚名を着せて彼を殺した国人も、彼の偉大さにまで成長

すれば、彼のような人物を歓迎するようになるだろう。

  願わくは、われらの英雄の安らかに眠らんことを。

 彼の偉大さと高貴さとは、長く、この国民の霊感の中に生きるであろうし、

この国の将来に託した、彼の大きな夢は、未来において現実となるかもし

れないからである。

  但し、われわれは、当時の時代と社会情勢下で、彼が唯一のものと考えた、

その手段を選ぶものではない。〕  【つづく】

2013年2月 7日 (木)

西郷隆盛(4 )

   4.征韓論事件

 

   西郷の場合、単に征服の目的だけで戦争をすることは、彼の良心が

許さなかった。 

  東方アジアの征服という彼の目的は、当時の世界情勢に対する彼の

見地から、必然的に導き出されたものである。

 

  すなわち、ヨーロッパの強国に対抗するためには、日本は、ある程度、

領土を拡張することが必要であり、また、国民精神を奮い立たせるため

には、積極政策以外に道がないと、彼は考えたのである。

  その上、彼の胸中には、日本は、東方アジアの指導者としての大使命を

持つものだという自覚もあったと、われわれは信ずる。 

  弱者を圧(お)しつぶす気持ちは毛頭なく、弱者を導いて強者に対抗させ、

驕れる者を粉砕することに、彼は、その全力を注ごうとしたのである。

 

  彼の理想の英雄はジョージ・ワシントン(*下の肖像画)であり、彼は、

ナポレオンと、それと同型の人物を、いたく忌み嫌ったということだが、

この一事のみによっても、彼が低い野心の奴隷でなかったことは分かる

と思う。                    Photo

 

  このように、西郷はかねてから、自国の使命について高い見解を抱いて

いたが、しかし、十分な理由もなしに戦争を始めようなどとは思わなかった。

それは、天の法則にそむくことだと、彼はよく承知していたのである。

 

  しかし、機会は向こうから、おとずれた。これこそ、世の始めから日本に

定められていた使命を達成すべき天与の機会だと、西郷が考えたのも

無理はない。 

  事は、隣国の韓国で起こった。アジア大陸の中で、日本に最も近く位置

する韓国が、維新の新政府から派遣された使節らに無礼な態度を示した

のである。

 

  のみならず、韓国は、在留日本人に対しても明白な敵意を示し、また、

友好的な隣国日本の尊厳を著しく傷つけるような布告を、国民に向けて

発した。 

  「こんな無礼を、黙って見過ごしてもよいものか」と、西郷、並びに彼と

意見を同じくする人々は言い張った。

 

  韓国の横暴は、兵火で報いるほどのものではないとしても、わが国は

直ちに、高官数名から成る新しい使節団を、半島の王宮につかわして、

先の無礼を、とがめねばならぬ、そして韓国がなお、その高慢な態度を

改めずに、わが国の使節を侮辱し、また万が一、彼らの身に危害を加える

ようなことがあったならば、その時こそ、国民は、大陸に軍隊を派遣し、

天の許す限り、その征服を推し進めるべきだと悟るであろう、そして、

この使節の責任は重く、また極度の危険を覚悟せねばならぬから、

この役目には是非、自分を当らせてもらいたいと、西郷は主張した。

 

  国民の前に征服の道を開くために、まず征服者自身が自分の命を投げ

出そうというのである!  このような方法で企てられた征服が、かつて

歴史上に見られたであろうか。



  平素は、ゆったりとした無口な西郷も、閣議の席上、韓国派遣使節の

問題が討議される時には、別人のように激して、活動的となり、自分を

全権使節に任命されたいと、同僚に”哀願”したほどである。

 

  それゆえ、その願いが首尾よく、叶えられた時の喜びは、ちょうど欲しい

物を手に入れた子供が、おどり上がって喜ぶような様子だった。 

  ここに、彼が、友人の板垣(*下の写真)に宛てて書いた手紙がある。

西郷の任命は、板垣の特別の尽力により、秘密のうちに決定したのだった。

                            Photo_5

  Photo_2
 

    板垣様 


  きのう、お宅に参上いたしましたが、お留守だったので、お礼を申し上げる

こともできずに帰宅いたしました。 

  私の願いが”ことごとく”、叶えられたのは、ひとえに御尽力のたまもので

あります。病気もすっかり治りました。 

  私は喜びにわれを忘れ、三條大臣邸から宙を飛んで、お邸(やしき)へ

けつけたのでありました。 

  もう「横槍」のはいる恐れもないと存じます。これで、私の望みを果されま

したから、以後は青山の家に引きこもり、ひたすら発令を待つことといたし 

ます。 

  まずは御礼の心もちのみ申し述べました。 

                                        西郷

  

  この折しも、岩倉、大久保、木戸の三人が、海外視察の旅から帰って来た。 

文明の中心地で、その快楽と幸福とを見て来た彼らは、もはや外国との戦争

などを考えもしなかった。それはちょうど、西郷の頭の中に、パリやウィーン

の生活が存在しなかったのと同様である(*下の写真は、岩倉遣欧使節

団)

             Photo_3

  そこで三人は、虚偽と卑怯とのあらゆる手段に訴えて、自分たちの留守の

間に閣議で決定された決議をくつがえすことに努め、三條大臣の病気に

乗じて、ついにその目的を達した。

 

  すなわち1873年11月28日、韓国へ使節派遣の議は取り止めとなったので

ある。 

 かつて怒りを表に現わしたことのない西郷であるが、「長袖」の廷臣らの、

この卑劣きわまるやり方には心底から怒った。 

  さきの決議が撤回されたことよりも、撤回に至るまでのやり方と、その

動機に対して、おさえきれない憤りを発したのである。

            Photo_4

  この腐敗した政府に再び関わるまいと決意した西郷は、閣議の卓上に

辞表を投げつけると、直ちに東京の家を引き払って、故郷の薩摩に引退

した。 

  こうして、彼は、ほとんど彼一人の努力で出来上がったに等しい政府に、

二度と加わることはなかったのである。



  征韓論の禁圧以来、政府の積極政策はすべて取り止めとなり、それ以後

の全政策は、支持者たちのいわゆる「国内発展」の線に沿うこととなる。 

  そして、岩倉以下の「平和派」の願望さながらに、国内は、彼らのいわゆ

る「文明」の色に染められて行く。

 

  だが、それとともに柔弱の風も生じ、決然たる行為を避け、明白な正義を

犠牲にしても平和に執着するなどの、眞の武士を嘆かせる風潮が、ひろが

って行った。


 文明とは、正義が十分に行われることにほかならぬ。家屋の壮大や、

衣服の美や、外面的な装飾を、文明と呼ぶことはでき”ない”


  これは、西郷が文明に対して与えた定義であるが、”この意味における

文明は、彼の時代以後、あまり進歩しなかったことを、われわれは遺憾と

せざるをえない。

 

 〔西郷の征韓論が、もし実行に移されていたら、国民は、多くの血を流し、

複雑な対外関係の渦に巻き込まれたことであろう。だが、この企ては

同時に、多くの健全な効果を、国民にもたらしたであろうことも、私は疑わ

ない。 

  西郷の計画が斥けられたことにより、国民は、物を得て、精神を失った。 

そして、どちらの道を選ぶべきであったかは、未来が判定するであろう。

・・・内村鑑三記〕  【つづく】

 

   

 

2013年2月 5日 (火)

西郷隆盛(3 )

  3.維新における彼の役割


  明治維新における西郷の役割を残らず書くことは、維新史全体を書く

に等しい。1868年の革命は、ある意味で西郷の革命だったと言えると、

私は思う。

 

  もちろん、一人の力で国の立て直しができるものではないし、また、

われわれは、新しい日本を西郷の日本とも呼ぼうともしないであろう。 

  それは、この大業に参加した他の偉人たちに対して、大きな不公平を行う

ことであるからだ。

 

  事実、彼の共働者の中に、彼よりも優れた者は少なくなかった。経済

再編成の問題について、西郷は無能力に近かったし、国内行政の細部に

ついて、木戸や大久保のような適任者ではなく、また維新後の国内安定

の手腕においては、三條や岩倉(*下の肖像画の上が三條実美、下が、

岩倉具視)の方が、はるかに西郷よりもすぐれていた

 これら”すべて”の人がいなかったら、今日の新日本帝国は有り得なかっ

たであろう。

           Photo_6

            Imagescaevfewc

  しかし、もしそこに西郷がいなかったとしたら、革命が果たして行われた

であろうかを、われわれは疑うものである。 

  木戸や三條がいなくても、維新はとにかく実現の段階にまでは漕ぎつけ

たであろう。

 

 維新を成就させるために必要欠くべからざるものは、革新の運動そのもの

を引き起こす原動力、その運動に形を与え、そむくべからざる天の法則

命ずる方向に、その運動を推し進めて行く精神である。

 

  ひとたび運動が起こり、その進むべき方向に向かえば、あとに残るのは、

比較的やさしい仕事、その多くは雑役ともいうべきものであって、西郷の

ような大人物より一段劣った人々にもできる事である。

 

  そして、われわれが、西郷の名と新日本帝国とを、これほど密接に結び

つけているのも、彼こそは、その大きな心の中に発生した力を、自ら発展さ

せ、方向づけた人であって、この出来事はみな、その力に起因していると

信ずるからである。

 

  さて徳川将軍の都、江戸で、東湖との、極めて重要な会見を終え、故郷の

薩摩に帰った西郷は、当時、西日本で勢力を増しつつあった反徳川党に

投じた。 

  勤皇主義を奉ずる、仏教の名僧月照(*下の肖像画)と彼との友愛もの

がたりは、彼の生涯に一転機を画したものであるが、この事によって、

彼の掲げる目標は公然と知れ渡った。

                               Photo

  この事件というのは、こうであるー西郷はかねてから、亡命中の月照を

隠まうことを任せられていたのであるが、幕府方の追窮が厳しいため、

隠し切ることができず、ついに客僧と共に死のうと決心して、月照の同意

を得た。

 

  月明の一夜、この二人の愛国者は、海上に船を浮かべ、「心ゆくまで

秋景色を楽しんでから」、手に手を取って水中に投じた。 

  物音に目を覚ました付添いの人々が、直ちに捜索を開始し、二人の体を

引き揚げたが、西郷は蘇生したにも拘わらず、月照は、ついに空しかった

のである。

 

  新帝国の運命を、その雙身に担う身でありながら、西郷は、友に対する

愛と誠意を貫くために、その生命を捨てることを惜しまなかったのである。

 これが、彼の弱点であった。かつて、禅を学ぶことによって殺そうと努めた

ほどの「余りに強すぎる感受性」の弱点である。― 

  これが、ついには彼に最後の破滅をもたらすのであるが、そのことは後に

わかるであろう。



  この事件、および反徳川運動に加担した罪を問われて、西郷は再度、

南海の島に流された。 

  しかし、1863年、イギリス艦隊による鹿児島砲撃事件が起こると、彼は

直ちに帰国して、以前よりは用心深く、倒幕の運動を進めた。長州藩と

徳川幕府との間が平和に解決したのは、彼の進言によるものである。

 

  しかし、一年後に、幕府が、長州に対して、数々の不当な要求を突きつけ、

長州藩が、断固としてこれを拒むと、ここに、いわゆる長州征伐(*下の図)

が始まった。

                           Photo_4
 

  このとき、薩摩藩は、西郷の考えに従い、幕府から割り当てられた征討軍

の送り出しを断わったが、この薩摩の方策が機となって、薩長間に有名な

連合が成立し、維新史に重大な影響を与えることとなるのである。



  ところで、長州征伐の完全な失敗と、対外国政策に明らかに示された

無能ぶりから、幕府は、予想以上に早く崩壊へと向かう。 

  滅亡寸前の幕府追討の勅命が、薩長連合軍に対して下ったその同じ日に、

徳川将軍は、三百年来、保持して来た政権を自ら放棄し、ここに正当な

君主が、表面は何の妨害もなく、再び大権を握るに至った(1867年11月

14日)。

 

  それに続いて、薩長連合軍と同盟軍とによる京都市街の占領、「12月9日

の大詔渙發」、徳川将軍の二条城引き渡し等が、すみやかに行われた。 

  しかるに翌1868年1月3日、京都市外伏見において、新旧政府軍の衝

突があり、官軍は、この戦いに完勝したので、賊軍(徳川の軍は、これ以後、

この名で呼ばれることとなる)は、東に退却した。

  二手に分かれた大軍が、賊軍を追って東に向かったが、この時、西郷は、

東海道を進む軍の指揮を執り、何らの抵抗に会うこともなく、4月4日、

江戸城の引き渡しを受けた。明治維新の残した影響の著しいことを思えば、

これほど安価に購われた革命もないであろう。

  そして、革命がこのように安価に購われたのも、その効果が実に素晴ら 

しかったのも、とえに西郷の力によるのである。

  明治維新に特徴的な、この相反した事実こそ、西郷の真の偉大さを

雄弁に物語るものにほかならない。

  旧制度に与えた影響の深刻さにおいて、「12月9日の大詔渙發」に比す

べきものは、1790年7月14日の、パリにおける革命宣言あるのみである。

  これより先、伏見で最初の戦いが始まって以来、西郷の沈着さは、全

官軍の支柱であった。

  戦場から一人の伝令が走り帰って、「援軍を頼みます。わが軍はわずか

一連隊なのに、敵の砲火は非常なものです」と訴えた時、西郷将軍は、

「よろしい。一人残らず戦場に倒れた時、援軍を送ろう」と答えたという。

  そして、伝令は、戦場に引き返し、敵は撃退されたのである。このような

勇将に率いられた軍隊が負けるはずはない。

  東海道軍は、進んで品川に入り、ここで、西郷は、旧友の勝(*下の

写真)と会見した。

                  Photo_2
   勝は、徳川方で、ただ一人、

旧制度の崩壊の避けがたいこ

とを見抜き、国家を生かすた

には、主家の権威を犠牲に供す

ることもやむを得ないと考えた人

である。

  官軍の将である西郷は、旧政府

の使者である勝を引見して、「今

となっては、あなたも途方にくれて

おられるでしょう」と言った。

  「あなたが、私の立場に立って

くだされば、私の苦境を、

わかってくださるでしょう」と

勝は答えた。

              Photo_3

  西郷は、大声をあげて笑った。彼は、友人の苦境に立つのを見て楽しん

だのである!

 だが、この時を境として、彼の心は、ひとすじに平和を求めるようになった。

  京都に引き返すと、あらゆる反対を押し切って、徳川将軍とその家臣らと

に恩赦の下るべきことを主張し、籠城軍に極めて有利な条件を携えて、

江戸に帰ったのである。

  伝えるところによると、講和を最終的に決意する数日前、西郷は、勝に

誘われて愛宕山に登ったが、眼下に広がる広大な市街を見て、西郷の心

は深く動かされた。

  彼は、友人を顧みて、「もし、われわれが戦うようなことがあれば、その

ために苦しまねばならぬのは、これらの罪なき人々です」と語って、しばし

無言であったという。

  この時、彼の「感受性」が揺り動かされて、それらの罪なき人々のために、

平和を守らねばならぬと決意したのである。

  「強者は、弱者に妨げられぬ時、最も強い」という。西郷の強さの陰には、

婦人のような、憐みの心が隠されていたのである。



  こうして、江戸の町は戦火をまぬかれ、平和は成り、徳川将軍は、武器

を捨てて、その居城たる江戸城を天皇に明け渡した。

  天皇が、その正当の位置に復帰し、国内が、正当の君主の下に統一され、

西郷の意志のおもむく方向に政府が動き出すと、彼は直ちに故郷、薩摩へ

引き揚げて、数年の間、兵士の訓練に没頭した。彼は、他の人々のように、

戦争はすでに終わったとは考えなかった。

  これから社会の大改革を始めるあたっては武力が要る、彼の、もう一つ

の目的のためにも、同じく武力が必要だ、帝国の統一は、わずかに第一

歩にすぎないというのが、西郷の考えであった。

  彼はやがて首都に呼び出され、維新に功のあった人々と共に、参議

(天皇の相談役)の重職に就いた。

  しかし、それらの人たちが、やがて彼に同調し得ない時が来た。これま

では、共通の目的があったればこそ、互いに協力して来たのである。

  しかし、今、彼らは現状にとどまろうとするに反して、西郷は、なおも

前進しようとする。両者の間の協調は、ついに破れた。  【つづく】



 


 

 

2013年2月 4日 (月)

西郷隆盛(2)

   2.誕生、教育、霊感

  「大西郷」は文政10年(1827年)、鹿児島の町で生まれた。彼は普通

この名で呼ばれるが、それには、二つの理由がある。 

  その一つは、彼の偉大さのゆえであり、他の一つは、彼の弟との区別

をはっきりさせるためである(*下は、平野五岳作の「西郷隆盛」・・・

最も、西郷の実像に近い絵と言われている。)

                 Photo_8

  彼が初めてこの世の光を仰いだ地点には、今は記念の石碑が建てら

れており、そこから、ほど遠からぬ所に、彼より二歳下の高名な共働者、

大久保の生地を記念する標識が立っている(*下の写真は、桜島)

                  Photo_2

  西郷家は、特に誇るべき名家ではなく、薩摩の大藩の中では、中以下

の武士であった。 

  彼は、男四人、女二人の六人兄弟の長子に生まれ、少しも目立たぬ少年

として生い育った。無口な彼は、世間の間では愚か者として通ったほどで

ある。

 

  彼の魂が初めて義務の意識に目覚めたのは、遠縁の者が、彼の目の

前で“切腹”するのを見た時であった。 

  その武士は、まさに腹に短刀を突き立てようとする刹那、この少年に

向かい、武士は、主君と御国とのために命を捧げねばならぬと教えた。

少年は泣いた。 

  そして、この時の印象は、生涯、彼の心から離れなかったのである。



  長ずるに従い、彼は、大きな目と広い肩とが特長的な、太った大男と

なった。大きな目という意味の「うど」という、あだ名が付けられたほどで

ある。 

  筋力すぐれた彼は、相撲を大いに好み、また、ひまさえあれば、山歩き

を楽しんだ。この山歩きは、彼の生涯の最後の時まで続く楽しみであった。

 

  彼は若くして、王陽明の著書に心を引かれた。数あるシナの哲学者の中

でも、王陽明は、良心に関する高遠な学説と、やさしい中にも厳しい天の

法則を説いた点で、同じくアジアに起こった、かの尊厳きわまりないキリスト

教に最も近づいた者である。

 

  その後の西郷の書いたものには、王陽明(*下の肖像画)の影響が、

はっきりと現われている。 

                          Photo_3

 そこに流れるキリスト的情操を見て、われわれは、それが王陽明の偉大

で簡潔な思想から生じたものであり、また、王陽明の思想を、自分の性格

となるまでに消化して、それを実行に移した西郷の偉大さを示すものである

ことを知るのである。  彼はまた、仏教のストイック的形態ともいうべき禅学

を少し学んだ。 

  彼が、後に友人に語ったところによれば、これは、「自分の鋭(するど)過

ぎる感受性を殺す」のが目的であったという。 

  いわゆるヨーロッパ的教養は全く身につけなかった。日本人の中で、最も

幅広く、かつ最も進歩的であった西郷の教養は、純東洋風のものであった。 

  では、彼の生涯を支配した二つの思想、(一)統一帝国〔王政復興〕と(二)

東アジアの征服〔東邦軽略〕という、この二つの思想は、どこから来たのだ

ろうか? 

  王陽明の哲学を論理的に追求すれば、このような思想になることが考え

られる。

 

 王陽明学は、徳川幕府が自己保全のために奨励した朱子学とは異なり、

進歩的、前進的、将来性に満ちたものである。 

  それがキリスト教に似ていることが、一度ならず指摘され、それやこれや

の理由から、わが国では、事実上、禁止同様になっていた。

 

  「キリスト教は、陽明学に似ている。日本帝国崩壊の因をなすものは、

これだろう」と、維新史に名高い長州の戦略家、高杉晋作は、長崎で初め

て聖書を調べた時に叫んだ。キリスト教に似たあるものが、日本の再建に

あずかって力あったということは、日本の維新史上の驚くべき事実である。



  西郷が、その生涯をかけての大計画を立てるについては、その立場や

環境が大きな力となったことは確かだ。 

  彼の生地、薩摩は、日本の南西端に位置していたので、常時、この方面

から流入したヨーロッパの影響を、最も受けやすかったのである。

 

  薩摩が長崎に近かったということも、この意味で、大きな利点であった。

また中央政府(=幕府)の正式許可が下りるずっと以前から、薩摩藩所属

の島々では、外国貿易が実際におこなわれていたということである。



  しかし、外からのあらゆる影響の中でも、西郷に最も大きな力を及ぼした

ものは、当時の二人の人物であった。その一人は、彼の封建君主たる、

薩摩の島津斉彬であり、他の一人は、水戸藩の藤田東湖である。 

(*下方の上が島津斉彬、下が藤田東湖)

 

                      Photo_4

                 Photo_5


 島津公が非凡な人物であったことは疑う余地がない。冷静で、かつ先見

の明のあった彼は、避けがたい変革の、日本に来たりつつあることを、

つとに(=早くから)見抜き、間近に迫った危機に備えて、自分の藩に

さまざまな改革を施した。 

  自分の住む鹿児島の町を要塞化し、1863年には、イギリスの艦隊に

大損害を与えて、これを撃退した(*下は、Illutrated London  News

1863年11月3日号の「薩英戦争」のイラスト)

           Photo_7

 

  また彼は強い排外思想の持ち主であったにもかかわらず、フランス人が

薩摩の沿岸に来た時には、臣下の強い抗議をおさえて、これを丁重に迎

えた。 

  「おだやかな紳士ながら、必要とあらば、戦いを辞せぬ人」である島津公

を、西郷は心から慕い、後年になっても、この偉大で先見の明のある主君

に対する忠誠の心は変わらなかった。 

  日本の未来に関し、互いに非常に似通った見解をいだいていたこの二人

は、親密な友人の間柄であったのだ。

 

  しかし、最高にして最大の霊感を西郷に与えたのは、「大和魂の凝集」と

言われた、当時の大人物、水戸の藤田東湖である。彼は、日本が霊化して

成った人であった。

 

  容姿きびしく、相貌するどく、その容相は、内に赤誠を秘めた魂を抱いて、

火を吐く富士を思わせるものがあった。  正義を熱愛し、西洋の野蛮を憎む

彼の周囲には、意気さかんな青年たちが集まっていた。 

  遠い薩摩で、彼の名声を伝え聞いた西郷は、主君に従って江戸へ下った

機会をとらえて、東湖をおとずれ、親しくその風貌に接したのである。

 

  東湖と西郷、世にこれほど相似た魂の触れ合ったことは、またとないで

あろう。 

「わが胸中の大志を後世にまで伝える者は、この青年を措いて他にない」と、 

師は弟子について語り、「天が下に恐るべき者はただ一人のみ。それこそ、

東湖先生である」と、弟子は師について語った。

 

  統一された帝国、「日本をヨーロッパと同じ水準に立たせるため」の大陸

への領土拡大、及び、その目的に向かって国民を導く実行手段等、西郷の

心の内にあった問題は、東湖から新しく受けるに至った影響により、最終的

な結論に達したように見える。 

  今や彼は、生命を捧げるにたる明確な理想を得た。これより後の彼は、

このようにして前途に掲げられた目標に向かい、「一路勇進」するのみで

ある。

 

  明治維新は、東湖の熱烈な心に宿る思想から萌芽したものではあるが、

これを、現実の革命として具体化するためには、東湖ほど極端でなく、

東湖よりも平静な性格の、西郷のような人物が、その志を引き継がねば

ならなかった。 

  東湖は、1855年の地震のため、50歳で死に、彼の心に初めて宿った

理想の実現は、そのすぐれた弟子の手に委ねられることとなった。



  西郷は、時に数日にわたり、日も夜も、山を歩き回ることがあった。

こうした時に、栄光に満ちた天の声が、直接に彼に臨んだのではある

まいか?   

  杉木立の静寂(しじま)の中で、「静かな細い声」が、次のように彼にささ

やいたのではあるまいか?

 

  なんじは、使命を帯びて、この世に送られた者である。その使命の

達成によって、日本と世界とは重大な影響を受けるであろうと。

 

  この声を聞かなかったとすると、彼がなぜ、あれほどたびたび、「天」に

ついて書き、また語ったのであるかが、わからない。 

  西郷は、のろい、無口な、子供じみた人で、自分の心を人に語ること

もなく、孤独を好んだようであるが、しかし、心の中では、彼自身よりも、

また全宇宙よりも、はるかに偉大な「ある者」と、秘かな会話を交わして

たのであると、われわれは信ずる。 

  現代のパリサイ人に、異教徒と、そしられようが、彼の霊魂の来世にお

けるゆくえを論議されようが、彼の知ったことではない! 

 

  天の道に従う者は、全世界が彼をそしるとも、卑下せず、また、全世界

が彼を誉め讃えようとも、満足しない。 

  天を相手とし、人を相手とするな。天のために、すべての事をなせ。 

人をとがめることなく、ただ、おのれの誠の足りぬことを恐れよ。

  道は、宇宙に通じ、また自然である。ゆえに、天を恐れ、これに仕えよう

志す者のみ、道を行うことができる。・・・・・ 

  天は、すべての人類を平等に愛するから、われわれも、おのれを愛する

愛をもって、人を愛さねばならない。≪我を愛する心をもって人を愛すべし≫

                   Photo_6

  西郷は、これらの言葉のほかにも、これに類する言葉をたくさんに語っ

ているが、すべてこれらは、直接に天から聞いたもであると、私は信ずる。

  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2013年2月 2日 (土)

西郷隆盛(1)

     西郷隆盛―  新日本の建設者


  1.1868年の日本革命(=明治維新)

 

  天の命によって、日本が初めて青海原の中から現われたとき、この国に

与えられた命令は、これであった。

 

  日本よ、なんじの門の中にとどまれ。われが、なんじを呼び出すまで、

世界と交わることなかれ。

                 17

  それゆえ、日本は二千余年もの間、国内に閉じこもっていた。そして、

この間、他国の艦隊が四方の海を騒がせることも、その沿岸を犯すことも

なかったのである。 

  日本が、かくも長い間、世界から離れていたことを非難するのは、最も

反哲理的な批判である。

 

  これは、すべての知恵にまさって高い知恵が命じたことであって、日本

がその命令どおり、ひとりを守ったことは、日本のためはもとより、世界の

ためにも善いことであったし、今なお善いことである。

 

  世界の仲間入りをせぬことが、国民にとり不幸とは限らない。あわれみ

深い父親なら、まだ十分に成長せぬ子供を、世の中に放り出して、いわゆ

る「文明開化の風」に染ませるようなことはしないであろう。 

  インドは比較的に世界に接近しやすかったために、たやすくヨーロッパの

利己心の餌食となってしまった。

 

  インカ帝国(*南米におけるインカ族の建設せる広大な帝国。1240年頃

統一。優秀なるインカ文化を有し、平和なる生活を営む。1533年、ピサロの

率いるスペイン植民隊によりて滅ぼさる。・・・・この註は、鈴木俊郎訳の

文庫本より引用、この他も同様)や、モンテンズマの平和の国(*アズテカ

王家の下のメキシコ。モンテズマ2世、スペインのコルテスに殺され、メキシ

コはスペインの植民地となる。)は、世界によって、どんな会わされたか?

(*下方、上がピサロ、下がコルテス)

             Photo

 

 Photo_3

  世界は、日本の鎖国をとがめる。よろしい、門をあけよう。すると、クライブ

(1725~1774.英領インド帝国を築いた政治家にして将軍:下の肖像画)や

コルテス(1485~1547.スペインの将軍、メキシコの征服者)の輩が、そこ

から侵入して来ることは必至だ。それは、ちょうど、厳重に戸締りをした家に

押し入る強盗のやることと同じではないか?

                            Photo_5

  それゆえ、恵み深い摂理は、海と大陸とで、日本のまわりを取り囲んで、

それを世界の目から隠したのである。 

  定められた時の来る前に、一度ならずこの国への侵入を計った貪欲な輩

もあったが、国民は、その純粋な自己防衛の本能に従い、決して門を開こう

とはしなかった。

 

  世界に接触するとともに、たちまち、その中に呑み込まれて、独自の性格

を失うようなことがないためにも、国民的性格をしっかり形づくっておく必要

があったのである。 

  それと同じく、世界の側もまた、日本をその一員として迎える前に、改善を

要する点が多々あったことを悟らなければならない。 

  〔たとえば、スペインの宗教裁判、フランス革命の生き地獄、アングロサ

クソンの奴隷所有等々の、悪魔的行為や習慣を廃止せねばならなかった

のである。〕



  1868年の日本の革命は、世界史に一点を画したものと私は思う。なぜ

ならば、これを機として、はっきりと質の違った二つの文明を代表する二つ

の民族が、互いを“尊敬”し合う交際に入ったのであり、その結果、前進的

な西洋は、無秩序な前進を食い止められ、回顧的な東洋は、よどんだ眠り

から覚まされたからである。 

  この時以来、西洋と東洋、クリスチャンと異教徒の隔ては消えて、人道

と正義の下に、全世界は一体となることとなる。 

  日本が目覚めるまでは、世界の一方は、他方に背を向けていたが、日本

により、また日本を通して、両者は、顔と顔とを合わせるようになったので

ある。

 

  ヨーロッパとアジアとを“正しい関係”に置くという問題を解決すべき使命

は、日本の上に下った。日本は、現にそれを解決しつつある。

  こうして、日本の長い鎖国は終わるのであるが、この大事を成就するには、

それにふさわしい人物と機会とが必要である。

  その機会は、太平洋の両岸にあるシナとカリフォルニアとが、ほとんど

同時に開かれた時に到来した。  世界の両端にある、この二つの地方を

結ぶには、日本を開くことが、どうしても必要だったのだ。

  しかし、これは、外部から見た開国の機会である。内部の事情はどうで

あったかというと、このとき、日本は、長い封建制の最後でまた最大の政権

が、その統制力を失い、国民は、国内の分割と相互の反目に飽きて、国内

統一の重要さと望ましさに気づくという、日本史上最初の機会を迎えつつ

あった。 人は、機会を作り、また、それを利用する。

  アメリカ合衆国の提督マシュー・カルブレイス・ペリー(*下の写真)は、

世界がかつて目撃した、最も偉大な人道の恩人の一人であったと、私は

考える。

                               Photo_4

  彼の日記を読むと、彼は、日本の海岸を砲撃するのに、大砲をもってせ

ず、讃美歌をもってしたという(*米提督ペリー著『アメリカ艦隊のシナ 

海域およ日本への遠征記』参照)

  彼の使命は微妙であった。国としての尊厳を傷つけず、しかも、その素朴

な一人よがりをおさえて、日本を鎖国の夢から覚まさなければならないの

である。

  これは、真の伝道者の仕事であった。そして、彼がこれをやり遂げること

ができたというのも、世界を統べたもう神への熱い祈りが聞き入れられて、

恵み深い神の御手が、さし伸べられたればこそである。

  その国を世界に向けて開くにあたり、クリスチャン提督をつかわされた国

は、幸いなるかな。― 

  そして、クリスチャン提督が、外から戸を叩いたのに対し、内から答えた

のは、勇敢にして高潔な敬天愛人の一将軍であった。

  この二人は、生涯ついに相まみえることがなかったし、また、その一方が

他方を誉めたたえたという話も聞かない。

  だが、その外見こそ著しく異なったが、両者の内にひそむ精神は同一のも

のであったことを、われわれ、両人を研究する者は、はっきりと知る。

  互いに、それと知ることなしに、二人は協力して働いた。一方が着手した

を、他方が完成したのである。このようにして、世界の霊は、運命という、

おのが衣を織っていく。愚かな目には映らないが、思慮深い歴史家は、

これを見て、驚嘆せずにはいられない。

  こうしたわけで、1868年の日本の革命は、健全で永久的なすべての革命

の例に洩れず、公正な動機と、神の作りたもうた必然的な原因とから生じた

ものであった。

  貪欲に対して頑強に門を閉じていた国が、正義と平等とに向かって、

自由に戸を開いたのである。

  魂の奥底の深みから沸く声に根ざす、たぐいまれな自己犠牲の精神が、

その戸を開いたのである。

  それゆえ、この日本国で自己の勢力を張ろうとする外来者は、天意にそ

むくものであり、また、この国の天職を誤解して、この世の財神(マモン)の

踏み荒らすにまかせる者も、同じく天に対して罪を得るのである。 【つづく】

 

 

 

2013年2月 1日 (金)

皆さんへ

    皆さんへ

   皆さん、お元気でしょうか? 

たいへんご無沙汰いたしました。 

ほぼひと月のご無音を、どうかお許しください。


  私事ですが、先月20日(日)、熊本県八代(やつしろ)市にて、
 

16名の八鷲(はっしゅう)会の皆さんの前で、講演をさせて頂きました。 

 演題は、「日本の現状と日本人の使命について―輝け、われらが八代、

日本のために!―」というものでした。

 

  経営塾・八鷲会は、八代市内の中小企業の経営者、並びに経営幹部の

勉強会です。会員の皆さんは、日々、八代市の発展のために貢献してお

られます。

 

  同会の「目的」は、次の通りです。 

  「一.会員相互の研鑽と親睦を深める。 

  一.会員企業の発展と繁栄を図る。 

  一.地域社会の発展に貢献する」というものです。


  当日は、今年初めての集まりでもあり、朝からの奉仕活動(清掃)、寺院

での参禅、八代宮への参拝などを経た後の講演会でした。 

  講演では、実に凛として、かつ真摯な感じで、熱心に耳を傾けて下さいまし

た。

 
 
 
地方の経済事情は、年々厳しくなっています。その厳しい状況は、八代

市も、決して例外ではありません。

  でも、厳しければ厳しい程、そこに住む経済人の絶えざる努力と忍耐、

それに連帯が求められます。 

  その点、八鷲会の皆さんは、とても明るく、かつ温かい人間関係で、日々、

頑張っておられます。

 

  ところで、日本政府(野田政権)による「尖閣諸島国有化宣言」以来、中国

国内では、激しい反日デモと、それに伴う放火・破壊行動が起こりました。 

その有り様は、多くの日本国民の心を深く傷つけました。 

 しかし、その最中(さなか)、中国人観光団を快く受け入れ、熱烈に歓迎し

市民たちがいます。それが、八代市民です。

 

  昨年の10月22日、尖閣諸島問題の影響下、中国からの団体旅行のキャン

セルが続く中、上海から、中国人団体観光客1500人が豪華クルーズ船コ

タ・ビルトリア号(*写真)で、八代港に到着しました。 

                       Photo_2

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  中国の大型客船が八代港(*下の写真:その下は、同港のカン

トリー・クレーン)に入港し、八代市民が、彼らを熱烈に歓迎したという

ニュースは、それを観た私の心に、快い衝撃を与えました。

                     Photo_4

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  中国紙「大紀元」が報じるところによりますと、今回の旅行は、一昨年の

8月、熊本県南部の都市が上海を訪問した際、八代市の福島市長などが

「やつしろ全国花火競技大会」をPRしたことがきっかけで実現したもので

した。1500名の観光客は、その花火大会を、心ゆくまで楽しんでくれました。 

  実際、尖閣諸島問題が発生した後も、団体が訪日を強く希望したため、

この度の八代訪問にこぎつけたとのことでした。

 

  このニュースを観ながら、私は、日中両国政府間のメンツや利害ではなく、

むしろ、このような民間の間での交流や友情こそが大切なのだと感じました。

 また、それらの積み重ねが、日中両国間の友好と相互発展に大いに寄与

するのだと思うのです。



  実は、八代市は、私の母や祖父母の出生地です。そのような縁の深い所

での、久し振りの講演は、私にとりまして、実に身の引き締まる“有難い”

機会でした。

 

  日本国内は、今後、益々厳しい経済不況に見舞われるでしょう。 

でも、そんな中でこそ、大事にしたい日本の文化や伝統、それに日本製品が

あると思います。 

 

  例えば、畳表の”いぐさ”*下の写真)は、その一つです。あの独特の香

りは、いくら安くても、中国製では味わえません。その点、八代のいぐさは、

まさに“日本一”です。 

  どうか、この八代のいぐさに対するご理解とご支援をお願い申し上げます。

                  Photo
         
 

         
 

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  さて、本ブログでは、今後、内村鑑三著(内村美代子訳・・・*内村の 

長男祐之の妻)『代表的日本人(原著は、英文:『明治思想全集』所収) 

を、少しずつ掲載いたします。 最初は、「西郷隆盛」です。

  尚、鈴木俊郎訳の文庫本(*下の写真)もあります。  【つづく】

 

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