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2013年2月 8日 (金)

西郷隆盛 ( 5 )

  5.反逆者としての西郷

   西郷の生涯で最も痛ましいのは、その最後の時期である。これについて

多くを記す必要はない。

 時の政府に対し、彼が一転して反逆者となったのは、紛れもない事実で

ある。

  彼がなぜ、このような立場に追い込まれたかについては、様々な説が

あるが、その生来の弱点である「鋭すぎる感受性」のゆえに、反逆の群れに

与(くみ)したのだという説が、最も眞相をついているように思われる。

  西郷を天下唯一の人と崇める五千人ほどの青年が、明らかに反逆の旗を

翻したのであるが、これは西郷の知らぬことであったらしく、もちろん彼の

意志に反したことであった。

  ところが、この挙の成功のためには、彼の名と影響力とを貸してやること

が絶対に必要であった。

  窮地に追いつめられた青年たちの必死の懇請を前にしては、最も強い人

であるはずの西郷も、全く無力であったのだ。

  二十年前、客僧月照に対する眞心のしるしとして、その命を捨てようとし

た西郷は、この度は、彼を崇拝する後進に対する友情のしるしとして、命も、

名誉も、何もかもを犠牲にしようと心に決めたのであろう。これが、彼を最

もよく知る人々の見方である。



  時の政府に対し、彼が強い不満を抱いていたことは確かである。しかし、

彼ほど穏健な人が、憎しみのためだけで戦争をするとは考えられない。

  少なくとも彼の場合、その生涯の大目的が失望に終わった結果として、

反逆の群れに投じたのだと想像するのは誤りであろうか?

  1868年の革命が、彼の理想とは、およそ反対の結果に終わったのを見

たとき、その直接の責任者ではないにもせよ、彼は、言い尽くしがたい心

の苦痛を味わったのである。

  万が一、反乱が成功したら、自分の生涯の偉大な夢を実現させる機会を、

もう一度、つかむことができるのではあるまいか?

  確実とは言えないが、全く望みがないわけではない。こうして彼は反徒に

加わり、自分では本能的に承知していたと思われる運命を、同志と共に

分け合ったのである。

  しかし、彼の生涯のこの部分が、歴史の上で残りなく解明されるのは、

今後、さらに百年の後のことであろう。

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  この西南戦争(*上の図と写真・・・当時の熊本城)を通じ、西郷は、 

受身の立場に終始して、桐野(*下の写真)らが、戦争の作戦方面を

担当した。

   戦争は、1877年の2月から9月まで続いたが、反乱軍の敗北が決定的

なるに及び、全軍は死にもの狂いで鹿児島へ退却しようとした。彼らは、

「先祖の墓」に葬られることを願ったのである。

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  官軍は、彼らを追って、ついに城山で反徒を包囲した。官軍が、その総力

を山のふもとに集結したとき、主人公は、上機嫌で“碁”を打っていたが、

従者の一人を顧みて、   「いつか、私が駄馬を引いて野良から帰る途中、

下駄の鼻緒を、すげてやったのは、君ではなかったかね?」と言った。

  従者は、当時のことを思い出し、恐縮して、ひたすら彼の許しを乞うた。

  「なに、いいのさ。あまり、ひまなので、ちょっと君をからかってみただけだ

よ」というのが、西郷の答えだった。

  事実は、こうである。― あるとき、大将は、生意気な二人の若者が言う

がままに、その下駄の鼻緒を、すげてやった。

  薩摩の風習として、武士たる者は、道で出会う農夫に、それを命じる権利

があったが、その時の農夫こそ、計らずも大西郷であったのだ。

  彼は、一言の不平も言わずに、その卑しい仕事を済ませると、きわめて

謙虚な態度で立ち去ったという。

  西郷の死の瞬間に立ち合った人の回顧談として、こうした話が残されて

いることを、われわれは心から感謝する。われらの西郷の謙虚さには、

聖アクイナス(*下の肖像画:トマス・アクイナス)も及びはしない。

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  1877年9月24日の朝、官軍は城山に向かうため、総攻撃を開始した。

同志に取り巻かれた西郷は、敵に向かうため、立ち上がろうとして、

その刹那、飛んできた銃弾に腰を撃たれた。*下の絵は、城山の戦い)

         

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  城山に籠った小部隊が全滅して、西郷の遺骸が敵の手に落ちたのは、

それから間もなく後のことであった。

  「遺骸に無礼を加えてはならぬぞ」と、敵将の一人が叫び、他の一人は、

「なんと安らかな顔だろう!」と言った。 彼を殺した者どもは、ひとしく悲嘆

にくれ、涙ながらに彼の遺骸を葬った。今に至るまで、涙ととともに彼の墓

をおとずれる人は絶えない。

  こうして、武士の中の最大の者、そしておそらくは、その最後の者は世を

去ったのである(*下の写真は、南洲墓地)

           Photo_2


    〔さきに私は、この書の中で、偉大という言葉は、現在までのところ、日本

人の特色を現わすものではないと書いた。西郷は偉大であったがゆえに、

彼の国人(*この場合、「国の指導者たち」の意か)に斥けられ、反逆者と

なるまでに追い詰められたのである。

 彼が大陸に生まれなかったのは、惜しんでも余りあることながら、しかし、

”このような英雄を生んだ島国は幸いなるかな”。

  摂理が、遠い昔に結んだ契約の保証として、西郷をこの国に送ったのだ

と、私は信ずる。

 無知のゆえに、汚名を着せて彼を殺した国人も、彼の偉大さにまで成長

すれば、彼のような人物を歓迎するようになるだろう。

  願わくは、われらの英雄の安らかに眠らんことを。

 彼の偉大さと高貴さとは、長く、この国民の霊感の中に生きるであろうし、

この国の将来に託した、彼の大きな夢は、未来において現実となるかもし

れないからである。

  但し、われわれは、当時の時代と社会情勢下で、彼が唯一のものと考えた、

その手段を選ぶものではない。〕  【つづく】

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