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2013年2月19日 (火)

上杉鷹山(4 )

   4.産業の改革





  鷹山の産業政策は二つあった。”その一つは、領内に荒地を残さぬ

ことであり、二つめは、領民の中にある怠け者の一掃である”。 

  本来、痩せた土地であっても、彼と領民とが力を合わせて励むならば、

十五万石どころか、二十万石の収穫も挙げ得ようと彼は考え、農事の奨

励に全力を尽くした。

 

  藩主となってから数年の後に、大規模な「土地礼拝」の式を行なったの

も、そのためである。 

  藩主をはじめ、知事、郡役人、村役人、巡回教師、警察官などが、祭服

を身にまとい、まず春日明神に赴いて、彼らの志すところを神に告げる。 

  次いで一行は、新たに開墾した土地に向かって進み、第一に藩主が、

おごそかな態度で、鋤を取り上げ、三度、土に、くわ入れをする。 

  次には知事が進み出て、九度、次の郡役人は二十七度、村役人は八十

一度というふうに、くわ入れを続けて、ついに“農夫”の一人一人にまで及

ぶのである。

 

  鷹山は、この儀式によって、以後、土を神聖に扱いますということ、また

生活の幸福はすべて土から得られるものだということを、最もおごそかに

宣言したのである。 

  要するに、悪い儀式ではない!

 

  鷹山は、平和な時には、武士に農夫の仕事をさせたので、数千エーカー

の荒地を耕地とすることができた。また、広範囲にわたって、うるしの木

(*下の写真:下の二枚目は、米澤城内植えることを命じ、武士の家

の庭には、必ず十五本のうるしの木を植えさせた。

                       Photo_3

                  Photo_4
   

   武士以外の家は五本、寺は、その境内に必ず二十本のうるしの木を植

えなければならなかった。 

  この割合以上の苗木を植えると、一本につき二十文の褒美が出たが、

その反対に、枯れたまま、補充もしないでおくと、同額の罰金を課せられ

るという仕組みである。

 

  こうして、米澤の領内には、きわめて短期間に、百万本以上の苗木が

植えられ、後世に、非常に大きな影響を及ぼしたのであった。 耕作不能

の土地には、百万本以上の、こうぞの木(*下の写真)を植えた。

                        Photo_5

        Photo_6



  しかし、鷹山の真の目的は、米沢藩を、国内有数の絹織物の産地とす

ることであった。 

  これに要する莫大な費用を、藩の貧しい財政でまかなうことは、とうて

い不可能なので、彼は、奥向きの費用として保留しておいた二百九両の

中から、さらに五十両を割き、これを基金として、領内の絹織物生産促進

のために、あらゆる努力を傾けた。

 

  「わずかな資金も、年々継続して出せば、大きな額となる」というのが、

若き藩主の考えだった。 

  その考え通り、彼は、五十年の長きにわたって、これを継続し、最初に

植えた数千本の桑の木(*下の写真)はふえて、ついには領内にもう植え

る余地がないまでに至った。 

                     Photo_7

  今日の米澤地方の見事な絹織物は、往年の藩主の忍耐と慈悲とを証明

するものである。米澤織物の品質は、今日の市場にあって最高のものと

されている。

 

  領内には、なお荒地が残っていた。日本のように、稲作を主とする国

では、土地が肥えているということは、水利の便がよいということである。 

  水利の便が悪いために、広い土地が不毛の状態に残されていることが

多いのだ。

 

  そうは言っても、長い水路を作って水を引くことは、鷹山の窮迫した財政

の許さぬところと思われた。 

  しかし、鷹山の年来の主義である倹約は、けちとは違う。 

「施して、浪費せず」というのが、彼の標語であった。

 

  それによって、社会が幸福になることが確かな場合には、彼は、不可能

ということを考えなかった。彼は、資金の不足を補う忍耐力を持ち合わせ

ていたからである。 

  こうして、最も貧しい大名である鷹山により、昔の日本における最も巨大

な土木事業の二つまでが計画され、完成を見るに至った。

 

  その一つは、高架橋と、長く高い築堤とによって、延々二十八マイル

(=45km)の水路を作る工事であって、そのすべてが水力工事の傑作で

ある(*写真は、イメージ)

                 Photo_8

  もう一つは、トンネルによって、大河の水路を変える工事であった。 

堅い岩をくり抜いて、千二百フィート(=360m)のトンネルを作るこの工事

は、鷹山の治世の二十年を費やして完成し、その領土に対する鷹山の貢

献の中でも最大のものとなった。

 

  これよりさき、彼の家来の中に、黒井という者がいた。のろい、無口な

男で、主君がその長所を発見するまでは、何の役にも立たぬ者と思われ

ていたが、この男が、実は数学の天才であった。

 

  彼は、粗末な機械を用いて、領内を念入りに測量した後、当時の人には

狂気の沙汰としか思われなかった、これらの工事を立案したのである。 

  第一の工事の完成後、第二の工事の進行中に、彼は死んだが、仕事は

彼の設計に従って続けられ、工事開始後二十年目に、トンネルの両端は

通じたのであった(*写真は、イメージ)

                     Photo_9

  その時の高低の差、わずかに四フィート(=1.2m)という。 

この国に、まだ転鏡儀や経緯儀がなかった時代としては、驚くべき計算の

正確さである。これによって、砂漠は花咲きはじめ、鷹山の領地の実りは

豊かになった。 

 東北地方のうち、米澤のみは、今日もなお米不足を知らない。

                 Photo_10

  鷹山の熱心な目は、領民の幸福につながることを、決して見逃さなか

った。 

 そのためには、馬の改良品種を移入し、湖や川に、鯉や、うなぎを放し、

鉱夫や織物工を他領から招き、商業主のすべての障害を除くなど、あら

ゆる手段を尽くして、領内にある限りの資源を開発することに努めた。

 

  こうして、さきに述べた、怠け者一掃という大方針は成功を見、怠け者は

有能な労働者と変わり、日本一の貧しい地方が、彼の晩年には、典型的

な豊かな地方と変じて、今日に至っているのである。

 

〔一人の人間の誠実によって、混沌は秩序と化し、大地も、不誠実な者

には秘めているを差し出した。誠実をもって事に当たる人は、将来とも、

この地方から、さらに多くのを見出すことであろう。

  注意と誠実とをもって探れば、地球の資源は、なお無限にあるように思

われる。

  そして、過剰人口をいかにすべきかの問題は、人類が”尊敬”の気持

をもって、大地の正しい利用に当たるまでは、解決しないであろう。

  ここに示された、鷹山と米澤とに関する事実を、生命と生活とにおびえ

る者たちへの教訓としようではないか。〕

  【つづく】

 

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