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2012年12月10日 (月)

後世への最大遺物(6 )

  大阪の天保山を切ったのも、近頃のことでございます。かの安治川

(あじがわ*下の写真は、今日の安治川)切った人は、実に日本に

とって、非常な功績をなした人であると思います。

          Photo_5

  安治川があるために、大阪の木津川の流れを、北の方に取りまして、

水を速くして、それがために、水害の患(うれい)を取り除いてしまったばか

りでなく、深い港を拵(こしら)えて九州、四国から来る舟をことごとく

アソコに繋ぐようになったのでごございます。

 

  また秀吉の時代に切った吉野川は、昔は大阪の裏を流れておって、

人民を悩ましたのを、堺と住吉の間に開鑿(かいさく)しまして、それがた

めに、大和川の水害というものがなくなって、何十ヶ村が大阪の城の後ろ

にできました。これまた、たいへんな事業です。

 

  それから、有名な越後の阿賀野川(*下の写真)を切ったことでござい

ます。実に、エライ事業でございます。 有名な新発田(しばた)の十万石、

今は日本において、たぶん富の中心点であるだろうという所でございます。 

                     Photo_6

  これらの大事業を考えてみる時に、私の心の中に起こるところの考えは、

もし金を後世に遺すことができぬならば、私は、事業を遺したいとの考え

です。

 

  また土木事業ばかりでなく、その他の事業で、もしわれわれが精神を籠

(こ)めてする時は、われわれの事業は、ちょうど金に利息がつき、利息に

利息が加わってきて、だんだん多くなってくるように、一つの事業がだん

だん大きくなって、終わりには、偉大なる事業となります。



  事業のことを考えます時に、私はいつでも、有名なデビット・リビングス

トン(*下の写真)のことを思い出さないことはない。

                     D


 (*デビッド・リビングストン―David  Livingstone〔1813~73〕  スコットラ

ンド生まれの宣教師、アフリカ探検家。1841年以降、30年間にわたって、

アフリカ大陸の三分の一に相当する領域を精査、ザンベジ川、ヴィクトリア

瀑布(*下の写真)、ムウェル湖、バングウェーウール湖などを発見した。 

  1871年、熱病にかかり静養中、スタンレーと再会。探検続行中に病死。)

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                  Photo_2


             Photo_3

  それで、諸君の内、英語のできる方に、私はスコットランドの教授ブレーキ

の書いた”Life  and  Letters  of  David  Livingstone”という本を読んでごら

んなさることを勧めます。 

  私一個人にとっては、聖書のほかに、私の生涯に大刺激を与えた本が、

二つあります。 

  一つは、カーライルの『クロムウェル伝』であります。そのことについては、

私は、後でお話をいたします。 

  それから、その次に、このブレーキ氏の書いた『デビッド・リビングスト

ン』という本です。

 

 それで、デビッド・リビングストンの一生涯は、どういうものであったかと

いうと、私は、彼を宗教家あるいは宣教師と見るよりは、むしろ大事業家

として尊敬せざるをえません。 

  もし、私は、金を溜めることができなかったならば、あるいはまた、大事

業を起こすことができぬならば、私は、デビッド・リビングストンのような

事業をしたいと思います。

 

  この人は、スコットランドのグラスゴーの機屋(はたや)の子でありまして、

若い時からして、公共事業に非常に注意しました。

  「どこかに、私は」・・・デビッド・リビングストンが考えまするに・・・・「どこ

かに、私は、事業を起こしてみたい」という考えで、初めは支那に往きた

いという考えでありまして、その望みをもって英国の伝道会社に訴えて

みたところが、支邦に遣(や)る必要がないといって許されなかった。

  ついにアフリカに入って、三十七年間、己れの生命をアフリカのために

差し出し、初めのうちは、主に伝道をしておりました。

 

  けれども、彼は考えました、アフリカを永遠に救うには、今日は伝道では

いけない、と。 

  すなわち、アフリカの内地を探検して、その地理を明らかにし、これに貿

を開いて、勢力を与えねばいけぬ、そうすれば、伝道は商売の結果とし

て、必ず来るに相違ない。 

そこで、彼は、伝道を止(や)めまして、探検家になったのでございます。

  彼は、アフリカを三度、縦横に横切り、わからなかった湖水もわかり、

今までわからなかった河の方向も定められ、それがために、種々の大事

業も起こってきた。

 

  しかしながら、リビングストンの事業は、それで終わらない。それは、

スタンレー(*下の写真)探検となり、ペーテルス*の探検となり、

チェンバレンの探検となり、今日の、いわゆるアフリカ問題にして、一つ

として、リビングストンの事業に原因せぬものはないのでございます。 

          Photo_4

  (*スタンレー―Sir  Henry Morton  Stanley〔1841~1904〕  ウェール

       ズ 生まれのジャーナリスト、アフリカ探検家。南北戦争の従軍記者

   を 経て、1867年、 『ニューヨーク・ヘラルド』紙の特派員となり、69年、

     リビングストンの存否を探るため、アフリカに特派された。71年、タンガ

     ニイカ湖畔のウジジで、リビングストンの生存を確認、一大スクープと

     して世界をわかせた。 

        ”Dr.Livingstone,I presume.”〔「リビングストン博士ですね」〕の出会い

      の挨拶でも有名。 

      その後も探検を続け、77年、コンゴ川を下って河口に至り、大陸横

       断旅行を完了。

         ベルギーのレオポルド二世の下でコンゴ開発に手をつけ、コンゴ自

   由国〔1885~1908〕の基礎を築いた。



     *ペーテルス―Karl  Peters〔1856~1918〕 ドイツの探検家、政治家、

   旧ドイツ領 東アフリカ創設者の一人。1887年、スーダン最南部で孤立

   していたエミン・パシャ救援隊を率いて、この地に入り、翌年、先に到

   着して、エミン・パシャを救援していたスタンレーと邂逅。1890年には、

   ウガンダまで、探検の歩をのばしている。)



   コンゴ自由国、すなわち欧米九ヶ国が同盟しまして、プロテスタント主義

の自由国を、アフリカの中心に立つるに至ったのも、やはりリビングストン

の手によったものと言わなければなりませぬ。 



  今日の英国は、エライ国である。今日のアメリカの共和国は、エライ国で

あると申しましたが、それは、何から始まったかとたびたび考えてみる。

  それで、私は、尊敬する人について少しく偏するかも知れませんぬが、

もし偏しておったならば、そのように裁判(=判断)を願います。

  けれども、私の考えまするには、今日のイギリスの大なるわけは、イギリ

スにピューリタンという党派が起こったからであると思います。

  アメリカに今日のような共和国の起こったわけは何であるか、イギリスに

ピューリタンという党派が起こったゆえである。

  しかしながら、この世にピューリタンが大事業を遺したといい、遺しつつ

あるというのは、何のわけであるかというと、何でもない。この中に、ピュー

リタンの大将がいたからである。

  そのオリバー・クロムウェル(*下の写真)という人の事業は、彼が政権

を握ったのは、わずか五年でありましたけれども、彼の事業は、彼の死と

ともに、全く終わってしまったように見えますけれども、決してソウではない。

                  Photo

  クロムウェルの事業は、今日のイギリスを作りつつあるのです。

それのみならず、クロムウェルの理想に達するには、まだズッと未来にあ

ることだろうと思います。

  彼は、死後に「英国」というものを遺した。「アメリカ合衆国」というものを

遺した。

 アングロサクソン民族がオーストラリアを従え、南アメリカに権力を得て、

南北アメリカを支配するようになったのも、彼の遺蹟と言わなければなり

ませぬ。  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

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