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2012年12月29日 (土)

デンマルク国の話(2)

 しかるに、今を去る四十年前のデンマークは、最も憐れなる国であり

ました。 

  一八六四年に、ドイツ、オーストリアの二強国の圧迫するところとなり、

その要求を拒みし結果、ついに開戦の不幸を見、デンマーク人は善く

戦いましたが、しかし弱はもって強に勝つ能(あた)わず、デッペルの

一戦に北軍破れて、ふたたび起つ能わざるに至りました。デンマークは、

和を乞いました。

 

  しかして敗北の賠償としてドイツ、オーストリアの二国に、南部最良の

二州シュレスウィヒとホルスタインを割譲しました。戦争は、ここに終わ

りを告げました。

                       ファイル:Jutland Peninsula map.PNG

(*上の地図中、朱色が北シュレスヴィヒ、黄土色が南シュレスヴィヒ、 

  黄色がホルシュタイン、デンマークは、この時の敗戦で、この三地域の 

  すべてを失った。 

     だが、北シュレスヴィヒは、第一次世界大戦後、ドイツ帝国の敗戦で、 

  デンマークに復帰した〔1920年〕)  

 

  しかし、デンマークは、これがために貧困の極に達しました。 

もとより、多くもない領土、しかも、その最良の部分を持ち去られたので

あります。 

  いかにして国運を恢復せんか、いかにして敗戦の大損害を償わんか、

これ、この時にあたり、デンマークの愛国者が、その脳漿(のうしょう)を

絞って考えし問題でした。

 

  国は小さく、民は少なく、しかして残りし土地に荒漠多しという状態

(ありさま)でありました。国民の精力は、かかるときに試されるので

あります。 

  戦いに敗れ、国は削られ、国民の意気鎖沈し、なにごとにも手のつ

ざる時に、かかる時に国民の真の価値(ねうち)は判明するのであります。

 

  戦勝国の戦後の経営は、どんなつまらない政治家にもできます。難い

のは、戦敗国の戦後の経営であります。国運衰退の時における事業の

発展であります。

  戦いに敗れて精神に敗れない民が、偉大なる民であ

ます。

  教といい信仰といい、国運隆盛の時には、何の必要もないものであ

ります。 

  しかしながら、国に幽暗(くらき)の臨みし時に、精神の光が必要に

なるのであります。

 

  国の興ると滅ぶるとは、この時に定まるのであります。どんな国にも、

時には暗黒が臨みます。その時、これに打ち勝つことのできる民が、

その民が永久に栄ゆるのであります。

  あたかも、疾病(やまい)の襲うところとなりて、人の健康が分かると同然

であります。平常(ふだん)の時には、弱い人も強い人と違いません。

  疾病に罹(かか)って、弱い人は斃れて、強い人は存(のこ)るのであり

ます。そのごとく、真に強い国は、困難に遭遇して亡び

ないのであります。

  その兵は敗れ、その財は尽きて、その時なお起こる精力を蓄えるもの

であります。

  これは、まことに、国民の試練の時であります。この時に亡びないで、

彼らは運命のいかんにかかわらず、永久に亡びないのであります。




  越王匈践呉を破りて帰るではありません。デンマーク人は、戦いに敗れて

家に還ってきました。

  還りきたれば国は荒れ、財は尽き、見るものとして悲憤失望の種ならざ

るは無しでありました。

 「今や、デンマークにとり悪しき日なり」と、彼らは相互に対して言いま

した。

  この挨拶に対して「否(いな)」と答えうる者は、彼らの中に、一人もいま

せんでした。

  しかるに、ここに、彼らの中に、一人の工兵士官がおりました。彼の名を、

ダルガス(Enrico  Mylius  Dalgas:下の肖像画 ) といいまして、フランス種

のデンマーク人でありました。

                          Photo

  彼の祖先は、有名なるユグノー党*の一人でありまして、彼らは一六八

五年、信仰の自由のゆえをもって故国フランスを逐(お)われ、あるいは

英国に、あるいはオランダに、あるいはプロイセンに、またあるいはデン

マークに逃れ来たりし者でありました。

 〔ユグノー  ―  一六世紀の中ごろ、フランスのプロテスタント、カルヴァン

    派をさして用いられるようになった呼称。

      ユグノーは、一五五九年、パリ郊外に会して、プロテスタント教会を

    組織し、その勢力は、急速に拡大していったが、政府の弾圧、カトリック

    教徒との衝突は、前後八回にわたる宗教戦争(一五六二~九八年)を

  もたらした。

   アンリ四世(*下の肖像画)のナントの勅令によって、一時、宗教の

  自由を保証されたものの、ルイ十四世の勅令撤回(一六八五年)により、

    教師はすべて国外追放、信徒はカトリックへの回宗を強制されるにいた

   り、数多くの(二○万とも四○万とも言われる)ユグノーが国外―主とし

    てオランダ、スイス、ドイツ、イギリス、アメリカ、デンマークなど―に

  逃れ出ることとなった。

       ユグノーの間には手工業者、独立自営農民、小商人、とりわけ織物業

  の主要な担い手が多かったところから、フランスの経済は、一時これに

     よって大きな痛手をこうむった。

       ユグノーが信教の自由を完全に回復したのは、フランス革命において

   であった。〕 

                         Photo_2


  ユグノー党の人は、至る所に自由と熱信と勤勉を運びました。英国にお

いては、エリザベス女王のもとに、今や世界に冠たる製造業を起こしました。

  その他、オランダにおいて、ドイツにおいて、多くの営利的事業は、彼ら

によって起こされました。

  旧(ふる)き宗教を維持せんとする結果、フランス国が失いし多くのもの

の中に、かの国にとり最大のものは、ユグノー党の外国脱出でありました。

  しかして(=こうして)、十九世紀の末に当って、彼らは、いまだなお、その

祖先の精神を失わなかったのであります。

  ダルガス、齢(とし)は今三十六歳、工兵士官として戦争に臨み、橋を

架し、道路を築き、溝を掘るの際、彼は細かに、彼の故国の地質を研究し

ました。

  しかして、戦争いまだ終わらざるに、彼はすでに彼の胸中に、故国恢復

の策を蓄えました。

 

  すなわち、デンマークの欧州大陸に連なる部分にして、その領土の大

部分を占めるユトランド(Jutland) の荒漠を化して、これを沃饒(よくにょう)

の地となさんとの大計画を、彼はすでに彼の胸中に蓄えました。

  ゆえに、戦い敗れて、彼の同僚が絶望に圧せられて、その故国に帰り

来たりし時に、ダルガス一人は、その面(おも)に微笑(えみ)を湛えて、

その首(こうべ)に希望の春を戴きました。

  「今や、デンマークにとり、悪しき日々なり」と、彼の同僚は言いました。

「まことに、しかり」とダルガスは、答えました。

  「しかしながら、われらは外に失いしところのものを、内において取り返

すを得(う)べし、君らと余(=私)との生存中に、われらは、ユトランドの

昿野を化して、薔薇の花咲く所となすを得べし」と、彼は続けて答えました。

            Photo_3

  この工兵士官に、預言者イザヤの精神がありました。彼の血管に流れ

るユグノー党の血は、この時にあたって、彼をして平和の天使たらしめま

した。

  他人の失望する時に、彼は失望しませんでした。彼は、彼の同胞が剣を

もって失ったものを、鋤(すき)をもって取り返そうとしました。

  今や、敵国に対して復讐戦を計画するにあらず、鋤と鍬(くわ)とをもって、

残る領土の昿漠と闘い、これを田園と化して、敵に奪われしものを補わん

としました。

  まことにクリスチャンらしき計画ではありませんか。真正の平和主義者は、

かかる計画に出なければなりません。


 
  しかし、ダルガスは、ただの預言者ではありませんでした。彼は、単に

夢想家(ゆめみるもの)ではありませんでした。

  工兵士官なる彼は、土木学者であると同時に、また地質学者であり、

植物学者でもありました。

  彼は、かくのごとくにして、詩人であると同時に実際家でもありました。

彼は、理想を実現するの術を知っておりました。

              Photo_4

  かかる軍人を、われわれは、時々、欧米の軍人の中に見るのであります。

軍人と言えば、人を殺す術のみに長じている者であるとの思想は、外国

においては、一般に行われてはおらないのであります。  【つづく】

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