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2012年12月

2012年12月31日 (月)

デンマルク国の話(3)

  ユトランドは、デンマーク(*下の地図:同国は、400の島嶼から成る)

半分以上であります。しかして、その三分の一以上が、不毛の地であった

のであります。

 面積一万五千平方マイル(=四万三千平方キロメートル)のデンマーク

にとりましては、三千平方マイルの昿野は、過大の廃物であります。  

              Photo 

   これを化して良田沃野となして、外に失いしところのものを、内にありて

償わんとするのが、ダルガスの夢であったのであります。 

  しかして、この夢を実現するにあたってダルガスの執るべき武器は、ただ

二つでありました。

 

  その第一は、でありました。その第二は、でありました。荒地に水を

漑(そそ)ぐを得、これに樹を植えて植林の実を挙ぐるを得ば、それで事は

成るのであります。事は、いたって簡単でありました。しかし、簡単ではある

が、容易ではありませんでした。 

  世の御(ぎょ)し難いものとて、人間の作った砂漠のごときはありません。 

もしユトランドの荒地が、サハラの砂漠のごときものでありましたならば、

問題は、はるかに容易であったのであります。 

  天然の砂漠は、水さえこれに漑ぐを得ば、それでじきに沃土(よきつち)と

なるのであります。

 

  しかし、人間の無謀と怠慢とによってなりし砂漠は、これを恢復するに、

最も難いものであります。しかし、ユトランドの荒地は、この種の荒地であ

ったのであります。 

  今より八百年の昔に、そこに繁茂せる良き林がありました。しかして、

今より二百年前までは、ところどころに樫の林を見ることができました。

         Photo_5

 

                     Photo_7

  しかし、文明が進むと同時に、人の欲心はますます増進し、彼らは土地

より取るに急にして、これに報ゆるに緩(かん)でありましたゆえに、地は、

時を追うてますます痩せ衰え、ついに四十年前の憐れむべき状態(あり

さま)に立ちいたったのであります。

 

  しかし、人間の強欲をもってするも、地は永久に殺すことのできるもので

はありません。 

 神と天然が示す或る適当な方法をもってしますれば、この最悪の状態に

おいて、ある土地をも元始(はじめ)の沃饒に返すことができます。 

  まことに、詩人のシラー(*ドイツの詩人、劇作家、思想家、歴史学者: 

1759~1805
*下の肖像画)の言いしごとく、天然には永久の希望あり、

壊敗は、これをただ人の間においてのみ見るのであります。

      

             F
         

 まず溝を穿(うが)ちて水を注ぎ、ヒース(*下の写真)と称する荒野の植物
 

を駆逐し、これに代わるに馬鈴薯ならびに牧草をもってするのであります。 

このことは、さほど困難ではありませんでした。

                Photo_2

 
  しかし難中の難事は、荒野に樹を植えることでありました。

このことについて、ダルガスは、非常な苦心をもって研究しました

  植物界広しといえども、ユトランドの荒地に適し、そこに成育して、

レバノンの栄えを呈(あら)わす樹はあるやなしやと、彼は、研究に

研究を重ねました。しかして、彼の心に思い当りましたのは、ノルウェー

産の(*日本で言うドイツトウヒのこと:下の写真)ありました。

  これは、ユトランドの荒地に成育すべき樹であることは分かりました。

           Photo_4

  しかしながら、実際、これを試験(ため)してみますと、思う通りには行き

ません。

  樅は生(は)えは生えまするが、数年ならずして枯れてしまいます。ユト

ランドの荒地は今や、この強硬なる樹木をさえ養うに足るの養分を存(の

こ)しませんでした。



  しかし、ダルガスの熱心は、これがために挫(くじ)けませんでした。彼は、

天然はまた彼に、この難問題をも解決してくれることと確信しました。ゆえ

に、彼は、さらに研究を続けました。

  しかして、彼の頭脳(あたま)にフト浮かびましたことは、アルプス産の

小樅(こもみ:ヤママツ:下の写真でありました。もし、これを移植したら

どうかと、彼は思いました。

                           Photo_3

  しかして、これを取り来りてノルウェー産の樅の間に植えました時に、

奇なるかな、両種の樅は相並んで成長し、年を経るも枯れなかったので

あります。ここにおいて、大問題は解けました。

  ユトランドの荒野に、初めて緑の野を見ることができました。緑は、希望

の色であります。ダルガスの希望、デンマークの希望、その民二百五十万

の希望は、実際に現われました。

  しかし、問題は、いまだ全く釈(と)けませんでした。緑の野はできました

が、緑の林はできませんでした。

  ユトランドの荒地より建築用の木材をも伐(き)り得んとのダルガスの野

心的欲望は、事実となって現わせませんでした。樅は、ある程度まで成長

して、それで成長を止めました。

  その枯死(かれること)は、アルプス産の小樅の併植をもって防ぎ得まし

たけれども、その永久の成長は、これによって成就(とげ)られませんで

した。

                          Photo_6

  「ダルガスよ、汝の預言せし材木を与えよ」と言いて、デンマークの農夫

らは、彼に迫りました。

  あたかも、エジプトより遁(のが)れ出でしイスラエルの民が、一部の失敗

のゆえをもって、モーセに責めたと同然でありました。

  しかし、神は、モーセの祈願(ねがい)を聴きたまいしがごとくに、ダルガ

スの心の叫びを聴きたまいました。

  黙示は、今度は、彼に臨まずして彼の子に臨みました。彼の長男をフレ

デリック・ダルガスと言いました。彼は、父の質(たち)を受けて、善き植物

学者でありました。

 彼は、樅の成長について、大いなる発見をなしました。 【つづく】

   (*後記:いつも、ご愛読くださいまして、本当に有難うございます。

                正月三ヶ日は、お休みいたします。

        皆さま、どうか、よい御年をお迎えくださいませ。)

2012年12月29日 (土)

デンマルク国の話(2)

 しかるに、今を去る四十年前のデンマークは、最も憐れなる国であり

ました。 

  一八六四年に、ドイツ、オーストリアの二強国の圧迫するところとなり、

その要求を拒みし結果、ついに開戦の不幸を見、デンマーク人は善く

戦いましたが、しかし弱はもって強に勝つ能(あた)わず、デッペルの

一戦に北軍破れて、ふたたび起つ能わざるに至りました。デンマークは、

和を乞いました。

 

  しかして敗北の賠償としてドイツ、オーストリアの二国に、南部最良の

二州シュレスウィヒとホルスタインを割譲しました。戦争は、ここに終わ

りを告げました。

                       ファイル:Jutland Peninsula map.PNG

(*上の地図中、朱色が北シュレスヴィヒ、黄土色が南シュレスヴィヒ、 

  黄色がホルシュタイン、デンマークは、この時の敗戦で、この三地域の 

  すべてを失った。 

     だが、北シュレスヴィヒは、第一次世界大戦後、ドイツ帝国の敗戦で、 

  デンマークに復帰した〔1920年〕)  

 

  しかし、デンマークは、これがために貧困の極に達しました。 

もとより、多くもない領土、しかも、その最良の部分を持ち去られたので

あります。 

  いかにして国運を恢復せんか、いかにして敗戦の大損害を償わんか、

これ、この時にあたり、デンマークの愛国者が、その脳漿(のうしょう)を

絞って考えし問題でした。

 

  国は小さく、民は少なく、しかして残りし土地に荒漠多しという状態

(ありさま)でありました。国民の精力は、かかるときに試されるので

あります。 

  戦いに敗れ、国は削られ、国民の意気鎖沈し、なにごとにも手のつ

ざる時に、かかる時に国民の真の価値(ねうち)は判明するのであります。

 

  戦勝国の戦後の経営は、どんなつまらない政治家にもできます。難い

のは、戦敗国の戦後の経営であります。国運衰退の時における事業の

発展であります。

  戦いに敗れて精神に敗れない民が、偉大なる民であ

ます。

  教といい信仰といい、国運隆盛の時には、何の必要もないものであ

ります。 

  しかしながら、国に幽暗(くらき)の臨みし時に、精神の光が必要に

なるのであります。

 

  国の興ると滅ぶるとは、この時に定まるのであります。どんな国にも、

時には暗黒が臨みます。その時、これに打ち勝つことのできる民が、

その民が永久に栄ゆるのであります。

  あたかも、疾病(やまい)の襲うところとなりて、人の健康が分かると同然

であります。平常(ふだん)の時には、弱い人も強い人と違いません。

  疾病に罹(かか)って、弱い人は斃れて、強い人は存(のこ)るのであり

ます。そのごとく、真に強い国は、困難に遭遇して亡び

ないのであります。

  その兵は敗れ、その財は尽きて、その時なお起こる精力を蓄えるもの

であります。

  これは、まことに、国民の試練の時であります。この時に亡びないで、

彼らは運命のいかんにかかわらず、永久に亡びないのであります。




  越王匈践呉を破りて帰るではありません。デンマーク人は、戦いに敗れて

家に還ってきました。

  還りきたれば国は荒れ、財は尽き、見るものとして悲憤失望の種ならざ

るは無しでありました。

 「今や、デンマークにとり悪しき日なり」と、彼らは相互に対して言いま

した。

  この挨拶に対して「否(いな)」と答えうる者は、彼らの中に、一人もいま

せんでした。

  しかるに、ここに、彼らの中に、一人の工兵士官がおりました。彼の名を、

ダルガス(Enrico  Mylius  Dalgas:下の肖像画 ) といいまして、フランス種

のデンマーク人でありました。

                          Photo

  彼の祖先は、有名なるユグノー党*の一人でありまして、彼らは一六八

五年、信仰の自由のゆえをもって故国フランスを逐(お)われ、あるいは

英国に、あるいはオランダに、あるいはプロイセンに、またあるいはデン

マークに逃れ来たりし者でありました。

 〔ユグノー  ―  一六世紀の中ごろ、フランスのプロテスタント、カルヴァン

    派をさして用いられるようになった呼称。

      ユグノーは、一五五九年、パリ郊外に会して、プロテスタント教会を

    組織し、その勢力は、急速に拡大していったが、政府の弾圧、カトリック

    教徒との衝突は、前後八回にわたる宗教戦争(一五六二~九八年)を

  もたらした。

   アンリ四世(*下の肖像画)のナントの勅令によって、一時、宗教の

  自由を保証されたものの、ルイ十四世の勅令撤回(一六八五年)により、

    教師はすべて国外追放、信徒はカトリックへの回宗を強制されるにいた

   り、数多くの(二○万とも四○万とも言われる)ユグノーが国外―主とし

    てオランダ、スイス、ドイツ、イギリス、アメリカ、デンマークなど―に

  逃れ出ることとなった。

       ユグノーの間には手工業者、独立自営農民、小商人、とりわけ織物業

  の主要な担い手が多かったところから、フランスの経済は、一時これに

     よって大きな痛手をこうむった。

       ユグノーが信教の自由を完全に回復したのは、フランス革命において

   であった。〕 

                         Photo_2


  ユグノー党の人は、至る所に自由と熱信と勤勉を運びました。英国にお

いては、エリザベス女王のもとに、今や世界に冠たる製造業を起こしました。

  その他、オランダにおいて、ドイツにおいて、多くの営利的事業は、彼ら

によって起こされました。

  旧(ふる)き宗教を維持せんとする結果、フランス国が失いし多くのもの

の中に、かの国にとり最大のものは、ユグノー党の外国脱出でありました。

  しかして(=こうして)、十九世紀の末に当って、彼らは、いまだなお、その

祖先の精神を失わなかったのであります。

  ダルガス、齢(とし)は今三十六歳、工兵士官として戦争に臨み、橋を

架し、道路を築き、溝を掘るの際、彼は細かに、彼の故国の地質を研究し

ました。

  しかして、戦争いまだ終わらざるに、彼はすでに彼の胸中に、故国恢復

の策を蓄えました。

 

  すなわち、デンマークの欧州大陸に連なる部分にして、その領土の大

部分を占めるユトランド(Jutland) の荒漠を化して、これを沃饒(よくにょう)

の地となさんとの大計画を、彼はすでに彼の胸中に蓄えました。

  ゆえに、戦い敗れて、彼の同僚が絶望に圧せられて、その故国に帰り

来たりし時に、ダルガス一人は、その面(おも)に微笑(えみ)を湛えて、

その首(こうべ)に希望の春を戴きました。

  「今や、デンマークにとり、悪しき日々なり」と、彼の同僚は言いました。

「まことに、しかり」とダルガスは、答えました。

  「しかしながら、われらは外に失いしところのものを、内において取り返

すを得(う)べし、君らと余(=私)との生存中に、われらは、ユトランドの

昿野を化して、薔薇の花咲く所となすを得べし」と、彼は続けて答えました。

            Photo_3

  この工兵士官に、預言者イザヤの精神がありました。彼の血管に流れ

るユグノー党の血は、この時にあたって、彼をして平和の天使たらしめま

した。

  他人の失望する時に、彼は失望しませんでした。彼は、彼の同胞が剣を

もって失ったものを、鋤(すき)をもって取り返そうとしました。

  今や、敵国に対して復讐戦を計画するにあらず、鋤と鍬(くわ)とをもって、

残る領土の昿漠と闘い、これを田園と化して、敵に奪われしものを補わん

としました。

  まことにクリスチャンらしき計画ではありませんか。真正の平和主義者は、

かかる計画に出なければなりません。


 
  しかし、ダルガスは、ただの預言者ではありませんでした。彼は、単に

夢想家(ゆめみるもの)ではありませんでした。

  工兵士官なる彼は、土木学者であると同時に、また地質学者であり、

植物学者でもありました。

  彼は、かくのごとくにして、詩人であると同時に実際家でもありました。

彼は、理想を実現するの術を知っておりました。

              Photo_4

  かかる軍人を、われわれは、時々、欧米の軍人の中に見るのであります。

軍人と言えば、人を殺す術のみに長じている者であるとの思想は、外国

においては、一般に行われてはおらないのであります。  【つづく】

2012年12月28日 (金)

デンマルク国の話(1)

     信仰と樹木とをもって国を救いし話


  昿野(あれの)と温潤(うるおい)なき地とは楽しみ、

   砂漠は歓びて番江(サフラン)のごとくに咲(はなさ)かん

   盛んに咲(はなさ)きて歓ばん、

   喜びかつ歌わん、

   レバノンの栄えはこれに与えられん、

   カルメルとシャロンの美(うるわ)しきとはこれに授けられん、

   彼らはエホバの栄(さかえ)を見ん、

   我らの神の美(うる)わしきを視(み)ん。

 ( イザヤ書三五章一~二節)



 
今日は、少し、この世のことについてお話しいたそうと欲(おも)います。
 

   デンマークは、欧州北部の一小邦であります。その面積は、朝鮮と台

湾を除いた日本帝国の十分の一でありまして、わが北海道の半分に当り、

九州の一島に当らない国であります。

                        Photo_2

   その人口は、二百五十万でありまして、日本の二十分の一であります。

実に取るに足りないような小国でありますが、しかし、この国について多く

の面白い話があります。

 

  今、単に経済上より観察を下しまして、この小国の決して侮るべからざ

ることが分かります。 

  この国の面積と人口とは、とてもわが日本国に及びませんが、しかし富

の程度にいたりましては、はるかに日本以上であります(*下の写真は、

 人魚姫の像とコペンハーゲン市)

                 Photo_3

           
Photo_4




  その一例を挙げますれば、日本国の二十分の一を有するデンマーク国
は、

日本の
二分の一の外国貿易を持つのであります。 

  すなわち、デンマーク人一人の外国貿易の高は、日本人一人の十倍に

当るのであります。もって、その富の程度が分かります。

 

  ある人の言いまするに、デンマーク人は、たぶん世界の中で最も富んだ

民であるだろうとのことであります。

   すなわち、デンマーク人一人の有する富は、ドイツ人または英国人また

は米国人一人の有する富よりも多いのであります。実に、驚くべきことで

はありませんか。



   しからば、デンマーク人は、どうしてこの富を得たかと問いまするに、

それは、彼らが国外に多くの領地を持っているからではありません。 

   彼らは、もちろん広きグリーンランド(*下の写真)を持ちます。しかし、

北太平洋の氷の中にあるこの領土の経済上ほとんど何の価値もない

ことは、何人(なんびと)も知っています。

             Photo_5
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  彼らはまた、その面積においてはデンマーク本土に二倍するアイスラ

ンド*を持ちます。しかし、その名を聞いて、その国の富饒(ふにょう)の

土地でないことはすぐに分かります。

(*アイスランド―その後、一九一八年、デンマークの主権下に自治

 国家になり、四四年、共和国として完全に独立した。*下の写真)

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  他にわずかに鳥毛(とりのけ)を産するファロー島があります。また、

やや富饒なる西インド中のサンクロア、サントーマス、サンユーアンの

三島があります。

  これ確かに富の源でありますが、しかし経済上収支相償うこと少なき

がゆえに、かつては、これを米国に売却せんとの計画もあったくらいで

ります。

  ゆえに、デンマークの富源と言いまして、別に本国以外にあるのでは

ありません。人口一人に対し、世界第一の富を彼らに供せしその富源は、

わが九州大のデンマーク本国においてあるのであります。
 


  しかるに、このデンマーク本国が決して富饒の地と称すべきではない

のであります。

 国に一鉱山あるでなく、大港湾の万国の船舶を惹(ひ)くものがあるの

ではありません。

  デンマークの富は、主としてその土地にあるのであります。その牧場と

その家畜と、その樅(もみ)と白樺との森林と、その沿海の漁業とにある

のであります。

  ことに、その誇りとするところは、その乳産であります。そのバターとチー

ズとであります。デンマークは、実に牛乳をもって立つ国であるということ

ができます。



  トーヴァルセン*を出して世界の彫刻術に一新紀元を劃(かく)し、アン

デルセン(*ハンス・クリスチャン:1805~75:童話「人魚姫」「マッチ売りの

少女」「裸の王様」「みにくいアヒルの子」など多数の名作を創作:下の写真

を出して近世お伽話の元祖たらしめ、キェルケゴールを出して無教会主義

のキリスト教を世界に唱えしめしデンマークは、実に柔和な雌牛の産をもっ

て立つ小にして静かなる国であります。

【つづく】            Photo_10

  (*トーヴァルセン―Berter Thovaldsen(1768~1844) コペンハーゲン

      生まれの彫刻家。神話や古典に財をとり、ローマとコペンハーゲンで

      製作活動を続け、新古典派の代表といわれた。)

(*キェルケゴール―Soren  Kierkegaard  (1813~55) デンマークの

   宗教的思想家。すべての人間的真理、思想は主観的、かつ相対的な

      ものであって、絶対的真理あるいは客観的世界は、ただ質的躍動で

       ある信仰によってのみ達せられる、この信仰はまったく新しいもので

       あって、教会に求めることはできない、とした。

       後の実存哲学、弁証法神学に大きな影響を及ぼした。*下の肖像画)
 

                  Photo

 

 

2012年12月27日 (木)

後世への最大遺物(17)

 たびたび、こういうような考えは起こりませぬか?  もし、私に家族の

関係が無かったならば、私にも大事業ができたであろう、あるいは、もし

私に金があって大学を卒業し、欧米(*下の写真は、フランスのパリと

ドイツのハイデルベルク)へ行って知識を磨いてきたならば、私にも大

事業ができたであろう、もし、私に、良い友人があったならば、大事業

ができたであろう、こういう考えは、人々に実際起こる考えであります。
                              

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                   Photo_2


   しかれども、種々の不幸に打ち勝つことによって大事業というものが

できる、それが大事業であります。 

  それゆえに、われわれが、この考えを持ってみますと、われわれに

邪魔のあるのは、もっとも愉快なことであります。邪魔があればあるほど、

われわれの事業ができる。勇ましい生涯を、後世に遺すことができる。

 

  とにかく、反対があればあるほど面白い。われわれに友達がない、われ

われに金がない、われわれに学問がないというのが面白い。 

  われわれが神の恩恵を享(う)け、われわれの信仰によって、これらの

不足に勝つことができれば、われわれは、素晴らしい事業を遺すことが

できる。
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  われわれが、熱心さをもって、これらの苦難に勝てば勝つほど、後世へ

の遺物が大きくなる。 

  もし、私に金がたくさんあって、地位があって、責任が少なくて、それで、

大事業ができたところで、何でもない。

 

  たとえ、事業は小さくても、これらすべての反対に打ち勝つことによって、

それで、後世の人が、私によって大いに利益を得るに至るのである。 

  種々の不都合、種々の反対に打ち勝つことが、われわれの大事業では 

ないかと思う。 

  それゆえに、ヤコブ*のように、われわれの出遭う艱難について、われ

われは、感謝すべきではないかと思います。

  (*ヤコブのように―創世記二十五―三十五章にヤコブの生涯の変転

が記されていることから。)



  まことに、私の言葉が錯雑しておって、かつ時間も少のうございますから、

私の考えを、ことごとく述べることはできない。 

  しかしながら、私は今日、これで御免こうむって、山を降(くだ)ろうと思い

ます。 

それで、来年、また再びどこかでお目に掛かるまでには、少なくとも幾何

(いくばく)かの遺物を貯えておきたい。

                 Photo_4
 

  この一年の後に、われわれが再び会いました時には、われわれが何か

遺しておって、今年は、後世のために、これだけの金を溜めたというのも

結構、今年は、後世のために、これだけの事業をなしたというのも結構、

また私の思想を雑誌の一論文に書いて遺したというのも結構、しかし、

それよりもいっそう良いのは、後世のために、私は弱い者をけてやっ 

た、後世のために、私は、これだけの艱難に打ち勝ってみた、後世のた 

めに、私は、これだけの品性を修練してみた、後世のために、私は、 

これだけの義侠心を実行してみた、後世のために、私は、これだ 

情実に勝ってみた、という話を持って、再び、ここに集まりたいと考えま

(*下の肖像画は、中年期の内村鑑三)

                                  Photo_5

 この心掛けをもって、われわれが毎年毎日進みまし

ならば、われわれの生涯は、決して五十年や六十年の生涯には

非ずして、実に水の辺ほと)りに植えたる樹のようなもので、だんだんと

芽を萌(ふ)き、枝を生じてゆくものであると思います。

  決して、竹に木を接(つ)ぎ、木に竹を接ぐような、少しも成長しない価値

のない生涯ではないと思います。

 

  こういう生涯を送ることこそ、実に私の最大希望でございまして、私の心

を毎日慰め、かつ色々のことをなすに当って、私を励ますのであります。 

  それで、私のもう一つの題であります「真面目ならざる宗教家」というの

は、時間がありませぬから、ここでは述べませぬ。 

  述べませぬけれども、私の精神の在るところは、皆様に十分お話しいた

したと思います。己の信ずることを実行する者が、真面目な信者です。

 

  ただただ大言壮語することは、誰にでもできます。いくら神学を研究して

も、いくら哲学書を読みても、われわれの信じた主義を真面目に実行す

るところの精神が有りませぬ間は、神は、われわれにとって異邦人であり

ます。 

  それゆえに、われわれは、神がわれわれにお知らせになったことを、

そのまま実行いたさねばなりません。  こういう、いたさねばならぬと思うた

ことは、われわれは、ことごとく実行しなければならない。 

  もし、われわれが、正義はついに勝つものとして、不義は、ついに負ける

ものであるということを世間に発表するのであるならば、その通りに、われ

われは、実行しなければならない。これを称して、真面目なる信徒と申すの

です。                    Photo_6

  われわれに、後世に遺すものは何もなくても、われわれに、後世の人に、

これぞと言うて覚えられるものは何もなくても、アノ人は、この世の中に活

きている間は、真面目なる生涯を送った人であると言われるだけのことを、

後世の人に遺したいと思います。(拍手喝采)  【了】


  ( 後記:内村鑑三の『後世への最大遺物』をご愛読くださいまして、
 

    まことに有難うございました。

        次回は、『デンマルク国の話』を掲載いたしたいと存じます。)

2012年12月25日 (火)

後世への最大遺物(16)

  私は、時が長くなりましたから、もうしまいにいたしますが、常に私の

生涯に深い感覚を与える一つの言葉を皆様の前に繰り返したい。 

  ことに、われわれの中に一人、アメリカのマサチュセッツ州マウント・

ホリヨーク・セミナリー*(*絵〔上〕は、1837年頃の同校、〔下〕は、それ

より50年後の同校)という学校へ行って卒業してきた方がおりますが、

この女学校は、古い女学校であります。たいへんよい女学校であります。

         1837nenn


           1887



  しかしながら、もし私をして、その女学校を評せしむれば、今の教育上、

ことに知育上においては、私は、決してアメリカ第一等の女学校とは思

わない。アメリカには、たくさんよい女学校がございます。スミス女学校*

(*写真〔上〕は、1871年創立のスミス大学、〔下〕は、今日の同大学) 

いうような大きな学校もあります

  1871

          Photo

  また、ボストンのウェレスリー校、フィラデルフィアのプリンモアー学校と

いうようなものがございます。 

  けれども、マウント・ホリヨーク・セミナリーという女学校は、非常な勢力

をもって、非常な事業を世界になした女学校であります。



  何故だと言いますと、その女学校は、この節〔=最近〕は、だいぶよく

揃ったそうでありますが、この間〔=この前〕までは、不整頓の女学校で

ありました。同校が、世界を感化する勢力を持つに至った原因は、その

学校には、エライ女がおった。

  その人は、立派な物理学の機械に優(まさ)って、立派な天文台に優って、

あるいは立派な学者に優って、価値(ねうち)のある魂を持っておったメリー

・ライオン*という女でありました。

   (*メリー・ライオン―Mary  Lyon〔1797~1849〕  アメリカの女流教育家。

       女子高等教育促進の必要を痛感し、マウント・ホリヨーク女子専門学

      校を創立、12年間、その校長として女子高等教育の進展に寄与した。)



  その生涯を、ことごとく述べることは、今ここではできませぬが、この女史

が自分の女生徒に遺言した言葉は、われわれの中の婦女を励まさねば

ならぬ、また男子をも励まさねばならぬものである。

  すなわち、私は、その女の生涯をたびたび考えてみますに、実に日本

の武士ような生涯であります。 

  彼女は、実に義侠心に充ち満ちておった女であります。彼女は、何と

言うたかというに、彼女の女生徒に、こう言うた。

 

      他の人の行くことを嫌うところへ行け  

      他の人の嫌がることをなせ

  これが、マウント・ホリヨーク・セミナリーの立った土台石であります。

これが、世界を感化した力ではないかと思います。他の人が嫌がること

をなし、他の人の嫌がる所へ行くという精神であります。

  それで、われわれの生涯は、その方に向かって行きつつあるか。われ

われの多くは、そうでなくして、他の人もなすから、己もなそうというので

はないか。

  他の人もアアいうことをするから、私もソウしようというふうではないか。

他の人もアメリカへ金を貰いに行くから私も行こう、他の人も壮士になる

から、私も壮士になろう、はなはだしきは、だいぶこの頃は、耶蘇(やそ)

教(=キリスト教)が世間の評判が良くなったから私も耶蘇教になろう、と

いうようなものがございます。



  関東に往きますと、関西に余り多くないものがある。関東には、良いもの

がだいぶたくさんあります。関西よりも良いものがあると思います。

  関東人は「意地」ということを、しきりに申します。意地の悪い奴は、

つむじが曲がっていると申しますが、毬栗頭(いがぐりあたま)にては、

すぐ分かる

  頭のつむじが、ここらに(手真似にて)こう曲がっている奴は、必ず意地

が悪い。

 人が右へ行こうと言うと左と言い、アアしようと言えば、コウしようという

ようなふうで、ことに上州人に、それが多いと言います(私は、上州の

人間ではありませぬけれども)。

  それで、必ずしもこれは誉むべき精神でないと思うが、しかしながら、

武士の意地というものです。その意地を、われわれから取り除(の)けて

しまったならば、われわれは、腰抜け武士になってしまう。



  徳川家康*(*下の肖像画)のエライところは、たくさんありますけれ

ども、諸君のご承知の通り、彼が子供の時に川原へ行ってみたところが、

子供の二群が戦(いくさ)をしておった。石撃(いしづち)をしておった。

  家康はこれを見て、彼の家来に命じて、人数の少ない方を手伝って

やれと言った。多い方はよろしいから、少ない方へ行って助けてやれと

言った。これが、徳川家康のエライところです。

           Photo_2
 
  それで、いつでも正義のために立つ者は少数である。それで、われわ

れのなすべきことは、いつでも少数の正義の方に立って、そうして、その

正義のために、多勢の不義の徒に向かって石撃をしまければなりません。

  もちろん、必ずしも、負ける方を助けると言うのではない。私が望む
  

のは、少数と共に戦う意地です。その精神です。

  それは、われわれの中にみな欲しい。今日、われわれが正義の味方に

立つ時に、少なくともこの夏期学校に来ている者くらいは、共に、その方に

立ってもらいたい。

  それでドウゾ後世の人が、われわれについて、この人らは力もなかった、

富もなかった、学問も無かった人であったけれども、己の一生涯を、めい

めい持っておった主義のために送ってくれたと言われたいではありませ 

んか。

  これは、誰にも遺すことのできる主張ではないかと思うと、実にわれわ

れは嬉しい。

  たとえ、われわれの生涯が、どんな生涯であっても。  【つづく】
 

 


 

   
 

 

2012年12月22日 (土)

後世への最大遺物(15)

  私は、近世の日本の英雄、あるいは世界の英傑といってもよろしい人

のお話をいたしましょう。 

  この世界の英傑の中に、ちょうどわれわれの泊まっているこの箱根山

の近所に生まれた人で、二宮金次郎(*下の写真は、彼の生家)という

人がおりました。
                          Photo



   
  この人の伝を読みました時に、私は非常な感覚をもらった。それで、

ドウも二宮金次郎先生には、私は現に負うところが実に多い。 

  二宮金次郎氏の事業は、あまり日本に広まってはおらぬ。それで、

彼の成した事業をことごとく纏めてみましたならば、二十ヶ村か三十ヶ村

の人民を救っただけに止まっていると思います。

 

  しかしながら、この人の生涯が私を益し、それから、今日日本の多くの人

を益するわけは何であるかというと、何でもない、この人は、事業の贈物

にあらずして生涯の贈物を遺した。この人の生涯は、すでにご承知の方

もありましょうが、チョット申してみましょう。



  二宮金次郎氏は、十四の時に父を失い、十六の時に母を失い、家が

貧乏にして何物もなく、ために至極残酷な叔父に預けられた人であります。 

  それで、一文の銭もなし、家産はことごとく傾き、弟一人、妹一人持って

いた。身に一文もなくして孤児です。

 

  その人が、ドウして生涯を立てたか。叔父さんの家にあって、その手伝

いをしている間に、本を読みたくなった。 

  そうした時に、本を読んでおったら、叔父さんに叱られた。この高い油

を使って本を読むなどということは、まことに馬鹿馬鹿しいことだと言って、

本を読ませぬ。

    

  そうすると、黙っていて、叔父さんの油を使っては悪いということを聞き

ましたから、「それでは、私の油ができるまでは、本を読まぬ」という決心

をした。

  それで、どうしたかというと、川辺の誰も知らないところへ行きまして、

菜種を蒔いた。 

 一ヶ年かかって、菜種を五、六升も取った。それから、その菜種を持っ

いって、油屋へ行って油と取り換えてきまして、それからその油で本を

読んだ。

 

  そうしたところが、また叱られた。「油ばかりお前のものであれば本を

読んでもよいと思っては違う。 

  お前の時間も私のものだ。本を読むなどという馬鹿なことをせず、その

時間に縄をなえ」と言われた。それなら、仕方がない、叔父さんの言うこ

とであるから、終日働いた後で、本を読んだ、・・・・そういう苦労をした人

であります。

                         Photo_3

  どうして、自分の生涯を立てたかというに、村の人が遊ぶ時、ことにお

祭りの日などには、近所の畑の中に、洪水で沼になったところがあった。 

  その沼地を、叔父さんの時間でない、自分の時間に、その沼地より、

ことごとく水を引いて、そこでもって、小さい鍬で田地を拵(こしら)えて、

そこへ持っていって稲を植えた。こうして、初めて一俵の米を取った。

 

  その人の自伝によりますれば、「米を一俵取った時の私の喜びは、

何ともいえなかった。これ、天が初めて私に直接に授けたものにして、

その一俵は、私にとっては百万の価値があった」と言うておる。 

  それから、その方法をだんだん続けまして、二十歳の時に、叔父さん

の家を辞した。

 

  その時には三、四俵の米を持っておった。それから仕上げた人であ

ります。 

 それで、この人の生涯を初めから終わりまで見ますと「この宇宙とい 

うものは実に神様・・・・神様とはいいませぬ・・・・天が造ってくだされたも  

ので、天というものは、実に思慮の深いもので、人間を助けようとばかり  

思っている。  

  それだから、もしわれわれが、この身を天と地とに委ねて天の法則に 

従っていったならば、われわれが欲せずといえども、天がわれわれを助 

けてくれる」という、こういう考えであります。 

 

  その考えを持ったばかりでなく、その考えを実行した。その話は長うご

ざいますけれども、ついには何万石という村々を改良して、自分の身を、

ことごとく人のために使った。旧幕の末路にあたって経済上、農業改良

上について非常な功績のあった人であります。

             Photo_4
 

  それで、われわれも、そういう人の生涯、二宮金次郎先生のような人

の生涯を見ます時に、「もし、あの人にも、アアいうことができたならば、

私にもできないことはない」という考えを起こします。普通の考えでは

ありますけれども、非常に価値のある考えであります。

 

  それで、人に頼らずとも、われわれが神に頼り、己に頼って、宇宙の 

法則に従えば、この世界は、われわれの望む通りになり、この世界に、  

わが考えを行うことができるという感覚が起こってくる。

 (*下の写真は、二宮尊徳資料館)

        Photo_5

  二宮金次郎先生の事業は大きくなかったけれども、彼の生涯は、ドレ

ほどの生涯だったか知れませぬ。私ばかりでなく、日本中幾万の人が、

この人から「インスピレーション」を得たでありましょうか。

  あなたがたも、この人の伝を読んでごらんなさい。『少年文学』の中に

『二宮尊徳翁』というのが出ておりますが、アレは、つまらない本です。

  私がよく読みましたのは、農商務省で出版になりました、五百ページ

ばかりの『報徳記』という本です。この本を諸君が読まれますことを切に

希望します(*下の写真は、二宮尊徳の墓)

            Photo_6



   この本は、われわれに新理想を与え、新希望を与えてくれる本であり

ます。実に、キリスト教の『バイブル』を読んでいるような気がいたします。

  ゆえに、われわれが、もし事業を遺すことができずとも、二宮金次郎の、

すなわち独立生涯を躬行(きゅうこう・・・自分みずから行うこと)していっ

たならば、われわれは、実に大事業を遺す人ではないかと思います。

【つづく】

 

 

2012年12月21日 (金)

後世への最大遺物(14)

   しかしながら、その間に己(おのれ)で己(おのれ)に返って言うに、

「トーマス・カーライル(*下の写真)よ、汝は愚人である、汝の書いた

『革命史』はソンナに貴いものではない。

                        Photo_4

   第一に貴いのは、汝がこの艱難を忍んで、そうしてふたたび筆を執っ

て、それを書き直すことである。それが汝の本当にエライところである。

実にそのことについて失望するような人間が書いた『革命史』を社会に

出しても役に立たぬ。

  それゆえに、モウ一度書き直せ」と言って、自分で自分を鼓舞して、

ふたたび筆を執って書いた。 その話は、それだけの話です。



  しかし、われわれは、その時のカーライルの心中に入った時には、

実に推察の情、溢(あふ)るるばかりです。

  カーライルのエライことは、『革命史』という本のためにではなくして、

火にて焼かれたものを、再び書き直したということである。

  もし、あるいは、その本が遺っておらずとも、彼は、実に後世への素晴

らしい遺物を遺したのであります。

  たとえ、われわれが、イクラやりそこなっても、イクラ不運に遭っても、

その時に力を回復して、われわれの事業を捨ててはならぬ、勇気を起こ

して、再びそれに取りかからねばならぬ、という心を起こしてくれたことに

ついて、カーライルは、素晴らしい遺物遺してくれた人ではないか。



  今時(こんじ)の弊害は何であるかと言いますれば、なるほど金がない、

われわれの国に事業が少ない、良い本がない、それは確かです。

  しかしながら、日本人お互いに今要するものは何であるか。本が足り

ないのでしょうか、金が無いのでしょうか、あるいは事業が不足なので

ありましょうか。

  それらのことの不足は、もとよりないことはない。けれども、私が考えて

みると、今日第一の欠乏は、Life  生命の欠乏であります。

                          Photo_7

                      Photo_8



  それで、近ごろは、しきりに学問ということ、教育ということ、すなわち

Culture(修養)ということが、大へんにわれわれを動かします。

  われわれは、ドウしても学問をしなければならぬ、ドウしてもわれわれ

は青年に学問をつぎ込まねばならぬ、教育を遺して後世の人を誡(いま

し)め、後世の人を教えねばならぬと言うて、われわれは心配いたします。

  勿論、このことは、たいへんよいことであります。それで、もし、われわ

れが今より百年後に、この世に生まれてきたと仮定して、明治二十七年

の人の歴史を読むとすれば、ドウでしょう。

  これを読んできて、われわれに、どういう感じが起こりましょうか。

なるほど、ここにも学校が建った、教会(*下の写真)が建った、ここにも

青年会館が建った、ドウして建ったろうといって、だんだん読んでみますと、

この人はアメリカへ行って金をもらって来て建てた、あるいは、この人は、

こういう運動をして建てたということがある。

                      Photo_5

                       Photo_6


  そこで、われわれがこれを読みます時に、「アア、とても私にはそんな

ことはできない、今ではアメリカへ行っても金はもらえまい、また私には、

そのように人と共同する力はない。私には、そういう真似はできない、

私はとても、そういう事業はできない」と言うて失望しましょう。

 


  すなわち、私が今から五十年も百年も後の人間であったならば、今日

の時代から学校を受け継いだかも知れない。教会を受け継いだかも知

れませぬ。

  けれども、私自身を働かせる原動力をばもらわない。大切なるものを

ばもらわないに相違ない。

  しかし、もし、ここにつまらない教会が一つあるとすれば、そのつまらな

い教会の建物を売ってみたところが、ほとんどわずかな金の価値しかな

いかも知れませぬ。

  しかしながら、その教会の建った歴史を聞いた時に、その歴史が、こう

いう歴史であったと仮定してごらんなさい・・・・この教会を建てた人は、

まことに貧乏人であった、

                      Photo_9

 この教会を建てた人は学問も別にない人であった、それだけでも、

この人は、己のすべての浪費を節して、すべての欲情を去って、まるで

己の力だけに頼って、この教会を造ったものである。・・・・

  こういう歴史を読むと、私にも勇気が起こってくる。かの人にできた

ならば、己にもできないことはない、われも一つやってみようということ

になる。  【つづく】

2012年12月20日 (木)

後世への最大遺物(13)

   先日、カーライルの伝を読んで感じました。ご承知の通り、カーライル

が書いたものの中で一番有名なものは、フランス革命の歴史でござい

ます。               
 

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                     (バステイーユ襲撃)

 

16
                  ルイ16世一族の逮捕)


  それで、ある歴史家が言うに、「イギリス人の書いたもので歴史叙事、

ものを説き明かした文体からいえば、カーライルの『フランス革命史』が、

たぶん一番といってもいいであろう、もし一番でなければ、一番の中に入

るべきものである」ということであります。

  それで、この本を読む人は、ことごとく同じ感覚を持つだろうと思います。

実に、今より百年ばかり前のことを、われわれの目の前に活きている画の

ように、ソウして立派な画人(えかき)が書いてもアノようには書けぬとい

うように、フランス革命のパノラマ(活画)を示してくれたものは、この本で

あります。   

                     
                             

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                         ( 民衆を率いる「自由の女神」

                       ・・・・・ ドラクロア作 )

          Photo

                             ( アルプス越えのナポレオン
                

                                            ・・・・ジャック=ルイ・ダビッド作 )


                        
                
 

  それで、われわれは、この本に非常な価値を置きます。カーライルが

われわれに遺してくれたこの本は、実にわれわれの貴ぶところであります。

  しかしながら、フランスの革命を書いたカーライルの生涯の実験を見ま

すと、この本よりも、まだ立派なものがあります。この話は長いけれども、

ここで、あなた方に話すことを許していただきたい。

  カーライルが、この書を著わすのは、彼にとっては、ほとんど一生涯の

仕事であった。

  チョット『フランス革命史』を見ますならば、このくらいの本は誰にでも書

けるだろうと思うほどの本であります。

  けれども、歴史的な研究を凝(こ)らし、広く材料を集めて成った本であり

まして、実にカーライルが生涯の血を絞って書いた本であります。それで

何十年ですか忘れましたが、何十年かかかって、ようやく自分の望みの通

の本が書けた。

  それから、その本が原稿になって、これを罫紙(けいし)に書いてしまった。

それからして、これは、モウじきに出版する時がくるだろうと思って待って

おった。



  その時に友人が来まして、カーライルに会ったところが、カーライルが、

その話をしたら、「実に結構な書物だ。今晩、一読を許してもらいたい」と

言った。

  その時に、カーライルは自分の書いたものはつまらないものだと思って、

人の批評を仰ぎたいと思ったから、貸してやった。貸してやると、その友人

は、これを家へ持って行った。

  そうすると、友人の友人がやってきて、これを手に取って読んでみて、

「これは面白い本だ。一つドウゾ今晩、私に読ましてくれ」と言った。

  ソコで友人が言うには、「明日の朝早く持って来い、そうすれば貸して

やる」と言って、貸してやったら、その人は、またこれをその家へ持って行

って一生懸命に読んで、明け方まで読んだところが、明日の事業に妨げ

があるというので、その本をば机の上に抛(ほう)り放(はな)しにして、床

について、自分は寝入ってしまった。



  そうすると、翌朝、彼の起きない前に下女がやって来て、家の主人が

起きる前に、ストーブに火をたきつけようと思って、ご承知の通り、西洋

では、紙をコッパ(木端)の代わりに用いてクべますから、何かよいものは

ないかと思って調べたところが、机の前に書いたものがだいぶ広がって

いたから、これはよいものと思って、それをみな丸めて、ストーブの中へ

入れて火をつけて焼いてしまった。カーライルが何十年ほどかかった

『革命史』を焼いてしまった。

                     Photo


                     

   それで、友人が、このことを聴いて、非常に驚いた。何ともいうことがで

きない。他のものであるならば、紙幣(さつ)を焼いたならば紙幣で償(つ

ぐな)うことができる、家を焼いたならば、家を建ててやることもできる。

  しかしながら、思想の凝って成ったもの、熱血を注いで何十年もかかっ

て書いたものを焼いてしまったのは償いようがない。死んだものは、モウ

活きられない。それがために、腹を切ったところが、それまでであります。



  それで、友人に話したところが、友人も実にドウすることもできないで

一週間黙っておった。何と言ってよいかわ分からぬ。

  ドウモ仕方がないから、そのことをカーライルに言った。その時に

は、十日間ばかりぼんやりして何もしなかったということであります。

  さすがのカーライルも、そうであったろうと思います。それで腹が立った。

ずいぶん短気な人でありましたから、非常に腹を立てた。

  彼は、その時は、歴史などは抛りぽかして、何にもならないつまらない

小説を読んだそうです。

  (*ここに語られている原稿消失事件は、『フランス革命史』の第一巻 

    を書き終わった時のことであり、彼が原稿を貸した友人は、哲学者、

       経済学者として有名なジョン・スチュワート・ミル〔*下の肖像画〕

       ある。

          そのミルが、1835年3月、原稿焼却の厄にあうことになったミルの

        友人は、後にミルと結婚することになるテーラー夫人〔*下の

     肖像画〕 であったことが伝えられている。

           ミルは、その賠償に200ポンドを贈ったが、カーライルは、執筆再開

      期間の生活費として100ポンドを受け取って、1837年1月、再びそれを

    完成させた。

            しかし、カーライルの著作のうち、内村鑑三が最も心魂を奪われた

     ものは、『クロムウェル伝』だった。)

                                   Photo_2
                  

                               Photo_3

     【つづく】

 

2012年12月18日 (火)

後世への最大遺物(12)

  ここに至って、こういう問題が出てくる。つまり、文学者にもなれず学校

の先生にもなれなかったならば、私は、後世に何も遺すことはできないか、

という問題が出てくる。

 

  何か他に事業はないか、私もたびたび、それがために失望に陥ること

がある。しからば、私には、何も遺すものはない。 

  事業家にもなれず、金を溜めることもできず、本を書くこともできず、もの

を教えることもできない。 

  ソウすれば、私は無用の人間として、平凡な人間として消えてしまわね

ばならぬか。

 

  陸放翁(りくほうおう)*の言ったごとく、「我死骨即朽(わがしこつすなわ

ちくつるも)青史亦無名(せいしまたななし)」と嘆じ、この悲嘆の声を発し

て、われわれが生涯を終わるのではないかと思うて、失望の極に陥ること

がある。

(*陸放翁―陸游〔1125~1210〕のこと。放翁は号。南宋の詩人で、

       詩集に『剣南詩稿』、文集に『渭南文集』がある。「我死骨即朽、

        ・・・・」は、『剣南詩稿』第十六所収「春夜読書感懐」からの引用

      *下の肖像画)

                            Photo


  しかれども、私は、それよりモット大きい、今度は前の三つと違いまして、

誰にも遺すことのできる最大遺物があると思う。それは、実に最大遺物で

あります。 

  金も、実に一つの遺物でありますけれども、私は、これを最大遺物と名

づけることはできない。 

  事業も、実に大遺物たるには相違ない、ほとんど最大遺物というてもよう

ございますけれども、いまだこれを最大遺物ということはできない。

 

  文学も先刻お話しした通り、実に貴いものであって、わが思想を書いたも

のは、実に後世への価値ある遺物と思いますけれども、私がこれをもっ

最大遺物ということはできない。最大遺物ということのできないわけは、

一つは、誰にも遺すことのできる遺物でないから最大遺物ということはで

きないのではないかと思う。

 

  そればかりでなく、その結果は、必ずしも害のないものではない。昨日も

お話しした通り、金は、用い方によって、たいへん利益がありますけれども、

用い方が悪いと、またたいへん害を来(きた)すものである。

 

  事業におけるも、同じことであります。クロムウェルの事業とか、リビン

グストンの事業は、たいへん利益があります代わりに、また、これには、

害が一緒に伴っております。 

  また、本を書くことも、同じように、その中に善いものもあり、悪いことも、

たくさんあります。われわれは、それを完全なる遺物、または最大遺物と

名づけることはできないと思います。



  それならば、最大遺物とは何であるか。私が考えてみますに、人間が

後世に遺すことのできる、ソウしてこれは、誰にも遺すことのできるところ 

の遺物で、利益ばかりあって害のない遺物である。

 

  それは何であるかと言えば、それは、勇ましい高尚なる生涯

あると思います。これが、本当の遺物ではないかと思う。他の遺物は、

誰にも遺すことのできる遺物ではないと思います。

   しかしながら、高尚なる勇ましい生涯とは何であるかというと、私がここ

で申すまでもなく、諸君もわれわれも前から承知している生涯であります。

 

  すなわち、この世の中は、決して悪魔が支配する 世の中にはあらずして、

神が支配する世の中である ということを信ずることである。

  失望の世の中にあらずして、希望の世の中である
 ことを信ずることで

る。

  この世の中は、悲嘆の世の中でなくして、歓喜の世の中であるという

えを、われわれの生涯に実行して、その生涯を世の中への贈物 として、

このを去るということであります。  

  その遺物は、誰にも遺すことのできる遺物ではないかと思う。



  もし、今までのエライ人の事業を、われわれが考えてみます時に、ある

いはエライ文学者の事業を考えてみます時に、その人の書いた本、その

人の遺した事業はエライものでございますが、しかし、その人の生涯に較

べた時には、実に小さい遺物だろうと思います。

 

  パウロ(*下の肖像画)の書翰は実に有益な書翰でありますけれども、

しかし、これをパウロの生涯に較べた時には、価値のはなはだ少ないも

でないかと思う。パウロ自身は、このパウロの書いたロマ書や、ガラテ

ヤ人に贈った書翰よりもエライ者であると思う。

                        Photo_7 

  クロムウェルがアングロサクソン民族の王国を造ったことは大事業であ

りますけれども、クロムウェルがあの時代に立って自分の独立思想を実行

し、神によって、あの勇壮なる生涯を送ったという、あのクロムウェル自身

の生涯というものは、これは、クロムウェルの事業に十倍も百倍もする社会

にとっての遺物ではないかと考えます。

  私は元来、トーマス・カーライル*の本を非常に敬読する者であります。

それで、ある人には、それがために嫌われますけれども、私は、カーライル

という人については、非常に尊敬を表しております。

(*トーマス・カーライル―Thomas  Carlyle〔1795~1881〕 イギリスの

       評論家、歴史家。  *下の写真)

                    Photo_2

 
  たびたびあの人の本を読んで利益を得、またそれによって刺激をも受け

たことでございます。

   けれども、私はトーマス・カーライルの書いた四十冊ばかりの本をみな寄

せてみてカーライル自身の生涯に較べた時には、カーライルの書いたもの

は、実に価値の少ないものであると思います。   【つづく】



 

 

2012年12月17日 (月)

後世への最大遺物(11)

  ソウ申しますと、こういう問題が出てきます。われわれは、金を溜める

ことができず、また事業をなすことができない。それから、またそれならば

と言って、あなたがたがみな文学者になったならば、たぶん活版屋では喜

ぶかも知れませぬけれども、社会では喜ばない。

 

  文学者が世の中に増えるということは、ただ活版屋と紙製造所を喜ばす

だけで、余り社会に益をなさないかも知れない。 

  ゆえに、もしわれわれが文学者となることができず、またなる考えもなし、

バンヤンのような思想を持っておっても、バンヤンのように綴ることができ

ない時には、別に後世への遺物はないかという問題が起こる。それは、

私にもたびたび起こった問題であります。

 

  なるほど、文学者になることは、私が前に述べました通りヤサシイこと

とは思いますけれども、しかし、誰でも文学者になるということは、実に望

むべからざることであります。

  例えば、学校の先生・・・・ある人が言うように、何でも大学に入って学士

の称号を取り、あるいは、その上にアメリカへでも往って学校を卒業さえし

てくれば、それで先生になれると思うのと同じであります。

 

  私はたびたび聞いて感じまして、今でも心に留めておりますが、私がた

いへん世話になりましたアマースト大学の教頭シーリー先生*が言った

言葉に、「この学校で払う給金を払えば、学者を得ることはいくらでも得

られる。地質学を研究する人、動物学を研究する人はいくらでもいる。

地質学者、動物学者は、たくさんいる。

  (*シーリー先生―Julius Hawley  Seelye〔1824~95〕  アマースト大学

       卒業後、ドイツのハレ大学で哲学を研究、帰国後母校の哲学教授、

    一八七六年総長、教育者、説教者として零名があった。上院議員

         をも務めている。

            内村鑑三は同大学に在学中、彼の信仰的感化のもとに回心を

         経験し、終生彼を恩師として尊敬した。  *下の写真・・・ブログ

         「内村鑑三 記念文庫デジタルアーカイブ」より拝借)

                         Photo

  しかしながら、地質学、動物学を教えることのできる人は、実に少ない。 

文学者は、たくさんいるが、文学を教えることのできる人は少ない。 

  それゆえに、この学校に、三、四十人の教授がいるけれども、その三、

四十人の教師は、非常に貴(とうと)い。 

  なぜならば、これらの人は、学問を自分で知っているばかりでなく、

それを教えることのできる人であります」と。 

  これは、われわれが深く考えるべきことで、われわれが学校さえ卒業

すれば、必ず先生になれるという考えを持ってはならぬ。 

  学校の先生になるということは、一種特別の天職だと、私は思ってい

ます。よい先生というのは、必ずしも大学者ではない。

 

  大島君*もご承知でございますが、私どもが札幌におりました時に、

クラーク先生*という教師がいて、植物学を受け持っておりました。

  その時分には、他に植物学者がおりませんから、クラーク先生を

第一等の植物学者だと思っておりました。この先生の言ったことは、

植物学上誤りの無いことだと思っておりました。

   (*大島君―大島正健〔1858~1938〕  札幌農学校第一回卒業生。

       内村鑑三の親友の一人。札幌農学校で教壇に立つかたわら、長く

      札幌独立教会の牧師の任にあたった。第六回夏期学校の講師、

       「牧師と教会」「祈祷私見」と題して講演した。

          甲府第一中学校の校長時代、当時の生徒だった石橋湛山に、

   多大な影響を与えた。  * 下の写真)

                             Photo_3
       

  (*クラーク先生―William  Smith  Clark〔1826~86〕 アメリカの

      科学者、教育者。南北戦争に従軍して奮戦、1862年陸軍准将に

        昇進した。

            アマースト大学卒業後、ドイツのゲッテインゲン大学で化学を

       研究、帰国後、母校の化学教授。植物学、農学についても多くの

        研究を発表した。「植物における樹液の循環」「植物生命現象の

        観察」(1874年)など。

             マサチューセッツ州立農業大学初代学長(1867~1878)。

    その間、1876年、一年の賜暇を得て来日、札幌農学校の教頭の

        任に当り、八ヶ月の在任中、学生に多大の感化を与えた。

             〝Be  gentleman!”別れに望んで遺した”Boys  be  ambitious ! ”

     の言葉は有名。 *下の写真)

                  Images


 

            

  しかしながら、彼の本国に行って聞いたら、先生、だいぶ化(ばけ)の

皮が現われた。かの国の学者が、クラ―クが植物学について口を利くなど

とは不思議だ、と言って笑っておりました。

 

  しかしながら、とにかく先生は非常な力を持っておった人でした。 

どういう力であったかというに、すなわち植物学を青年の頭の中へ注ぎ

込んで、植物学という学問のInterrest (関心・興味)を起こす力を持った人

でありました。

 

  それゆえに、植物学の先生としては、非常に価値のあった人でありまし

た。ゆえに、学問さえすれば、われわれが先生になれるという考えを

抛却(ほうきゃく)(*抛却・・・・うち捨てておくこと)してしまわなければな

らぬ。

 

  先生になる人は、学問ができるよりも―学問もなくてはなりませぬけれ

ども―学問ができるよりも、学問を青年に伝えることのできる人でなけれ

ばならない。 

  これを伝えることは、一つの技術であります。短い言葉でありますけれ

ども、この中に非常に含蓄のある意味が含まれております。

 

  たとえ、われわれが文学者になりたい、学校の先生になりたいという望

みがあっても、これは、必ずしも、誰にもできるものではないと思います。

  それで、金も遺すことができず、事業も遺すことができない人は、必ずや

文学者または学校の先生となって思想を遺して逝くことができるかというに、

それはそうはいかぬ。

 

  しかしながら、文学と教育とは、工業をなすということ、金を溜めるという

ことよりも、よほど易しいことだと思います。なぜならば、独立でできること

であるからです。ことに、文学は、独立的な事業である。 

  今日のような学校にては、どこの学校にても、Mission  School (ミッション

・スクール)を始めとして、どこの官立学校にても、われわれの思想を伝え

るといっても、実際に伝えることはできない。 

  それゆえ、学校事業は、独立事業としては、ずいぶん困難な事業であり

ます。

 

 しかしながら、文学事業に至っては、社会は、ほとんどわれわれの自由に

任せる。

  それゆえに、多くの独立を望む人が政治界を去って宗教界に入り、宗教

界を去って教育界に入り、また教育界を去って、ついに文学界に入ったこ

とは、明らかな事実であります。多くのエライ人は文学に逃げ込みました。

  文学は、独立の思想を維持する人のために、もっとも便益なる隠れ場所

であろうと思います。

  しかしながら、ただ今も申し上げました通り、必ずしも誰にでも入ることの

できる道ではない。 【つづく】

2012年12月15日 (土)

後世への最大遺物(10)

   今、ここに、丹羽さんがいませぬから、少し丹羽さんの悪口を言いまし

ょう(笑い声起こる)。

 *丹羽さん―丹羽清次郎〔1865~1957〕  明治23年〔1890年〕以来、

   東京YMCA主事をつとめていた。この第六回夏期学校の開校式で

   歓迎の辞を述べている。) 

・・・後で、言いつけてはイケマセンよ(大笑)。

  丹羽さんが、青年会において、『基督教青年』という雑誌を出した。

それで、私の所へも、だいぶ送ってきた。

 

  そこで、私が先日東京へ出ました時に、先生が、「どうです内村君、あな

たは、『基督教青年』を、ドウお考えなさいますか」と問われたから、私は、

真面目に、また明白に答えた。

 

  「失礼ながら、『基督教青年』は、私の所へ来ますと、私はすぐそれを、

厠(かわや)へ持って行って置いてきます。」

  ところが、先生、たいへん怒った。それから、私は、そのわけを言いま

した。

 

  アノ『基督教青年』を、私が汚穢(きたな)い用に用いるのは何であるかと

言うに、実につまらぬ雑誌であるからです。 

  なにゆえにつまらないかと言うに、アノ雑誌の中に名論卓説が無いから

つまらないというのではありません。 

  アノ雑誌のつまらないわけは、青年が青年らしくないことを書くからです。

 

  青年が学者の真似をして、つまらない議論をアッチから引き抜き、コッチ

らも引き抜いて、それを鋏刀(はさみ)と糊とでくッけたような論文を出す

ら読まないのです。 

  もし青年が青年の心のままを書いてくれたならば、私は、これを大切にし

て、年の終わりになったら立派に表装して、私のLibrary(書函)の中の最も

価値あるものとして遺しておきましょう、と申しました。 

  それから、その雑誌は、だいぶ改良されたようであります。

 

  それです、私は、名論卓説を聴きたいのではない。私の欲するところと

会の欲するところは、女からは女の言うようなことを聴きたい。男から

は、男の言うようなことを聴きたい。青年からは、青年が思っている通りの

ことを聴きたい。老人からは、老人が思っている通りのことを聴きたい。

それが文学です。

  それゆえに、ただわれわれの心のままを表白してごらんなさい。ソウし

てゆけば、いくら文法は間違っておっても、世の中の人が読んでくれる。

それが、われわれの遺物です。 

  もし、何もすることができなければ、われわれの思うままを書けばよろし

いのです。

 

   私は、高知から来た一人の下女を持っています。 

  非常に面白い下女で、私のところに参りましてから、いろいろの世話をい

たします。ある時は、ほとんど私の母のように、私の世話をしてくれます。 

  その女が手紙を書くのを側で見ていますと、実に面白い手紙です。

 

  筆を横に取って、仮名で、土佐言葉で書く。あとで坂本さん*が出て、

土佐言葉の標本を諸君に示すかも知れませぬ(大笑拍手)。

  (*坂本さん―坂本直寛〔1853~1911〕 土佐の民権運動家、のちに

        牧師となった。第六回夏期学校の講師の一人。

    「雑感」「キリスト信徒の幸福」と題して講演した。

         坂本龍馬は、彼の叔父にあたる。  *下の写真

                 Photo


  ずいぶんと面白い言葉であります。仮名で書くのですから、土佐言葉が

ソックリそのままで出てくる。それで、彼女は、長い手紙を書きます。実に、

読むのに骨が折れる。



  しかしながら、私は、いつでもそれを見て喜びます。その女は、信者でも

何でもない。 

  毎月三日月様になりますと、私のところへ参って、「ドウゾ旦那さま、

お銭(あし)を六厘」と言う。「何に使うか」と言うと、黙っている。「何でも

よいから」と言う。

                         Photo_6

 

  やると、豆腐を買ってきまして、三日月様に豆腐を供える。後で聞いて

みると、「旦那さまのために、三日月様に祈っておかぬと運が悪い」と申

します。私は感謝して、いつでも六厘を差し出します(大笑)。                     


  それから、七夕様がきますと、いつでも私のために七夕様に、団子だの

梨だの柿などを供えます。私はいつも、それを喜んで供えさせます。

                        Photo_3


  その女が書いてくれる手紙を、私は実に多くの立派な学者先生の文学を

『六合雑誌』などに拝見するよりも、喜んで見まする。それが、本当の文学

で、それが、私の心情に訴える文学。・・・文学とは、何でもない、われわれ

の心情に訴えるもあります。

(*『六合雑誌』―明治13年〔1880年〕、小崎弘道、植村正久らを中心と

   する「東京青年会」の機関誌として創刊された評論集。キリスト教の

   立場から、当時の国家主義的潮流と対決する論陣を張った。)



  文学というものが、ソウいうものであるならば・・・・ソウいうものでなくては

ならぬ。 

・・・・それならば、われわれはなろうと思えば、文学者になることができ 

ます。

  われわれが文学者になれないのは、筆が執れないからなれないのでは

ない。われわれが漢文が書けないから、文学者になれないのでもない。
 

 

  われわれの心に鬱勃(うつぼつ)たる思想(*鬱勃・・・意気が盛んに湧き

起こるさま)が籠もっておって、われわれが心のままに、ジョン・バンヤンが

やったように綴ることができるならば、それが第一等の立派な文学であり

ます。

  カーライルが言った通り、「何でもよいから深いところへ入れ、深いところ

には、ことごとく音楽がある」。

 

  実に、あなたがたの心情を、ありのままに書いてごらんなさい。それが、

流暢なる立派な文学であります。

  私自身の経験によっても、私は文天祥(ぶんてんしょう)*がドウ書いた

か、白楽天*がドウ書いたかと思っていろいろ調べて、しかる後に書いた

文よりも、自分の心のありのままに、仮名の間違いがあろうが、文法に合

うまいが、かまわないで書いた文の方が、私が見ても一番良い文章であ

って、外の人が評してもまた一番良い文章であるといいます。文学者の

秘訣は、そこにあります。

   (*文天祥―南宋末の忠臣〔1238~82〕。著書に『文山集』がある。

    元兵にとらえられて屈せず、生命を捨てて節を守ったこと、

        獄中で作った「正気の歌」で知られる。*下の肖像画

                            Photo_4


   (*白楽天―白居易〔772~849年〕のこと。楽天は字。唐の詩人。

         「長恨歌」「琵琶行」など、その詩は流麗かつ平易、広く愛誦され、

    『白氏文集』とともに、平安朝以来、日本文学にも影響を及ぼして

    いる。*下の肖像画)                        Photo_5

  こういう文学ならば、われわれ誰でも遺すことができる。それゆえに有難

いことでございます。

  もし、われわれが事業を遺すことができなければ、われわれに神様が

言葉というものを下さいましたからして、われわれ人間に文学というものを

下さいましたから、われわれは、文学をもって、われわれの考えを後世に

遺して逝くことができます。   【つづく】

 

 

 

 

 

 

2012年12月14日 (金)

後世への最大遺物(9)

  トーマス・グレイ(*下の写真)という人は有名な学者で、彼の時代の

人で、彼くらい、すべての学問に達していた人は、ほとんどなかったそ

うであります。

                         Photo

  イギリスの文学者中で博学、多才といったならば、たぶんトーマス・

グレイであったろうという批評であります。

  しかしながら、トーマス・グレイは、何を遺したか。彼の書いた本は、

一つに集めたらば、たぶんこんなくらい(手真似にて)の本で、ほとんど

二百ページか、三百ページでありましょう。

  しかし、そのうち、これぞというて大作はありませぬ。トーマス・グレイ

の後世への遺物は、何もない。ただ、Elegy(挽歌)という三百行ばかり 

の詩でありました。



  グレイの四十八年の生涯というものは、Elegyを書いて終わってしまっ

たのです。

  しかしながら、たぶんイギリスの国民の続く間は、イギリスの国語が話

されている間は、Elegyは消えないでしょう。

  この詩ほど多くの人を慰め、ことに多くの貧乏人を慰め、世の中にまっ

たく容れられない人を慰め、多くの志を抱いて、それを世の中に発表す

ることのできない者を慰めたものはない。

  この詩によって、グレイは、万世を慰めつつある。

  われわれは、実にグレイの運命を羨むものであります。すべての学問を

四十八年間も積んだ人が、ただ三百行くらいの詩を遺して死んだと言うて

は小さいようでございますが、実にグレイは大事業をなした人であると思

います。



  有名なるヘンリー・ビーチャー*が言った言葉に・・・・私は、決してビー

チャーが、小さいことを針小棒大にして言うた言葉ではないと思います。

・・・「私は、六十年か七十年の生涯を私のように送りしよりも、むしろ

チャールス・ウェスレー*の書いた”Jesus,Lover  of  my  soul  ”の

讃美歌篇を作った方がよい」と申しました。

  (*ヘンリー・ビーチャー―Henry  Ward  Beecher〔1813~87〕アメリカ

       のプロテスタント教会の牧師、編集者、雄弁なる説教師として

      知られる。奴隷制度廃止を強く主張した。『アンクル・トムス・キャビン

        の作者ストウ夫人〔1811~96〕の弟   *下の写真)

             Photo_3

 
(*チャールス・ウェスレー―John  Wesley〔1707~48〕 イギリスの牧師、
 

       讃美歌の作詞者。メソジスト教会の創立者ジョン・ウェスレー John

       Wesley  の弟。  数多くの讃美歌を残しているが、この”Jesus,

        Lover  of  my  soul ”(「わが魂を愛するイエスよ」は、彼の代表作で

      あるばかりでなく、英語讃美歌の中でも最も有名なものの一つ。

       *下の写真)

                           Photo_4


  ちょっと考えてみると、これは、ただチャールス・ウェスレーを尊敬する

余りに発した言葉であって、決してビーチャーの心の中から出た言葉では

ないように思われます。

 しかしながら、ウェスレーのこの歌を、いく度か繰り返して歌ってみまし

て、どれだけの心情、どれだけの趣味、どれだけの希望が、その内にあ

るかを見る時には、あるいは、ビーチャーの言ったことが本当であるかも

知れないと思います。

  ビーチャーの大事業も、決してこの讃美歌ほどの事業をなしていない

かも知れませぬ。

  それゆえに、もしわれわれに思想がありますならば、もしわれわれが、

それを直接に実行することができないならば、それを紙に写しまして、

これを後世に遺しますことは、大事業ではないかと思います。文学者の 

事業というものは、それゆえに羨むべき事業である。




  こういう事業ならば、あるいはわれわれも行なってみたいと思う。

こう申しますると、諸君の中には、またこう言う人があります。

  「ドウモ、しかしながら文学などは、私らには、とてもできない、ドウモ、

私は今まで、筆を執ったことがない。また私は学問が少ない、とても私

は文学者になることはできない」。

  それで『源氏物語』を見て、とてもこういう流暢なる文は書けないと思い、

マコーレー*の文を見て、とてもこれを学ぶことはできぬと考え、山陽の文

を見て、とてもこういうものは書けないと思い、ドウしても私は文学者に

なることはできないと言って失望する人がいる。文学者は、特別の天職

を持った人であって、文学は、とてもわれわれ平凡な人間にできること

ではないと思う人がいます。

(*マコーレー―Thomas  Babington  Macaulay〔1800~59〕 イギリスの

       歴史家、政治家。『英国史』全五巻”History  of  England”とその

        流麗な文体で名声を博した。)




  その失望は、どこから起こったかというと、前にお話しした柔弱なる考

えから起こったのでございます。すなわち、『源氏物語』的な文学思想か

ら起こった考えであります。 

                        Photo_6

         


  文学と言うものは、ソンナものではない。文学というものは、われわれ

の心のありのままをいうものです。




  ジャン・バンヤン*という人は、チットモ学問のない人でありました。

もし、あの人が読んだ本があるならば、タッタ二つでありました。すなわち

『バイブル』と、フォックス*の書いた『ブック・オブ・マータース』(”Book 

of  Martyrs”)という、この二つでした。

   (*ジョン・バンヤン―John  Banyan〔1628~88〕イギリスの宣教者。

       鋳掛屋の子として生まれ、父業をついだが、ピューリタン革命の際、

   クロムウェルの率いる議会軍の兵となる。除隊後、信仰に目覚め、

   聖書に親しみ、牧師となった。その聖書の知識は、生きたコンコー

   ダンス〔語句索引〕のようであったという。

         王制復古下で秘密集会禁止法にふれて、投獄され、一六六○年

     からの十二年間獄中にあったが、その間、『溢れる恩寵』を書き、

       七五年、再投獄された際、主著『天路歴程』を構想した。

        *下の写真)

                    Photo_7

  (*フォックス―John   Fox 〔1516~87〕  イギリスの殉教史家。

        バンヤンは、聖書とフォックスの著『殉教者の書』  の二つを、

        主要な伴侶としたが、彼が用いた『殉教者の書』 の余白には、

       今でも、読める書き込みがあり、勇敢な殉教者に対する敬意と

          悪魔の国に対する仮借なき敵意とが、綴り違いの文言で

           記されているという。)   

         

  今ならば、このような本を読む忍耐力のある人はない。私は、札幌にて、

それを読んだことがある。

  十ページくらい読むと、後は読む勇気がなくなる本である。ことに、

クェーカーの書いた本でありますから、文法上の誤謬がたくさんある。

しかるに、バンヤンは、初めから終わりまで、この本を読んだ。彼は、

申しました。

  「私は、プラトンの本もアリストテレスの本も読んだことはない。ただイエ

ス・キリストの恩恵(めぐみ)にあずかった憐れなる罪人であるから、ただ

わが思うそのままを書くのである」と言って、“Pilgrim's  Pogress“(『天路

歴程』)という有名なる本を書いた。


  それで、たぶんイギリス文学の批評家中で第一番という人・・・この間

死んだフランス人、テーヌという人であります。
   
  その人がバンヤンのこの著を評して何と言っているかというと「たぶん

純粋という点から英語を論じた時には、ジョン・バンヤンの”Pilgrim's

Progress“に及ぶ文章はあるまい。これは、まったく外からの雑(まじ)

りのない、もっも純粋なる英語であるだろう」と申しました。

  そうして、かくも有名なる本は何であるかというと、無学者の書いた本

であります。

  それで、もしわれわれに、ジョン・バンヤンの精神がありますならば、

すなわち、われわれが他人から聞いたつまらない説を伝えるものでなく、

自分の拵(こしら)えた神学説を伝えるのではなくして、私はこう感じた、

私はこう苦しんだ、私はこう喜んだ、ということを書くならば、世間の人は、

ドレだけ喜んで読むか知れませぬ。

  今の人が読むのみならず、後世の人も実に喜んで読みます。バンヤン

は、実に「真面目なる宗教家」であります。心の実験を真面目に表わした

ものが英国第一等の文学であります。



  このことによって、われわれの中に文学者になりたいと思う観念を持つ

人がいますならば、バンヤンのような心を持たなくてはなりません。彼の

ような心を持ったならば、実に文学者になれぬ人はないと思います。

【つづく】

2012年12月13日 (木)

後世への最大遺物(8)

   イギリスに、今からして二百年前に、痩(やせ)ッこけて丈(せい)の低い、

しじゅう病身な一人の学者がおった。 

  それで、この人は世の中に知られないで、何も用のない者と思われて、

しじゅう貧乏して、裏店のようなところに住まっていた。

 

  かの人は、何をするかと人に言われるくらい、世の中に知られない人で、

何もできないような人であったが、彼は、一つの大思想を持った人であり

ました。 

  その思想というは、人間というものは、非常に価値のあるものである、

また一個人というものは国家よりも大切なものである、という大思想を持っ

ていた人であります。

 

 それで、十七世紀の中ごろにおいては、その説は、社会にまったく容れ

られなかった。 

 その時分には、ヨーロッパでは、主義は国家主義と定(き)まっておった。

イタリアなり、イギリスなり、フランスなり、ドイツなり、みな国家的精神を養

わなければならぬとて、社会はあげて、国家という団体に思想を傾けてお

った時でございました。

 

  その時に当たって、どのような権力のある人であろうとも、彼の信ずると

ころの、個人は国家より大切であという考えを世の中にいくら発表しても、

実行のできないことは分かり切っておった。

 

  そこで、この学者は、秘かに裏店に引っ込んで本を書いた。この

人は、ご存知でありましょう、ジョン・ロック*であります。その本は、

”Human  Understanding(人間知性論)”(*下の写真)であります。

                          Photo

(*ジョン・ロック―John  Locke〔1632~1704〕  クロムウェルの革命、

    チャールズ二世の王政復古、名誉革命の継起した時代に生きた

     イギリスの哲学者、政治思想家、経験論の代表者。

          主著”An  Essay  Concerning  Human  Understanding”〔人間

   知性論〕は、近世の認識論の端緒を開いた。

       政治論では、専制政治に反対し、国民の自由と政治的秩序との

        調和を論じ、三権分立を主張した。

           “Two treaties  of   Government“〔政府二論〕、とりわけ、その

       後編に当たる『市民政府論』は、アメリカ独立宣言の原理的核心と

    なり、フランス革命にも大きな影響を及ぼした。*下の写真

                        J


  しかるに、この本がフランスに往きまして、ルソーが読んだ。モンテス

キューが読んだ。ミラボーが読んだ。 

  そうして、その思想がフランス全国に行きわたって、ついに一七八九年、

フランスの大革命が起こってきまして、フランスの二千八百万の国民を

動かした。(*下の写真は、上からルソー、モンテスキュー、ミラボー)

                           Photo_4
                            Photo_5

             Photo_6



  それがために、ヨーロッパ中が動きだして、この十九世紀の初めにおい

ても、ジョン・ロックの著書で、ヨーロッパが動いた。それから、合衆国が生

まれた。それから、フランスの共和国が生まれてきた。それから、ハンガリ

ーの改革があった。それから、イタリアの独立があった。 

  実に、ジョンロックがヨーロッパの改革に及ぼした影響は甚大であります。

その結果を、日本でお互いが感じている。

 

  われわれの願いは何であるか、個人の権力を増そうというのではないか。

われわれは、このことをどこまで実行することができるか、それはまだ問題

でございますけれども、何しろ、これが、われわれの願いであります。

  もちろん、ジョン・ロック以前にも、そういう思想を持った人はあった。

しかしながら、ジョン・ロックは、その思想を形に顕(あら)わして、

“Human  Understanding”という本を書いて死んでしまった。

  しかし、彼の思想は、今日、われわれの中に働いている。ジョン・ロック

身体も弱いし、社会の地位も低くあったけれども、彼は、実に今日の

ヨーロッパを支配する人となったと思います。



  それゆえに、思想を遺すということは、大事業であります。もし、われわ

が事業を遺すことができぬならば、思想を遺して、そして将来に至って、

われわれの事業を成すことができると思う。

  そこで、私は、ここで、ご注意を申しておかねばならぬことがある。われ

われの中に、文学者という奴がいる。誰でも、筆を把(と)って、そうして

雑誌か何かに批評でも載すれば、それが、文学者だと思う人がいる。

  それで、文学というものは、惰(なま)け書生の一つの玩具(おもちゃ)に

っている。誰でも、文学は出来る。

  それで、日本人の考えに、文学というものは、まことに気楽なもののよ

うに思われる。

 山に引っこんで文筆に従事するなどは、実に羨ましいことのように考え

られている。

  福地源一郎君*が不忍の池のほとりに別荘を建てて、日蓮上人の脚

本を書いている。それを、外から見ると、たいそう風流に見える。

  (*福地源一郎―ジャーナリスト、作家、政治家、福地桜痴の本名。
 

        文久元年〔一八六一年〕、遣欧使節に同行、帰国後の明治元年

    〔1868年〕『江湖新聞』を発行、その後『東京日日新聞』の主筆、

         社長となった。

           おびただしい数にのぼる脚本、小説を残しているが、『日蓮記』

 は、その一つ。他に、『幕府衰亡論』などの著書もある。*下の写真)   

                              Photo_2


  また、日本人が文学者という者の生涯はどういう生涯であるだろうと思

うているかというに、それは絵ゾウ紙屋へ行ってみるとわかる。どういう

絵があるかというと、赤く塗ってある御堂の中に美しい女が机の前に座

っておって、向こうから月の上ってくるのを筆を翳(かざ)して眺めている。

  これは、何であるかというと、紫式部の源氏の間である。

これが、日本流の文学者である。

  しかし、文学というものがコンナものであるならば、文学は、後世への

遺物ではなくして、かえって後世への害物である。

  なるほど、『源氏物語』という本は、美しい言葉を、日本に伝えたもので

あるかも知れませぬ。

  しかし、『源氏物語』が、日本の士気を鼓舞するために何をしたか。

何もしないばかりでなく、われわれを女らしき意気地なしになした。

あのような文学は、われわれの中から、根コソギに絶やしたい(拍手)。

  あのようなものが文学ならば、実にわれわれは、カーライルとともに、

文学というものには一度も手をつけたことがないということを、世界に向

って誇りたい。

  文学は、ソンナものではない。文学は、われわれが、この世界に戦争

する時の道具である。今日、戦争することはできないから、未来において

戦争しようというのが文学であります。



  それゆえに、文学者が机の前に立ちます時には、すなわちルーテルが

ウォルムスの会議に立った時、パウロ*がアグリッパ王の前に立った時、

クロムウェルが剣を抜いてダンバーの戦場に臨んだ時と同じことであり

ます。

 *パウロ―Paulus   初代キリスト教の最大の使徒。

   彼の書いた 「ローマ人への手紙」以下十数通の手紙は、新約

    聖書の主要部分を占め、キリスト教の中心的文書をなしている。

 *下の写真)

                       Photo_3

  この社会、この国を改良しよう、この世界の敵なる悪魔を平らげようとの

目的をもって戦争するのであります。

  ルーテルが室(へや)の中に入って、何か書いておった時に、悪魔が出

て来たゆえに、ルーテルは、インクスタンドを取って、それにぶッつけたと

いう話がある。

  歴史家に聞くと、これは本当の話ではないと言います。しかしながら、

これが文学です。

 われわれは、他のことで事業をすることができないから、インクスタンド

を取って、悪魔にぶッつけてやるのである。

  事業を今日なさんとするのではない。将来未来まで、われわれの戦争を

続ける考えから、事業を筆と紙とに遺して、そうして、この世を終わろうと

いうのが、文学者の持っているAmbitionであります。

  それで、その贈物(おくりもの)、われわれが、われわれの思想を筆と

紙とに遺して、これを将来に贈ることが、実に文学者の事業でありまして、

もし神が、われわれに、このことを許しますならば、われわれは感謝して、

この贈物を遺したいと思う。


  有名なるウォルフ将軍*がケベックの市(まち)を取る時に、グレイ*の

Elegy(『挽歌』)を歌いながら言った言葉があります。すなわち、「このケベ

ックを取るよりも、われわれは、むしろこのElegyを書かん」と。

  もちろん、Elegyは、過激な、いわゆるルーテル的な文章ではない。

しかしながら、これがイギリス人の心、ウォルフ将軍の心を、どれだけ

慰めたか、実に今日までのイギリス人の勇気を、どれだけ励ましたか

知れないのです。  【つづく】

  (*ウォルフ将軍―James   Wolfe 〔1727~59〕  イギリスの陸軍将校。

        1759年 ケベック討征隊の指揮をとり、モントカームでフランス軍を

         敗走させ、イギリスの北米征服を全うしたが、このとき致命傷を

         負った。当時33歳。グレイの『挽歌』出版後9年目のことである。)

   (*グレイ―Thomas  Gray 〔1716~71〕  イギリスの抒情詩人。

        「ヨーロッパ随一」とさえ言われた学者、ケンブリッジ大学の近代

    史近代語教授でもあった。ここにいうエレジィ(Elegy)とは、「田舎

    の墓地で詠んだ挽歌」のこと。)

 

 

 

 

 

 

2012年12月11日 (火)

後世への最大遺物(7)

   第二回

 

   昨晩は、後世へ、われわれが遺して逝くべきものについて、まず第一に、

のことの話をいたし、その次に、事業のお話をいたしました。

 

  ところで、金を溜める天才も無し、また、それを使う天才も無し、かつ

また事業の天才も無し、また事業をなすための社会の地位も無い時には、

われわれが、この世において、何をいたしたらよろしかろうか。

  事業をなすには、われわれに神から受けた特別の天才が要るばかりで

なく、また社会上の地位が要る。

 

  われわれは、ある時は、かの人は天才があるのに、何故なんにもしない

でいるかと言って、人を責めますけれども、それは、たびたび起こる酷な

責め方だと思います。

 

  人は地位を得ますと、ずいぶんつまらない者でも、大事業をいたすもの

であります。 

 地位がありませんとエライ人でも志を抱いたまま、空しく山間に終わって

った者も、たくさんあります。 

                        Photo_7

  それゆえに、事業をもって人を評することができないことは、明らかなる

ことだろうと思います。

 

  それゆえ、私に事業の天才も無し、また、これをなすの地位も無し、友達

も無し、社会の賛成も無かったならば、私は、身を滅して死んでしまい、

世の中に何も遺すことはできないかという問題が起こってくる。

 

  それで、もし私に金を溜めることができず、また社会が私に事業をするこ

とを許さないとしましても、私は、まだ一つ、遺すものを持っています。 

  それは、何であるかというと、私の思想です。

 

  もし、この世の中において、私が私の考えを実行することができなければ、

私は、これを実行する精神を筆と墨とをもって、紙の上に遺すことができる。

あるいは、そうでなくても、それに似たような事業がございます。

 

  すなわち、私が、この世の中に生きている間に、事業をなすことができな

ければ、私は、青年を薫陶して私の思想を若い人に注いで、そうして、

その人をして、私の事業を成さしめることができる。

 

  すなわち、これを短く言いますれば、著述をするということと学生を教える

ということであります。著述をすることと教育のことと二つを、ここで論じたい。

(*下は、内村鑑三の言葉)             Photo_6

  しかし、だいぶ時がかかりますから、ただ、その第一、すなわち思想を遺

すということについて、私の文学的観察をお話ししたいと思います。

 

  すなわち、われわれの思想を遺すには、今の青年(*下の写真は、当時

の青年の一人・矢内原忠雄)に、われわれの志を継いでゆくも一つの方法

でございますけれども、しかしながら、思想そのものだけを遺してゆくには、

文学によるほかない。

                     Photo_9

  それで、文学というものの要は、まったくそこにあると思います。文学と

いうものは、われわれが心に常に抱いているところの思想を後世に伝える

道具に相違ない。

 

 それが、文学の実用だと思います。それで、思想の遺物というものの大

なることは、われわれは誰も、よく知っていることであります。

 

  思想がこの世の中で実行されたものが事業です。われわれが、この世

の中で実行することができないからして、種子(たね)だけを播いて逝こう、

「われは恨みを抱いて、憤慨を抱いて地下に下らんとすれども、汝らわれ

の後に来る人々よ、折あらば、わが思想を実行せよ」と、後世へ言い遺す

のである。それで、その遺物の大いなることは、実に著しいものであります。



  われわれがよく知っているとおり、二千年ほど前にユダヤのごくつまらな

い漁夫や、あるいはまことに世の中に知られない人々が『新約聖書』(

下の写真)いう僅かな書物を書いた。

                       Photo

  どうして、この小さな本が、ついに全世界を改めたということは、ここに

いる人にお話しするほどのことはない、みなご存知であります。

 

  この山陽(*下の写真)という人は、勤皇論を作った人であります。

先生は、ドウしても日本を復活するには、日本をして一団体にしなけれ

ばならぬ。

                    Photo_3

 

   一団体にするには、日本の皇室を尊んで、それで徳川の封建政治を

やめてしまって、それで今日いうところの王朝の時代にしなければなら

ぬという大思想を持っておった。

 

  しかしながら、山陽は、それを実行しようと思ったけれども、実行すること

ができなかった。

  山陽ほどの先見のない人は、それを実行しようとして、戦場の露に消え

てしまったに相違ない。

 

  しかし、山陽は、ソンナ馬鹿ではなかった。彼は、彼の在世中、とてもこ

のことのできないことを知っていたから、自身の志を『日本外史(*下の

写真)に述べた。 

  そこで、日本の歴史を述べるに当っても、特別に王室を保護するように

は書かなかった。

                     Photo_2

  外家(がいか)の歴史を書いて、その中に、はっきりと言わずとも、勤皇

の精神を持って、源平以来の外家の歴史を書いて、われわれに遺して

れた。

 

  今日の王政復古を持ち来(きた)した原動力が何であったかと言えば、

多くの歴史家が言う通り、山陽の『日本外史』が、その一つであることは、

よく分かっている。 

  山陽(*下の写真)は、その思想を遺して、日本を復活させた。

            Photo_10

  今日の王政復古前後の歴史を、ことごとく調べてみると、山陽の功の

非常に多いことがわかる。私は、山陽の他のことは知りませぬ。

 

  かの人(=山陽)の私行については、二つ三つ不同意なところがあります。 

彼の国体論や兵制論については不同意であります。 

  しかしながら、彼山陽の一つのAmbition、すなわち「われは今世に望む

ところはないけれども、来世の人に大いに望むところがある」といった彼

の欲望は、私が、実に彼を尊敬してやまざるところであります。

 

  すなわち、山陽は『日本外史』を遺物として死んでしまって、骨は洛陽

東山に葬ってありますけれども(*下の写真『日本外史』から、新日本

国は生まれてきました。  【つづく】

            Photo_5

2012年12月10日 (月)

後世への最大遺物(6 )

  大阪の天保山を切ったのも、近頃のことでございます。かの安治川

(あじがわ*下の写真は、今日の安治川)切った人は、実に日本に

とって、非常な功績をなした人であると思います。

          Photo_5

  安治川があるために、大阪の木津川の流れを、北の方に取りまして、

水を速くして、それがために、水害の患(うれい)を取り除いてしまったばか

りでなく、深い港を拵(こしら)えて九州、四国から来る舟をことごとく

アソコに繋ぐようになったのでごございます。

 

  また秀吉の時代に切った吉野川は、昔は大阪の裏を流れておって、

人民を悩ましたのを、堺と住吉の間に開鑿(かいさく)しまして、それがた

めに、大和川の水害というものがなくなって、何十ヶ村が大阪の城の後ろ

にできました。これまた、たいへんな事業です。

 

  それから、有名な越後の阿賀野川(*下の写真)を切ったことでござい

ます。実に、エライ事業でございます。 有名な新発田(しばた)の十万石、

今は日本において、たぶん富の中心点であるだろうという所でございます。 

                     Photo_6

  これらの大事業を考えてみる時に、私の心の中に起こるところの考えは、

もし金を後世に遺すことができぬならば、私は、事業を遺したいとの考え

です。

 

  また土木事業ばかりでなく、その他の事業で、もしわれわれが精神を籠

(こ)めてする時は、われわれの事業は、ちょうど金に利息がつき、利息に

利息が加わってきて、だんだん多くなってくるように、一つの事業がだん

だん大きくなって、終わりには、偉大なる事業となります。



  事業のことを考えます時に、私はいつでも、有名なデビット・リビングス

トン(*下の写真)のことを思い出さないことはない。

                     D


 (*デビッド・リビングストン―David  Livingstone〔1813~73〕  スコットラ

ンド生まれの宣教師、アフリカ探検家。1841年以降、30年間にわたって、

アフリカ大陸の三分の一に相当する領域を精査、ザンベジ川、ヴィクトリア

瀑布(*下の写真)、ムウェル湖、バングウェーウール湖などを発見した。 

  1871年、熱病にかかり静養中、スタンレーと再会。探検続行中に病死。)

           Photo_7
                  Photo_2


             Photo_3

  それで、諸君の内、英語のできる方に、私はスコットランドの教授ブレーキ

の書いた”Life  and  Letters  of  David  Livingstone”という本を読んでごら

んなさることを勧めます。 

  私一個人にとっては、聖書のほかに、私の生涯に大刺激を与えた本が、

二つあります。 

  一つは、カーライルの『クロムウェル伝』であります。そのことについては、

私は、後でお話をいたします。 

  それから、その次に、このブレーキ氏の書いた『デビッド・リビングスト

ン』という本です。

 

 それで、デビッド・リビングストンの一生涯は、どういうものであったかと

いうと、私は、彼を宗教家あるいは宣教師と見るよりは、むしろ大事業家

として尊敬せざるをえません。 

  もし、私は、金を溜めることができなかったならば、あるいはまた、大事

業を起こすことができぬならば、私は、デビッド・リビングストンのような

事業をしたいと思います。

 

  この人は、スコットランドのグラスゴーの機屋(はたや)の子でありまして、

若い時からして、公共事業に非常に注意しました。

  「どこかに、私は」・・・デビッド・リビングストンが考えまするに・・・・「どこ

かに、私は、事業を起こしてみたい」という考えで、初めは支那に往きた

いという考えでありまして、その望みをもって英国の伝道会社に訴えて

みたところが、支邦に遣(や)る必要がないといって許されなかった。

  ついにアフリカに入って、三十七年間、己れの生命をアフリカのために

差し出し、初めのうちは、主に伝道をしておりました。

 

  けれども、彼は考えました、アフリカを永遠に救うには、今日は伝道では

いけない、と。 

  すなわち、アフリカの内地を探検して、その地理を明らかにし、これに貿

を開いて、勢力を与えねばいけぬ、そうすれば、伝道は商売の結果とし

て、必ず来るに相違ない。 

そこで、彼は、伝道を止(や)めまして、探検家になったのでございます。

  彼は、アフリカを三度、縦横に横切り、わからなかった湖水もわかり、

今までわからなかった河の方向も定められ、それがために、種々の大事

業も起こってきた。

 

  しかしながら、リビングストンの事業は、それで終わらない。それは、

スタンレー(*下の写真)探検となり、ペーテルス*の探検となり、

チェンバレンの探検となり、今日の、いわゆるアフリカ問題にして、一つ

として、リビングストンの事業に原因せぬものはないのでございます。 

          Photo_4

  (*スタンレー―Sir  Henry Morton  Stanley〔1841~1904〕  ウェール

       ズ 生まれのジャーナリスト、アフリカ探検家。南北戦争の従軍記者

   を 経て、1867年、 『ニューヨーク・ヘラルド』紙の特派員となり、69年、

     リビングストンの存否を探るため、アフリカに特派された。71年、タンガ

     ニイカ湖畔のウジジで、リビングストンの生存を確認、一大スクープと

     して世界をわかせた。 

        ”Dr.Livingstone,I presume.”〔「リビングストン博士ですね」〕の出会い

      の挨拶でも有名。 

      その後も探検を続け、77年、コンゴ川を下って河口に至り、大陸横

       断旅行を完了。

         ベルギーのレオポルド二世の下でコンゴ開発に手をつけ、コンゴ自

   由国〔1885~1908〕の基礎を築いた。



     *ペーテルス―Karl  Peters〔1856~1918〕 ドイツの探検家、政治家、

   旧ドイツ領 東アフリカ創設者の一人。1887年、スーダン最南部で孤立

   していたエミン・パシャ救援隊を率いて、この地に入り、翌年、先に到

   着して、エミン・パシャを救援していたスタンレーと邂逅。1890年には、

   ウガンダまで、探検の歩をのばしている。)



   コンゴ自由国、すなわち欧米九ヶ国が同盟しまして、プロテスタント主義

の自由国を、アフリカの中心に立つるに至ったのも、やはりリビングストン

の手によったものと言わなければなりませぬ。 



  今日の英国は、エライ国である。今日のアメリカの共和国は、エライ国で

あると申しましたが、それは、何から始まったかとたびたび考えてみる。

  それで、私は、尊敬する人について少しく偏するかも知れませんぬが、

もし偏しておったならば、そのように裁判(=判断)を願います。

  けれども、私の考えまするには、今日のイギリスの大なるわけは、イギリ

スにピューリタンという党派が起こったからであると思います。

  アメリカに今日のような共和国の起こったわけは何であるか、イギリスに

ピューリタンという党派が起こったゆえである。

  しかしながら、この世にピューリタンが大事業を遺したといい、遺しつつ

あるというのは、何のわけであるかというと、何でもない。この中に、ピュー

リタンの大将がいたからである。

  そのオリバー・クロムウェル(*下の写真)という人の事業は、彼が政権

を握ったのは、わずか五年でありましたけれども、彼の事業は、彼の死と

ともに、全く終わってしまったように見えますけれども、決してソウではない。

                  Photo

  クロムウェルの事業は、今日のイギリスを作りつつあるのです。

それのみならず、クロムウェルの理想に達するには、まだズッと未来にあ

ることだろうと思います。

  彼は、死後に「英国」というものを遺した。「アメリカ合衆国」というものを

遺した。

 アングロサクソン民族がオーストラリアを従え、南アメリカに権力を得て、

南北アメリカを支配するようになったのも、彼の遺蹟と言わなければなり

ませぬ。  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年12月 8日 (土)

後世への最大遺物(5)

 それで、後世への最大遺物の中で、まず第一に大切なものは何であ

かというに、私はだと言うて、その金の必要を述べた。 

  しかしながら、何人も金を溜める力を持っておらない。私は、これは、

やはり一つのGenius(天才)ではないかと思います。私は、残念ながら、

この天才を持っておらぬ。

 

  ある人が申しまするに、金を溜める天才を持っている人の耳は、たいそ

う膨れて、下の方に垂れているそうですが、私は鏡に向かって見ましたが、

私の耳は、たいそう縮んでおりますから、その天才は、私には無いとみえ

ます。(大笑)

 

  私が今まで教えました生徒の中に、非常に、この天才を持っている者

がいる。 

 ある奴(やつ)は、北海道(*下の写真は、今日のトウモロコシ畑と、

札幌市時計台)に一文無しで追い払われたところが、今は、私に十倍す

富を持っている。「今に俺が貧乏になったら、君は、俺を助けろ」と言う

ておきました。

          Photo

                          Photo_2


  実に、金儲けは、やはり他の職業と同じように、ある人たちの天職である。 

誰でも金を儲けることができるかということについては、私は疑います。 

  それで、金儲けのことについては、余り関わってはならぬような人が金を

儲けようといたしますと、非常に穢(きた)なくなります。

 

  そればかりではない。金は後世への最大遺物の一つでございますけれ

ども、遺しようが悪いと、ずいぶん害をなす。 

  それゆえに、金を溜める力を持った人ばかりでなく、金を使う力を持った

人が出てこなければならない。

  かの有名なるグールド*のように、彼は生きている間に二千万ドルを

溜めた。 

 (*グールド―Jay(Jayson ) Gould 〔1836~92〕 アメリカの鉄道企業家、

金融業者。 

    強引な企業買収、金投資で、その名をとどめている。1869年9月の

“暗黒の金曜日”、 金暴落の原因は、彼の投機にあったという。)

 

  そのために、彼の親友四人までを自殺せしめ、アチラの会社を引き倒し、

コチラの会社を引き倒して二千万ドル溜めた。 

  ある人の言に、「グールドは、一千ドルとまとまった金を、慈善のために

出したことはない」と申しました。 

  彼は、死ぬ時に、その金をどうしたかというと、ただ自分の子供に、それ

を分け与えて、死んだだけでありました。

                             Photo_3

  すなわち、グールドは、金を溜めることを知って、金を使うことを知らぬ人

であった。

 それゆえに、金を遺物としようと思う人には、金を溜める力と、またその

金を使う力とがなくてはならぬ。この二つの考えのない人、この二つの考

えについて十分に決心しない人が、金を溜めるということは、はなはだ危

険なことだと思います。


  さて、私のように金を溜めることの下手な者、あるいは溜めても、それが

使えない人は、後世の遺物に何を遺そうか。私は、とうてい金持ちになる

望みはない、ゆえに、ほとんど十年前に、その考えをば、捨ててしまった。

 

  それでもし、金を遺すことができませぬならば、何を遺そうかという実際

問題が出てきます。 

  それで、私が金よりも良い遺物は何であるかと考えて見ますと、事業です。 

事業とは、すなわち金を使うこです。金は、労力を代表するものでありま

すから、労力を使って、これを事業に変じ、事業を遺して逝くことができる。

 金を得る力の無い人でも、事業家は、たくさんいます。

  金持ちと事業家は、二つの別物のように見える。商売する人と金を溜め

とは、人物が違うように見えます。

 

  大阪にいる人は、たいそう金を使うことが上手であるが、京都にいる人は、

金を溜めることが上手である。 

  東京の商人に聞いてみると、金を持っている人には商売はできない、金

の無い者が、人の金を使(つこ)うて事業をするのであると申します。

 

  純粋な事業家の成功を考えてみまするに、決して金ではない。グールド

は、決して事業家ではない。バンダービルト*も、決して事業家ではない。 

(*バンダービルト―Cornelius  Vanderbilt(1794~1877)  アメリカの運輸

       業者。 

        まず海運業で成功を収め、やがて鉄道に転じ、グールドとも対抗し

   て、々に鉄道を買収、巨万の富を築いた。バンダービルト大学を

   創設。 その遺産は、一億ドル以上とも評価された。)
 

  バンダービルトは、非常に金を作ることが上手でございました。そして、

彼は、他の人の事業を助けただけであります。 



  有名なカリフォルニアのスタンフォード*も、たいへん金を儲けることが

上手でありました。 

(*スタンフォード―Leland  Stanford(1824~93)  アメリカの資本家、

       政治家。 

        1861~63年、カルフォルニア州知事、85年以降、終生、上院議員を

      務めた。 鉄道を経営、スタンフォード大学〔*下の写真、下方の物は、

 2005年6月の卒業式で”伝説のスピーチ”をした

    スチーブ・ジョブ氏〕 を創設。)

                           Photo_7

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  しかしながら、そのスタンフォードに、三人の友人がおりました。その友人

ことは、面白い話でございますが、時が無いから、お話をしませんけれど

も、金を儲けた人と、金を使う人と、数々あります。

 

  それですから、金を溜めて金を遺すことができないならば、あるいは、

神が私に事業をなす天才を与えてくださったかも知れません。 

  もし、そうならば、私は、金を遺すことができませぬとも、事業を遺せば、

充分満足します。それで、事業をなすということは、美しいことであるは、

もちろんです。

 

  ドウいう事業が一番誰にもわかるかというと、土木的な事業です。 

私は土木学者ではありませんけれども、土木事業を見ることが非常に好き

ございます。 

  一つの土木事業を遺すことは、実にわれわれにとっても快楽であるし、

また永遠の喜びと富とを後世に遺すことではないかと思います。

 

  今日も、舟に乗って、湖水の向こうまで往きました。その南の方に当たっ

て水門がある。その水門というは、山の裾をくぐっている一つの隧道であり

ます。その隧道を通って、この湖水が沼津の方に落ちまして、二千石乃至

三千石の田地を灌漑していることを聞きました。

 

  昨日、ある友人に会(お)うて、あの穴を掘った話を聞きました。その話を

聞いた時に、私は実に嬉しかった。 

  あの穴を掘った人*は、今からちょうど六百年も前の人であったろうとい

うことでございますが、誰が掘ったか分からない。 

  (*あの穴を掘った人―この講演の前日、たまたま耳にした話の紹介で 

ある。 

  史実としては、この隧道・箱根用水〔*下の写真〕は、駿河国駿東郡深良

村の名主・大庭源之丞の発企により、江戸浅草の富商・友野与右衛門ら

の参画を得て、寛文六年(一六六六年)八月に着工、巨額の工費と大量の

人力を投じて、三年半後の寛文十年(一六七○年)二月に完成したことが

知られている。徳川第四代将軍家綱の時代のことである。)

         Photo_4
          Photo_5


  ただ、これだけの伝説が残っているのでございます。

すなわち、箱根のある近所に、百姓の兄弟がいて、まことに沈着であって、

その兄弟が、互いに相語(あいかたら)って言うに、「われわれは、この

有難き国に生まれてきて、何か後世に遺して逝かねばならぬ。それゆえに、

何かわれわれにできることをやろうではないか」と。

  しかし、兄なる者は言うた。「われわれのような貧乏人で、貧乏人には何

も遺して逝くことはできない」と言うと、弟が兄に向って言うには、「この山を

くり抜いて湖水の水をとり、水田を興してやったならば、それが後世への

大なる遺物ではないか」と言うた。

  兄は、「それは、非常に面白いことだ、それでは、お前は上の方から掘れ、

俺は、下の方から掘ろう。一生涯かかっても、この穴を掘ろうじゃないか」

と言って掘り始めた。

  それで、ドウいうふうにしてやりましたかと言うと、その頃は、測量機械も

無いから、山の上に標(しるし)を立てて、両方から掘っていったと見える。

  それから、兄弟が生涯かかって何もせずに・・・たぶん自分の職業になる

だけの仕事はしたでございましょう・・・兄弟して両方からして、毎年毎年

掘っていった。

  何十年でございますか、その年は忘れましたけれども、下の方から掘っ

てきた者は、湖水の方から掘って行った者の四尺上を往ったそうでござい

ます。

  四尺上を往きましたけれども、ご承知の通り、水は高うございますから、

やはり、竜吐水(りゅうどすい)のように向こうの方によく落ちるのです。

  生涯かかって人が見ておらない時に、後世に事業を遺そうというところ

の奇特な心より、二人の兄弟は大事業をなしました(*下の写真は、

当時の工事風景・・・昭和初期の映画より)

                          Photo_6

  人が見てもくれない、褒めてもくれないのに、生涯を費やして、この穴を

掘ったのは、それは、今日に至っても、われわれを励ます所業ではありま

せぬか。

  それから、今の五ヶ村が何千石だか、どれだけ人口があるかは忘れま

したが、五ヶ村が頼朝時代から今日に至るまで年々米を取ってきました。

  ことに湖水の流れる所でありますから、旱魃というようなことを感じたこ

とはございません。

  実に、この兄弟は幸せな人間であったと思います。もし、私が何もできな

いならば、私は、この兄弟を真似たいと思います。これは、驚くべき遺物

です。

  たぶん、今往ってみましたならば、その穴は、長さたぶん十町(*ほぼ、

1キロメートル)かそこらの穴でありましょうが、その頃は、煙硝もない、

ダイナマイトも無い時でございましたから、アノ穴を掘ることは、実に驚く

べきことでございましたろう。  【つづく】

 

 

 

2012年12月 7日 (金)

後世への最大遺物(4)

 アメリカの有名なるフィラデルフィアのジラード*というフランスの商人

が、アメリカに移住しまして、建てた孤児院を、私は見ました。これは、

世界第一番の孤児院です。 

*Stephen  Girard〔1750~1831〕 フランス生まれの金融家、慈善家。 

フィラデルフィアで貿易に従事して巨万の富を築き、S・ジラード銀行を 

設立。  

  1821年の英米戦争当時、戦債の95%を引き受けている。ほとんど 

すべての遺産を公共団体や施設に贈与、とりわけ「貧しい白人の男子 

孤児」のための施設「ジラード・カレッジ」の設立費にあてた。  

  「スチーブン・ジラードの話  米国最初の富豪、無神論者と称えられし 

孤児の友、愛国者にして人道の偉人、海員、商人、実業家の好模範」 

〔明治43年6月の講演〕で、内村鑑三は、さらに詳細に、この人の事績を

語っている。*下の写真は、今日のフィラデルフィア

             Photo_3
            Photo_4

  およそ小学生徒七百人ばかりおります。中学、大学くらいまでの孤児を

ズッと並べますならば、たぶん千人以上のように覚えました。

  その孤児院の組織を見まするに、われわれの今日日本にあるところの

孤児院のように、寄付金が足りないために事業がさしつかえるような孤

児院ではなくして、ジラードが生涯かかって溜めた金をことごとく投じて

建てたものです。 

  ジラードの生涯を書いたものを読んでみますと、何でもない、ただその

一つの目的持って金を溜めたのです。

 

  彼に子供はなかった。細君も早く死んでしまった。「妻はなし、子供はなし、

私には何にも目的はない。けれども、どうか世界第一の孤児院を建てて

やりたい」と言うて、一生懸命に働いて拵(こしら)えた金で建てた孤児院

でございます。

 

  その時分は、アメリカ開国の早い頃でありましたから、金の溜め方が、

今のように早くゆかなかった。 

  しかし、一生涯かかって溜めたところのものは、おおよそ二百万ドルば

かりでありました。それをもって、ペンシルベニア州に人の気のつかぬ

地面をたくさん買った。

 

  それで、死ぬ時に、「この金をもって二つの孤児院を建てろ。一つは、

俺を育ててくれたニューオリンズに建て、一つは、俺が住んだところの

フィラデルフィアに建てろ」と申しました(*下の写真は、今日のニュー

オリンズ)

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  それで、妙な癖があった人とみえまして、教会というものを、たいそう

嫌ったのです。 

 それで、「俺は別に、この金を使うことについて条件はつけないけれども、

俺の建てた孤児院の中に、デノミネーションすなわち宗派の教師は誰でも

入れてはならぬ」という稀代(きたい)な条件をつけて死んでしまった。

 

  それゆえに、今でもメソジストの教師でも、監督教会の教師でも、組合

教会の教師でも、 この孤児院に入ることは、お気の毒でございますけれ

ども、できませぬ(大笑)。

 

  この他は、誰でも、そこに入ることができる。それで、この孤児院の組織

のことは長いことでございますから、今ここにお話し申しませんけれども、

前に述べた二百万ドルをもって買い集めましたところの山です。

 

  それが、今日のペンシルベニア州における石炭と鉄とを出す山でござ

います。実に、今日の富は、ほとんど何千万ドルであるか分からない。 

  今は、どれだけ事業を拡張してもよい、ただただ拡張する人がいないだ

けです。 

 それで、もし諸君のうち、フィラデルフィアに往く方があれば、一番に、

まずこの孤児院に往ってみることをお勧め申します。



  また有名な慈善家ピーポディー*は、いかにして彼の大業を成したか

と申しまするに、彼が初めてベルモンテの山から出る時には、ボストン

に出て、大金持ちになろうという希望を持っておったのでございます。 

(*ピーボディ― George  Peabody 〔1795~1869〕 ロンドンで活躍した

アメリカ人銀行家、慈善家。1867年、200万ドルを、アメリカ合衆国南部の

公教育推進のための基金として提供した。その出生地、埋葬地である

マサチューセッツ州ピーボディ市に、その名を遺している。)

 

  彼は、一文なしで故郷を出てきました。それで、ボストンまでは、その

時分は、もちろん汽車はありませんし、また馬車があっても無銭(ただ)

では乗れませんから、ある旅籠屋(はたごや)の亭主に向かい「私は、

ボストンにまで往かなければならぬ。しかしながら、日が暮れて困るから、

今夜泊めてくれぬか」と言うたら、旅籠屋の亭主が、可愛想だから、 

泊めてやろう、と言うて喜んで引き受けた。(*下の写真は、今日のボス

トン)          Photo_7
                       Photo_8


  けれども、その時に、ピーボディは、旅籠屋の亭主に向かって、「無銭

(ただ)で泊まることは嫌だ。何かさせてくれるならば、泊まりたい」と

言うた。 

  ところが、旅籠屋の亭主は、「泊まるならば、自由に泊まれ」と言うた。 

しかし、ピーボディは、「それでは、済まぬ」と言うた。そうして、家を見渡

したところが、裏に薪がたくさん積んであった。

 

  それから、「御厄介になる代わりに、裏の薪を割らしてください」と言うて、

旅籠屋の亭主の承諾を得て、昼過ぎかかって夜まで薪を挽(ひ)き、これ

を割り、たいていこのくらいで旅籠費に足ると思うくらいまで働きまして、

そうして後に泊まったということであります。

 

  そのピーボディは、彼の一生涯を何に費やしたかというと、何百万ドル

という高は知っておりませんけれども、金を溜めて、ことに黒人教育のた

めに使った。

 

  今日、アメリカにおります黒人が、たぶん日本人と同じくらいの社交的

程度に達しておりますのは何であるかというに、それは、ピーボディのご

とき慈善家の金の結果であると言わなければなりません。 

  私は、金のためにはアメリカ人はたいへん弱い、アメリカ人は金のた

めにはだいぶ侵害された民であるということを知っております。

 

  けれども、アメリカ人の中に金持ちがおりまして、彼らが、清き目的を

もって金を溜め、それを清きことのために用いるということは、アメリカの

今日の盛大をいたした大原因であるということだけは、私も解かって帰っ

てきました。

 

  それで、もし、われわれの中にも、実業に従事する時に、こういう目的

をもって、金を溜める人が出てきませぬ時には、本当の実業家は、われ

われの中には起こりませぬ。  

  そういう目的をもって実業家が起こりませぬならば、彼らはいくら起こ

っても国の益になりませぬ。

 

  ただただ憲法発布式の時に貧乏人に一万円・・・・一人に五十銭か六十

銭くらいの頭割をなしたというような、ソンナ慈善はしない方がかえってよ

いです。 

  三菱のような何千万円というように金を溜めまして、今日まで・・・・これ

から三菱は、善い事業をするかと信じておりますけれども・・・・今日まで

何をしたか。

 

  彼自身が大いに勢力を得、立派な家を建て(*下の写真・・岩崎邸)

立派な別荘を建てましたけれども、日本の社会は、それによって何か

利益を得たかというと、何ひとつとして見るべきものはないのです。 

        Photo_2 

  それで、キリスト教信者が立ちまして、キリスト信徒の実業家が起こりま

して、金を儲けることは、己れのためにもうけるのではない、神の正しい道

によって、天地宇宙の正当なる法則に従って、富を国家のために使うので

あるという実業の精神が、われわれの中に起こらんことを、私は願う。 

  そういう実業家が今日、わが国に起こることは、神学生徒の起こること

よりも、私の望むところでございます。

 

  今日は、神学生徒がキリスト信者の中に十人あるかと思うと、実業家は

一人もいないのです。百人いるかと思うと実業家は、一人もいない。 ある

いは千人いるかと思うと、一人いるかいないかというくらいであります。 

  金をもって神と国とに事(つか)えようという清き考えを持つ青年がいない。

 

 よく話に聴きまする、かの紀伊国屋文左衛門(*下の絵)が百万両溜め

て百万両使ってみようなどという賤しい考えを持たないで、百万両溜めて、

百万両、神のために使ってみようというような実業家になりたい。

             Photo_9

 そういう実業家が欲しい。
その百万両を国のために、社会のために遺し

て逝こうという希望は、実に清い希望だと思います。

 

 今日、私が自身に持ちたい望みです。もし自身にできるならばしたいこと

ですが、不幸せなことに、その方の技量は私には有りませんから、もし諸君

の中に、その希望が有りますならば、ドウゾ今の教育事業とかに従事する

人たちは、「汝の事業は、下等な事業なり」などと言うて、その人を失望さ

せぬように注意してもらいたい。

 

  また、そういった希望を持った人は、神がその人に命じたところの考えで

あると思って、十分にそのことを自ら奨励されんことを望む。 

  あるアメリカの金持ちが、「私は、汝にこの金を譲り渡すが、この中に穢

(きた)ない銭(ぜに)は一文も無い」と言って子供に遺産を渡したそうです

が、私どもは、そういう金が欲しいのです。 【つづく】

 

2012年12月 6日 (木)

後世への最大遺物(3 )

  しかるに、今われわれは、世界という、この学校を去ります時に、何も

ここに遺さずに往くのでございますか。 

  その点から言うと、やはり、私には、千載青史に列するを得んという望

みが残っている。

 

  私は何か、この地球にMementoを置いて逝きたい。私が、この地球を

愛した証拠を置いて逝きたい。私が同胞を愛した記念碑を置いて逝きたい。

  それゆえに、お互いに、ここに生まれてきた以上は、われわれが喜ばし

い国に往くかも知れませんけれども、しかし、われわれがこの世の中に在

る間は、少しなりとも、この世の中を善くして往きたいです。この世の中に、

われわれのMementoを遺して逝きたいです。

 

  有名な天文学者のハーシェルが二十歳ばかりの時に、彼の友人に

語って、「わが愛する友よ、われわれが死ぬ時には、われわれが生まれ

た時より世の中を少しなりとも善くして逝こうではないか」と言うた。

 実に美しい青年の希望ではありませんか。

 

  「この世の中を、私が死ぬ時は、私が生まれた時よりは少しなりとも善く

して逝こうじゃないか」と。
 

   ハーシェル*の伝記を読んでごらんなさい。
 

(*Sir  John  Frederick  William  Herschel〔1792~1871〕 イギリスの

天文学者。 

 父  Sir  William   Herschel 〔1738~1822〕とともに星雲や二重星を観測、

四○○○の二重星、五○○の星雲・星団を発見している。1833~38年、

南アフリカの喜望峰に赴いて南天を詳細に観測、その成果を、“Cape  

Observation”1847  として公刊。 〔*下の写真は、上から、二重星、

星雲、大星団〕

  物理学のほか、化学を研究し、写真定着液ハイポを発見している。)

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  彼は、この世の中を、非常に善くして逝った人であります。今まで知ら

れない天体を完全に描いて逝った人であります。 

  南半球の星を、何年間かアフリカの喜望峰植民地(*下の写真)に行き

まして、スッカリ図に載せましたゆえに、今日の天文学者の知識は、ハー

シェルによってドレだけ利益を得たか知れない。

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  それがために航海が開け、商業が開け、人類が進歩し、ついには宣教

師を外国にやることができ、キリスト教伝播の直接間接の助けに、どれだ

けなったか知れませぬ。 

  われわれも、ハーシェルと同じに、互いにみな希望Ambition を遂げよう

ではございませんか。 

  われわれが死ぬまでには、この世の中を、少しなりとも善くして死にたい

ではありませんか。

  何か一つ事業を成し遂げて、できるならば、われわれが生まれた時よりも、

この日本を、少しなりとも善くして逝きたいではありませんか。 

  この点については、われわれ皆々、同意であろうと思います。

 

  それで、この次は、遺物のことです。何を置いて逝こう、という問題です。

何を置いて、われわれが、この愛する地球を去ろうかというのです。

  そのことについて、私も考えた。 

考えたばかりでなく、たびたびやってみた。何か遺したい希望があって、

これを遺そうと思いました。

 

  それで、後世への遺物もたくさんあるだろうと思います。それを、一々

お話しすることはできないことでございます。 

  けれども、この中に、第一番にわれわれの思考に浮かぶものからお話し

をいたしたいと思います。

  後世へわれわれが遺すものの中に、まず第一に大切なものがある。

何であるかというと金(カネ)です。

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  われわれが死ぬ時に、遺産金を社会に遺して逝く。己の子供に遺して

いくばかりでなく、社会に遺して逝くということです。それは、多くの人の

考えにあるところではないかと思います。 

  それで、ソウいうことをキリスト信者の前で言いますと、金(カネ)を遺す

などということは、実につまらないことではないかという反対が、ジキに出

るだろうと思います。

 

  私は覚えております。明治十六年に、初めて札幌から山男になって東京

に出てきました。その時分に、東京には、奇体な現象があって、それを名

づけてリバイバルと言ったのです。 

  その時分、私は後世に何を遺そうかと思っておりましたが、私は実業教

育を受けた者であったから、もちろんを遺したかった。 

  億万の富を日本に遺して、日本を救ってやりたいという考えを持っており

ました。

 

 自分には、明治二十七年になったら、夏期学校の講師に選ばれるという

考えは、その時分にはチットも無かったのです(満場大笑)。

  金を遺したい、金満家になりたい、という希望をもっておったのです。

 

   ところが、このことを、或るリバイバルに非常に熱心な牧師先生に話した

ところが、その牧師さんに、私は非常に叱られました。 

  「金を遺したい、というイクジのない、そんなものはドウにでもなるから、

君は福音のために働きたまえ」と言うて、戒められた。  

 しかし、私は、その決心を変更しなかった。今でも変更しない。

 

  金を遺す者を賤しめるような人は、やはり金のことに賤しい人であります。 

吝嗇(けち)な人であります。

  金というものは、ここで金の価値について長い講釈をするには及びませ

んけれども、金というものの必要は、あなた方が十分に認めておいでなさ

るだろうと思います。

  金は宇宙のものであるから、金というものは、いつでも出来るものだと

言う人に向かって、ベンジャミン・フランクリンは答えて、「それなら、今、

拵(こしら)えてみたまえ」と申しました。

  それで、私に金などは要らないと言うた牧師先生は、ドウいう人であった

かというに、後で聞いてみると、やはりずいぶん金を欲しがっている人だっ

たそうです。

  それで、金というものは、いつでも得られるものであるということは、われ

われが始終持っている考えでございますけれども、実際、金の要る時に

なってから、金というものは得るに非常に難しいものです。

  そうして、ある時は、富というものは、どこでも得られるように、空中に

でも掛かっているもののように思いますけれども、その富を一つに集める

ことのできる者は、これは、非常に神の助けを受ける人でなければでき

ないことであります。



  ちょうど秋になって、雁(かり:下の写真)は、天を飛んでいる。それを、

誰が捕ってもよい。しかし、その雁を捕ることは難しいことであります。

            Photo_7

  人間の手に、雁が十羽なり二十羽なり集まって来るならば、それに価値

があります。

 すなわち、手の内の一羽の雀は、木の上にいる二羽の雀より貴(とうと)い、

というのは、このことであります。

  そこで、金というものは、宇宙に浮いているようなものでございますけれ

ども、しかしながら、それを一つにまとめて、そうして後世の人が、これを

用いることができるように溜めて逝かんとする欲望が諸君のうちにあるなら

ば、私は私の満腔(まんこう)の同情をもって、イエス・キリストの御名(みな)

によって、父なる神の御名によって、聖霊の御名によって、教会のために、

国のために、世界のために「君よ、金を溜めたまえ」言って、この

ことを、その人に勧めるものです。

  富というものを一つにまとめるということは一大事業です。それで、われ

われの今日の実際問題が社会問題であろうと、教会問題であろうと、青年

問題であろうと教育問題であろうとも、それを煎じつめてみれば、やはり

金銭問題です。

  ここに至って、誰が、金は不要だなどと言う者がいますか。ドウゾ、キリスト

信者の中に、金持ちが起こってもらいたいです。実業家が起こってもらいた

いです。

  われわれが働く時に、われわれの後ろ楯になりまして、われわれの心を

十分に分かった人がわれわれに貢いでくれることは、われわれの目下の

必要でございます。

  それで、金を後世に遺そうという欲望を持っているところの青年諸君が、

その方に向かって、神の与えた方法によって、われわれの子孫に、たくさん

遺してくださらんことを、私は切に祈ります。 【つづく】

 

 




 

2012年12月 4日 (火)

後世への最大遺物(2)

  そこで、その時の心持ちは、なるほど、その中に、一種の喜びが無かった

わけではございませんけれども、以前の心持ちとは、正反対の心持ちであ

りました。 

  そうして、この世の中で事業をしよう、この世の中で一つ旗を挙げよう、

この世の中に立って男らしい生涯を送ろう、という念がなくなってしまい

ました。 

  ほとんど無くなってしまいましたから、私は、いわゆる坊主臭い因循的

(いんじゅんてき・・・昔からの習慣にばかり従って、新しい考え方を受け入

れようとしないこと)な考えになってきました。

 

  それで、また私ばかりでなく、私を教えてくれる人がソウでありました。 

たびたび・・・ここには、宣教師はおりませんから、少しは宣教師の悪口を

言っても許して下さるかと思いますが・・・宣教師の所に往(い)って、私の

希望を話しますと、「あなたは、そんな希望を持ってはいけません。そのよ

うなことは、欲心でございます。 

  それは、あなたがまだキリスト教に感化されない心から起こってくるの

です」というようなことを、よく聞かされたものです。 

  私は、諸君たちも、ソウいうような考えに出会ったことがあると思います。 

なるほど、千載青史に列するを得んということは、考えようによっては、

まことに下等な考えであるかも知れません。

 

  われわれの名を、この世の中に遺したいというのでございます。この

一代のわずかな生涯を終わって、その後は、後世の人にわれわれの名を

褒め称えてもらいたいという考え、それは、なるほど、ある意味からいい

ますと、私どもにとっては、持ってはならない考えであると思います。

 

 ちょうどエジプトの昔の王様が、己れの名が万世に伝わるようにと思うて、

ピラミッド(*下の写真は、ギゼーの三大ピラミッド)を作った。すなわち世

の中の人に、彼は国の王であったということを知らしむるために、万民の

労力を使役して大きなピラミッドを作ったというようなことは、実にキリスト

信者としては持つべからざる考えだと思われます。

Photo

 

  天下の糸平が死ぬ時の遺言は、「己れのために絶大なる墓を建てろ」

ということであったそうだ。(*天下の糸平・・・豪商・田中平八〔1837~83〕

の別名。信州伊那で生まれ、横浜で茶、生糸、洋銀などの貿易に従事して

巨万の財をなし、天下の糸平と自称した。 

  幕末、水戸勤皇派天狗党の乱に加わって下獄している。維新後、第百十

二国立銀行を創業、米商会所頭取、大蔵省為替方をも勤めた。*下の

写真の人物

                Photo_2

  そうして、その墓には、天下の糸平と、誰か日本の有名な人に書いて

もらえ、と遺言した。 

  それで、諸君が、東京の牛の午前(うしのごぜ(*下の写真:今日の

本母寺の本堂)に往(い)ってごらんなさると、立派な花崗石(かこうせき)

で、伊藤博文さんが書いた「天下の糸平」という碑が建っております。 

  この千載にまで天下の糸平を、この世の中に伝えよと言った糸平の考え

は、私は、クリスチャン的な考えではなかろうと思います。また、そういう

例が、他にもたくさんある。                            Photo_3

(*牛の午前〔ごぜ〕・・・東京、隅田川の河畔にある牛島神社の旧称。

「天下之糸平」の碑は、同河畔、本母寺(墨田区堤通二丁目)境内に

建っている。 ・・・下の写真

  高さ、約6メートル、幅、約3.5メートル。建碑発起者として、渋沢栄一、

福地源一郎、大倉喜八郎、高島嘉右衛門などが名を連ね、「明治二十四

年六月建   天下之糸平  伯爵伊藤博文書」の字が大きく刻まれている。)

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  この間、アメリカの或る新聞を見ましたところ、ある貴婦人で大金持の

寡婦(やもめ)が、「私が死んだ後に、私の名を国民に覚えてもらいたい。

 しかし、自分の持っている金を学校に寄附するとか病院に寄附するとか

いうことは、普通の人のなすところなれば、私は世界中に無い大きな墓を

作ってみたい、そうして千載(*千年。転じて長い年月)に記憶されたい」

という希望を起こした。

  先日、その墓が成ったそうでございます。ドンナに立派な墓であるかは

知りませんけれども、その計算(=経費)に驚いた。二百万ドルもかかった

というのでございます。

 二百万ドルの金をかけて自分の墓を建てたのは、確かにキリスト教的な

考えではございません。



  しかしながら、ある意味から言いますれば、千載青史に列するを得んと

いう考えは、私は、そんなに悪い考えではない、ないばかりでなく、それは、

本当の意味で見ますならば、キリスト教信者が持ってもよい考えでござい

まして、それは、キリスト信者が持つべき考えではないかと思います。


  なお、われわれの生涯の解釈から申しますと、この生涯は、われわれが

”未来”往く階段である。ちょうど大学に入る前の予備校である。

  もし、われわれの生涯が、わずかこの五十年で消えてしまうものならば、

実につまらぬものである。

  私は、未来永遠に私を準備するために、この世の中に来て、私の流す

涙も、私の心を喜ばせる歓喜も、喜怒哀楽という変化も、私の霊魂をだん

だんと作り上げて、ついに私は”死なない人間”となって、この世を去って

から、もっと清い生涯をいつまでも送れるというのは、私の持っている確信

でございます。

  しかしながら、そのことは、純粋なる宗教問題でございまして、それは、

私が今晩あなた方にお話をいたしたいことではございません。



  しかしながら、私には、ここに一つの希望がある。この世の中をズット通

り過ぎて、安らかに天国に往き、私の予備校を卒業して、天国なる大学に

入ってしまったならば、それで十分かと己れの心に問うてみると、その時に、

私の心に清い欲が一つ起こってくる。

  すなわち、私に五十年の命をくれたこの美しい地球、この美しい国、この

美しい社会、このわれわれを育ててくれた山、河、これらに、私が何も遺さ

ずには死んでしまいたくない、との希望が起こってくる。

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 私は死んでから、ただに天国に往くばかりでなく、私は、ここに一つの何

かを遺して往きたい。

  それで、何も、後世の人が私を褒めてくれ、というのではない。私の名誉

を遺したいというのでもない。

  ただ、私が、ドレほどこの地球を愛し、ドレだけこの世界を愛し、ドレだけ

私の同胞を思ったかという記念物を、この世に置いて往きたいのである。

すなわち、英語でいうMemento(記念の品)を残したいのである。こういう

考えは、美しい考えであります。

  私がアメリカにおりました時にも、この考えが、度々、私の心に起こりま

した。私は、私の卒業した米国の大学(=アマースト大学:下の写真は、

今日のアマースト大学)を去る時に、同志とともに、卒業式の当日に、

愛樹を一本、校内に植えてきた。

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  これは、私が四年も育てられた私の学校に、私の愛情を遺しておきたい

ためであった。中には、私の同級生で、金のあった人は、そればかりでは

満足しないで、あるいは学校に音楽堂を寄附する者もあり、あるいは図書

館を寄附する者もあり、あるいは運動場を寄附する者もありました。

  【つづく】

 

2012年12月 3日 (月)

後世への最大遺物(1)

    【皆さんへ】




  お早うございます。皆さん、お元気でしょうか? 

今年も、早や師走となりました。月日の経つのは、本当に早いものです。 

  実は、先週、久し振りに上京いたしました。(*下の写真は、東京

ステーションホテル・・・唯、ここに泊まったわけではありません。)

 東京暮らしの折、たいへんお世話になった親友たちとの再会と談笑、

妻の実家の菩提寺への墓参、入院した義兄の見舞いなどで、時を過ごし

ました。久し振りのことで、それぞれに、たいへん心に残るひと時でした。

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  ところで、この世には、様々な名著や名作があります。百人百様の「名著・

名作」がありましょう。

  私が考えます「名著・名作」は、何より内村鑑三(1861~1930:下の写真)

の諸作品です。

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 中には、かつて若い頃に読み、今一度、読み返してみたいと思う作品が

あります。

 例えば、『後世への最大遺物』や『代表的日本人』などは、その最たるも

のです。

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 とりわけ、日本人は、今後、如何に生きるべきか、あるいは、どうあるべ

きか考えます時、これらの名著は、われわれに、大きな示唆を与えてく

れるような気がいたします。

  それゆえ、しばらく、これらの書を、より読み易い形で、ご提示したいと

思います。

 すでに、百年以上も前の作品でありながらも、今日でさえ、何故か

心魅かれものがあります。どうか、よろしくご味読ください。



  『後世への最大遺物』は、明治27年(1894年)の作品です。同年、愛娘の

ルツが生まれました。またこの年、「日清戦争」が勃発しました。

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  この時、赤ちゃんだったルツと妻を京都に残し、33歳だっ壮年期の内村

は単身、当時、箱根駅に開設された基督教徒第六夏期学校の講師として

赴きました。 場所は、蘆ノ湖畔(*上の写真)でした。

 海老名弾正(1856~1937*下の写真)が、司会を務めました。 

講演は、二日間に亙りました。それは、次のようなものでした。

               Photo_4

 第一回



  時は、夏でございますし、処(ところ)は、山の絶頂でございます。 

それで、ここで私が手を振り、足を飛ばしまして、私の血に熱度を加えて、

諸君の熱血を、ここに注ぎ出すことは、あるいは、私にできないことでは

ないかも知れません。

 

  しかし、これは私の好まぬところ、また諸君もあまり要求しないところだ

ろうと、私は考えます。 

  それで、キリスト教の演説会で演説者が腰を掛けて話をするのは、

たぶんこの講師(こうし)が嚆矢(こうし・・・「初めて」の意)であるかも

知れない(満場大笑)、しかしながら、もしそうすることが、私の目的に

適(かな)うことでございますれば、私は先例を破って、ここであなたがた

とゆっくり腰を掛けてお話をしてもかまわないと思います。 

  これもまた、破壊党の所業だと思(おぼ)し召されてもよろしゅうござい

ます(拍手喝采)。



  そこで、私は「後世への最大遺物」という題を掲げておきました。

もし、このことについて、私の今まで考えましたことと感じますことを皆、

述べますならば、いつもの一時間より長くなるかも知れませぬ。 

  もし長くなって、つまらなくなったなら、勝手にお帰りなさってください。 

私もまた、くたびれましたならば、あるいは途中で、休みを願うかも知れ

ませぬ。 

  もし、あまり長くなりましたならば、明朝の一時間も、私の戴いた時間で

ございますから、その時に述べるかも知れませぬ。 

 ドウゾ、 こういう清い静かな所に在りまする時には、東京やその他の騒

しい所で、みな気の立っている所でするような騒がしい演説を、私はした

ないです。

  私はここで、諸君と膝を打ち合わせて、私の所感そのものを演説し、

また諸君の質問にも応じたいと思います。



  この夏期学校に来ますついでに、私は東京に立ち寄り、そのとき私の

親爺(おやじ)と詩の話をいたしました。親爺が、頼山陽の古い詩を出し

てくれました。

  私が初めて山陽の詩を読みましたのは、親爺からもらった、この本でし

た(本を手に持って)。

  で、この夏期学校に来るついでに、その山陽の本を再び持ってきました。

その中に、私の幼(ちい)さいときに私の心を励ました詩がございます。

  その詩は、諸君もご承知のとおり、山陽の詩の一番初めに載っている

詩でございます。

  「十有三春秋(じゅうゆうさんしゅんじゅう)、逝者巳如水(ゆくものはすで

にみずのごとし)、天地無始終(てんちしじゅうなく)、人生有生死(じんせい

せいしあり)、安得類古人(いずくんぞこじんにるいして)、千載列青史(せん

ざいせいしにれっするをえん)」。有名な詩でございます。山陽が十三の時

に作った詩でございます。

 
(*「千載列青史」とは、「これから長い間、正規の歴史

の中の列伝の一人として、史書に、自分のことだけで一章を加えて

もらえ、歴史上の大物の一人として格別な扱いを受けれるような人物にな

りたいものだ」の意)

  それで、自分の生涯を顧みてみますれば、まだ外国語学校に通学して

おります時分に、この詩を読みまして、私も自(おのず)から同感に堪え

なかった。

  私のように、こんなに弱いもので、子供のときから身体(からだ)が弱

(よお)うございましたが、こういうような弱い身体であって、別に社会に

立つ位置もなし、また私を社会に引っ張ってくれる電信線もございませぬ

けれども、ドウゾ私も一人の歴史的な人間になって、そうして千載青史に

列するを得(う)るくらいの人間になりたいという心が、やはり私にも起こっ

たのでございます。

  その欲望は、決して悪い欲望とは思いませぬ。私が、そのことを父に話し、

友達に話したときに、彼らはたいへん喜んだ。



  ところが、不意にキリスト教に接し、通常、この国において説かれました

キリスト教の教えを受けたときには、青年のときに持ったところの千載青

に列するを得んというこの欲望が大分無くなってきました。

  それで、何となく厭世的な考えが起こってきた。すなわち、人間が千載青

に列するを得んというのは、まことにこれは肉欲的、不信者的、heathen

(*異教徒的、あるいは野蛮人的の意)な考えである、クリスチャンなど

功名を欲することはなすべからざることである、われわれは、後世に名

伝えるということは、根コソギ取ってしまわなければならぬ、というような

考えが出てきました。

  それゆえに、私の生涯は、実に前の生涯より清い生涯になったかも知れ

ませぬ。けれども、前のよりはつまらない生涯になった。

  マー、どうか、なるだけ罪を犯さないように、なるだけ神に逆らって汚(けが)

らわしいことをしないように、ただただ立派にこの生涯を終わってキリストに

よって天国に救われて、未来永劫の喜びを得んと欲する考えが起こってき

ました。  【つづく】

 

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