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2012年11月 1日 (木)

水浦征男師の『この人』(4)

   コルベ神父について(完)

 

  帰国後、コルベ神父は、ニエポカラノフ修道院の院長を務め、出版や

ラジオなどを通じて、活発な布教活動を行いました。 

  その頃、コルベ師は、すでに将来の戦争と自分の運命を悟っていました。          

 事実、1937年1月10日に、彼は一部の修道士に、日本で聖母マリアか

ら「確実に天国に行ける」という約束を受けたことを打ち明けています。 

       Photo_2

  また、1939年2月18日付の日本における後継者であるサムエル・

ローゼンバイゲル神父宛の手紙で、「戦争が勃発し、送金ができない

場合に、苦境に陥らないように、経常費に関しては自立できるよう、徐々

によく考えておくのが良いでしょう」と書いています。

 

  実際、1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻による第二次世界

大戦の勃発により、コルベ師は、布教活動の縮小や停止を余儀なくさ

れました。

 

  1941年2月17日、コルベ神父(*下の写真)は、4人の神父と共に、

ゲシュタボに逮捕されました。 

 その理由としては、コルベ神父が発行していた『無原罪の聖母の騎士』

や日刊紙が、ナチに対して批判的なものであったからとも、また、当時

は、単にユダヤ人のみではなく、ポーランドにおける有力な人物をも逮

捕の対象にしていたからとも言われます。

 私は、両方の理由からだと考えます。      

  Photo_3

  解説によりますと、コルベ神父の逮捕では、退会したニエポカラノフの

元修道士が署名した告訴状が証拠とされました。 

  しかし、ドイツ語の読めなかった元修道士は、ドイツ語で書かれた文書

を言われるままにサインしただけであり、しかも、その文書は、ゲシュタ

よる偽造(=捏造)でした。

   つまり、ナチスは、最初から、コルベ師を逮捕するつもりだったのです。

 

  彼の逮捕後、20人の修道士が、彼の身代わりになる事を申し出ましたが、

この申し出は、却下されました。 

  コルベ神父は、パヴィアックの収容所に収容された後に、アウシュヴィ

ッツ=ビルケナウ強制収容所に送られました。同師の囚人番号は、

「16670」でした。
  
                  Photo_13

     (*囚人として描かれたコルベ神父のステンドグラス)



  1941年7月末、脱走者が出たことで、無作為に選ばれた10人が「餓死 

刑」に処せられることになりました。囚人たちは番号で呼ばれていきまし

たが、呼ばれたフランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が、

「私には、妻子がいる」と叫び出しました。 

  そこにいたコルベ神父は、「私が身代わりになります。私はカトリック

司祭で、妻も子もいませんから」と申し出ました。

  Photo_4

  責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘス(1894~1987:下の人

は、この申し出を許可しました。コルベ神父と9人の囚人が、地下牢

の餓死室に押し込められました。

            Photo_5


 餓死刑に処せられると、その牢内において、受刑者たちは飢えと渇きに

よって錯乱状態で死ぬのが普通だと言われました。

  しかし、コルベ神父は、まったく毅然としており、他の囚人を励ましてい

ました。

 時折、牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツは、牢内か

ら聞こえる祈りと歌声によって、餓死室が、まるで聖堂のように感じられた、

と証言しています。

  2週間後、当局は、コルベ神父を含む4人が未だ息があったため、病院

付の元犯罪者であるボフを呼び寄せて、フェノールを注射して殺害しま

した。

          Photo_6


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            (*コルベ師終焉の地下の「餓死室」)


  ボルゴヴィツは、この時のことを、次のように証言しています。

≪マキシミリアノ(=コルベ)神父は祈りながら、自分で腕を差し伸べま

した。

私は見るに見かねて、用事があると口実を設けて、外へ飛び出しました。

  監視兵とボフが出て行くと、私は、もう一度、地下に降りました。

マクシミリアノ神父は壁にもたれて座り、目を開け、頭を左へ傾けていま

した。その顔は穏やかで、美しく輝いていました≫と。

  コルベ神父の亡骸は、木の棺桶に入れられ、翌日、カトリック教会では

大祝日にあたる「聖母被昇天の日」である8月15日に、火葬場で焼かれ

した。

  なお、コルベ神父は生前、聖母の祝日に死にたいと語っていたと言わ

れています。

                  


  1971年10月10日に、コルベ神父は、当時の教皇パウロ6世によって

「列福」され、1982年10月10日に、同国(ポーランド)出身の教皇ヨナネ・

パウロ2世によって、「列聖」されました。

  この日の式典には、コルベ師に命を助けられたガイオニチェクの姿も

ありました。

  ガイオニチェクは奇跡的に終戦まで生き延びて解放され、94歳で天寿

全うするまで、コルベ師に関する講演を、世界各地で続けていました。

         Photo_11
       
(*コルベ師像に祈りをささげるマザー・テレサ)

  1998年には、ロンドンにあるウェストミンスター教会(英国国教会)の

扉に、「20世紀の殉教者」の一人として、コルベ神父の像(*下の写真

の左端)が飾られました。

        Photo_12

  コルべ神父は、その在日期間は6年足らずと、決して長くはありません

でしたが、現代の日本に最も影響を与えた代表的な聖職者だと申せま

しょう。 

  そして、コルベ神父の日本での布教活動は、同師の離日後、ゼノ修道

たちによって、受け継がれていったのです。 【了】

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