フォト
2017年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 水浦征男師の『この人』(4) | トップページ | 水浦征男師の『この人』(6) »

2012年11月 2日 (金)

水浦征男師の『この人』(5 )

    ゼノ修道士について(1)


  今日、「ボランティア(*下の写真)という言葉は、私たちにとって、馴染

み深いものになっています。 

 事実、昨年の「3.11」を始め、数多くの災害に際して、その事後処理に、

日本各地から、多くのボランティアが、陰に陽に活躍してします。まことに、

頭の下がる思いです。

     Photo

                           Photo_2


  このボランティアの”草分け”とも言える人物が、本日、話題にしたいゼノ・

ゼブロフスキー修道士(1891~1982:下の写真)ではないでしょうか。

                     Photo_3

  ゼノ修道士は、多くのカトリック信者に、「ゼノさん」と呼ばれ、とても愛さ

れました。 

あの、気品のある、白くて長い髭が、同師のトレードマークでした。 

  彼の口癖は、「ゼノ、死ヌヒマナイ」でした。本当に、彼は、”死ぬヒマ”を

惜しんで活躍し、92歳で帰天しました。 

  コルベ師が日本で果たせなかった事の多くを、ゼノ修道士が果たしてく

れたと思います。



  ゼノ修道士は、1891年、ドイツ国境付近の村で、シュ
ラフタ(ポーランドの

貴族)の父ヨーゼフと、母アンナの間に四男として生まれました(Wikipedia

参照)。

 

  かつてシュラフタは、ポーランド国王をしのぐ権力を持ち、中世から近世

にかけての東欧の政治・文化に大きな影響力を与えたと言われます。 

  ゼノさんの、どこか自由で、権威をものともせぬ不屈の精神と、その深い

気品は、ご先祖さまからのDNAによるものと思われます。

 

  修道士になる前のゼノ氏は、第一次世界大戦時、軍隊に志願しました。

軍隊を除隊後、職を転々としましたが、気まぐれで聞いた教会での説教

に影響を受けて、コンベンツァル聖フランシスコ修道会に、29歳で、入会

しました。 

 その後は、尊敬するコルベ神父と行動を共にしたのでした。 

 

  私自身は、ゼノさんとは直にお話したことはありません。
 

実際にお見掛けしたのは、同師の最晩年、東京都内、清瀬市のベトレ

ヘムの園病院で車椅子生活を送っていらした頃でした。時折、カトリック

秋津教会でのミサにも参加していらっしゃいました。

 そこには、どこか凛とした清澄な雰囲気が漂っていました。

 

  ところで、コルベ神父の離日後、ゼノ修道士は、全国各地に赴き、布教

に専念していました。 

  しかし、彼は、1945年8月9日、長崎市で被爆しました。 

けれども、このような苛酷な悲劇に遭遇しても、決して、へこたれるような

ゼノさんではありませんでした。

  むしろ、彼は、爆心地だった浦上の人々の救護・介抱に全力を注ぎまし

た。  彼はまた、戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動にも尽力

した。               Photo_4

                      Photo_5


  例えば、東京・浅草のバタヤ街など全国各地で「アリの街」の支援活動を

しました。

  ゼノ修道士と北原怜子(さとこ:洗礼名マリア・エリザベト:1929~1958

:下の写真)との出会いは、この支援活動を通じてでした。

          Photo_8

   ブログ「Verbum  Caro  Factum  Est」の主宰者であるFrancisco

Maximiliano氏の記述によれば、ゼノ修道士は、北原怜子が着物

の帯にロザリオを止めていたのを見て、「アナタ、シンジャデスカ?」

と声を掛けたそうです。

  ただ、それだけ言って、その日は去って行き、会う度に、蟻の町の

子どもたちの話を少しだけしました。

  北原怜子は、まるで何ものかに導かれるように、普段は決して行く

ことの無い廃品回収(バタヤ)の集落へと引き寄せられていきました。

そして、何度も、この町に通ったようです。


  また、カトリック潮見教会のホーム・ページによりますと、第二次世界大

戦後、職も無く、住む家もない人々が隅田川の言問橋の近くに集まって、

「蟻の会」という共同体を作り、廃品回収で生計を立てていました。

  ゼノ修道士は、その地を度々、訪問していました。

  先述しましたように、大学教授の娘で、恵まれた家庭に育った北原怜子

というカトリック女性はゼノ修道士から「蟻の町」の話を聞き、そこに出掛

けるようになり、献身的に蟻の町の子どもたちの世話をしました(*下の

写真

            Photo_9
  しかし、怜子(さとこ)は、次第に持てる者が持たない者を助けるという

“姿勢”に疑問を抱くようになり、自ら「バタ屋」となって廃品回収を行うよう

になりました。

            Photo_10

  (*上の写真は、北原怜子の「くず物収集鑑札」)  

 
  彼女の積極的な行動によって、「蟻の町」の子どもたちの教育環境は、

だんだんと整えられていきました。

  彼女の行動は世界に発信され、賞讃の声が多く届きますが、彼女は、

「財宝ばかりでなく、名誉や地位もまた悪魔的な誘惑です」と語り、その

名声に甘んじることはありませんでした。

  唯、諸々の奉仕活動での無理が祟り、彼女は、健康を害しました。

療養のため、一時「蟻の町」を離れましたが、やがて死期を悟ると、

彼女は、「蟻の町」に再び移住しました。そして、1958年、彼女は、

腎臓病で夭折しました。



  潮見教会の同ホームページによりますと、「蟻の町」のあった場所は、

日の墨田公園の一角にあたります。

  東京都はいく度となく、「蟻の会」に立ち退きを求めてきました。

蟻の町を存続させるために、当時の蟻の会の人々は、「教会を建てる」と

言って、建物の屋根に十字架を取り付け、新聞にも取り上げられました。

怜子の名は、”蟻の町のマリア”として知られるようになりました。

  有名になった「蟻の町」に対して、都は、代替地として「8号埋立地」を

提示しましたが、都が示した条件は、蟻の会にとっては厳しいもので、

交渉は難航しました。

  先述しましたように、一時蟻の町を離れて、病気療養をしていた怜子は

病状が悪化し、これ以上、治療方法がないと分かったとき、蟻の町に戻る

ことを希望しました。

  彼女は、十字架が立った建物に近い小部屋(*下の写真)に住み、蟻の

町のために、ひたすら祈り続けました。

  病床での彼女の笑顔は、死を前にした人のものとは思えないほど、

実に素晴らしいものです。

                        Photo_11

                Photo_12

  1958年1月19日、怜子の祈りが神に通じたかのように、都が蟻の会の

要求を全面的に認め、蟻の町の「8号埋立地」への移転が決定しました。

  その直後、北原怜子は、1月23日に、28歳の若さで帰天しました。



   蟻の町が、当時の地名で「枝川」と呼ばれた埋立地に移った頃は、

まだ京葉線もなく、今日のようなマンションも一軒もありませんでした。

  そこに怜子や蟻の会の人々の願いであった教会が建てられました。

こうして始まったのが「カトリック枝川教会(蟻の町教会)」です。

  また、蟻の町とその周辺の子供たちのために、「ありんこ保育園」も

併設されました。


  今日、同教会の「現状」には、こう記されています。

「町名と教会名が『潮見』に変わり、コンクリートの聖堂が建ち、周囲の

有様も一変しましたが、この教会は、いつも貧しい人の教会であったこと

を忘れず、居場所を見失ったすべての人を暖かく迎える場でありたいと

願っています」と。

  この潮見教会の心優しく温和な“精神”こそ、かつて、ゼノ修道士が種を

撒き、北原怜子が耕し、育て上げた無心・無欲な”ボランティア精神”の

見事な開花の結果と申せましょう。  【つづく】



  (付記) 今回は、潮見教会のホームページやWikipediaの他、

      ブログ「レモンキャンディー」

       同 「ある女子大教授のつぶやき」

       同  「Verbum  Caro  Factum  Est 」などを参考にさせて頂き

       ました。

 

 

 

« 水浦征男師の『この人』(4) | トップページ | 水浦征男師の『この人』(6) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Links