フォト
2017年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« 水浦征男師の『この人』(6) | トップページ | 水浦征男師の『この人』(8) »

2012年11月 5日 (月)

水浦征男師の『この人』(7)

    ゼノ修道士について(完)



 ゼノ師は、数多くの写真に収まっていらっしゃいます。 

最晩年の写真だと思いますが、私が好きなものは、下の写真です。

               Photo

  この写真には、様々な苦しみを体験しつつも、信仰ひと筋に生きたゼノ

修道士の“晴々とした姿”が感じられます。 

  この写真を拝見しますと、「ゼノさん、長い間、本当にご苦労さまでした」

と申し上げたい思いになります。




  ところで、水浦師によりますと、ゼノ師は、サインを頼まれると、たどたど

しい文字で、「ゼノ、天国、マリア」と書いたそうです。 

  コルベ神父同様、聖母マリアへの尽きない敬愛の念が偲ばれます。

           (*下は、エル・グレコ作『聖母被昇天』)

              Photo_2



   水浦師の著『この人』には、ゼノ師に関して、もう一つの文章があります。
 

それは、次のようなものです。




 

    病床で迎えた滞日五○年

 

                              ゼノ・ゼブロフスキー修道士


  「ワタシ、五○ネン、ハタラキマーシタ」
 

去る10月13日、東京清瀬市にあるベトレヘムの園病院で、入院中のゼノ・ 

ゼブロフスキー修道士に、ささやかな”賞”が贈られた。

 

 賞の名は「日本善行賞」。その賞の授与式に、看護婦さんらに付き添わ

れて車椅子で出席したゼノさんは、表彰状が読み上げられている最中、

周りの人たちが、びっくりするような大声で、「ワタシ、五○ネン、ハタラキ

マーシタ」 

  ゼノさんが体力の衰えで病院入りしたのは1978年9月5日。もう二年も 

ベッドの上の生活が続いている(*下の写真は、ゼノ師が入院していた

病院) 

         Photo_3


  元気だった頃のゼノさんは、一日として修道院に閉じこもることはなか

った。 

  「カワイソーナヒト、タクサンイマス」と言っては、東京の街を歩き回り、

寄付を仰いだ。いつも抱えていた黒カバンの中には、マリアさまの御絵を

つめ込み、それを電車やバスの中で隣りの人に渡した。「オイノリ、タノミ

マス」

 ゼノさんにとって、今年は来日五○周年の記念すべき年だった。

 

 病床では、往年のおしゃべりもほとんどできなくなったが、修道士ゼノは、 

健在のようだ。 

  「真夜中に目ざめて、『キョーカイ、イキマショウ』と言い出すこともあるん

ですよ」と、看護係の林田ハツノさんが話してくれた。 

  気分のいい日は、近くの聖堂に連れて行ってもらって、お祈りをする。 

  お祈りを通して、今も働く気持ちをゼノさんは失っていないのだろう。


  マキシミリアン・コルベ神父に伴われて、ゼノさんは1930年(昭和5年)

4月、初めて長崎の土を踏んだ。 

  当時の早坂司教の好意で、大浦にある長崎司教館に一ヶ月ほど住み込

ませてもらった。

 

  コルベ神父は、上陸後ただちに、雑誌『聖母の騎士』の発行にとりかかり、 

一ヶ月後の5月、創刊号が出た。これが本誌の〝産ぶ声”である。 

  創刊当時のゼノさんは、30代の働き盛り、コルベ神父の片腕として大活

躍した。 

 印刷機械の購入、修道院の土地探し、騎士誌の配布、机や椅子などの

家具作り、炊事、と何でもこなせる万能選手だった。

 

 
  戦時中は、コルベ神父なきあとの修道院を支えた。神学生たちの世話を

するため、ミロハナ神父とゼノさんだけが、外国人収容所行きを免れた。 

  そして終戦。修道院に戦災孤児を収容したのが、ゼノさんだったが、

戦後35年、ゼノさんの役割は今、ボランティア運動の高まりとともに終わ

ろうとしている。ゼノ89歳。  ≫    (『聖母の騎士』1980年12月号)

 

 

  ボランティア運動の原点とも言える、ゼノ師の無私の行動は、単なるボラ

ンティアと言うより、むしろ、聖母マリアへの”奉献”とさえ言えました。 

  彼のような“聖なる人”の行動は、人間の常識や観念では掴み切れない

と感じます。

 

 多分、ゼノ師の「半世紀の滞日生活」で去来した思いは、”もし、コルベ

神父が生きていたら、彼は、どう行動しただろうか?”という思いだっ

のではないでしょうか。 

  あるいはまた、”聖母マリアさまは、一体、私に、何をお求めだろうか?”

という自問だったのではないかと思うのです。 

  まさに、日々の祈りを通して、ゼノ師は、これらの問い掛けに対する

”答え”を見出して行ったと感じます。

 

  でも、何よりも、理屈ではなく、むしろ”最初に、行動ありき”が、ゼノ師

の真面目だったと思います。 

  彼が、伝道活動や救援活動から身を引き、入院生活をしていらっしゃ

った時、先述しましたように、私は、車椅子のゼノ師を、何度か、お見かけ

ました。

 

  当時、私自身、ゼノ師が通われたお聖(み)堂(=教会)の役員をさせて

戴いておりました。 

 同師の看護係だった林田ハツノさんとも、何度か、お話したことがあり

ます。

 

 
  教皇ヨハネ・パウロ2世が来日された1981年2月、役員の一人として、

後楽園のミサ会場にも参りました。生憎の小雨でしたが、たいへん印象

深い一日でした。

    Photo_4

  法王さまは、入院中のゼノ師を見舞われました。ゼノ師は、とても感激

され、「パーパ、パーパ(法王さま、法王さま)」と、涙を流されました

(*残念ながら、実際に見たわけではありませんが・・・・正直、当時のテ

レビや新聞を見た限りです)。

        Photo_5

  この時のゼノ師の喜びや感動の場面を、私は、生涯、忘れません。 

その時、ゼノ師は、同郷(同じポーランド出身)のヨハネ・パウロ2世に、

”コルベ神父”見られたかも知れません。あるいはまた、対面の場面

”天国の実在”を実感なさったかも知れないと思うのです。


 

  ゼノ師は、1982年、4月24日に、帰天なさいました。
 

ご遺体は、カトリック府中墓地(*下の写真)に埋葬されました。それ

から数日後、私は、教会の皆さんとご一緒に、同墓地に参る機会があり

ました。

 まだ、真新し
いゼノ師のお墓(=美しい台形に盛られた20センチほど

の土)を、私は、今も鮮明に思い出します。

          Photo_6

  そこには、自分の全生涯を神と人とに捧げ尽くした、一人のポーランド

人修道士・ゼノ師が、安らかに眠っておられるのです。   【了】

 

 

 

 

 

« 水浦征男師の『この人』(6) | トップページ | 水浦征男師の『この人』(8) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Links