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2012年11月

2012年11月27日 (火)

水浦征男師の『この人』(完)

   12月16日(日)の総選挙を控え、日々、慌ただしくなって参ります。

3年前の総選挙で落選の憂き目を見た自民党議員は、今年の総選挙

での復活を確信して、日々、精励していることでしょう。

  反面、民主党議員(特に、一期)の中には、すでに心の奥では、

“都落ち”を予感している人々も多いかと思います。

  そんな中、敢えて、民主党を離党(あるいは脱党)した議員もいます。

”野田政権は、本来の民主党ではない。マニフェストの精神も、全く踏み

にじられている”と考える彼らは、新しい道を模索しています。

  今日、話題の方も、そんな議員の一人です。

水浦師のインタビューは、次のようなものでした。


    苦節一○余年、国会議員に初当選
 

 
                           衆議院議員   山田正彦さん 

 
   『山田さん悲願達成』<苦節十四年>  「万歳コールも格別」。

  去る七月十八日の衆議院議員選挙の翌日に長崎新聞におどった見出

しである。

 

  悲願の当選を果たしたのは五島・福江市出身の山田正彦さん(51)

(*下の写真)だ。

              Photo


 衆議院を目指すこと四度、「もうこれが最後」と決めて打って出た選挙で、

ついに念願の代議士になった。

  山田さんは、先の選挙で新しく選ばれた511人の代議士の中で、おそ

らく唯一のカトリック信者だろう。

  五島列島といえば、キリスト教とは縁の深い土地柄だが、人口比率から

すれば、信者の占める割合は少ない。山田さんも生まれながらのカトリッ

ク信者ではない。

 

  山田さんは、早稲田大学を卒業して、司法試験に合格、長崎で修習生

になった。Photo_2
 ところが、仕事が性に合わないと感じて、故郷・五島を日本の食糧基地

にしよう、と思い立った。

  牧場経営に乗り出したが、折しもオイルショックに見舞われ、あえなく

倒産。

 

 借金を返すために、長崎で弁護士を開業。その頃、仕事上「サラ金」に苦

しむ人々と出会う。

  今度は、「国会に出て、法律を作り替える立場にならなければ」と思うよ

うになり、政治家を志す。
 


  1979年(昭和54年)長崎一区から初出馬。佐世保に居を移して、86年

と90年には長崎二区から代議士を目指したが、苦杯をなめた。

  今回の総選挙は山田さんの四回目の挑戦だった。7月18日午後8時

40分過ぎ、長崎二区の山田正彦さんは当選確実となった。長崎県の

当選確実第一号である。

  「苦節一○年といいますが、やはり厳しかったですね」と山田さんは胸

のうちを語った。

 

Photo_3

 当選を決めた翌朝7時半、佐世保駅前の道路沿いに、いつものように、

山田さんの姿があった。佐世保では、もうおなじみの「辻立ち」である。

道行く人と車に、当選のお礼のあいさつを送った。

  選挙運動のときからのジョギングスタイル、白い半袖シャツに白いスニ

ーカーは変わらない。満面に笑みを浮かべて語る。「当選したら、皆さん

に先ずお礼を言おう。

 それから、この街頭で語り合おうと思っていたんです。駅前の辻立ちは、

私の政治の原点なんです」

  山田さんは雨の日も風の日も。足かけ七年、佐世保駅前で、マイクを

片手に市民に分かりやすい政治を訴えた。 その地道な努力が、報われた。

  佐世保最大の企業SSK(造船業)グループが労使一体となって、山田さ

んを支援した。

 毎週通うカトリック三浦町教会の仲間たちも大きな力になった。山田さん

にはいつまでも市民派でいてほしい。 (『聖母の騎士』1993年9月号)



   このインタビューから、20年近く経った今年、山田氏は、同じ衆院選 

挑戦しています。同氏は、TPP推進を宣言した野田政権に反旗を翻して、 

民主党を去りました。

                      Photo_3                      

 そして、亀井静香氏と共に減税日本に合流し、目下「減税日本・反TPP

・脱原発を実現する党」の共同 代表として活躍しています。 

 

 その動きを、高橋清隆氏は、JAN JAN Blog に、次のように記して 

います。 

  ≪ 山田氏は、「今の民主党=野田さんは、党をつくった鳩山さんと 

小沢さんを追い出し、小泉・竹中の新自由主義に戻った。 

  アメリカの言いなりになり、増税をする。国民が困っているときに、 

本当にけしからん」と熱意を吐露した≫と。 

  (「『反TPP』が、減税日本に合流、大幅拡大を示唆」より:下の写真は、 

 高橋清隆氏撮影

             Photo_2

 上の写真を見ても、三者三様の個性が出ていて、これからが楽しみ 

です。 

  ”俺が、俺が!”の世界で、山田正彦氏の如く”いぶし銀”のような、  

比較的控え目な存在は、非常に貴重だと思います。  

  「反消費税・増税、脱原発、反TPP、反オスプレイ」を訴える国民連合  

の、優れた“接着剤”として、これからも大いに活躍してもらいたいもの

です。 

  山田氏のような政治家の存在価値は、今後、益々高まっていくことで

しょう。  【了】

 (後記:   水浦征男師の『この人』 をご愛読くださいまして、まことに

      有難うございました。良書です。是非、ご購読くださいませ。

       実は、火急の用事にて、しばらく、愛用のパソコンから離れ

      なければなりません。

       そのため、28〔水〕~12月2日〔日〕まで休筆いたします。

      どうか、平にご海容くださいませ。)

 

 

 

 

2012年11月26日 (月)

水浦征男師の『この人』(19)

   日本で「花」と言えば、やはりでしょう。

無論、皇室に馴染みの深いもありますが、実は、桜も菊も法的な意味

で、「国花」というわけではありません。むしろ、慣習的に、両者が、日本を

代表する花だと考えられています。

  それに価する中国の代表的な花は「梅」ですね。

それゆえ、中国の絵には、多く梅が描かれるような気がします。

  かつて、本居宣長は「敷島の 大和心を 人問わば  朝日に匂う 山桜

花」詠みました。この場合の山桜とは、「ソメイヨシノ(*下の写真:小田原

城址のソメイヨシノ)を連想させます。 

                   Photo_4

  つまり、一つひとつの花弁の美しさというよりも、むしろ全体としての淡い

美しさの中に“日本らしさ”や日本的な美が存在しているように感じられます。

  唯、日本も、ある意味、広いですので、北海道の方々にとって桜と言えば、

実は、「ソメイヨシノ」のような一重(ひとえ)の桜ではなく、むしろヒガンザ

クラのような八重桜を指すのではないでしょうか。

  これは、北海道だけでなく、沖縄や静岡県の河津市の桜も、大体が八重

桜のように感じます。

  今日のお話は、日本で一番「桜」に詳しいと思われる桜守・浅利政俊氏

についてです。それは、次のようなものです。




  ポーランドに日本の桜を

                              小学校教諭   浅利政俊さん 

 

  「桜の花の咲く国」―、ポーランドでは、日本のことをこう呼ぶそうだ。 

それほど、日本の桜の花は、ポーランドの人たちに知られている。 

  しかし、実際に日本の桜の美しさを見ることのできるポーランド人は

ほとんどいない

            

  今、ポーランドに日本の桜の苗木を贈りたい、という篤志家がいる。
 

北海道亀田郡七飯町に住む、浅利政俊さん、56歳。 

  浅利さんの本職は小学校の教諭だが、名だたる桜研究家でもある。 

研究は単なる観察ではなく、実際に桜を植え、育てるという実地研究だ。

 

                         Photo_6

  大学時代から、恩師の指導を受けながら、桜の種々の品種の収集や

保存に努めた。今日までに浅利さんが作り出した桜の新種は104種に

も及ぶ。 

  その中には、日本一の大輪、マツマエベニタマエ(*下のA)や美しい

紅色のマツマエベニムラサキ(*下のB)がある。マツマエとは松前の

ことで、昔から桜の名所として知られる。 (A)

              Photo_2

                             (B)

            Photo_3

 桜の権威、浅利さんがポーランドに桜を贈ろうと思いたったのは、この

夏の終わり頃だった。 

  今年6月8日、NHKテレビ『ぐるっと海道3万キロ』で浅利さんが紹介

された。

 

それを観た群馬県の一婦人が、浅利さんに手紙を送って、『ポーランド

に桜を贈ってくれませんか』と依頼した。

  その婦人は、この7月ポーランドに行き、コルベ神父ゆかりの「ニエポ

カラヌフ」修道院(*下の写真:ブログ「鷲鷹のワルシャワなどの情報」

並びにブログ「たぢおの真相」より拝借)を訪ねた。

               Photo_4

           Photo_5


 修道院には日本を紹介する展示室があったが、あまりにも貧しかった。 

 そこで、あの修道院の庭に日本の桜を植えたら、ポーランドの人たち

は日本にもっと親しみをもってくれるのではないだろうか、と群馬の婦人

は思った。



  浅利さんは、この依頼にすぐ応じた。さっそく、コルベ神父の伝記を

取り寄せて、彼の生涯を知った。

 子ども向けに書かれたコルベ神父の本を読んでいるうち、涙がこぼれた。

ずっと前に、『聖母の騎士』誌を手にしたことがあったが、それが、コルベ

神父の作った雑誌だとは知らなかった。



  コルベ神父との不思議な縁を感じるという浅利さんは、すでに桜の移

について準備に取りかかっている。 

  ポーランドの気候、土壌、庭の敷地の広さなど、聖母の騎士修道院を

通して調べている。 

  「贈る苗は、日本を代表する有名な桜の母樹から育成したもの、最高の

ものをと考えています。 

  例えば、現在日本一のシダレ桜といわれる福島三春町の『滝桜』

(樹齢600年以上:下の写真)の孫桜にあたるものです」 

           Photo_7

  浅利さんはカトリック信者ではないが、「この木々や草花のうちに神様

の御手を見ています」と話している。 (『聖母の騎士』1987年 11月号)




 最後の「この木々や草花のうちに神様の御手を見ています」とのお言葉

 の、意味の深さを強く感じます 

  浅利氏は現在、82歳です(今も御存命ならば)。同氏がご存命か否か、

その詳細は知りません。無論、ご存命であられますことを、心より願って

います。

 

  ここに、4年前、函館市が発信した「函館開港150周年記念事業 公式

ウェブサイト『ハコダテ150』」があります。この中に、浅利氏のことが取り上

げられていました。 

  その中で、函館の桜守・浅利氏は、「桜とは、伝統と革新の精神を兼ね

そなえた花です」と仰います。この言葉の説明はありませんが、なかなか

含蓄のある言葉だと思います。

  皆さんは、この言葉を、どのように理解されますでしょうか?

ところで、 解説文は、次のように始まります。

 

 「桜と日本人の結びつきは、花の美しさを楽しむだけではない。村の里

山にヒガンザクラ(*下の写真)が咲く頃が、稲の種まきを始める目安とさ

れていたように、暮らしの中で桜は生きて来た。

                          Photo_5

  桜の品種は、現在300種以上と言われる。日本人は多くの桜を生み出し、

美しさを楽しみ、長年ともに生きてきた。 

  そして、桜と桜の里を守り育てる人を「花守(はなもり)」と呼び尊敬して

きたのである。

 

 浅利さんは、北の地の花守り人である。浅利さんが育種(新種改良)し

た桜の新品種は、現在100種を超えている。浅利氏は言う。 

  「桜の花びらは、桜の木が生きている証(あかし)なんです。花が咲く

瞬間は、人で言えばお産の瞬間です。全生命をかけた、神々しい美しさを

感じます。 

  赤ちゃんを産んだ母親は、ひじょうに美しく優しい表情をするのと同じ

ように、花を咲かせた木は、げっそりとやせ細って見えるんですよ」

 

  浅利さんは、こう続ける。 

  「私は、百姓(農家)の生まれですから、小さい時から木や花に囲まれ

て育ちました。 

 コツコツと情報を集めて、桜を育てるという育種の基本は、農家の仕事

とまったく同じなんですよ」と。
 
  浅利さんは、母親の言葉が桜守・浅利政俊の原点の一つだと言う。

「木や花を育てることは、誰に迷惑をかけることではない。誰かに怒られ

ることもない。母親は、そう言っていました」。

 実家の庭には、関山という八重桜が咲いていた。

  これまでの成果は、そしてこれからの研究は、誰かに引き継がれるの

かと聞くと、浅利さんは首を振る。

 「それでも孫がね、虫や植物が好きなんです。少し期待しているんです

がね」と笑みを浮かべた。

  桜を守り生み出す花守の家に、今度は、新しい「人」が育ち始めている

ようだった。



  「桜は優しく美しく普遍的なものだ」と浅利さんは、話す。

  「松前の桜は、八重桜が中心です。ソメイヨシノのように散りぎわが珍重

されるというのは、少し不自然な感性とも言えます。八重桜は平安時代

から、その美しさが注目されてきた品種です。松前では、冬を越えて

精一杯に花を咲かせる、その盛りを楽しんでほしいですね」

  1993年、イギリスのロンドン郊外にあるウィンザーの王立公園「グレート

パーク」に、52品種・約150本の八重桜が空輸された。

  それらはすべて、浅利さんが松前で生み出した桜たちである。浅利さん

の桜は、遠く海外でも評価されている(*転載、終了)


   「ソメイヨシノのように散りぎわが珍重されるというのは、少し不自然な

感性とも言えます」とのお言葉が、正直、非常に意外なものでした。

  でも、八重桜が圧倒的な北海道からすれば、たいへん自然な言葉なの

かも知れません。

 日本は、やはり西と東、北と南とでは、自然や気候、それに風土が異な

ります。全く同じで均質などということはありません。

  むしろ、二元的、あるいは多元的な重層性を持ったところに、日本文化

や風土・風物の特徴があるのだと思います。

  浅利氏のお言葉を通じて、そのような日本の多様性を感じることができ

ましことは、たいへん有意義で、よかったと思うのです。

  思わぬ所から、思わぬ”発見”がありました。  【つづく】

 

 

 

 

 

2012年11月24日 (土)

水浦征男師の『この人』(18)

   4年後には、ブラジルのリオデジャネイロで、オリンピックが開かれ

ます。 ブラジルの発展には、目を見張るものがあります。

  本日は、そのブラジルへの海外布教に赴いた最初の日本人司祭に

ついての話です。

  水浦師は、その司祭・松尾繁司神父について、次のように記しています。

           Photo




   ブラジル宣教25年

                                       松尾繁司神父

  日本の23倍という広大な国土に約一億の国民。ブラジルは今日なお、

未来への夢と希望をかきたてる国だ。

  その国に日系人が約100万人。初めて移民船が渡ってから77年たった。

  今二世、三世が日系人社会の過半数を占めようという勢い。

彼らのほとんどはカトリックの洗礼を受けている。その司牧は、ブラジル

教会にとっても長年の懸案だった。



  日系人信者たちの「邦人司祭を送ってほしい」という願いが実って、

一人の青年司祭が渡伯して、四半世紀が過ぎた。

  松尾繁司神父(52)の司祭生活は「叙階直後、英国で過ごした一年間を

除けば、すべてがブラジル一色」(同僚神父)である。

  司祭叙階25年の銀祝を迎え、休暇を与えられて、このほど帰国、長い

ブラジル宣教活動で少々”ガタ”のきた身体をオーバー・ホール中だが、

日伯司牧協会会長、日伯両国の架け橋として、治療そっちのけの忙しい

毎日だ。



  松尾神父は長崎・五島、三井楽の出身。修道司祭への道をまっしぐらに

進み、イタリア・アシジの国際神学校へ。ここで第三世界から集まった

たくさんの神学生を知った。聖フランシスコの墓前で終生誓願、ジョットの

大壁画(*下の写真:ローマ法王インノセント3世に謁見する聖フラン

シスコ)に囲まれて司祭に叙された。

           Photo_2
 

  「ブラジルへの赴任命令を受け取ったとき『万歳!』と叫んだら、

イギリス人司祭が『両親や兄弟と離れて地の果てへ行くのが、そんなに

うれしいのか』と目を丸くしていました」

  50日かかって太平洋を渡った。

  「イタリア行きとこのときと、二度とも移民船(*下の写真:サントス丸)

の航海。船中で知り合った移民の方々がそのまま、ブラジルでの最初の

友人。

            Photo_3


  何年もたってから初めて訪れた村で『あのときの神学生さんだ!』と

大歓迎を受けたこともあります」



  同国最大の工業都市、サントアンデレに10年、その後は大サンパウロ

圏の町、モジダスクルゼスを拠点として14年余り、集落から集落へ日系人

を訪ねてひたすら歩き回った。

  「日本やドイツによびかけて、カトリック・センターを作ろうと計画しました。

当初は五年間で、と考えましたが、なにしろインフレがひどいので、五十年

間計画に変更しなくては、と思っているところです」

  現在、ブラジルで日系人の司牧のために働いているのは約20人の司祭

はじめ150人のシスターや修道士たち。

  市民の一人として立派に責任を果たしつつ、日本文化をこの国に活かす

―日系人への期待は小さくない。そのため役に立つなら松尾神父は喜んで

ブラジルの地に骨を埋めるつもりである。≫

 (「聖母の騎士」1985年11月号)


  
この松尾神父は、今も日伯関係のために尽力しておられます。 

その彼が、この記事から四半世紀後、日本への帰国の折、 

「降誕祭」に際して、次のような感銘深い文章を物しています。 

 




≪ 主のご降誕 2010年≫

     コンベンツアル聖フランシスコ修道会司祭 松尾繁司

 今年は、一人の宣教者を追憶しながらクリスマスを迎えています。

 私たちの国、日本には聖フランシスコ・ザビエル以来、多くの宣教者た

ちが色々な国から来て働いてくださいました。現在も働いていらっしゃい

ます。

 そして、いまでは多くの日本人が海外に宣教に出かけて福音宣教に

奉仕していますが、すべての人が宣教地に在って最初に遭遇する困難

は言語です。

 何も分らからず赤ン坊同然に成ります。でも、それは宣教者にとって

大切な体験になります。ゼロからの出発はイエスが貧しく、幼子として救い

の御業を始められた同じ出発点に立たせてくれるからです。

 私たちは恵みを必要とする存在なのです。そして、沢山の方々の力に

支えられながら成長して行きます。



  自分の一生涯を日本のために尽くされたイエス会のヴェンデリーノ

神父様は、その貴重な体験を分かちあってくださいました。

 いつか『きずな』の中で、自分の故郷ブラジルを訪問して日本へ帰る

寸前に是非会いたいという電話に応じて、その人に会った記事があります。

  「新聞で貴方が(ブラジルに)帰っている事を知って是非お目にかかって

伝えたいことがありました。間に合って本当によかった。

 神父様は覚えていらっしゃらないかも知れませんが、神父様が日本に

出発なさる前日、アンシェタで壮行会が開かれました。

その時、私は
神父様と日本のために毎晩祈ります、と約束しました。

50年間、忙しい時や、病気の時もありましたが、祈りを欠かしたことは

ありませんでした。

 『めでたし』の一回しか出来ないこともありましたが、神父様と日本のた

めに祈りました。これからも私の命の有る限り祈り続けます。

それを申しあげたかったのです」と。

                           Photo_4

  私はこの話を聞いて感動しましたと、ヴェンデリーノ神父様は仰って

います。宣教者の方々は、自分の故郷日本に帰ってくるとき、同じような

大きな支えを感じるのではないでしょうか。

 貧しい、未熟な私たちが信仰の面でも人間的にも多くの人々の絆の

なかに支えられ、成長することができた恵みの源泉があります。

  宣教者にとって、主の降誕祭は、宣教の原点を見つめさせてくれます。



  「私が日本に着いたとき、一人のドイツ人老宣教師が『日本の言葉、

文化を大切にしなさい。しかし、それ以上に大切なことは、心がここ

にあることです。これを忘れてはいけません。』と勧められたことを

ヴェンデリーノ神父様は決して忘れませんでした」と言います。



  言語の障害を乗り越えながら宣教者たちは、その国の歴史、人々の

思考様式、習慣を学びます。違っているから悪いのではなく、それはもう

一つの在り方であることに気付き始めます。問いかけ、問いかけられます。

その土地を愛し、人々を愛することを学び始めます。

                     Photo_5

  宣教者の降誕祭は、イエスの中に自分の出発点を見つめさせ、

「キリストの背丈」にまで成長してゆく決意を新たにしてくれます。≫

  この文章を読んで、人は、他者の“祈り”によって支えられていると

感じます。また、これは、祈りが、いかに大切かということでもありま

しょう。

  50年間も、ヴェンデリーノ神父と日本のために祈り続けた一信徒の

行動は、一般には奇異に思われかも知れません。

  しかし、このような信仰に生きる人の姿は、決してもの珍しいものでは

ありません。

 なぜなら、神父と彼の赴任国・日本のために祈り続けた人には、

その祈りを通して、信仰者としての喜びもあったでしょうし、彼はまた、

自分が、神の中に“生きている”という実感も得られたのではないか

と思われるからです。

  その意味で、まさに、人は“祈り”の中に生きているとさえ言えましょう。


  以上の二つのエピソードは、信仰深い国・ブラジルで活躍、かつ尽力して

おられる松尾神父を通して、海外宣教の意義や、人の祈り”の持つかけ

がえのなさを、われわれに教えてくれているように思うのです。 

【つづく】

  

 

 

2012年11月23日 (金)

本日の痛快ブログ(6)

【皆さんへ】

    皆さん、お早うございます。 お元気でしょうか?

  今、衆院選、たけなわです。

ただ、自民党の安倍総裁が、「集団自衛権」や「憲法改正」を公約に掲げ

たり、日本維新の会の石原代表が「日本の核兵器保有の可能性につ

て研究すべきだ」などと、不況にあえぐ国民や、被災地で、まだ仮設住

で生活しておられる20万人以上の方々の心をかき乱すような言辞が勇ま

しく語られています。


  安倍氏や石原氏は、選挙の風が自分の陣営に有利に流れていると

踏んでの強気の発言でしょうが、そこには、まるで、日本が無理やり

中国との戦争に突入させられるような不穏な動きさえ感じられます。

まさに、時代は“戦争前夜”です。


  しかし、じっと目を閉じて、今までの日本が受けた事を考えますと、

日本は、「アメリカ帝国」から、数々の”戦争行為”を仕掛けられてきたと

思います。

  日本は、アメリカの同盟国であるにも拘わらず、彼らにとって日本は、

”搾取”の対象でしかない「属国」(あるいは、属州)に過ぎません。

  まさに、日本は、深い意味での“戦争状態”にあると思うのです。

つまり、どこに対してかと言えば、それは、「アメリカ帝国」に対してです。


  正直、今日は、拙ブログを休むつもりでおりました。

でも、Dr. Iguchi (井口和基氏)がまた、非常に有益な内容のブログを

更新なさいましたので、皆さまにも、是非、お伝えいたしたく、謹んで

転載させて頂きます。 (それは、以下の通りです。)

                                                                  2012年 11月 22日

「東海大地震の危機」を予想する人々:それはあの

カードにあった!?

みなさん、こんにちは。


  私は最近「アダムスキー型円盤」で有名なジョージ・アダムスキーの
本を読んでいるが、実に興味深い。しかしこの話はまたいつかにして
おいて、今回はこれまた実に眉唾もの、トンデモナイ、怪しい代物をメモ
しておこう。

  今回は妄想の類いだから、良い子の皆様や普通の人々はスルーパスを。

––––––––––––––

  まず、東海地震がいつ来るか、という米シオニストNWOによって引き起
こされると目されている巨大地震を警告する人々がいる。以下のもので
ある。それぞれ一部のみ拝借引用しておこう。本文はそちらを見て欲しい。

2012年11月22 東海大地震の危機とは

 “国際評論家小野寺光一の「政治経済の真実」”2012年11月15

『野田解散の背景』

 なぜ、野田が本当に解散に踏み切るかを予測できていたかと

いえば、それは、東海大地震と関係がある。

 株の売買高を見ると、9月26日以降、急激にふくらみ、空売りが

激増していた。ということは、ある勢力の人たちは半年以内に、大き

くJR東海の株価が下がる、つまり東海大地震が起こり、

株価が大幅に下がるだろうと予測している人たち

がいるということである。

 詳しくは、ほかの株価なども見ればわかるが明らかに、東海地方

大震災が半年以内に起こることを前提とした奇妙な動きがある。

 ということは、このメルマガでもあつかってきたが、地震は人為的

にも引き起こせることから、ある勢力は、そうすることを決めていると

思われる。となると来年の3月末までにその大地震が起こるとする

と、米・イ○ラ○ルは今のうちに政権交代をさせておかないといけな

い。

なぜかというと、いざ大地震がおきたら、もう衆議院解散などできな

いからである。

 そして、その大地震がおきたときに、陣頭指揮を執るのは政治的

には政権をもっている政党である。テレビの露出度が高くなるため、

人気が出る可能性がある。

 であるから、地震を引き起こす軍事力をもつ国は、野田に「解散し

ろ」と強く命令するだろう。

 だから今回は、本当に野田は解散をするのだ。


 『国際情報の分析と予測』2012年11月14日付「TPPとオスプレイ:

犯罪国家米国と犯罪組織国際金融資本に大東亜共栄圏はどのよう

な罰を与えるべきか?」

 米国政府はTPP加盟強要・軽自動車規格廃止・米国製自動車輸

入枠設定・簡保などの問題で日本側に理不尽な要求を突きつけ

る。

 特にTPPは日本の国家主権を米国に譲渡するに相応しく、もし日

本がTPPに加入したらISD条項によって日本の国民皆保険や鉄道

輸送などの制度・システムは崩壊させられるだろう。多くの政治家が

反対の声を上げている。

  しかし、野田首相・橋下大阪市長らはTPP賛成の意思を表明し

ている。

彼らはなぜこのような愚かな行動を取るのだろうか?

 その答えは簡単である。
国際金融資本及び米国の国際

金融資本系の有力者が、「TPPに加入しないと地

震兵器などで日本人を大勢殺すぞ」と脅迫してい

のだと思われる。

  寄生先の米国が破綻状態なので新たに日本に寄生することを狙

っているのだ。もし日本人がNOと言えば、東日本大震災・阪神大震

災・日航123便事(地下鉄サリン事件も?)・SARS・HIV(ともに有

色人種の人口を減らすための生物兵器)などの卑劣なテロを彼らが

起こすことは目に見えている。

 しかし、日本の首相らがTPP賛成の意思を表明している限り、国

際金融資本は自らのシンパを攻撃することはないので日本は安全

である。

 いかがだろうか。妄想と一笑に伏していいものかどうか…。

 私は3・11の東日本大震災は、地震兵器による

ものと思っている。直接にはアメリカが、その背後

ではユダ金が諮ったものであろう。


 同じ「国際情勢の分析と予測」のコメント欄に主宰者氏が以下の

ように追加で、したためておられる。

 
「911って日本を狙ったものではないですか?」との質問に、

 「何度もこのブログで述べてきましたが、


 1995/01/17 05:46 (阪神大震災)

 2001/09/11 08
:46 (アメリカ同時多発テロ)

 2011/03/11 14
:46 (東日本大震災)

 西暦の奇数年、月日が奇数と11と0、時間が3で割って2余る数、

分が
46という奇妙な共通点があります。偶然このようなことが起き

るのは一万分の一以下の確率です。
恐らく同一犯行グループ

(国際金融資本・イスラエル連合)による犯行声明だと私は考えて

います。」


 「なぜ国際金融資本がこれほどまでに全世界でテロ活動を繰り返

しているのか? それは、彼らの存立基盤である米国経済が傾いて

いるからに他ならない。恐らく米国政府の心ある人は、日本やドイツ

やロシアや中国や北朝鮮などの反国際金融資本勢力と組んで、

自国を一度崩壊させることで自国に寄生した国際金融資本を根絶

することを狙っているのだと私は想像している。

  そして、その暁には国際金融資本の悪行が世界に公表され、彼ら

は全員が処刑されることだろう。それを恐れているからこそ彼らは

今全世界でテロ活動を繰り返して脅迫を続けているのだと思われ

る。」(2011年11月28日付)

 「国際情報の分析と予測」氏は、
日本は国際金融資本への抵抗の

旗頭であるからこそ、彼らからの攻撃を受ける、というわけなのだろ

う。

 もしユダ金が崩壊するなら誠に願わしいことではあるが…。

 とはいえ、日本が地震兵器で狙われる危機が去ったわけではな

い。

     こんな怪しい予測をしている人たちがいる。

さて、そこで、私はもう1つのまったく別の側面からくる怪しい話を取り上

げる。以下のものである。これも本文はそちらを読んでもらうとして、

一部のみ。

2012年05月29日23:44
イルミナティカードの解読に成功か?
 

※福島原発事故の予言カード

 上記の2枚のカードは、昨年3月11日に津波の被害によって破壊さ

れた福島原発事故の状態を予言したイルミナティカードです。

 今回の手紙の内容によると、この2つのカードの中にも「日付の暗

号」が隠されているようです。

わかりましたか?

※逆さまにすると「311」が出て来る(赤い線)

というわけである。つまり、東日本大震災を黙示していたイルミナティー

カードの背景のどこかに”それとなく”その日付が告知されていたという

ものである。これをもって、イルミナティーカードを解読したというわけで

ある。

  さて、そこでこのアイデアを私が別のものに応用してみよう。そうした

ら「何が出るかな、何が出るかな?」というところである。

以下のものである。
これは「関東大震災」を黙示していると噂されているイルミナティーカード

である。銀座の和光堂

「震災と原発事故はイルミナティ・カードに予言されていた?」:もし

東日本の人々が知っておれば?


DSCF3349_銀座和光堂の時報19時

 

が倒れる姿だと考えられている。

はたしてこの図の中に”それとなく日付が暗示されている部分”なんて

あるのだろうか?ということである。そこで、いろいろと図を逆さまにし

たり背景のエッジの形を調べてみたりしたが、よくわからなかった。

 万策尽き、この図ではどこにも日付など出て来ないと思って最後の

手段として、私がいつもNASAの惑星画像は隠蔽工作するための捏造

トリックが使われている。それを見破るには、ネガポジを取れば良いと

言って来たように、今回もこの「ネガポジ作戦」でいってみると、なんと

そこにはくっきりと日付が浮かび上がったのである。

それも堂々と大きな数字が。以下のものである。

ネガポジ

まあ、なんでもこじつけのように見えるかもしれないが、確かに「111」
の数字が見えるのである。

そこで、来年の2013年と合わせてみると、なんと

2013年1月11日

という悪魔の数字が出て来るではありませんか?

いやー、驚いた。

そこで、最初の記事の話と合わせると、こんな感じになるだろう。

何度もこのブログで述べてきましたが、

1995/01/17 05:46 (阪神大震災)

2001/09/11 08:46 (アメリカ同時多発テロ)

2011/03/11 14:46 (東日本大震災)


2013/01/11 14:55 (新関東大震災)

 西暦の奇数年、月日が奇数と11と0、時間が3で割って2余る数、

分が46という奇妙な共通点があります。偶然このようなことが起きる

のは、先述したように、一万分の一以下の確率です。恐らく同一犯

行グループ(国際金融資本・イスラエル連合)による犯行声明だと私

は考えています。

      ちなみに時刻については、和光堂の時計の「11時10分」か
 「14時55分」の2つの可能性があるらしいが、私は後者を取って
    おいた(*以上、転載終了)



 まことにおどろおどろしい世界です。しかし、私たちは、この峻厳なる
 
現実を、深く認識しなければならないと思います。

  昨日、11月22日は、ケネディ大統領が暗殺されて49年目でした。

 
また、この日は、私の父が瞑目して、ちょうど13年目にあたります。

   拙著『J・F・ケネディ  vs  二つの操り人形 小泉純一郎と中曽根康弘』
 
の中で、私は、自らの「改宗」について言及しています。

  正直、若き日の私は、熱心な日蓮宗徒(身延系)でした。

 
しかし、その私がカトリックに改宗いたしました。私自身、日蓮宗を何一つ
 
イヤダと思ったことはありませんでした。
 
  ”何故、自分は改宗したのか?”と長い間、煩悶しましたが、後年、
 
やっと、或ることに思い至りました。

  それは
”悪魔(の存在)を実感するためというものでした。

 
悪魔の存在を知るということは、同時に”神の存在”を実感することでも
 
あります。

  欧米文明や、その〝裏面”も、ある程度「キリスト教」を知らなければ、

なかなか掴めません。

  端的に申し上げて、私は、「国際金融資本」は、
目に見える
”悪魔”
だと思っています。



  正直、私は、キリスト教に親しみ、入信できたことによって、神や悪魔

 
の存在を実感できました。

  この世には、悪魔もいますが、究極的に、この世を支配しているのは、

 
“神”なのだと思うのです。
 
  私は、神こそは、真・善・美、正義、それに”愛”なのだと実感いたします。
 
  【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年11月22日 (木)

水浦征男師の『この人』(17 )

  「人は、見掛けによらぬもの」とは、よく言います。 

人間の表面と内面は、どうも違うようです。 

勿論、人の心は、その人の顔や表情に、よく表われるものです。 

 でも、その表面的、あるいは外面的なイメージばかりに囚われすぎますと、

私たちは、いきおい、人の”本質”を見誤ってしまいます。

 

  本日、ご紹介します方は、生前、たいへんな毒舌家で勇名を馳せた方

です。でも、その洒脱さは、当代随一だったと思います。 

反面、その個性の強さは、一般の方々の反感を買ったかも知れません。 

 つまり、同氏ほど、ファンとアンチ・ファンに分かれる人も珍しいのではな

でしょうか。

 

 でも、そんな個性的な彼にも、実に意外な一面、あるいは意外な「言葉」

がありました。 

  その言葉を自然に引き出した水浦師のインタービュアーとしての心の深

さと広さに、私は、心から感動しました。 

  それは、次のようなものです。






  現代こそ宗教が必要と思う

 

                                落語家 立川談志さん

 

 

  四年ぶりに、落語家立川談志師匠が長崎を訪れた。今度の旅行は、

母親と二人きりの親孝行の旅。弟子も付け人もいない、親子水入らずの、

長崎の休日だった。

                Photo

 あいにく長崎は雨だったが、「雨は大好きなんですよ。雨の音を聴きなが

ら寝るのは最高ですね」と満足気だった。

  プライベートな旅とはいえ売れっ子だけに、周りが黙って遊ばせてはく

れない。

 

  長崎市公会堂のそばにある小料理屋で、さっそく落語の会が開かれた。 

  若い男女二○人余りが、談志師匠の話に熱心に耳を傾けていた。 

その席に、師匠が参院選に出たとき以来の、友人というお坊さんと、カトリ

ックの神父がいることにふれて、こう言った。

              Photo_2


 「坊さんや神父がいるから言うんじゃないんだが、現代こそ、宗教が必要

だと思う。現代人を救えるのは、宗教しかないと思う」

  これ以上具体的な宗教の話は聞けなかったが、後日、質問すると次の

ような答えが返ってきた。

 

  「(宗教は)当然必要であると思い、語っているのですが・・・・。 

日本人は宗教を相対的にとらえているわけです。その辺が、西洋の神、

宗教との相違でしょう。とはいうものの、私の頭の中の整理が、(まだ)

できません」

 

  どうやら、談志師匠にとって、宗教とは、という質問は、大きすぎたようだ。 

  では、今、世間で騒がれている教育問題はどうか。 

「人生に、『基準』というものがなくなった。あるとしたら、東大出身、一流

企業、という基準のみが、強く生活の中にある。

 

  これがある以上、試験地獄は解消できない。しかし、結論としては、教育

大丈夫のように思える。これからの女性に私は期待しています」 

  立川談志師匠は、3年前、落伍協会から破門され(脱退し)、家元制の

立川流を起こした。

                     Photo_3
 

  この制度にはA (弟子)、B(門下生)、C(研究生)、の三コースがある。 

Bコースには、ビートたけし、山口洋子、横山ノックといった、芸達者な

人気者がいる。

 

  立川流旗揚げ後の歩みは、順調だ。これからの落語については、「伝統

を現代に」の限界が、見えてしまい、「伝統と現代」だという。 

  つまり、「落語とは、現代を現代人が現代語で語るものであり、あとは、

『古典落語保存会』と呼ぶべきものにすべきでしょう」

 

  現代の“語りべ”・談志師匠は、落語に対して、常に、疑問を投げかけ、

それとの葛藤の日々を送っている。 

  「これも神が私に与えてくれた試練であり、幸福、生きる喜びであると

感謝しています」と結んだ。≫     (『聖母の騎士』1985年9月号)

              Photo_4


   最後の言葉など、”えっ、これが、談志師匠の言葉?”といぶかしがら

れる方も多いかと存じます。 

  まさに、「人は、見掛けによらぬもの」、あるいは「事実は、小説よりも

奇なり」なのかも知れません。

 

  しかし、水浦師との対話の流れからしますと、この談志師匠の言葉は、

たいへん自然な感じがします。

  事実、一連の談志師匠の言葉は、すでに30年近く前のものです。でも、

本質的に、この思いは変わらなかったのではないかと感じます。

  とりわけ、「現代こそ、宗教が必要と思う」という思念は、同師匠にとって、

生涯、変わらないものだったのではないでしょうか。

  それは、もはや、「人は、見掛けによらぬもの」ということではなく、

むしろ、「人の本心は、そう簡単には分からぬもの」とでも言うべきもの

かも知れません。

                         Photo_5

  天才肌でもあった談志師匠は、それを端的に表現した大人物だったと

思います。

 先述しましたように、水浦師との、このエピソードは私に、一つの

大きな感動を与えてくれました。

  さて、皆さまにとっては、如何だったでしょうか? 



   因みに、昨日(11月21日)は、談志師匠の一周忌でした。

これも、何かの“縁”だと感じます。

 今、きっと天界で、様々な師匠たちと一緒に、天界のお客さんたちの前で、

いつもの楽しいお噺をなさっていらっしゃることでしょう。

 談志師匠の、屈託のない笑顔が偲ばれます。  【つづく】

 

2012年11月20日 (火)

水浦征男師の『この人』(16 )

 

  「高田敏江(*下の写真)という女優さんがいます。若い方々は、

余りご存知ないかもしれません。でも、ある程度の年配の方々なら、

ご記憶の方々も多いと思うのです。

             Photo


  高田さんは、カトリック信者のお一人です。

次の文章が、高田さんの受洗の経緯を物語っています。




  深い悲しみを乗り越えて―

 

                               女優 高田敏江さん

 

  「教会に行くと落ちつけますし、気持ちがとてもなごむので、ああ、

もしも自分が信仰の道に入ってなかったら、どうなっていたかわからな

いうのが実感です。 

  まさに、〝一粒の麦、もし死なずば・・・・”の言葉通りですね 」

         Photo_6

  二年前、突然、最愛の夫を亡くした女優・高田敏江さんは今、自分の

信仰への道を振り返りながらこう言う。 

  高田さんのご主人は、社会心理学者として広く知られた相場均先生

(早稲田大学教授)である。

                       Photo_2


  先生は学生時代からのカトリック信者だった。相場先生と敏江さん

夫婦は、人もうらやむほどのおしどり夫婦。それが15年間続いた。 

  しかし、何故か高田さんはカトリックの信仰へ入ろうとしなかった。

 

  「クリスマスとか復活祭には『一緒に教会に行かないか』と誘ってくれま

したし、私も時々ついて行きました。 

  けれども、主人は一度も洗礼を受けなさい、とは言わないんです。 

そのかわり、息子がよく、ママ、洗礼受けなさいよ、と言ってたんです。 

  それでも頑として私、受けずに、ずうっときてたんですが・・・・」  



  ところが、昭和51年4月、相場先生の母親 とよさんが亡くなった。
 

このとき、先生はめずらしく、「敏江も洗礼を受けたら」と声をかけ、 

高田さんも素直に、「そうね」と答えた。 

  「私が交通事故か何かで死んだとき、私だけ無宗教だったら、お墓が 

困っちゃいますものね、お葬式用に洗礼受けようかしら、なんて言ってし

まったんです」

  この年の夏、相場先生の学会がヨーロッパで開かれ、敏江さんも

お伴することになった。

 

  善は急げ、というご主人のすすめで、彼女は、その旅の途中、洗礼を

受けることに決めた。

  こうして、ロンドン市内のファーム・ストリートの教会で、7月25日に受洗。

                          Photo_3


  ところが、帰国した高田さんを待ちうけていたのは相次ぐ身内の死だ

った。

  共にヨーロッパ旅行を楽しんだ義弟・川中康弘氏の急死の知らせが8月

28日。その6日後の9月3日には、夫・相場先生が帰らぬ人となった。

  「お葬式用に・・・」と言って受けた高田さんの洗礼は、まったく予期しな

い形で、いかされることになった。

  高田さんは今、夫の死後わりあい早く立ち直れたのは信仰のおかげだ

と、感謝している。また、自信をもって言い切る。

  「どうしようもない、ほんとにダメな人間だから神さまにおすがりするんだ、

ということが、今なら言えるんです」

  夫の三回忌を迎える高田さんの表情は明るい。 ≫

                          (『聖母の騎士』1978年9月号)

                                 Photo_4


  私の大学時代の指導教授・田中靖政先生が、「社会心理学」の専門家

だったものですから、相場先生のことも、それなりに知っていました。

内心、たいへん素晴らしい学者だと思っていました。

  それだけに、先生の突然の訃報に接した時は、正直、とてもショック

でした。当時、“惜しい方を亡くした”という無念な思いを抱いたことを思い

出します。


  直接、面識の無い私でさえ、そんな思いでいたくらいですから、奥様で

ある高田敏江さんの驚きと悲しみは、如何ばかりだったでしょうか!

  でも、「夫の三回忌を迎える高田さんの表情は明るい」との言葉に、

何か救われる思いがします。そこに、“信仰の力”を感じます。

  また、「どうしようもない、ほんとにダメな人間だから神さまにおすがり

するんだ、ということが、今なら言えるんです」とのお言葉も、たいへん

素晴らしいと思います。

          Photo_5

  正直、なかなか言えない言葉だと感じます。

でも同時に、素直にこう言える高田さんのご信仰は、本物 だと思うのです。

 【つづく】

2012年11月19日 (月)

本日の痛快ブログ(5)

   このような「冤罪」事件がまかり通る犯罪国家・

日本なんか、もう真っ平御免!


 【皆さんへ】


 お早うございます。 皆さん、お元気でしょうか?

先日、NHKの看板キャスターの一人・森本健成(たけしげ)氏

(*下の写真の人物)が、「車内痴漢容疑」で逮捕されました。

            Photo

         

  この一報に接し、皆さんは、一体、どんな感想や印象を持たれた

でしょうか?

  「ニュース」を、そのまま鵜呑みにされましたか?

  正直、私は、「また、でっち上げ事件(=冤罪)か!」と思いました。

  私は、森本氏を、全面的に信じます。彼が、このよう

な事件を犯す人物は、到底思えません。この事件も、 

全くの”冤罪”だと思います。

  同事件に関しましては、すでに高橋博彦氏始め心あるブロガーが言及し

おられます。

  本日は、この”青天の霹靂”とも言えるでっち上げ事件の“裏事情”

つきまして、ある痛快なブログをご紹介したいと思うのです。


  ところで、Dr.Iguchi (井口和基氏)は、昨年の3.11の「人工地震」を、

前日に予告した物理学者として、皆さまにも、拙ブログでご紹介した方です。

  同氏とは、小沢一郎氏に関する見解だけは異なりますが、その他のこと

に就きましては、おおよそ共感できるものばかりです。

  今回、そのDr.Iguchi が、次のようなブログを掲載して下さいました。

すでにご存知の方も多いかと存じますが、下に、謹んで転載いたします。

  とても個性的な文章ですが、些か過激(?)で、きわめて長い文章です。

しかし、今回の”でっち上げ事件”の真相を深く認識する上でも、非常に

貴重な文章内容です。どうか、じっくりとお読みください(以下、転載)

ひるむなNHK正義派!神様は見ているゾ!:

「東電検証番組への報復行為」か!?

  みなさん、こんにちは。

いやはやすでに「エンザイ」という言葉は英語になっているというほど、

 
世界中に知られている。ちょっと前の植草教授の「手鏡事件」、そして
 
今回のNHKキャスターの「痴漢事件」。

NHKアナ、痴漢容疑で逮捕=「おはよう日本」担当—警視庁

 電車内で女性の体を触ったとして、警視庁玉川署は15日までに、 

強制わいせつ容疑で、NHKのニュース番組「おはよう日本」担当の 

アナウンサー森本健成容疑者(47)=千葉県浦安市日の出=を現 

行犯逮捕した。同署によると、当時酒に酔っており、「触った覚えは 

ない」などと、容疑を否認している。

 逮捕容疑は14日午後7時45〜55分ごろ、東急田園都市線渋谷—
 

二子玉川駅間を走行中の急行内で、都内に住む女子大学生(23) 

の胸を触った疑い。

 同署などによると、森本容疑者は14日正午すぎまで東京・渋谷の
 

NHK本部で番組の打ち合わせをした後、同僚数人と酒を飲んで帰 

宅する途中だった。 

 被害に遭った女性がその場で取り押さえ、二子玉川駅員に引き 

渡したという。

        こういったものもエンザイ(えん罪)のにおいがぷんぷんする。


          さて、警視庁という組織は、自分だけかっこ良くしようと思って、

 
      普通なら「都警察」とでも呼ぶべきところを「警視庁」などと呼んでいる
 
   わけだ。本来なら、「警察庁」が「警視庁」という名を持つべきであって、
 
       「警視庁」は「東京都警察」で十分なのだ。

          そんなところからも連中の高慢度が分かるというものである。

          さて、警視庁の警察官はよほど暇なのか、痴漢を取り締まるばか

   りで一向に
在日特ア人の犯罪を取り締まらない。


           だいたい「18歳未満の女性」との淫行に対して、「青少年育成条

 
       例」を成立させるのがもっとも遅かったのが、東京都であった。
 
     その理由は、単に売春組織からのお願いであったという。
 
   連中、在日が作る「Vパラダイス」のC級映画でも、警官がソープランド
 
   でお世話になっているというような場面は頻繁にある。


           そんな場所の警察が、胸触ったくらいでとやかく言う筋合いはない。

 
   服の中に手を入れたというのならともかく、満員電車や揺れる電車バ
 
   スの中で、とっさの反応としてだれかを触って自分が倒れるのを防ぐ
 
       というのは自然な反射である。その場合に、運悪く前の女性の胸に
 
       触れてしまうということだってありえる。


           大昔に、何かの過ちを犯した女性に石をぶつけている人々に、

 
   イエスキリストが、”あなた方も自分の胸に手をあてて考えてみなさい。
 
   だれもが罪を犯している。だれもその女性に石をぶつけることはでき
 
   ないはずだ”というようなことを言ったという話がある。


         服の上からはずみで触ったような行為にいちいち目くじらを立てる、

 
   状況を考えもせずに大騒ぎする、そんな日本女性はいない。
 
    昔から日本女性はそういうことには大らかである。いまもそうである。
 
   たまたま起こったことに大騒ぎする方が恥ずかしいのである。


         ところが、例えば、電車の中で女性のパンツに手を入れる、見えない

 
   場所でセックスする、服の下から手を入れるというような過激なことを
 
   するのが、在日の犯罪組織である。

    連中は警視庁から無罪放免になる
ことを知っていてやっているわけ

 
   だ。悪質な痴漢行為、変態行為、女性の敵とは、こういう連中のこと
 
   である。

 
    こういう連中を野放しにしておいて、年にそうない機会の仲間内の
 
   宴会で酒飲んでいい気持ちになって電車に乗り、たまたま人の胸を
 
   触ったと言われ、騒動に巻き込まれる。これぞえん罪である。

     酔った人がたまたま自分の胸の上に手を置いたとしても日本人

 
   なら目くじらは立てない。すみませんと言えば、お互い様ですぐ終わ
 
   るからである。


     こういう常識からして、このような有名人の痴漢逮捕事件には、さ

 
   れたという側、そしてその近くにいて逮捕に協力した人間、そしてそい
 
   つらの回りで都合良く事件のそばにいた警官、こういう連中が全部グ
 
   ルだったという可能性が一番高い。
 
     要するに「マッチポンプえん罪」なのである。


    ちょっと前の大阪の痴漢事件では、「美人局の電車版」であった。

 
   捕まえる男が痴漢されたと騒ぐ女性の男で、因縁つけるための事件
 
   だったのである。

       まあ、いずれにしても、こういうものは朝鮮人の手口である。

        今回はどうやら
NHKが原発問題を実に公正に検証す

 
  るという番組公開した ことが直接の原因だと考えるのが
 
       理に適っているようである。

      その検証番組に今回逮捕された森本キャスターが入っていたとい

    うのである。 

       そこで結構東電に厳しいことを主張したらしい。それはそうだろう。
 
        理大出身者だから物理は必須科目である。理科大はどの学部学
 
        科でも1年時には物理実験は必修科目である。 

           私も理科大出身者で
ある。よく知っている。

         さて、そんな状況を見事に語るものを見つけたので、ここにもメモ

 
    しておこう。

       つむじ風氏のところにある以下のものである。これは長いので、

 
   詳細はつむじ風氏のものを見てもらうとして、この検証番組の司会を
 
   していたのが、森本キャスターだったようである。

NHK森本健成アナ痴漢逮捕に冤罪?! -関連情報-

【動画&スクリプト】NHKスペシャル 原発事故調 最終報告 〜解明された謎

 残された課題〜
 

 原発事故調 最終報告

~解明された謎 残された課題~

森本健成 (NHKアナウンサー)

こんばんは。

 1年4カ月がたって、今もなお16万人を超える人たちが、避難生
 

活を続けています。

事故はなぜ起きたのか、

食い止めることはできなかったのか、

わたしたちは多くの疑問を持ち続けています。

 こちら、まんなかにあるのが、きのう発表された政府の事故調査
 

検証委員会の報告書です。

 448ページにわたる報告書では、いったいどんな謎が解明されて、

どんな課題が残されているのでしょうか?

森本健成 (NHKアナウンサー)

  では、政府事故調の報告から、事故を起こした福島原発で、いっ
 

たいが何があったのか、まずみていきます。

【メルトダウンと爆発 防げなかった元凶とは】


森本健成 (NHKアナウンサー)

  うーん、こうしてみると、なぜ、現場で働く、その、原発に詳しい人
 

が…という疑問を持たれた方も多いと思います。

  テレビの前では、再稼働の問題は、どうすればいいんだろうか?

あるいは、原発の将来は、どうあるべきなのか?

   いろいろな疑問を持ちながら、見てらっしゃる方、多いと思いま
 

す。

そうした疑問にも、調査を続けてきたみなさん、いったい、どんな考
 

えを持っているのか、後ほど、聞いていきたいと思います。 

   まず、政府の事故調の委員長、畑村さん、

一年あまりの、この調査、続けてこられてきて、今、まず何を感じて
 

いらっしゃいますか?

森本健成 (NHKアナウンサー)

  はい、そして、同じく、委員の柳田邦夫さん。

その、原子炉、1号機、2号機、3号機、3つの原子炉を調査してみて

わかったことっていうのは、どんなことですか?

森本健成 (NHKアナウンサー)

はい。

さて、事故の分析に関しては、国会の事故調、それから民間の事故

調でも報告されています。

えー、それぞれの特徴を、まず、国会事故調の黒川清さんに聞きま

 す。

森本健成 (NHKアナウンサー)

そして、民間事故調の報告の特徴を、北澤宏一さんに聞きます。

森本健成 (NHKアナウンサー)

この、燃料として残されている核燃料と、その、使用済み核燃料と
 

の、量っていうのは、どうなんですか?

森本健成 (NHKアナウンサー)

うーん、畑村さん、こうした、その、事故の分析から、改めて本当に
 

わかることっていうのは、どういうことなのでしょうか?

森本健成 (NHKアナウンサー)

みんなが共有していない?

森本健成 (NHKアナウンサー)

  うーん、避難しているみなさんの苦しみというのは、今も続いてい
  

ますし、さらには、いつまで続くか、これ、わかりませんよね。

   アンケート調査を行った国会事故調の黒川さん、

みなさんの切実な声から、どんなことが明らかになってきたんでしょ
 

うか?

森本健成 (NHKアナウンサー)

実際に?

森本健成 (NHKアナウンサー)

そこが、やはり、アンケートから見えてきた、避難の問題というところ

なんでしょうか?

森本健成 (NHKアナウンサー)、

まさに最初でみてきたような、VTRでみてきたようなことですね。

森本健成 (NHKアナウンサー)

ああ。・・・・

森本健成 (NHKアナウンサー)

畑村さん、何か補足はありますか?

森本健成 (NHKアナウンサー)

はい。

まず、事故の分析をみてきましたが、

続いてみていくのは、住民避難の問題です。

これも大きな問題としてクローズアップされました。

  なぜ、避難は混乱したのでしょうか?

報告書は問題の根源に迫っています。


【避難混乱と被ばく 根本原因とは?】


森本健成 (NHKアナウンサー)

わかりました。

ま、ここまで、事故の分析、それから避難の問題と、みてきたんです

が、わたくし、こう、一番強く、感じるのは・・・。

事故が起こる以前に、なぜ、こう十分な対策がなかったのか、という

ことです。

報告書は、この問題に関して、鋭く切り込んでいます。


森本健成 (NHKアナウンサー)

   
安全、安全と言っていたこの裏で、こんなことが行われていたの

かと、こう、怒りを覚えた方も多いと思うんですが。

あの、民間事故調の報告書でも、北澤さん、この規制の在り方につ

 いては、ふれていますよね、問題視していますが。・・・・

森本健成 (NHKアナウンサー)

空気を読むって、ふつうは、いいことに使いますけれども、


そこがいけないわけですね。


森本健成 (NHKアナウンサー)

まあ、当然、非常に根深い問題ですが、


このままでいいわけはありませんよね。

とすると、いったい、どうすればいいのかっていうの、

ぜひ、みなさんから、お聞きしたいんですが。

森本健成 (NHKアナウンサー)

柳田さん、規制する側とされる側っていうのは、どうあるべきなんで

 しょうか?

森本健成 (NHKアナウンサー)

原子力の分野でも作り上げていかなきゃならない。

森本健成 (NHKアナウンサー)

はい。

では、調査を続けてきて、いったい、今後にどんな課題が残されて

 いるのか、というのをお聞きしたいんですけれども、 北澤さん。

森本健成 (NHKアナウンサー)


【情報の伝え方】


森本健成 (NHKアナウンサー)

平時から、ということですね。

森本健成 (NHKアナウンサー)

次の機関っていうのは?

森本健成 (NHKアナウンサー)

はい、みなさん、今夜はどうもありがとうございました。

今もありましたように、報告書が出ても、そこで示された多くの教訓

 や提言、実行に移さなければ、意味がありません。

政府や電力会社には真摯(しんし)な対応が求められています。


そして、いまだに残る多くの課題や疑問。ー

これを解決するための調査を、さらに続けていかなければならな

い。報告書は、強く求めています。

          NHKの”仕事”として福島第一原発の検証番組をたまたま担当し
 
   たら、逆恨みされて「乳もみえん罪」にされては困るナア。

    それほど関東一円に住む
人々にとってはすばらしい検証番組だっ

 
       たわけだ。

         それをこうやって即日に「えん罪事件」を仕込むとなれば、むしろ

 
   逆効果だったな。明らかに在日の仕業である。それも日本の上層部
 
   に仕込まれた工作員の在日の仕業である。警視庁の中の「朝鮮進
 
   駐軍」
   というような組織がいるということである。実際、この周りの連中の
 
   目つきと日本人を見下すような雰囲気はまさに朝鮮進駐軍

朝鮮進駐軍  

拡散希望:「朝鮮進駐軍の非道を忘れるな」  

朝鮮進駐軍の非道を忘れるな 1  

朝鮮進駐軍の非道を忘れるな 2

        に瓜二つ。

      

      ついでにもっと怪しい話をしてやろうか。 実は福島第一原発の地下

 
  には関東一円を通る地下水脈があると言われている。一時、メルトダ
 
  ウンした核燃料が地下数百メートルの地下水源とそこのメタンハイド
 
  レードにたどり着き、それが爆発したのではないかという説がノルウェ
 
    ーの科学者が唱えたことがあった。
 
     このように、地下水脈に放射性物質が入り込めば、たちまちのうちに
 
  関東一円の地下から放射能が湧き出て来るわけだヨ。これがいかに
 
  恐ろしいかわかるか?


   だからこそ、こういった公正な検証番組は価値があるわけだが、自分

 
  たちから、そういう番組を「作るな」というNHKへの警告として脅すという
 
  のであれば、もはや救いようがない。俺は知らねえーゾというわけだ。
 
   東大出身の馬鹿物理学者たちの御用学者意見に従えばいいわけだ。


        まあ、そんなわけで、物事の時間的流れ、文脈から判断すると、

 
   あきらかに「NHKが東電福島第一原発検証番組をし
 
  たことへの報復行為」だったと結論できるのである。
 
    悪辣非道とは、こういうものをいう。

 

    この後に及んで、まだこんなことをやっている。またその手下として
 
  無批判に手を貸す警視庁も警視庁である。

    てめえの一生がかかっている問題をえん罪で吹き飛ばせるものか!

      この、馬鹿者めが! 放射能で吹き飛ぶのは関東一円なんだヨ。

      へい、ジョセフ・ナイ博士、ドナルド・カーティス博士、いい加減にしろ。

 
   ヘイ、ジャパンハンドラー、お前らもいい加減にしろ。正しいことをやっ
 
   ている日本人を逮捕し、邪悪なことをやっている在日や売国奴を援助
 
   してどうする!


      こういう連中を野放しにしていれば、いずれアメリカにも害が及ぶの

 
  は目に見えている。サムソンを見ろ! 平気でアップルに戦争を仕掛け
 
  ている。

       終戦直後、朝鮮進駐軍は米兵MPも多数射殺したという。かならず

 
  しっぺ返しが来るはずである。


       もうちょっと日本やアジアの歴史を学べ。どこに真実や正義や美が

 
  あるか。

     
それはすべて我が国日本にある。
しっかりしろヤ。

       おっといけねー、どうでもいいことを書いちまったヨ。

    まあ、おれの妄想だから、「信じる信じないはあなた次第です」ゾ!

       いずれにしても、NHKの美人キャスターに取り囲まれているNHKの

 
  キャスターが電車の中のだれともわからない女の胸を触る理由がない。
 
  NHK美人キャスターとちちくりあえばいいわけだヨ(*以上、転載、
 
 終了)

 

  文章表現に多少の難はありますが、その中から得られる”真実
 
 たとえ、それが、「仮説」というものであれ)という宝物は、たいへん貴重
 
と思います。
 
 このような「冤罪」事件がまかり通る犯罪国家・日本な
 
ど、もう真っ平御免です。
  もはや、これ以上、良心的な人物が、”犯罪者”たちに
よって、貶しめられるべきではありません。
 
 とりわけ、正義感に満ちた森本氏は、植草氏同様、
 
名誉を回復され、正当に復権されるべきだと思うの
です。 【了】 

 

   

 

 

 

 

 

2012年11月17日 (土)

水浦征男師の『この人』(15)

  私が初めて「ダミアン神父」の名前を知りましたのは、1976年頃のこと

でした。 

 確か、NHKの「日曜美術館」でしたか、「病醜のダミアン」という彫刻

作品(*下の写真)が話題になっていました。 その制作者が、舟越保

武氏(1912~2002:2枚目の写真の人物)です。

              
             
                           Photo_8



  その時、ハワイのモロカイ島で司牧していたダミアン神父が、敢えて

患者と同じハンセン病になられたことに、私は、たいへんなショックを味

わいました。 

  まさに、それを“神さまからの勲章”と感じた同師の信仰的、あるいは

思想的深みなど、当時、知る由もありませんでした。

 

  また、『二つの勲章~ダミアン神父の生涯~』という優れた作品を物さ

た柳谷圭子さんのお心が清澄でなければ同著を書けないのと同様、

「病醜のダミアン」も、同様の苦しみを同感できる方でないと、これ程の

創作は不可能だと感じます。

  舟越氏は、1950年、ご長男が生まれてまもなく急死したのを機に、

自ら洗礼を受けてカトリック信者となりました。

  それから、キリスト教信仰やキリシタンの受難を題材とした製作が増え

ます。Photo_7

「病醜のダミアン」や「長崎二六聖殉教者記念像」、それに「原の城」など

は、まさに、その典型と言えます。

  その舟越氏が、水浦師のインタビューに答えています。

それは、次のようなものです。 

 

   「名もない石工になりたい」

 

                                          彫刻家   舟越保武さん

 

  彫刻家・舟越保武と聞いても、ピンとこない人がいるかもしれません。 

長崎・西坂の丘の日本二六聖人のブロンズ像を作った人が、舟越さん

です。 

  この舟越さんが、先頃昭和五二年度の芸術選奨の文部大臣賞を受

けました。

 

  この賞の特色は、賞をもらうための運動をした人には、絶対に賞を与

えないことだそうです。 

  その道のトップクラスの人しか受けられない、貴重な賞であることは間

違いありません。

  舟越さんの作品には「長崎二六聖殉教者記念像(*下の写真)原の

城」「病醜のダミアン」など、数々の個性的な傑作があります。

           26

 

 

                     Photo_11


   それにもかかわらず、舟越さんはこんなふうに、現在の心境を話してく

れました。 

  「近代から現代にかけて、いわゆる“個性的な””この作者らしい”とい

う作品は多いですが、こうしたものを、むしろ私は否定してしまいたいで

すね。

 

  昔のいい作品は、ゴシックでもロマネスクでも、”だれそれの作”という

のではないんです。作者のおしゃべりが作品の中にないんですね。 

  私は、作られる形に、一人の作家の名前がしるされることがない方が

よいと思います。昔の本当に、名もない石工というか、職人といった人た

ちの仕事に近づきたいものですね」

 

  とつとつとしゃべる舟越さんのお言葉のはしばしに、その性格がにじみ出

きます。 

  「現代は、ちょっと、意地汚いというか、世知辛いと思いますね。自分の

名前を出すということが、かなり大きな目的になってしまって・・・。

  道端のお地蔵さんには、石工の名前はないんですね。個性的な、表現に

クセのある、というものではなく、もっと平凡な、何でもないものを作らなき

ゃいけない、と思うんです。古い歴史をさかのぼってみたいですね」 

 

  名もない石工のようになりたい、という舟越さんだからこそ、芸術選奨に

ふさわしいのかもしれません。 

  また、この彫刻家が、クリスチャンであることも、つけ加えておかなけれ

ばなりません。 

  しかし、舟越さん自身は「カトリック信者」というレッテルで、見られるのは

好きではないようです。 

  「評論家や美術家仲間から、よく”敬虔なクリスチャン”と言われるんで

すね。 

 熱心とか、敬虔とか言われると困るんです。ふだんも、敬虔だ、と見られ

ると窮屈なんですよ。本当の私は、だらしのない怠け者です。

 

  ただ、それでも、日頃のだらしなさを補うくらいの気持ちで、10年周期くら

いに、まじめな作品を創ってるんです。しかし、やはり、こんな不信心な者

はいないと思いますよ」 

  あくまで謙虚な舟越さんでした。≫    (『聖母の騎士』1978年5月号)

 

  この「名もない石工になりたい」という舟越氏の”謙遜さ”は、同氏の深い

信仰と精神性から来ていると感じます。

  そこには、”すべての栄光を神に!”という無心・無欲な人間の理想的な

姿さえ感じられます。

  この思いはまた、すべての悲惨さや悲しみ、それに試練を”神からの

勲章”考えたダミアン神父の心にも通じます。

  実際、1987年、舟越氏は、脳梗塞で倒れました。それで、右半身が麻

痺し、懸命のリハビリの結果、亡くなるまで、左手のみで創作活動をしま

した(*下は、舟越氏の創作中の横顔)

 

 Photo_10

  人の偉大さは、順境の間に分かるものではなく、むしろ、逆境の中でこ

そ、証明されるものだと思うのです。

  舟越氏も、きっと自らの障害を”神さまからの勲章”だと考えられたの

ではないでしょうか。

  それ程の深い信仰がなければ、同氏の最盛期の偉大な作品群も、

また晩年期での意欲的な創作活動も有り得なかったと思うのです。

  【つづく】

 

 

 






 

2012年11月16日 (金)

水浦征男師の『この人』(14)

  ダミアン神父について(完)


   1881年。ハワイ王朝のカラカウア王は、世界一周の旅に出掛けました。 

王に代わって国を守るのは、摂政に任じられた王の妹リリウオカラニ

(*下の写真)でした。

                        Photo

               
    

            

  ダミアンの噂を以前から耳にしていた彼女は、いつか早い機会に施設を

視察したいと思っていました。 

  同年9月15日。リリウオカラニの乗った船は、モロカイ島のカラウパパ

半島の沖に、錨を下ろしました。 

 

  歩ける患者はすべてカラワオの港に出て、摂政リリウオカラニを歓迎し

ました。 

 ハワイ国歌が演奏され、小旗が打ち振られる中を、リリウオカラニの

ボートは、カラワオの港に着きました。 

  こんなにたくさんのハンセン病患者を見たのは初めてだったリリウオカ

ラニは、動揺を隠せませんでした。

 

  ハワイ国歌を演奏する患者たちの表情が明るかっただけに、彼女は

余計に胸を打たれました。挨拶をしようとした彼女でしたが、涙にむせん

で何も言えませんでした。 

  彼女の訪問は、最初2時間とされていましたが、それを大幅に変更して、

彼女は熱心に施設中を見て回りました。

 

  病院では、港まで来られなかった重症の患者たちと会いました。案内の

ダミアンが、身をかがめて患者のかすれた声を聞いている姿に接して、

リリウオカラニは、新しい涙を、止めることができませんでした。

 

  彼女は、ダミアンにいいました。 

「ダミアン神父さま。あなたがどうしてここに留まり、これだけのことをな

されたのかわからないほどです」 

  ダミアンは、いぶかしげにいいました。 

「でも、それは当然です。彼らは、わたしが神から任された羊なのですから」 

  リリウオカラニは、初めて微笑みました。 

「そう、あなたの羊たちです。そして、わたしの国民です。・・・・」

 

  彼女は、ダミアンに温かいメッセージと共に、光輝く勲章を送りました。 

「わたくしは、あなたが不幸なわたくしの国民に対して、英雄的な犠牲と

奉仕を払われたことに、深く感謝します。 

  わたくしは、あなたがあなたを教え導かれる神以外からの、どんな報い

もまったく期待していらっしゃらないであろうことを、よく知っています。

 

  先日モロカイ島の施設を視察した際、あなたがわたくしの国民に、どれ

ほどの愛情を持って接していられるかを、親しくつぶさに拝見して、いっそ

うその感を強めました。 

  ですが、敬愛する神父さま、わたくしの熱心な願いを満足させるために、 

わたくしの謝意と尊敬をこめた、カラカウア勲章を是非お受け取りください。                                           

                                 摂政 リリウオカラニ」

 

  ところで、ダミアンは、モロカイ島に渡った当初から、この島にシスター

がいてくれたら、と願っていました。 

  1883年12月、マザー・マリアンネ・コップを含め6人のシスター(*下の

写真)が、ホノルルに着きました。 

  彼女たちが、モロカイ島で、ダミアン神父を支え、多くの患者たちの

看護に専念しました。 

       Photo_13

     Photo_14
     (*指導的な立場だったマザー・マリアンヌ・コップ・・・・

         彼女も、現法王によって「列聖」されました。)


  「カラカウア勲章」を“人からの勲章”としますなら、もう一つ、”神から

の勲章”が、ダミアン神父に与えられました。 

  それは、1884年12月のある夜のことでした。 

その夜、ダミアンは、疲れていました。 

(熱いお湯で体を拭いたら、さっぱりするだろう) 

そう考えた彼は、やかんでお湯をわかしました。お湯がわく間、ダミアン

は、本を読んでいました。

 

  けれども、つい読んでいる内容に気を取られて、火にかけたやかんの

ことを忘れていました。 

  シューシューという音に気づいたとき、やかんの水は、ぐらぐら沸騰し

ていました。 

「大変だ。やかんのことをすっかり忘れてしまった」

 

  ダミアンは大あわてで火を止めましたが、余りにあわてたので手が

すべり、熱湯を足にこぼしてしまいました。 

  ダミアンは、はっとしました。たちまち、足は真っ赤になりました。 

けれども、初めの驚き以上の何かが、彼の心を凍らせました。

 

  何と、やけどをしたはずの足に、熱いという感覚がなかったのです。 

感覚の麻痺。神経が病原菌に冒されたのです。 

  これこそハンセン病の、最も大きな特徴の一つではなかったろうか?

 

ダミアンは、水膨れのできた足を、呆然と見つめていました。

  以前から、ハンセン病の兆候はありました。モロカイ島に来る前から、

ハンセン病患者との接触もありました。

 

  ハワイ島で顔を近づけて彼らの告解を聞いているときなど、足がヒリ

ヒリするような感じを、覚えたこともありました。 

  モロカイ島へ来て一年たったころ、足が熱くて、水で冷やさなければ

ならないこともありました。 

  左足に激痛が走り、パリ(=崖・断崖)を登れなくなったりもしました。

皮膚が乾いて、黄ばんだ斑点が出たこともありました。

 

  じつは、「この日」が来ることは、彼には、わかっていました。 

それでも、このときダミアンは、心を平静に保つ力を願わずにはいられ

ませんでした。      


  翌朝、ミサの中で、彼はいいました。 

「わたしは、みなさんと同じようにハンセン病患者になりました。わたしは、

この恵みを感謝しています。 

  わたしはこれまでも『わたしたちハンセン病患者は』、といってきましたが、

これからは、もっと確信を持ってそういえます。そして、みなさんと私の間

の絆は、もっともっと強くなるのです。・・・」と。(*下は、ダミアン神父と

島内の青少年たち)

                        Photo_7

 実は、病の治療のため、一度だけ、彼は、ホノルルを訪ねました。

1886年7月10日のことです。それは、日本人漢方医の後藤昌直の治療を

受けるためでした。 

  後藤の漢方療法、つまり一日3回の温浴療法によって、ダミアン神父の

ハンセン病は、一旦、軽くなりました。

 

  ダミアン神父は、後藤昌直に深い信頼を置き、「私は、欧米の医師を全く

信用していない。後藤医師に治療して貰いたいのだ」という言葉を残して

います。 

  でも、それでも、神父は、病が完治するとは思っていなかったと感じます。 

むしろ、ハンセン病の感染を、”神からの勲章”として甘受したと思うのです。



  1889年が明けました。ダミアンは、自分の命の終わりが近いのを感じて

いました。 

 同年の2月、彼は、兄のパンフィルに、最後の手紙を書きました。 

  「・・・・ぼくの病気は、とても悪くなりました。でも、ぼくは本当に幸せです。

ぼく自身がハンセン病に罹ったことによって、誰よりもよく、患者たちの気

持ちがわかるようになったのですから。 

  それを思うとき、ぼくの心は安らかさに満たされます。神さまは、本当に

よい方です。 

 み旨が果たされますようにと、毎日祈っています。そして、祈りの中で、

いつも兄さんのことを思い出しています。・・・」

 

  ダミアンは、それまで自分の病室にシスターたちを入れようとはしません

でしたが、「亡くなる前にお会いして、祝福をいただきたい」という言葉を

聞いて、彼女たちに会うことを承諾しました。

 

  しばらく会わない間に、ダミアンは、すっかり衰弱していました。 

顔色は黄色味がかって、くすんでおり、目がくぼみ、頬はこけていました。 

その傷口には、血と膿が滲んでいました。ハンセン病の末期の症状が、

はっきりと見て取れました(*下の写真は、病床のダミアン神父) 

  けれども、ダミアンは、シスターたちを見ると、嬉しそうににっこりしてい

いました。 

「よく来てくれたね。ホームの子どもたちの様子はどう? 元気でいる

かい?」 

「みな、とても元気にしています」と、マザー・マリアンヌが答えました。

            Photo_8

  切れ切れの息づかいの中から、ダミアンはいいました。 

「シスターたちが、女の子だけでなく男の子の世話もしてくれると、有難

いのだが・・」 

「もちろん、わたしたちにできるかぎりのことはいたします」 

  マザーが、そういうと、ダミアンは、ほっしたように目を閉じました。 

  シスターたちがベッドのわきにひざまずくと、ダミアンは傷だらけの右手

を挙げて、彼女たちに最後の祝福を与えました。 

「天国にいらしたら、わたしたちのためにお祈りください」 

  マザー・マリアンヌは、涙をこらえて、そういいました。 

ダミアンは、わかったというようにうなずきました。 

  シスターたちが部屋を出ようとしたとき、ダミアンはかすれ声で繰り返し

ました。「こどもたちをよろしく・・・・」 

 これが、彼の最期の言葉でした。



  彼の死後、1930年代に入って、ダミアン神父の遺体をベルギーに戻して

ほしい、というベルギー国民の声が強まりました。 

  1935年、ときのベルギー政府は、これを正式にアメリカ政府に申し入れ

ました。 

(ハワイの主権は、すでにハワイ王朝からアメリカ合衆国に移っていまし

た。)

 

  翌年の5月3日、ベルギーのアントワープ(*下の写真)の港には、

ベルギー国王レオポルド3世、司教、司祭、神学生、その他数えきれな

いほど群衆が集まっていました。 

 彼らはみな、ベルギーの英雄ダミアン神父の帰還を待っていたのです。

             Photo_11

  デミアン神父の遺体が載せられたメルカトール号から兵士に守られて

柩が降ろされたとき、礼砲が鳴り響きアントワープ中の鐘がならされました。

 ベルギー国王は、ダミアンの柩に挙手の礼をしました。その日、アントワ

ープの大聖堂では、ダミアンのために追悼荘厳ミサが執り行われました。

 

  ミサ後、彼の遺体は、6頭の馬が引く馬車で、懐かしいルーベンに向か

ました。それから、彼の生まれ故郷トレムローを通り、また、ルーベンに戻

りました。 

 そして、その遺体は、同市内の大聖堂(*下の写真)に安置されました。 

 【了】                

               Photo_10

2012年11月13日 (火)

水浦征男師の『この人』(13)

   ダミアン神父について(5)


  1873年5月10日、ダミアン神父とメグレ司教が乗ったキラウエア号は、

モロカイ島(*下の写真)カラワオ港に到着しました。

       Photo_7

                    Photo_12

       

  メグレ司教とダミアンが船から降りるのを見て、首にロザリオを下げた

何人かが二人に近づいて来ました。その中には、ダミアンの顔見知りも

何人かいました。

  彼らは、(ハワイ島の)プナやコハラ時代に、ダミアンが受け持っていた

教会の、信者たちでした。

  しかし、数年または数ヶ月会わないでいた間に、彼らの顔は、だいぶ

変貌をとげていました。ある者は鼻が無くなっていましたし、ある者は耳

が変形していました。

  口がゆがんでしまった者もいました。目の代わりに、二つの穴が開いて

いるように見える者もいました。

  それは、コハラで見慣れたハンセン病患者とは、あまりにも違っていま

した。

  自分がごく初期の患者ばかり見慣れていたことに、ダミアンは気づかさ

ました。


  覚悟はしてきたものの、あまりのむごたらしさ、恐ろしさに、ダミアンは

身震いしました。

  メグレ司教は、そんなダミアンを気づかうようにふりかえり、

「帰ろうか?」と、優しくささやきました。

  ダミアンは、かぶりを振ってきっぱりといいました。

「いいえ、司教さま」

  メグレ司教は、集まって来た人々に、ダミアンを示しながらいいました。

「今日は、よい知らせを持って来ましたよ。ここにいるダミアン神父が、

あなたがたのお世話をするために、ここに住むことになりました。

  みなさんは、これからはいつでもミサに与かれるし、秘跡も受けられ

ます」

  信者たちの間から、喜びの声が起こりました。涙にむせぶ者もいました。

メグレ司教は微笑みを浮かべて、そんな彼らを満足そうに見回しました。


  聖堂(=教会)を出た所で、ダミアンを待っていた一人の患者が、おず

おずと果物を持ったかごを差し出しました。

                       Photo_3

  彼の手には指が三本しかなく、傷口には血と膿(うみ)がにじんでいま

した。

 が、ダミアンは、まるでそんなことは気にしないように、かごを受け取り

ました。

「やあ、ありがとう。助かるよ」

  この人々に心を開いてもらうためには、彼らを汚いと思ったり、伝染の

心配をしている様子を毛の先ほどにも見せてはならない、とダミアンは

固く決心していました。


  ダミアンは、教会(*下の写真)での説教の呼びかけに、彼は「兄弟の

みなさん」とはいわず、「わたしたちハンセン病患者は」といいました。

  ダミアンは、最初から人々と同じ高さに立とうとしました。

彼のこの姿勢は、終生変わりませんでした。

         Photo_9


  ある夜、司祭館内で、両親に向けて手紙を書いていました。

その時、あわただしい声がダミアンの名を呼んでいました。

毎朝、ミサに与かっている、熱心な信者でした。

  「カミアーノ、すぐ来てください。死にそうな女の人がいるのです。

カトリック信者です」

  ダミアンは、書きかけの手紙をそのままにして、すぐに立ち上がりました。

「場所は?」

「わたしの家です」

  ダミアンは、聖油と聖水(祝福された特別な水)を持って彼女の後を

追い掛けました。女は小走りに道を急ぎながら、いいました。

「一週間前に見舞ったら、とても弱っている様子なので、無理にわたし

の家に連れて来たんです」

「どうして、カトリック教徒だとわかった?」

「自分でいったんです。カミアーノを呼んでほしいって。今まで彼女が

カトリックだということは、知らなかったんです。小さな家に一人で住んで

いて、ほとんど誰とも口をききませんでしたから」

  中に入って、隅の床の上にマットを敷いて横たわっている病人を見た

とき、ダミアンは自分の”予感”が当たっていたことを知りました。

  鼻も耳もほとんど穴だけになるほど変形が進んでいましたが、それは、

彼が探し続けていた、あのときの女でした。

  ダミアンが近づいたのを気配で悟ったのか、女はうっすらと目を開け

ました。

「ああ、カミアーノ、来てくれたんですね・・・・」

  ダミアンは、木のこぶのように固い手を、優しく握りしめました。

「ここにきてから、ずっと探していたんだよ。どうして教会に来なかった?」

「二度と祈るまいと、心に誓っていたからです。神さまを恨み続けていたか

らです。カミアーノのことを、みんなが話していました。カミアーノが来て

くれたのを、みんながどんなに喜んでいたか・・・」

  女は、目を閉じました。涙が土色の頬に筋を引きました。

「でも、わたしは行かなかった。もうわたしとは、違った世界のことだと思っ

ていたから。それなのに、最後の時になったら、やはりカミアーノに祈って

ほしいと思いました。

  カミアーノ、神さまはわたしを許してくださるかしら? こんなに長い間、

神さまを恨んで、神さまから離れていたのに」

「もちろんだよ」

と、ダミアンは、大きくうなずきました。

 「きみは神さまから離れていたんじゃない。祈るまいと心に決めてから、

どんなにか苦しかったろうね。言葉にはしなくとも、その苦しみは立派に

きみの祈りだよ。

だから、何にも心配しなくていい。安らかな気持ちで天国へ行きなさい」

  女は安心したように、にっこりしました。

「ああ、カミアーノ、神さまってよい方ですね。わたし、いま本当に幸せ

です。いつまでも神さまに意地をはっていなければ、もっと楽になれた

のに。

  カミアーノ、神さまはわたしをお見捨てにはならなかったわ。あなたが、

それを証ししてくれました。ありがとう、カミアーノ」

  目を閉じてしまった女の膿のにじむ額に、ダミアンは聖油で十字をか

きました。

女はそれきり目を開かず、明け方に息を引き取りました。

  死に顔は、安らかそのものでした。

                   Photo_10


  ところで、ある日、ダミアンは、陽気でお祭り好きな、ハワイの人々の

気性を思い出しました。そして、こう考えました。

(そうだ、彼らに音楽を勧めてみよう)

  楽器を演奏することによって、すさんだ彼らの心は慰められる。自分に

も何かができるという自信は、彼らにとっては非常に大きな励みになる。

  彼は早速、ホノルルに手紙を書き、いらなくなった楽器と譜面を送って

ほしいと頼みました。

                Photo

  やがて楽器が着きました。患者たちは、ダミアンが思っていたよりずっ

と熱心に、楽器の演奏に取り組みました。やがて、患者たちは、立派に

美しく演奏するようになりました。

  たびたびある葬式も、音楽を伴うことによって、もっと崇高で厳粛なもの

になりました(*下は、ブラスバンドのイメージ

            Photo_2

  人々は、自然に天国の安息のことを、永遠の生命のことを、以前より

考えるようになりました。

  ホノルルから送られてきた新しい患者も、自分たちを迎えてくれる

楽隊の人々の明るさに接して、とても慰められました。

  ダミアンは、大祝日には必ず彼ら楽団員と共に行列をしました。その日

には、カトリック教徒だけでなく、プロテスタントの信者も、キリスト教徒

以外の人々も、にこにこ笑いながら行列見物をしました。

  涙と恐れと不潔さしかなかった絶望の島に、笑顔が見られるように

なったのです。

 人々は、生きる意味を知り、死への恐怖を忘れたの

でした。 【つづく】

  (後記:明日14日と明後日15日、私用のため、お休みいたします。)

2012年11月12日 (月)

水浦征男師の『この人』(12)

    ダミアン神父について(4)





  ヨセフは、ハワイからの第一信を、ベルギー・トレムローの両親に宛、

次のように、書き送りました。 

  「とうさん、かあさん。 

  『ダミアン神父』になって初めてお便りします。美しい景色と、善良な人々

に囲まれ、けれど乱れた風紀と、偶像崇拝のまっただ中にいる宣教師と

して、ぼくの使命は何と重大で何と難しいかを、改めて感じています。 

  どうぞ、ぼくのためにたくさんお祈りください。ほんの一瞬でも神の助け

がなくなったら、ぼくはたちまち押しつぶされてしまいますから。・・・・・」

 

  これは、とても正直な思いだったことでしょう。 

ところで、ダミアン神父の最初の赴任地は、ハワイ島(*下の写真)のプナ

でした。 

        Photo_4

  新任地プナから、ダミアン神父は、故郷の両親に、こう書き送りました。 

  「とうさん、かあさん。 

  お元気ですか?  プナに来て、あっという間にもう三ヶ月あまりたちました。 

なかなか手紙が書けなくて、ごめんなさい。でも、今までとても忙しかった

のです。 

  とにかく、ぼくの任地は広くて、馬とラバを使うのですが、乗れる所は

わずかで、必ず足を使わなければならないのです。 

  頑強な体を与えてくださったことを、どんなに神に感謝しているでしょう。 

それに、とうさんの仕事の手伝いをしていたおかげで、体力には自信が

あります。

 

  ぼくは、毎日、小さい祭壇を背負って、溶岩の上を何時間も歩いて、遠く

離れた所に住んでいる信者を訪ねます。そして、そこでミサを捧げたり、

秘跡を授けたりするのです。もちろんハワイ語でね。 

  プナは、とても静かで穏やかな所です。ここの静けさは、ぼくにトレムロー

を思い出させます。ああ、トレムローの自然を目にすることは、二度とない

かもしれませんね。 

  でも、イエスさま(*下の写真)は、『わたしは世の終わりまであなたたち

といる』といってくださったのですから、ぼくは何も恐れていません。

           Photo

  ここの人々の性のモラルは、まったくめちゃめちゃです。夫婦同士で相手

を取り替えるなんて、珍しいことではないようです。ですが、そのおかげで、

彼らはぼくのことを、とりわけ尊敬してくれます。 

彼らにいわせると、独身を通している男、しかも家を離れて、こんな遠くで

一人で暮らしているぼくという男には、特別な力が備わっているに違いな

いそうです。この地区に、白人はぼく一人です。

 

  ぼくはここの人々が、大好きです。人がよくて、陽気で、純真で。 

一夜の宿を求める人には、たとえそれが見知らぬ人であろうとも、自分の

持っているものをすべて与えてしまうのが、ハワイの人々のやり方なの

です。 

  それは、ヨーロッパ人に慣れたぼくの目に、とても新鮮に、とても素晴らし

くうつります。彼らもぼくのことがとても好きで、行くといつでも大歓迎して

くれます。 

彼らはぼくの名前が発音できずに、ぼくのことをカミアーノと呼ぶんですよ。 

  ぼくは、初めの巡回で29人に洗礼を授けました。洗礼志願者もどんどん

増えています。それに、風紀の面でも、初めのころよりもかなりよくなって

います。・・・」と。
 

 

  このころ、ハワイ諸島には、ハンセン病が広がっていました。ハンセン病

は、神経が冒され、体の末端から、感覚をなくしていく、恐ろしい病気です。 

  「ろうそく病」という別名からもわかるように、手足も顔も肉が崩れ、次第

に変形します。急には死にませんが、ゆっくりと確実に死に向かうという、

当時の医学ではほとんど不治の病でした。 

  非常に伝染性が強いので、危険でもありました。ダミアンがハワイへ来

る船の中で聞いたように、もともと、ハワイにはなかった病気で、18世紀の

末に黒人、中国人、ポルトガル人のいずれか(または、複数の国の人間)

が、ハワイに持ち込んだと見られています。



  ハンセン病であると診断された人々は、まずホノルルに連れて行かれ、

そこからモロカイ島(*下の写真)に送られるのでした。患者たちを乗せ

た船が出るとき、ハワイ島の港には、うめき声とすすり泣きしか聞こえま

せんでした。

 送る者にとっても、送られる者にとっても、別れの辛さは同じでした。 

  (神よ、この声を聞いてください。これを見てください。なぜ、こんなに

むごいことをお許しになるのですか?)

         Photo_3

         Photo_4



  そんな光景に接するたびに、ダミアンは、血を吐く思いで祈りました。 

彼は船が出るたびに、港へ行きました。モロカイ島へ行く人々に、最後の

祝福を与えるために。 

  その日もホノルルに向かう船を送るため、ダミアンは港へ行きました。

いつもと同じように船の甲板は、涙と泣き声に満ちていました。ダミアンは、

人々に祝福を与えて回りました。

 

  そのとき、うずくまっていた一人の女が顔を上げて、ダミアンを見ました。

それは、はっとするほど、暗い目の色でした。

  彼女はダミアンの教会の信者で、毎日花を飾り、祭壇が美しいようにと、

いつも細かく気を配ってくれていました。

            Photo_2


  ダミアンは、胸のつぶれる思いでした。祝福を与えようと上げたダミアン

の手を、女は払いのけました。

「祝福なんていらない、カミアーノ、わたしは、もう祈ろうとも思わない」

「なぜ、そんなことをいうんだ?」

  女は、流れる涙を拭おうともせずにいいました。

  「神がわたしを見捨てたから。神が先にわたしを見捨てたから、わたしも

神を見捨てるのです。

  カミアーノは、神が先にわたしたちを愛してくださった、といったけれど、

あれは本当ではなかったわ」

  「違う。神は決してあなたを見捨てたのではない!」

  女は、首をふりました。

  「いいえ、カミアーノ。それじゃあ、どうして神父さんが一人もいない島に、

わたしたちを送るようなことをなさるんですか? 死んで行く人や、死を

まっている病人には、神父さんが一番必要じゃありませんか? 

 秘跡も受けずに死んでいく、わたしたちの魂の救いはどうなるの? 

カミアーノ、神さまは、もうわたしたちを見捨ててしまったのよ」

  女はダミアンが授けようとしたご聖体も、拒みました。




  やがて、船は出ていきました。が、ダミアンの耳には、あの女の悲痛

な叫びが残っていました。

  「神はわたしを見捨ててしまった! 神が先にわたしを見捨てたから、

わたしも神を見捨てる」

  (ああ、神よ。この悲しい叫びが聞こえますか? イエスよ。十字架上で

『わたしの神、どうしてわたしを見捨てられたのか』といわれたあなたには、

信じていた神に見捨てられたと思う辛さが、誰よりもよく分かるはずなの

に。なぜ、黙っていられるのです。何とかしてくださることは、できないの

ですか?)

  心の中で、ダミアンは必死に祈りました。

長い時が過ぎました。

  不意に、彼は啓示を受けたように顔を上げました。ダミアンの心に、ある

考えが閃いたのです。

(そうだ、ぼくが、モロカイ島へ行けばいいんだ)

  こんな単純なことに、今までなぜ気づかなかったのだろう、とダミアンは

思いました。

 神に向かって、何とかしてくださいと祈るばかりで、自分に何かできると

は思っていませんでした。

  (モロカイ島へ行こう。神が彼らを見捨てられたのではないことを、証し

するために。

何という素晴らしい使命が、自分を待っていたのだろう。モロカイ島へ行

こう、それもできるだけ早い機会に)

  ダミアンは幸せでした。

 

Photo_3
 
  その機会は、ダミアンが考えていたよりも早く訪れました。

  約一ヶ月後のことです。マウイ島のワイルクで、新しい教会の献堂式が

ありました。

  6年もかかってやっとできた、立派な教会でした。この献堂式のため

ハワイ諸島の各地から、イエズス・マリアの聖心会の司祭が集まりました。

  献堂式を経た後の会食のあと、メグレ司教が、ためらいがちに口を開き

ました。

  「さて、モロカイ島のハンセン病者の隔離施設のことだが・・・・。

  このごろでは、保健局の規則もいろいろうるさくなって、神父の出入りも

以前のようにはできなくなった。あそこに常住の神父が欲しいことは、いう

までもない。信者たちは何よりもそれを望んでいる。しかし・・・」

  「司教さま、わたくしに行かせてください」

ダミアン神父が、そう口を開きました。

  でも、それを願う神父が、ほかに二人いました。

しかし、二人は、ハワイに来てまだ日も浅く、モロカイ島では、ダミアン

神父が適任だと思われました。

  それで、まずダミアン神父が送られ、四人の交代制にすることが考えら

れました。

 しかし、その後、16年間、彼が最後の息を引き取るまで滞在することに

なります。

  モロカイ島での生活につきましては、また、明日にいたします。 【つづく】

 

 

 

 

 

 

 

2012年11月10日 (土)

水浦征男師の『この人』(11)

   ダミアン神父について(3)


  柳谷さんは、次のように書いています。

≪  こんな話が残っている。ヨセフが四才になったころのことである。

 この地方では、毎年ケルメッセというお祭りが開かれる。フランドル

の人々は、このお祭りをとても楽しみにしていた。

  デ・ブースター家のこどもたちも、その年、両親に連れられて、近くの

村へ祭り見物にでかけた。村の中央広場は、ごったがえしていた。

  子どもたちのはしゃいだ笑い声。物売りの声。見せ物小屋の呼び込み

の声。それらが混ざり合って、隣の人の声も聞こえないほどである。

だれの心も、晴れ着の下で浮き立っていた。

 「母さん、ヨセフがいないわ」

  弟の手を握っていたはずの姉娘が、不意に泣きそうな声でいった。

きれいなリボンの並んでいる店に、つい気をとられていたほんのわずか

な間に、ヨセフがどこかに行ってしまったというのである。

  「ヨセフ、ヨセフ」

  人ごみの中を、ヨセフの名を呼びながら兄や姉は、懸命に探して歩いた。

だが、ヨセフの姿はどこにもなかった。

  「一人で家に帰っちゃったのかもしれないわ」

  「そんなはずないよ。だってヨセフはまだ小さいんだもの。道がわからな

いよ」

   あちこち探して、兄弟は疲れ切っていた。

  「ねえ、お祈りしようよ。神さまが、ヨセフを見つけてくださるかもしれない」

  一人がいった。広場に面して、教会が立っていた。両親と子どもたちは、

聖堂の中へ入っていった。

  扉を閉めると外の音が聞こえなくなって、聖堂の中はしーんと静かだった。

中は薄暗くて、まぶしい戸外の光に慣れた目には、初めのうちは何も見え

なかった。

  だが、すぐに母が、「ヨセフだわ」と言った。

祭壇の前にひざまづいて祈っている、小さな姿があったのである。

(*下の絵は、そのイメージ)

  Photo

  しばらくすると、ヨセフは、頭を上げてふりかえった。

そして、母親がそこにいるのを知っていたように、にこにこと笑った。

 安心しきったその笑顔を、デ・ブースター夫人は忘れることができなか

った。≫



  まるで、この話は、かつて12才の少年イエスが、両親と一緒にエルサレ

ムの神殿に参った際、両親から逸れて、学者たちと話し込んでいたという

姿を、彷彿とさせます。

  何かしら、ヨセフ(のちのダミアン神父)の非凡な人生を予感させる、

とても心に響くエピソードです。 私自身、心から感動しつつ読みました。 

  本稿でも、柳谷さんの素晴らしい文章を跡付けながら、ヨセフ(のちの

ダミアン神父)の人となりとその業績について記したいと思います。



  このような信心深く、かつ他者への思いやりに満ちたヨセフ少年にとって、

姉マリアやポーリーン、それに兄のパンフィルが、修道会に入会したこと

は、実に羨ましいことでした(*唯、姉マリアは、若くしてチフスで亡くなり

ます)。

  先述しましたように、末子の少年ヨセフは、父親の後継ぎとして期待

れていたのです。ヨセフは、この葛藤に心底悩みます。

  この苦しい思いを、ヨセフは、手紙で兄のパンフィルに打ち明けます。

兄は、優しく返事します。「それが、おまえだけの願いでなくて、神さまも

それをお望みなら、きっと道が開けるよ」と。

  ヨセフは、意を決して、手紙で、両親に自分の本心を打ち明けます。

その切々たる文章は、両親の心を打ちました。

  一週間後、父親は、ヨセフを訪ねて来ました。ヨセフは、余りに突然な

ことに驚きました。もっと驚いたことに、父親は、なんとヨセフを、パンフ

ィルのいるルーベンの修道院に連れて行ったのです。

  父親は、ポツリとヨセフに言いました。「わしは、ちょっと用事があるんだ。

夕方迎えに来るから、それまで待っていなさい」と。

  修道院では、兄のパンフィルが、すべてのてはずを整えていてくれ

ました。

  夕方、迎えに来た父親にヨセフは言いました。

  「とうさん、ぼくはここに残るよ。修道院に入りたいんだ」

  「そうか」

   覚悟していたらしく、父親はさほど驚きも見せずにいました。

そして、しばらく黙っていましたが、ヨセフの肩を二度ほどたたいて、

「これもみ旨だろう。元気でな」と言って帰っていきました。

  それから一ヶ月後、彼は、着衣(修道服を受ける儀式)を許され、

「ダミアン」という修道名を選び、ルーヴェン・カトリック大学(*下

の写真)で、哲学と神学を修めました。

Photo_2


   ダミアン神学生が”お手本”にした聖人は、「フランシスコ・ザビエル」

でした。

  1863年の初め、兄のパンフィルが司祭に叙階(司祭になる儀式)

されました。

  同じ頃、ハワイ諸島のメグレ司教から、「宣教師を派遣してほしい」

と強く求めてきました。

  ダミアンたちが所属していたイエズス・マリアの聖心(みこころ)会では、

六人の神父と十人のシスターからなる宣教団を、ハワイに送ることに

しました。叙階されたばかりのパンフィルも、そのメンバーの一人

選ばれました。ダミアンは、とても羨ましいと思いました。



  ところが、その年の秋、ルーベンの町で、チフスが流行しました。

パンフィルは、他の司祭とともに病人を見舞い、慰め、秘蹟(キリスト

が定めた恵みのしるし。洗礼、告解など)を授けました。

  不幸にも、パンフィルも、同じ病に罹ってしまいました。ダミアンを

始め仲間の必死の看護で、かろうじて死は免れました。

  しかし、回復には、長い時間が必要で、出発までには間に合いません。

ダミアンは、まだ神学生でしたが、自分が兄の代わりに宣教に行くことを、

修道会の総長に直接、手紙で願い出ました。

  切々と訴えるダミアンへの返事は、「イエス」でした。

 こうして、ダミアン神学生は船上の人となり、1864年3月19日に、ホノル

(*下の写真は、今日のホノルルです)に到着しました。

  まだ、神学生だったダミアンは、1864年5月21日に、ホノルルのカテドラ

ル(=大聖堂)で叙階され、司祭となりました。

  ハワイでの「ダミアン神父」の誕生です。

この後の彼の活躍につきましては、また来週といたします。  【つづく】

              Photo_3

 

 

2012年11月 9日 (金)

水浦征男師の『この人』(10)

    ダミアン神父について(2)


 ダミアン神父は、1840年1月3日に生まれ、1889年4月15日に亡くなり

ました。 

 49年の生涯でした。現代の感覚で言えば、決して長い生涯とは言えま

せん。 

 他に、49歳で亡くなった人と言えば、織田信長や夏目漱石を思い出

します。 

 さらに言えば、聖徳太子や西郷隆盛、それに秦の始皇帝も同様です。 

この他にも、歴史上、様々な方がいましょう。

 

  しかし、大事なことは、何年生きたかではなく、どう生きたかだと思い

ます。  

 その点、ダミアン神父は、死の瞬間まで、まさにすべてを神に捧げ、

神の栄光を示すことのみに専念しました。


  彼の生涯は、次のように簡略に記述されています。
 

曰く、「彼は、アメリカ合衆国ハワイ州モロカイ島(*下の絵の中のオアフ

島の直ぐ東側〔右方〕にある島、オアフ島とマウイ島の間に位置する島)で、

当時誰も顧みなかったハンセン病患者たちのケアに生涯を捧げ、自らも

ハンセン病で命を落とした。 

  カトリックの聖人で、記念日は5月10日(Wikipedia 参照)と。

         Photo



   列聖式を通じて、ダミアン神父を「聖人」として宣言したのは、現ロー

マ法王ベネディクト16世です。  時は、2009年10月11日。―

  バチカン放送局の言によりますと、この日、ダミアン神父を含め5人が

列聖されましたが、特にハワイでハンセン病患者の救済に尽力し、自ら

も同じ病を発病し、患者たちの「真の友」となって亡くなったダミアン・デ・

ブースター神父は「モロカイの聖者」として日本でも知られ、大きな尊敬

を集めてきました。

 

  法王は式中、ダミアン神父の生涯を次のように振り返りました。 

「ダミアン神父は、1863年、23歳で故郷フランドル地方から離れ、世界の

別の場所に福音を告げるため、ハワイ島に向かいました。彼の宣教活動

は自身に大きな喜びを与え、それは、愛の業となって花開きました。 

  恐れやためらいにも拘わらず、彼は、モロカイ島へ置き去られ誰からも

顧みられないハンセン病患者たちへの奉仕を決意しました。そして、病気

に苦しむ患者たちと接しました。

 

  彼は、患者たちとの生活を、『家』のように感じました。み言葉の奉仕者、

こうして苦しむ人々の奉仕者となり、晩年の4年間は患者の中の患者

なりました。 

  キリストに従うために、ダミアン神父は自分の故郷と別れただけでなく、

自分自身の健康までも捧げたのです。 

  それゆえ、彼は、イエスの言うように『永遠の命(マルコ10,30)を受け

たのです」と。 

 (*下の上段の写真は、若き日〔30歳代の〕のダミアン神父、その下は、

1889年1月。ハンセン病が進行した状態の同神父、死の3ヶ月・・・・

この説明は、柳谷氏の同著より)

            Photo_2


               Photo_4
 
 
 撮った年代が異なるとはいえ、同一人物の写真というより、まるで別

人格の人物の写真のようです。

  でも、20年近い年月の差こそあれ、同じダミアン神父(本名ヨセフ・デ・

ブースター)の写真に間違いありません。


  それ程に、モロカイ島でのハンセン病患者たちとの“共同生活”は、ダミ

アン神父にとって、それこそ人間的な視点から言えば、たいへん苛酷な

ものでした。

  でも、神を専一に考えるダミアン神父にとりましては、それは同時に、

無上の”喜び”に満ちたものでした。

  その”使命感”の強さは、多分、他の聖職者仲間や信者たちの想像を、

遥かに超えていたことでしょう。

  加えて、ダミアン神父の心の中には、柳谷女史の言われる「二つの勲

章」の内、“神からの勲章”のみが存在したと思います。

  それゆえ“列聖”という祝福は、カトリックを信仰する者にとって最高の

栄誉なのですが、ダミアン神父の魂は、そのような“人からの勲章”を、

少しも問題にはなさらないことでしょう。

  むしろ、愛する信者たちと同じ”ハンセン病の身に成ること”の方が、

真に喜ばしいことだったと思うのです。

  また彼自身、そうなることを、若い頃から予感し、願ってさえいました。

  なぜなら、ダミアン神父は、すべてのものごとを、自らの「目」だけを通し

て軽々には判断せず、あくまで“心の目(あるいは、魂)”を通して見ていた

からだと感じます。

  この世には、目に見える世界と“目に見えない世界”の二つが有るのか

も知れません。

 目に見える世界では、愚かで、痛ましく、悲惨なものも、目に見えない

世界(=神の世界)では、実に素晴らしいものかと思います。

  その“目に見えない世界”を感じ、信じるところに、人々の「信仰」

「愛」があるのではないでしょうか。

  ダミアン神父の信仰と愛の精神は、それを、われわれに教えてくれてい

るような気がします。


  柳谷さんの、この名著は、とても興味深い、素晴らしいお話に満ちていま

す。とりわけ、私が、まず心魅かれましたのは、ダミアン神父が4歳の幼児

頃のお話です。

  これにつきましては、また明日、お話させて頂きます。 【つづく】

 

 

 

 

 

2012年11月 8日 (木)

水浦征男師の『この人』(9)

       ダミアン神父について(1)


  「ダミアン神父」について語ります前に、柳谷圭子さんにつきまして、

少し付言したいと思います。

  同氏が、著名な童話作家(あるいは、児童文学者)であることは、

皆さま、ご存知の通りです。

  実際、柳谷さんは、次のような名作を物していらっしゃいます。

○ 『くららおばさんは魔法使い?』(旺文社創作児童文学、1989年)

○ 『クリスマス・イブにきたおとこのこ』(ドン・ボスコ社、1992年)

○  『おばあちゃんイースターおめでとう』(日本基督教団出版局、1993年)

○  『にほんのおはなし―だいくとおにろく ばけくらべ ねずみののすもう』

      (小学館の保育絵本2~4歳)(小学館、1994年)

○ 『マッチうりのしょうじょ―アンデルセン童話』(ドン・ボスコ社、1996年)

○ 『ふしぎ時間はいかが?』(旺文社創作児童文学、1997年)

○  『サンタクロースへのてがみ』(日本基督教団出版局、1998年)

○  『ガラスの花かご(とっておきのどうわ)』(PHP研究所、1998年)

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  上記の諸作品を、実際、お読みになられた方もいらっしゃると思います。

童話は、幾つになって読んでも、何か心に残るものがあります。

  きっと、われわれが忘れつつある”大切なもの”を思い出させてくれるか

らでょう。

 柳谷作品は、そのような「美しい宝石」を散りばめた名作だと思うのです。


  さて、次に「ダミアン神父」について、語りたいと思います。

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 本著の題名は「二つの勲章」です。

正直「二つの勲章」とは、一体、何のことか?と思います。

  しかし、柳谷さんの文章を読みますと、”成程!”と感じます。

  柳谷さんは、「あとがき」に、次のように書いておられます。

≪ダミアン神父は、その生涯に二つの勲章を受けた。

   一つは人からのものであり、華やかさを伴っていた。一つは神から

のものであり、いたましさを伴っていた。

   神からの勲章が、汚れていたり、不名誉なものであったり、世の蔑

(さげす)みを招いたり、病気の形をとったりしているとき、わたしたちは、

それが勲章であるとは、なかなか気付かないものである。

   だが、彼は、ハンセン病を「神からの勲章」と呼んでいとおしんだ。

そして、自らがハンセン病になったとき、やっと本当に、ハンセン病患者

気持ちがわかる、といって喜んだという。

   そんなダミアン神父の帰国を、人は「凱旋」という。はたしてそうだ

うか?

  神の栄光だけを求め続け、自分に光があたることをむしろ嫌った彼は、

いつまでも患者たちのカミアーノとして、モロカイ島にいたかったのでは

なかろうか?

   ダミアン神父は、この世の名誉を追いかけた人ではなかった。

彼はモロカイ島にわたってすぐに、

 「わたしは世から忘れられて、この苦しむ人々の中で暮らしたい」

と、兄パンフィルに自分の気持ちを打ち明けている。

   ダミアン神父の生涯について、その人となりについて知れば知るほど、

彼の遺体をモロカイ島から運び出したことは、大きな間違いだったのでは

ないかと思えてくるのである≫と。



  文中の「カミアーノ」というのは、現地の人々から呼ばれた「愛称」です。

みんなは、なかなか「ダミアン」と発音できず、彼のことを、「カミアーノ」

と呼びました。

   ところで、これほど激しく、かつ正直な思いを吐露した「あとがき」を読ん

だのは、私にとりまして、まさに初めてのことでした。

  この文章に、柳谷さんの”万感の思い”が込められているように感じます。

本著を、じっくりと読んでみますと、まるで”詩文”のような格調の高さと

軽快なリズム感に満ちていて、とても読み易く、かつたいへん魅力的な

作品です。

  また、作者の柳谷さんご自身が、まるで「ダミアン神父」に成りきられた

ような迫力が感じられ、読む者の心を、ぐいぐいと引っ張って行きます。

 本著を執筆中、 作者ご自身が心を澄まし、できる限りダミアン神父の

「心」肉薄しようとされたように感じます。

  その視点からしますと、この「あとがき」に共感できるような気がします。

唯、言えますことは、柳谷さんは、他の聖人たちに対してと同様、ダミアン

神父を、心から敬愛していらっしゃるのではないかということです。

  書物には、様々なものがありますが、本著のように、読み手の魂を激し

く揺さぶるような名著は、決して、そう多くはないでしょう。

  皆さんにも、是非、読んで頂きたいと思います。

  また、出版元の「ドン・ボスコ」社は、私にとりましても、たいへん懐かしい

出版社です。

  いつかも書きましたが、1977年に、同社で、「言葉の花束」というエッセ

イ集を連載させて頂きました。

 因みに、柳谷さんの本著が出版された年、偶然にも、私は、ハワイの

ホノルルで勉学しておりました。

 

  ところで、本題の 「ダミアン神父」、つまりヨセフ・デ・ブースターは、

1840年1月3日、ベルギーのフランドル地方のトレムロー村に生まれま

した。

  父はジョン・フランソワ、母は、アンナ・カタリーナでした。二人は、熱心

なカトリック教徒で、ヨセフは、夫妻の7番目の子であり、末の男の子だ

した(*下の写真は、彼の生家)

              Photo_9



  ヨセフは、父にとって”後継ぎ”として期待されましたが、結局、彼は

兄や姉同様、聖職者(=司祭)の道を選びました。

  しかし、それまで、父の下で厳しい農作業に従事していたヨセフの強健

な身体は生涯、聖職者としての彼を支え、助けました。

  彼の生涯につきましては、次の機会に譲りたいと思います【つづく】

 

2012年11月 6日 (火)

水浦征男師の『この人』(8)

 人は、その生涯の中で、様々な出来事に遭遇します。無論、すべてが、

良い事ばかりとは限りません。 むしろ、思いもかけぬ災難に出会うこと

があります。 その余りの突然さに、ひどく困惑することもあります。



  でも、何より大切なことは、そのような不幸な出来事から、いかに

“自分”を救い出すかにありましょう。とはいえ、それは、決して生易しい

ことではありません。

 しかし、世の中には、そのような災難を体験しながらも“新しい自分”

見出した人もいます。

  今日、話題にしたい柳谷圭子さん(1942~)も、そのような方のお一人

です。水浦師の文章に、次のようなものがありました。

 

  九死に一生を得て

                             童話作家をめざす 柳谷圭子さん


  思いがけない出来事によって、人は、それまでまったく予期しなかった

方向へと、人生の歩みを変えなければならなくことがある。 

  ここに紹介する柳谷圭子さんの場合―。

 

   今から14年前の昭和38年7月27日、長野県野尻湖付近をドライブ中、

事故に遭った。 

  柳谷さんの乗っていた車の上に小型トラックが覆い被さるという大事故

だった。 

 同乗の親友の運転手は死亡、柳谷さんとその他の友人たちもひん死の

重傷を負った。 

 「もう、ダメだと思いました」と事故現場近くの病院に駆けつけた人は証言

している。

 

  事故後の柳谷さんは、意識不明。包帯にくるまれて、ただベッドに横た

わっているだけの日々が続いた。 

  そんな彼女が、意識をとり戻したのは、その年の秋。 

  まさに、奇跡的なカムバックだった。その後、闘病生活を送ること数年。 

  身障者手帳二級の機能障害を抱える身となった柳谷さんは、新たに生

きる道をさがし始める。

 

  かつて、慶応大学経済学部に学んだが、経済界への望みをさらりと捨

てて、児童文学家を志す。 

  童話の勉強にとりつかれた彼女は、昭和45年春、「中南米文学の勉強

アルゼンチンへ行って来ます」と言って、旅立った。

 

  その冒険ともいえる旅について、柳谷さんはこう書いている。 

  「考えてみると、私のまわりにいた人々は、あまりにもやさしすぎる人

ばかりだった。それこそ腫れ物にさわるように私を大切に扱ってくれた。

あるとき私はふとこれに気がついた。人間は楽なことにはすぐ慣れてしまう。 

  これではいけないと思った。どこか、うんと遠くへ行こう、行きたいと思

った」(『ラ・プラタの太陽の下に』)

 

  アルゼンチンでは、ブエノス・アイレス市(*下の写真)のサルバドール

大学で約三年間 文学を修めた。 

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  帰国後間もなく、アルゼンチンの女流作家の書いたベスト・セラー『ヴェ

ニカのために』(ポルディ・バード著)を翻訳出版した。(河出書房新社刊) 

  また、いくつかの児童向け雑誌に寄稿するかたわら『ラ・プラタの太陽の 

下に』と題して、アルゼンチン留学記を本にまとめた。

 

  柳谷さんはすでに、アルゼンチンの永住権を得るほどのアルゼンチンび

いき。異国の人たちの温かい友情に彼女は、何度感激したことか。 

  あの、ふって沸いたような悪夢の交通事故は、彼女に、以前には考えら

れなかった大きな夢を広げてくれたといえなくもない。 

  柳谷さんは、この秋、アルゼンチンへ出発した。三度目の旅である。≫

                           (『聖母の騎士』1977年10月号)


   夏に事故に見舞われ、意識が戻ったのが秋というのですから、

3~4ヶ月間は、意識不明の状態だったことになります。

  周囲の方々は、半ば諦めたような、深刻な状態だったことでしょう。

まさに「九死に一生を得た」と言っても決して過言ではありません。

  因みに、 柳谷さんが大事故に遭われた昭和38年(1963年)は、アメ

リカ大統領ジョン・F・ケネディ(1917~1963)が暗殺された年でした。

  また、私事ですが、同年は、私の母方の祖父が瞑目した年でもありま

した。

 さらに、私が若い日にたいへんお世話になった方が、交通事故に遭わ

れた年でもありました。

  それゆえ、私にとりましても、同年は、忘れられない「年」です。

  加えて、私自身、後年、車を運転中、隣り車線を走るトラックの無理な

車線変更の為、愛車の側面を、きつく当てられた体験があります。

 その反動で、自車は、縁石に乗り上げてしまい、結果、斜めに走り、

前方の軽トラックに追突してしまいました。

  そのような次第で、私は、程度の差こそあれ、交通事故を、決して他人

事とは思えません。

 

  それにしましても、大事故に遭われた時の柳谷さんの驚愕と苦痛は、

如何ばかりだったでしょうか。

  でも、その事故後、一念発起されて、単身、アルゼンチンへと渡り、児童

文学の道へと進まれたことは、本当に素晴らしいと思います。

  その後の画期的な創作活動は、まことに刮目すべきものがあります。

  そればかりか、柳谷さんは、次のような著書も物していらっしゃいます。

まさに、カトリックの伝道・宣教活動にも貢献されています。

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  正直申しまして、コルベ神父やエリザベト・マリア北原怜子について 

書いていました頃はまだ、柳谷圭子さんのことは知りませんでした。 

  それとは、まったく別に、水浦師の『この人』の中で読んだ柳谷さん

の生きざまに心から感動し、彼女のことを調べている内に、以上の

方々についてご出版なさっていたことを、初めて知った次第です。

 

  自分の無知を恥じると共に、神さまの深いお導きを、強く感じずには

られません。 

 次回は、「ダミアン神父」について記したいと思います。  【つづく】


 



                               



                         

                     

              

2012年11月 5日 (月)

水浦征男師の『この人』(7)

    ゼノ修道士について(完)



 ゼノ師は、数多くの写真に収まっていらっしゃいます。 

最晩年の写真だと思いますが、私が好きなものは、下の写真です。

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  この写真には、様々な苦しみを体験しつつも、信仰ひと筋に生きたゼノ

修道士の“晴々とした姿”が感じられます。 

  この写真を拝見しますと、「ゼノさん、長い間、本当にご苦労さまでした」

と申し上げたい思いになります。




  ところで、水浦師によりますと、ゼノ師は、サインを頼まれると、たどたど

しい文字で、「ゼノ、天国、マリア」と書いたそうです。 

  コルベ神父同様、聖母マリアへの尽きない敬愛の念が偲ばれます。

           (*下は、エル・グレコ作『聖母被昇天』)

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   水浦師の著『この人』には、ゼノ師に関して、もう一つの文章があります。
 

それは、次のようなものです。




 

    病床で迎えた滞日五○年

 

                              ゼノ・ゼブロフスキー修道士


  「ワタシ、五○ネン、ハタラキマーシタ」
 

去る10月13日、東京清瀬市にあるベトレヘムの園病院で、入院中のゼノ・ 

ゼブロフスキー修道士に、ささやかな”賞”が贈られた。

 

 賞の名は「日本善行賞」。その賞の授与式に、看護婦さんらに付き添わ

れて車椅子で出席したゼノさんは、表彰状が読み上げられている最中、

周りの人たちが、びっくりするような大声で、「ワタシ、五○ネン、ハタラキ

マーシタ」 

  ゼノさんが体力の衰えで病院入りしたのは1978年9月5日。もう二年も 

ベッドの上の生活が続いている(*下の写真は、ゼノ師が入院していた

病院) 

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  元気だった頃のゼノさんは、一日として修道院に閉じこもることはなか

った。 

  「カワイソーナヒト、タクサンイマス」と言っては、東京の街を歩き回り、

寄付を仰いだ。いつも抱えていた黒カバンの中には、マリアさまの御絵を

つめ込み、それを電車やバスの中で隣りの人に渡した。「オイノリ、タノミ

マス」

 ゼノさんにとって、今年は来日五○周年の記念すべき年だった。

 

 病床では、往年のおしゃべりもほとんどできなくなったが、修道士ゼノは、 

健在のようだ。 

  「真夜中に目ざめて、『キョーカイ、イキマショウ』と言い出すこともあるん

ですよ」と、看護係の林田ハツノさんが話してくれた。 

  気分のいい日は、近くの聖堂に連れて行ってもらって、お祈りをする。 

  お祈りを通して、今も働く気持ちをゼノさんは失っていないのだろう。


  マキシミリアン・コルベ神父に伴われて、ゼノさんは1930年(昭和5年)

4月、初めて長崎の土を踏んだ。 

  当時の早坂司教の好意で、大浦にある長崎司教館に一ヶ月ほど住み込

ませてもらった。

 

  コルベ神父は、上陸後ただちに、雑誌『聖母の騎士』の発行にとりかかり、 

一ヶ月後の5月、創刊号が出た。これが本誌の〝産ぶ声”である。 

  創刊当時のゼノさんは、30代の働き盛り、コルベ神父の片腕として大活

躍した。 

 印刷機械の購入、修道院の土地探し、騎士誌の配布、机や椅子などの

家具作り、炊事、と何でもこなせる万能選手だった。

 

 
  戦時中は、コルベ神父なきあとの修道院を支えた。神学生たちの世話を

するため、ミロハナ神父とゼノさんだけが、外国人収容所行きを免れた。 

  そして終戦。修道院に戦災孤児を収容したのが、ゼノさんだったが、

戦後35年、ゼノさんの役割は今、ボランティア運動の高まりとともに終わ

ろうとしている。ゼノ89歳。  ≫    (『聖母の騎士』1980年12月号)

 

 

  ボランティア運動の原点とも言える、ゼノ師の無私の行動は、単なるボラ

ンティアと言うより、むしろ、聖母マリアへの”奉献”とさえ言えました。 

  彼のような“聖なる人”の行動は、人間の常識や観念では掴み切れない

と感じます。

 

 多分、ゼノ師の「半世紀の滞日生活」で去来した思いは、”もし、コルベ

神父が生きていたら、彼は、どう行動しただろうか?”という思いだっ

のではないでしょうか。 

  あるいはまた、”聖母マリアさまは、一体、私に、何をお求めだろうか?”

という自問だったのではないかと思うのです。 

  まさに、日々の祈りを通して、ゼノ師は、これらの問い掛けに対する

”答え”を見出して行ったと感じます。

 

  でも、何よりも、理屈ではなく、むしろ”最初に、行動ありき”が、ゼノ師

の真面目だったと思います。 

  彼が、伝道活動や救援活動から身を引き、入院生活をしていらっしゃ

った時、先述しましたように、私は、車椅子のゼノ師を、何度か、お見かけ

ました。

 

  当時、私自身、ゼノ師が通われたお聖(み)堂(=教会)の役員をさせて

戴いておりました。 

 同師の看護係だった林田ハツノさんとも、何度か、お話したことがあり

ます。

 

 
  教皇ヨハネ・パウロ2世が来日された1981年2月、役員の一人として、

後楽園のミサ会場にも参りました。生憎の小雨でしたが、たいへん印象

深い一日でした。

    Photo_4

  法王さまは、入院中のゼノ師を見舞われました。ゼノ師は、とても感激

され、「パーパ、パーパ(法王さま、法王さま)」と、涙を流されました

(*残念ながら、実際に見たわけではありませんが・・・・正直、当時のテ

レビや新聞を見た限りです)。

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  この時のゼノ師の喜びや感動の場面を、私は、生涯、忘れません。 

その時、ゼノ師は、同郷(同じポーランド出身)のヨハネ・パウロ2世に、

”コルベ神父”見られたかも知れません。あるいはまた、対面の場面

”天国の実在”を実感なさったかも知れないと思うのです。


 

  ゼノ師は、1982年、4月24日に、帰天なさいました。
 

ご遺体は、カトリック府中墓地(*下の写真)に埋葬されました。それ

から数日後、私は、教会の皆さんとご一緒に、同墓地に参る機会があり

ました。

 まだ、真新し
いゼノ師のお墓(=美しい台形に盛られた20センチほど

の土)を、私は、今も鮮明に思い出します。

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  そこには、自分の全生涯を神と人とに捧げ尽くした、一人のポーランド

人修道士・ゼノ師が、安らかに眠っておられるのです。   【了】

 

 

 

 

 

2012年11月 3日 (土)

水浦征男師の『この人』(6)

  ゼノ修道士について(2)


 著書『この人』の中で、ゼノ修道士に注がれる水浦師の眼差しは、

限りなく温かい。 

 実は、ゼノ修道士は、「修道士」とは言っても、東京大司教から「ゼノ

神父」と乗ることを特別に許された、ほとんど唯一の人です。 

  しかし、ゼノ師にとっては、そのような「肩書き」は、それ程大きな意味を

持っていなかったように感じます。

 

  彼は、「風の使者」とも呼ばれましたが、まさに“風のように”、一か所に

留まることなく、また場所を選ばず、どこへでも飛んで行きました。

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  親を亡くし、おなかをすかせた子どもたち、職を無くし、住む家さえままな

らない人々のために、彼は、できる限りのことをして上げました。



  水浦師にとって、ゼノ修道士は、一つの”お手本”だったかも知れません。
 

あるいは、同師は、ゼノ師に、かつてのコルベ師の、より腹蔵なく申しま

すなら、聖フランシスコ“精神”とその姿を見られたのかも知れません。

 

  水浦師が、ゼノ師に親しみ以上のものを感じていらっしゃったのは、本著

の表紙でも明らかです。 

  それは、下の表紙の、タイトル下の(つまり、中心に位置する)人物に注

目すれば、判ります。この人物こそ、ゼノ修道士、その人なのです。

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  事実、水浦師の描く「ゼノ師像」は、とてもユーモラスで温かいのです。

同師は、次のように記しています。



≪  ポーランドへの四○年ぶりの里帰り  

                                ゼノ・ゼブロフスキー修道士

 

  「みなさんサヨナラ。お祈りタノミマス」。 こう言い残してゼノさんは、風の

ように母国ポーランドに旅立って行った。 

  昭和五年、コルベ神父と一緒に日本の土を踏んで以来四○年ぶりの

帰国である。

 

  ゼノさんは長崎をふりだしに、東京、大阪、広島、北海道など日本中を

歩き回って、伝道生活を送ってきた。 

  どこかで水害や大火事があれば、だれよりも先に、そこにゼノさんが

いた。各地で寄附を集め、毛布やシャツを被害地に運んだのである。 

  だが、来日四○年というのに、なぜかゼノさんの日本語は上達しなか

った。

 

 最近の口癖は「ワタシ、アタマ、ボロナリマシタ」  この種の”ゼノ語”を

連発して、ゼノさんは働いていました。 

  ゼノさんの仕事に関する限り、日本語という言葉のカベは大した問題で

はなかったようだ。



  ゼノさんは帰国するまで、東京、東村山の修道院に住んでいた。ここか

ら毎日、都心へ“伝道の旅”に出た。バスや電車を乗りついで都心まで

行くのに一時間半かかっていた。

 

  修道院では、ゼノさんの体力の衰えと交通事故を心配して、天気の悪い

日は外出しないように説得したが、効果はなかった。 

  ゼノさんは「カワイソウナヒト、タクサンマッテイマス」と言って、出掛けて

行った。

 

 ある修道士さんが「クルマに気をつけて」と言うと、ゼノさんは「ワタシ、

マチ(外出先)デ死ヌイイデス。交通事故ナルト、ケイサツクル、白いクル

マ(救急車)クル、タクサンノヒトアツマル。コレイイデス。修道院で死ヌト

ダレモコナイヨ」と答えていた。



  ゼノさんは、雨の日でも外出を嫌がらなかった。それも決してカサをさ

さないで出掛けた。これはどういうわけかはっきりはわからない。 

  しいて想像すれば、ゼノさんがいつも持ち歩く黒いカバンが重すぎるた

めかも知れない。

 

  カバンの中は“宣伝用”のアルバム(ゼノさんに関する新聞記事のスク

ラップ・ブック)と弁当。 

  ゼノさんは、この破れかけた黒カバンを両手で抱きかかえるようにして

歩く。このため雨の日もカサをさす余裕はないのだ。

 

  ゼノさんは帰国直前の歓送会で「天国に行く前に帰ってきてくださいよ、

ね」と念をおされると「アリガトウ、アリガトウ」とうなずき、天国に行くまえ

にきっとまた帰ってくると約束した。

 

  またある人が「ポーランドで、ゆっくり休んで来て下さい」と言うと、

「ワタシ、天国にいってからゆっくり休みます」と答える。 

  あの白い、綿のようなヒゲをふるわせながら、ゼノさんが再び姿を見せ

てくれるだろうか。  ≫            (『聖母の騎士』1971年10月号) 

 

 

  ”天国にいってからゆっくり休みます”とのゼノ師の言葉が、とても印象

的です。 

それほどに、ゼノ師の一日一日が、弱く貧しき人々のためでした。

 

  ところで、ゼノ師は、1969年に、勲四等瑞宝章を受章しました。 

  しかし、昨日、引用しましたFrancisco  Maximiliano氏によりますと、

ゼノ師は、「天国ニコレイラナイネ」と言って、手持ちの鞄に放り込んで 

しまいました。 

  これなどは、まさにゼノ師の面目躍如といったところです。


  また、ブログ「Un  Ange  Passe~アンジェパッセ~」氏によりますと、

ゼノ師は常々、「大切なのは、困っている人がいることを、一人でも

多くの人達に知ってもらうことだ」と語っていたそうです。

  同ブログの主宰者ご自身、「大切なのは、まず知ること」だと強調

されています。

  確かに、私も、その通りだと思います。

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  さらに、ゼノ師は、お仲間に「カワイソウナヒト、タクサンマッテイマス」と

語りましたが、世の人々の中では、「カワイソウナコ、イナイデスカ?」と、

訊ね歩きました。 

                           Photo_5

  ここには、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」に通じる、限りない”慈愛”を感じ

ます。きっと、ゼノ師ご自身が“愛”そのものだったのではないでしょうか。

  換言しますなら、ゼノ師は、世の中で飢えや貧しさに苦しむ人々に、
 

まことの“愛”を伝える、神の「道具」だったのだと思うのです。 【つづく】

2012年11月 2日 (金)

水浦征男師の『この人』(5 )

    ゼノ修道士について(1)


  今日、「ボランティア(*下の写真)という言葉は、私たちにとって、馴染

み深いものになっています。 

 事実、昨年の「3.11」を始め、数多くの災害に際して、その事後処理に、

日本各地から、多くのボランティアが、陰に陽に活躍してします。まことに、

頭の下がる思いです。

     Photo

                           Photo_2


  このボランティアの”草分け”とも言える人物が、本日、話題にしたいゼノ・

ゼブロフスキー修道士(1891~1982:下の写真)ではないでしょうか。

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  ゼノ修道士は、多くのカトリック信者に、「ゼノさん」と呼ばれ、とても愛さ

れました。 

あの、気品のある、白くて長い髭が、同師のトレードマークでした。 

  彼の口癖は、「ゼノ、死ヌヒマナイ」でした。本当に、彼は、”死ぬヒマ”を

惜しんで活躍し、92歳で帰天しました。 

  コルベ師が日本で果たせなかった事の多くを、ゼノ修道士が果たしてく

れたと思います。



  ゼノ修道士は、1891年、ドイツ国境付近の村で、シュ
ラフタ(ポーランドの

貴族)の父ヨーゼフと、母アンナの間に四男として生まれました(Wikipedia

参照)。

 

  かつてシュラフタは、ポーランド国王をしのぐ権力を持ち、中世から近世

にかけての東欧の政治・文化に大きな影響力を与えたと言われます。 

  ゼノさんの、どこか自由で、権威をものともせぬ不屈の精神と、その深い

気品は、ご先祖さまからのDNAによるものと思われます。

 

  修道士になる前のゼノ氏は、第一次世界大戦時、軍隊に志願しました。

軍隊を除隊後、職を転々としましたが、気まぐれで聞いた教会での説教

に影響を受けて、コンベンツァル聖フランシスコ修道会に、29歳で、入会

しました。 

 その後は、尊敬するコルベ神父と行動を共にしたのでした。 

 

  私自身は、ゼノさんとは直にお話したことはありません。
 

実際にお見掛けしたのは、同師の最晩年、東京都内、清瀬市のベトレ

ヘムの園病院で車椅子生活を送っていらした頃でした。時折、カトリック

秋津教会でのミサにも参加していらっしゃいました。

 そこには、どこか凛とした清澄な雰囲気が漂っていました。

 

  ところで、コルベ神父の離日後、ゼノ修道士は、全国各地に赴き、布教

に専念していました。 

  しかし、彼は、1945年8月9日、長崎市で被爆しました。 

けれども、このような苛酷な悲劇に遭遇しても、決して、へこたれるような

ゼノさんではありませんでした。

  むしろ、彼は、爆心地だった浦上の人々の救護・介抱に全力を注ぎまし

た。  彼はまた、戦後、戦災孤児や恵まれない人々の救援活動にも尽力

した。               Photo_4

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  例えば、東京・浅草のバタヤ街など全国各地で「アリの街」の支援活動を

しました。

  ゼノ修道士と北原怜子(さとこ:洗礼名マリア・エリザベト:1929~1958

:下の写真)との出会いは、この支援活動を通じてでした。

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   ブログ「Verbum  Caro  Factum  Est」の主宰者であるFrancisco

Maximiliano氏の記述によれば、ゼノ修道士は、北原怜子が着物

の帯にロザリオを止めていたのを見て、「アナタ、シンジャデスカ?」

と声を掛けたそうです。

  ただ、それだけ言って、その日は去って行き、会う度に、蟻の町の

子どもたちの話を少しだけしました。

  北原怜子は、まるで何ものかに導かれるように、普段は決して行く

ことの無い廃品回収(バタヤ)の集落へと引き寄せられていきました。

そして、何度も、この町に通ったようです。


  また、カトリック潮見教会のホーム・ページによりますと、第二次世界大

戦後、職も無く、住む家もない人々が隅田川の言問橋の近くに集まって、

「蟻の会」という共同体を作り、廃品回収で生計を立てていました。

  ゼノ修道士は、その地を度々、訪問していました。

  先述しましたように、大学教授の娘で、恵まれた家庭に育った北原怜子

というカトリック女性はゼノ修道士から「蟻の町」の話を聞き、そこに出掛

けるようになり、献身的に蟻の町の子どもたちの世話をしました(*下の

写真

            Photo_9
  しかし、怜子(さとこ)は、次第に持てる者が持たない者を助けるという

“姿勢”に疑問を抱くようになり、自ら「バタ屋」となって廃品回収を行うよう

になりました。

            Photo_10

  (*上の写真は、北原怜子の「くず物収集鑑札」)  

 
  彼女の積極的な行動によって、「蟻の町」の子どもたちの教育環境は、

だんだんと整えられていきました。

  彼女の行動は世界に発信され、賞讃の声が多く届きますが、彼女は、

「財宝ばかりでなく、名誉や地位もまた悪魔的な誘惑です」と語り、その

名声に甘んじることはありませんでした。

  唯、諸々の奉仕活動での無理が祟り、彼女は、健康を害しました。

療養のため、一時「蟻の町」を離れましたが、やがて死期を悟ると、

彼女は、「蟻の町」に再び移住しました。そして、1958年、彼女は、

腎臓病で夭折しました。



  潮見教会の同ホームページによりますと、「蟻の町」のあった場所は、

日の墨田公園の一角にあたります。

  東京都はいく度となく、「蟻の会」に立ち退きを求めてきました。

蟻の町を存続させるために、当時の蟻の会の人々は、「教会を建てる」と

言って、建物の屋根に十字架を取り付け、新聞にも取り上げられました。

怜子の名は、”蟻の町のマリア”として知られるようになりました。

  有名になった「蟻の町」に対して、都は、代替地として「8号埋立地」を

提示しましたが、都が示した条件は、蟻の会にとっては厳しいもので、

交渉は難航しました。

  先述しましたように、一時蟻の町を離れて、病気療養をしていた怜子は

病状が悪化し、これ以上、治療方法がないと分かったとき、蟻の町に戻る

ことを希望しました。

  彼女は、十字架が立った建物に近い小部屋(*下の写真)に住み、蟻の

町のために、ひたすら祈り続けました。

  病床での彼女の笑顔は、死を前にした人のものとは思えないほど、

実に素晴らしいものです。

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  1958年1月19日、怜子の祈りが神に通じたかのように、都が蟻の会の

要求を全面的に認め、蟻の町の「8号埋立地」への移転が決定しました。

  その直後、北原怜子は、1月23日に、28歳の若さで帰天しました。



   蟻の町が、当時の地名で「枝川」と呼ばれた埋立地に移った頃は、

まだ京葉線もなく、今日のようなマンションも一軒もありませんでした。

  そこに怜子や蟻の会の人々の願いであった教会が建てられました。

こうして始まったのが「カトリック枝川教会(蟻の町教会)」です。

  また、蟻の町とその周辺の子供たちのために、「ありんこ保育園」も

併設されました。


  今日、同教会の「現状」には、こう記されています。

「町名と教会名が『潮見』に変わり、コンクリートの聖堂が建ち、周囲の

有様も一変しましたが、この教会は、いつも貧しい人の教会であったこと

を忘れず、居場所を見失ったすべての人を暖かく迎える場でありたいと

願っています」と。

  この潮見教会の心優しく温和な“精神”こそ、かつて、ゼノ修道士が種を

撒き、北原怜子が耕し、育て上げた無心・無欲な”ボランティア精神”の

見事な開花の結果と申せましょう。  【つづく】



  (付記) 今回は、潮見教会のホームページやWikipediaの他、

      ブログ「レモンキャンディー」

       同 「ある女子大教授のつぶやき」

       同  「Verbum  Caro  Factum  Est 」などを参考にさせて頂き

       ました。

 

 

 

2012年11月 1日 (木)

水浦征男師の『この人』(4)

   コルベ神父について(完)

 

  帰国後、コルベ神父は、ニエポカラノフ修道院の院長を務め、出版や

ラジオなどを通じて、活発な布教活動を行いました。 

  その頃、コルベ師は、すでに将来の戦争と自分の運命を悟っていました。          

 事実、1937年1月10日に、彼は一部の修道士に、日本で聖母マリアか

ら「確実に天国に行ける」という約束を受けたことを打ち明けています。 

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  また、1939年2月18日付の日本における後継者であるサムエル・

ローゼンバイゲル神父宛の手紙で、「戦争が勃発し、送金ができない

場合に、苦境に陥らないように、経常費に関しては自立できるよう、徐々

によく考えておくのが良いでしょう」と書いています。

 

  実際、1939年9月1日のドイツ軍のポーランド侵攻による第二次世界

大戦の勃発により、コルベ師は、布教活動の縮小や停止を余儀なくさ

れました。

 

  1941年2月17日、コルベ神父(*下の写真)は、4人の神父と共に、

ゲシュタボに逮捕されました。 

 その理由としては、コルベ神父が発行していた『無原罪の聖母の騎士』

や日刊紙が、ナチに対して批判的なものであったからとも、また、当時

は、単にユダヤ人のみではなく、ポーランドにおける有力な人物をも逮

捕の対象にしていたからとも言われます。

 私は、両方の理由からだと考えます。      

  Photo_3

  解説によりますと、コルベ神父の逮捕では、退会したニエポカラノフの

元修道士が署名した告訴状が証拠とされました。 

  しかし、ドイツ語の読めなかった元修道士は、ドイツ語で書かれた文書

を言われるままにサインしただけであり、しかも、その文書は、ゲシュタ

よる偽造(=捏造)でした。

   つまり、ナチスは、最初から、コルベ師を逮捕するつもりだったのです。

 

  彼の逮捕後、20人の修道士が、彼の身代わりになる事を申し出ましたが、

この申し出は、却下されました。 

  コルベ神父は、パヴィアックの収容所に収容された後に、アウシュヴィ

ッツ=ビルケナウ強制収容所に送られました。同師の囚人番号は、

「16670」でした。
  
                  Photo_13

     (*囚人として描かれたコルベ神父のステンドグラス)



  1941年7月末、脱走者が出たことで、無作為に選ばれた10人が「餓死 

刑」に処せられることになりました。囚人たちは番号で呼ばれていきまし

たが、呼ばれたフランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が、

「私には、妻子がいる」と叫び出しました。 

  そこにいたコルベ神父は、「私が身代わりになります。私はカトリック

司祭で、妻も子もいませんから」と申し出ました。

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  責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘス(1894~1987:下の人

は、この申し出を許可しました。コルベ神父と9人の囚人が、地下牢

の餓死室に押し込められました。

            Photo_5


 餓死刑に処せられると、その牢内において、受刑者たちは飢えと渇きに

よって錯乱状態で死ぬのが普通だと言われました。

  しかし、コルベ神父は、まったく毅然としており、他の囚人を励ましてい

ました。

 時折、牢内の様子を見に来た通訳のブルーノ・ボルゴヴィツは、牢内か

ら聞こえる祈りと歌声によって、餓死室が、まるで聖堂のように感じられた、

と証言しています。

  2週間後、当局は、コルベ神父を含む4人が未だ息があったため、病院

付の元犯罪者であるボフを呼び寄せて、フェノールを注射して殺害しま

した。

          Photo_6


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            (*コルベ師終焉の地下の「餓死室」)


  ボルゴヴィツは、この時のことを、次のように証言しています。

≪マキシミリアノ(=コルベ)神父は祈りながら、自分で腕を差し伸べま

した。

私は見るに見かねて、用事があると口実を設けて、外へ飛び出しました。

  監視兵とボフが出て行くと、私は、もう一度、地下に降りました。

マクシミリアノ神父は壁にもたれて座り、目を開け、頭を左へ傾けていま

した。その顔は穏やかで、美しく輝いていました≫と。

  コルベ神父の亡骸は、木の棺桶に入れられ、翌日、カトリック教会では

大祝日にあたる「聖母被昇天の日」である8月15日に、火葬場で焼かれ

した。

  なお、コルベ神父は生前、聖母の祝日に死にたいと語っていたと言わ

れています。

                  


  1971年10月10日に、コルベ神父は、当時の教皇パウロ6世によって

「列福」され、1982年10月10日に、同国(ポーランド)出身の教皇ヨナネ・

パウロ2世によって、「列聖」されました。

  この日の式典には、コルベ師に命を助けられたガイオニチェクの姿も

ありました。

  ガイオニチェクは奇跡的に終戦まで生き延びて解放され、94歳で天寿

全うするまで、コルベ師に関する講演を、世界各地で続けていました。

         Photo_11
       
(*コルベ師像に祈りをささげるマザー・テレサ)

  1998年には、ロンドンにあるウェストミンスター教会(英国国教会)の

扉に、「20世紀の殉教者」の一人として、コルベ神父の像(*下の写真

の左端)が飾られました。

        Photo_12

  コルべ神父は、その在日期間は6年足らずと、決して長くはありません

でしたが、現代の日本に最も影響を与えた代表的な聖職者だと申せま

しょう。 

  そして、コルベ神父の日本での布教活動は、同師の離日後、ゼノ修道

たちによって、受け継がれていったのです。 【了】

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