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2012年10月29日 (月)

水浦征男師の『この人』(2)

   コルベ神父について(1)




   聖母の騎士”という言葉、あるいは、その理念を、日本だけでなく世界

に広めた信仰者(あるいは、宗教者)は、何と言っても、マクシミリアノ・マリ

ア・コルベ神父(1894~1941:下の写真)です。 

  実際、彼は、長崎の『聖母の騎士』社の創立者でもありました。否、彼自

身が、〝聖母の騎士”そのものでした。

         Photo
    

  47年に及ぶ彼の生涯は、まさに聖母マリアのために捧げられたと申せ

ましょう。

 実は、彼に就きましては、水浦師の『この人』の中で詳述されているわけ

ではありません。

  しかし、水浦師の本著について語る上で、「コルベ師」とは、一体、どんな

方だったのか?を知ることは、たいへん大事なことだと感じます。

  それで、同師について、少し説明をさせて頂きたいと思うのです。

以下、Wikipediaを参考にさせていただき、当方で、それに少し補足をいた

たいと存じます。

  コルベ神父(本名ライムンド・コルベ)は、1894年、当時、ロシア領だった

ポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで、織物職人ユリオ・コルベとマリア・ドン

ブロフスカの5人兄弟の次男として生まれました。

   両親とも、熱心なカトリック教徒でした。

 

  父のユリオは、在俗フランシスコ会のリーダーでした。愛国心に富んだ

彼は、第一次世界大戦中に、ポーランド独立の為の義勇軍に参加しま

したが、ロシア軍に捕らえられ、処刑されてしまいました。

  母のマリアは、結婚前は修道院生活を志したことがありましたが、帝政

ロシアの統治下にあった同地では、カトリックの修道院は許されていませ

んでした。 

 その理由は、帝政ロシアが、ロシア正教を国教としていたためです。


  コルベ師の先祖は、ボヘミアからの移民であり、「コルベ」は、ドイツ風の

名前でしたが、彼自身は、生涯”ポーランド人である”という意識を強く持っ

いました。当時、亡国状態だった母国を愛した著名人に、音楽家のフレ

リック・フランソワ・ショパン(1809~1849:下の肖像画)がいます。

          Photo_2

  コルベ青年は、ローマの神学校で、同級生に「ドイツ人!」と呼ばれて、

顔が真っ赤になったと言われています。



  実は、少年時代、コルベは、聖母マリア”の出現を体験しています。
 

彼は、その時の体験を、母に、こう語っています。 

Photo_9
「私は、聖母に、将来、

自分が、どうなるか?

と尋ねました。すると、

聖母が、白と赤の二つ

の冠を持って、やって

来ました。

 そして、どちらの冠を

受け入れるかを、私に

お尋ねになりました。

 白は純潔を保ち、赤は

殉教者となることを意味

していました。 

 私は、『両方ほしい』

申しました」と。

 

  私(渡邉)は、この話を、決して架空の作り話とは思いません。聖人と

言われる方々には、この種の話は、じゅうぶん有り得ることなのです。 

  この私でさえ、幼少年時代、祖父や母と一緒に読経し、お題目を唱え

度に、えも言われぬ〝恍惚感”を味わっていたのですから。・・・・ 

 無心で何かをしていると、人の見えぬものが見え、人の聞こえぬ「音」

が聞こえるものなのです。

 

  さて、13歳で、コルベ少年は、兄フランシスコと共に、コンベンツァル

聖フランシスコ修道会に入会します。同会の小神学校に入学したコルベ

少年は、その豊かな才能を発揮します。 

  特に、彼は、数学の才能に恵まれ、数学の教師が「こんな才能を持っ

ているのに、司祭になるのは惜しい」と嘆く程でした。 

  この頃、コルベ少年は、ロケットで月に行けると考え、ロケットの図面を

描いたと言われています。

 

 

  1910年、16歳になると、彼は修練院に入ることを許され、翌年には、

初誓願を立てて、マキシミリアの名前を取りました。 

 また、その3年後には、ローマで、聖母マリアへの崇敬を示すために、

マリアの名前を取って、「マクシミリア・マリア」と名乗りました。  

  その間、彼は、クラコフ(*現在、ポーランド第2の都市)やローマへ

留学し、特にローマで、彼は哲学、神学、数学、それに物理学を学び

ました。 

  彼は、1915年に、グレゴリアン大学(*下の写真)で哲学博士号を、

また1919年には、聖ボナベントゥラ大学で、神学博士号を取得しま

した(*下の写真は、若きコルベ師)

             Photo_6
                 (グレゴリアン大学の入口)


               Photo_7


                  

  ローマにおいて、彼は、「フリーメーソン」による反バチカンの動きを、

直に目にします。

  この出来事は、聖母マリアの”
取り次ぎ”により、罪人(つみびと)や

カトリックに敵対する人物、特にフリーメーソンを改心させるために働く

聖母の騎士(ミリシャ・インマクラータ)を創立する契機となりました。

  「改心」という目標に対して、コルベ師は、たいへん真剣でした。

   因みに、彼の祈りの言葉は、次のようなものです。

  「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我らの為に祈り

給え。

『また、御身により頼まざる人々、特に教会に敵対せし人々、かつ我等

が御身に依り頼む全ての人々が為に祈り給え』」。―



  1917年10月16日に、コルベ師は、6人の志願者と共に、神学校聖堂内

の〝汚れなき聖母”の祭壇の前で、聖母への奉献を行い、汚れなき聖

母の騎士会」を創立したのです。

                          Photo_8


           

  私は、以上の記述をしながら、思い出す一人の聖人がいます。

それは、実は、フランシスコ・ザビエル(1506~1552:下の肖像画)

です。

               Photo_4

  無論、両者は、生まれた時代も属した修道会も違います。しかし、私に

は、その信仰、知力、歴史的役割や業績の価値において、両者は、ほぼ

同格なのではないかと思います。

ザビエルも、コルベ師とほぼ同じ、46年の生涯でした。

  コルベ師のその後の動きに就きましては、また、次の機会に譲りたいと

思うのです。  【つづく】

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