フォト
2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  
無料ブログはココログ

« 水浦征男師の『この人』(2) | トップページ | 水浦征男師の『この人』(4) »

2012年10月30日 (火)

水浦征男師の『この人』(3)

    コルベ神父について(2)

 

  ここで、コルベ師に、一つの試練が与えられます。つまり、当時、不治

の病と言われた結核に罹ったのです。それは、彼が、ローマにいた頃で

した。

 

  彼は、哲学と神学の博士号を取得後、クラコフにあるカトリック大神学

校の「教会史」の教授として、同校に3年間、勤めました。 

  しかし、結核の再発のため、彼は、1920年の8月から翌年の4月まで、

保養地のザコパネで、療養生活を余儀なくされました。

 

  身体が回復後”出版”による布教活動を志したコルベ神父は、1922年

に、初めて「無原罪の聖母の騎士」(ポーランド語:Rycerz  Niepokalanej )

を執筆し、出版しました(*下は、その出版物の一冊) 

  部数は5千部で、執筆者は、神父一人でした。

                      Photo

  同年に、コルベ師は、グロドノ (現在、ポーランドとリトアニアの国境に近

い、ベラルーシ・フロドナ州の州都フロドナのこと)の修道院に移り、当地

での出版活動を開始しました。 

 この頃には、コルベ神父と共に、後に日本に宣教に来ることになるゼノ・

ゼブロフスキー修道士(1891~1982)と出会っています。



  グロドノが手狭となり、活動拠点を移動する必要に迫られたコルベ神父

は、新たな土地を探しました。その時、ドウルッキ・ルベッキ公爵が、ワル

シャワの近くに所有する土地を寄進してくれました。 

  1927年、コルベ神父は、この地に、ニエポカラノフ修道院(「無原罪の聖

母の騎士修道院」)を創立し、『無原罪の聖母の騎士』等の出版による宣

教に力を入れました。 

 

  この出版活動のさなか、コルベ神父は、中国での宣教を望んでいました。 

 しかし、日本へ布教活動へ行くことになったのは、当時、ローマに留学し

た神学生・里脇浅次郎(さとわき・あさじろう:後の長崎教区大司教お

枢機卿:1904~1996、下の写真)との関わりによるものでした。

         Photo_2

            Photo_3

  この時の事を後年、里脇師は、水浦師に、次のように語っています。 

(以下、『この人』―福者(当時)マクシミリアノ・コルベ神父の案内役ー

より)

 

≪「今にして思えば、すべてが神さまのみ摂理だったような気がします

ね・・・・」 

と、過ぎ去った46年の『聖母の騎士』の歩みを語るのは、里脇浅次郎

長崎大司教。

             Photo_8
 1930年(昭和5年)4月、コルベ神父の一行4名の”聖母の騎士”たちが、

長崎に上陸できるように、お膳立てをしたのが、ほかならぬこの人、里脇

大司教だった。 

 「もう40年以上も昔のことだから・・・・」と前置きして、大司教は、コルベ

神父との初めての出会いを振り返る。

 

 「あれは、私がローマに留学して3年目の年だったと思います。私は、

まだ司祭になっていませんでした。 

  当時(1930年)、プロパガンダ大学には、私の他、大窄(おおさく・故人)、

平田(福岡)、志村(東京)、深堀(東京・故人)といった神学生たちもいた

んです。 

 コルベ神父さまが、この大学を訪れ、日本人神学生に面会を求められ

たとき、たまたま私が年長者ということで、応対にでたんですよ」

 

 おそらくコルベ神父は、どこかで、プロパガンダ大学に日本人がいるこ

とを聞いたのだろう。だが、コルベ神父は、初めから日本への布教を考

えてはいなかったらしい。

 

  里脇大司教は、次のように述懐する。 

「コルベ神父さまは最初、私に『中国へ宣教に行きたい』と切り出された

んですよ。 

 それで私は、『中国は政情が不安だと聞いているので、布教は困難で

はなかろうか。中国の情勢が治まるまで、日本で待機したらどうですか』

と申しあげたんです」

 

 マクシミリアノ・コルベ神父は、この若い一人の日本人神学生の言葉を、

素直に受け入れた。 

 里脇神学生もまた、日本に知人を持たないポーランド人司祭のために、

当時の長崎教区長・早坂久之助司教宛に”紹介状”を書いた。

 

 1933年、里脇神父がローマから帰国した頃、コルベ神父の日本におけ

る『聖母の騎士』出版事業は軌道に乗っていた。 

 「長崎だったから、コルベ神父さまの仕事も出版事業もうまくいったの

かもしれませんね。これが中国や、他の土地だったらどうなっていたか

わかりませんよ」と、大司教は不思議な摂理を強調する。

 

 ローマで、コルベ神父が里脇神学生に出会わなかったら、あるいは長崎

に来ることもなかったかもしれないし、今日の『聖母の騎士』も存在しなか

っただろう。 

 かつての若い一人の日本人神学生が「日本へ行ったらどうか」とすすめ

たひとことは”千金の値”に思われてならない。

 里脇大司教は、今年72歳。長崎教区7万2000余人のカトリック信者の

”長”として、かくしゃくと活躍しておられる。≫     (『聖母の騎士』1976年

8月号)


  この里脇神学生の言葉の影響もあり、コルベ神父は、日本での宣教・

広報活動を決意しました。

  彼を含む5人の宣教師は、1930年3月7日に、フランスのマルセイユか

ら上海行きのアルジェ号に乗船し、4月11日に、上海に到着しました。

  上海では、実業家で慈善家のカトリック信者・陸伯鵬と面識を持ち、援助

の申し出を受けましたが、布教活動は成功しませんでした。

 

  1930年4月24日に、コルベ神父は、ゼノ・ゼブロフスキー修道士ら4人と

長崎に到着すると、早坂司教に「無原罪の聖母の騎士」の出版許可を願

いました(*真ん中が、コルベ神父、左から2人目が、ゼノ修道士)

            Photo_4



  司教は、コルベ神父が哲学博士号を持っていることを知ると、自分の教

区の神学校で哲学を教えることを条件に出版を許可しました。

  長崎では、早くも翌月に日本語版の『無原罪の聖母の騎士』誌の出版を

開始しました。翌月には、「聖母の騎士修道院」を設立しました。

                   Photo_6
                    
(*執筆中のコルベ神父)

         Photo_7
      
   (コルベ師たちが来日した頃の長崎・・・・

                ブログ「ナース和月」より拝借) 

            

  しかし、1936年、コルベ神父は、ニエポカラノフ修道院の院長に選ばれ

たために、故国ポーランドに帰国しました。

  その後のことにつきましては、次の機会に譲りたいと思います。 

 【つづく】

 

« 水浦征男師の『この人』(2) | トップページ | 水浦征男師の『この人』(4) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Links