エッセイ「心のままに」(完)
生命の揺籃(=ゆりかご)
樹木は、人間の命の源。―
私たちは、樹木によって癒される。
身も心も疲れた時、人は、樹木の下に佇むとよい。
必ず、身体の健康と心の平安を得ることができよう。
樹木こそは、人間にとって、「母なる自然」と言えよう。
日本人の心
の優しさは、
樹木を大切
にするところ
から生じたの
ではあるまい
か。
生命の源は、
海から生じた。
その海を育む
のが、樹木や
森である。
私たちは、
その樹木を大切にしなければならない。
樹木を根絶やしにするような行為は、もはや文明とは
言えない。中国を見れば、分かるではないか。
それは、人類だけでなく、あらゆる生命の“死”を意味す
る。
樹木こそは、すべての生命の揺籃である。
人知れず“善”を積む
「陰徳」という言葉があります。
人に知れぬように施す恩徳(『広辞苑』)と言われます。
それは、人知れず“善”を積む行為とも言えます。
「陰徳あれば陽報あり」という言葉もあります。
陰徳を積む人には、陽報(=よい報い)が得られると考え
そうでなかった
としても、人知
れず“善”を積
む人は、その
行為(=善行)
自体を、実に
生き生きと、
かつ楽しそうに
やっています。
確かに、善行は、それ自体が“美”そのものであり、
かつ喜びだと思います。
決して、他者(ヒト)に誉められたくてやるのではないの
です。
むしろ、それ自体が、”無上の喜び”なのです。
小さな“善”は、大善とも言える「神」や「仏」の反映とも
言えます。
それゆえにこそ、「善行」は、常に光り輝いて見えるの
ではないでしょうか。
平凡と非凡
人間が「平凡に徹する」ことは、ひじょうに難しい。
だが、「非凡に生きる」ことは、もっと難しいと思う。
なぜなら、後者の生き方は、一般の人々には、なかなか
理解されないからだ。
平凡と非凡の違いとは、一体何だろう?
「平凡な人」には、適度の才能と堅実な持続性が備わって
いる。
けれども、概して、創造性や独創性は希薄だ。
また、どんなに高学歴で、自ら才能に恵まれていると自
負している人でも、凡人は凡人だ。
これに対して、学歴など無くても、ひじょうに創造力が豊
かで、独創的な仕事を成し遂げる「非凡な人」がいる。
(*右下の写真は、創作中の棟方志功氏:1903~1975 )
とを分けるもの
は、主に”創造
力や独創性”で
はないだろうか。
私にとって、
「非凡な人」と
は、周囲や時
代状況に左右
されることなく、
自らの創造力
や感性を磨き、
独創的な業績を上げる人のことである。
日本には、このような人々は、決して少なくないように
思うのだ。
人は、常に生まれ変われる
人の性格は、簡単には変わらないと言われる。
果たして、そうだろうか? 私には、そうは思えない。
性格はおろか、人間性そのものが、大きく変わると思う。
それも、常に生まれ変われると思うのだ。
は有限でも、見え
ない世界は、無限。
その無限の世界
から、常に私たちを
本質的に変える強
大な力が放射される。
その「力」は、私た
ちを導き、力づけ、
そして助けてくれる。
だが同時に、
私たち自身の心の中、とりわけ魂の中には、その強大な
力(私たちは、「それ」を神とか仏とか呼んでいる)と感応
し合う力が存在している。
合わさることで、
「奇跡」と言われる
ような不思議なこと
が起きる。
しかし、むしろ人間、
いや生き物そのもの
が、ひじょうに可変的
な存在なのだ。
そこで、私たちは常
に、”新しい自分”を発見できる。
そのことを信じて生きていこう。
人は、常に生まれ変われるのだから。 【了】
(*下の写真は、この度のロンドン・パラリンピック・車いす
テニス男子シングルスで優勝した国枝慎吾選手)
(後記)エッセイ「心のままに」をご愛読くださいまして、
まことに有難うございました。
どうか、懐かしい曲(サイモンとガーファン
クルの「明日に架ける橋」)をお聴きください。
途中、ちょっと途切れそうになる所があり
ますが、大丈夫です。
大きな画面で観られると、いいですね。
(下を、クリックしてみて下さい。)
とを分けるもの
は、主に”創造
力や独創性”
ではないだろう
か。
私にとって、
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