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2012年10月

2012年10月30日 (火)

水浦征男師の『この人』(3)

    コルベ神父について(2)

 

  ここで、コルベ師に、一つの試練が与えられます。つまり、当時、不治

の病と言われた結核に罹ったのです。それは、彼が、ローマにいた頃で

した。

 

  彼は、哲学と神学の博士号を取得後、クラコフにあるカトリック大神学

校の「教会史」の教授として、同校に3年間、勤めました。 

  しかし、結核の再発のため、彼は、1920年の8月から翌年の4月まで、

保養地のザコパネで、療養生活を余儀なくされました。

 

  身体が回復後”出版”による布教活動を志したコルベ神父は、1922年

に、初めて「無原罪の聖母の騎士」(ポーランド語:Rycerz  Niepokalanej )

を執筆し、出版しました(*下は、その出版物の一冊) 

  部数は5千部で、執筆者は、神父一人でした。

                      Photo

  同年に、コルベ師は、グロドノ (現在、ポーランドとリトアニアの国境に近

い、ベラルーシ・フロドナ州の州都フロドナのこと)の修道院に移り、当地

での出版活動を開始しました。 

 この頃には、コルベ神父と共に、後に日本に宣教に来ることになるゼノ・

ゼブロフスキー修道士(1891~1982)と出会っています。



  グロドノが手狭となり、活動拠点を移動する必要に迫られたコルベ神父

は、新たな土地を探しました。その時、ドウルッキ・ルベッキ公爵が、ワル

シャワの近くに所有する土地を寄進してくれました。 

  1927年、コルベ神父は、この地に、ニエポカラノフ修道院(「無原罪の聖

母の騎士修道院」)を創立し、『無原罪の聖母の騎士』等の出版による宣

教に力を入れました。 

 

  この出版活動のさなか、コルベ神父は、中国での宣教を望んでいました。 

 しかし、日本へ布教活動へ行くことになったのは、当時、ローマに留学し

た神学生・里脇浅次郎(さとわき・あさじろう:後の長崎教区大司教お

枢機卿:1904~1996、下の写真)との関わりによるものでした。

         Photo_2

            Photo_3

  この時の事を後年、里脇師は、水浦師に、次のように語っています。 

(以下、『この人』―福者(当時)マクシミリアノ・コルベ神父の案内役ー

より)

 

≪「今にして思えば、すべてが神さまのみ摂理だったような気がします

ね・・・・」 

と、過ぎ去った46年の『聖母の騎士』の歩みを語るのは、里脇浅次郎

長崎大司教。

             Photo_8
 1930年(昭和5年)4月、コルベ神父の一行4名の”聖母の騎士”たちが、

長崎に上陸できるように、お膳立てをしたのが、ほかならぬこの人、里脇

大司教だった。 

 「もう40年以上も昔のことだから・・・・」と前置きして、大司教は、コルベ

神父との初めての出会いを振り返る。

 

 「あれは、私がローマに留学して3年目の年だったと思います。私は、

まだ司祭になっていませんでした。 

  当時(1930年)、プロパガンダ大学には、私の他、大窄(おおさく・故人)、

平田(福岡)、志村(東京)、深堀(東京・故人)といった神学生たちもいた

んです。 

 コルベ神父さまが、この大学を訪れ、日本人神学生に面会を求められ

たとき、たまたま私が年長者ということで、応対にでたんですよ」

 

 おそらくコルベ神父は、どこかで、プロパガンダ大学に日本人がいるこ

とを聞いたのだろう。だが、コルベ神父は、初めから日本への布教を考

えてはいなかったらしい。

 

  里脇大司教は、次のように述懐する。 

「コルベ神父さまは最初、私に『中国へ宣教に行きたい』と切り出された

んですよ。 

 それで私は、『中国は政情が不安だと聞いているので、布教は困難で

はなかろうか。中国の情勢が治まるまで、日本で待機したらどうですか』

と申しあげたんです」

 

 マクシミリアノ・コルベ神父は、この若い一人の日本人神学生の言葉を、

素直に受け入れた。 

 里脇神学生もまた、日本に知人を持たないポーランド人司祭のために、

当時の長崎教区長・早坂久之助司教宛に”紹介状”を書いた。

 

 1933年、里脇神父がローマから帰国した頃、コルベ神父の日本におけ

る『聖母の騎士』出版事業は軌道に乗っていた。 

 「長崎だったから、コルベ神父さまの仕事も出版事業もうまくいったの

かもしれませんね。これが中国や、他の土地だったらどうなっていたか

わかりませんよ」と、大司教は不思議な摂理を強調する。

 

 ローマで、コルベ神父が里脇神学生に出会わなかったら、あるいは長崎

に来ることもなかったかもしれないし、今日の『聖母の騎士』も存在しなか

っただろう。 

 かつての若い一人の日本人神学生が「日本へ行ったらどうか」とすすめ

たひとことは”千金の値”に思われてならない。

 里脇大司教は、今年72歳。長崎教区7万2000余人のカトリック信者の

”長”として、かくしゃくと活躍しておられる。≫     (『聖母の騎士』1976年

8月号)


  この里脇神学生の言葉の影響もあり、コルベ神父は、日本での宣教・

広報活動を決意しました。

  彼を含む5人の宣教師は、1930年3月7日に、フランスのマルセイユか

ら上海行きのアルジェ号に乗船し、4月11日に、上海に到着しました。

  上海では、実業家で慈善家のカトリック信者・陸伯鵬と面識を持ち、援助

の申し出を受けましたが、布教活動は成功しませんでした。

 

  1930年4月24日に、コルベ神父は、ゼノ・ゼブロフスキー修道士ら4人と

長崎に到着すると、早坂司教に「無原罪の聖母の騎士」の出版許可を願

いました(*真ん中が、コルベ神父、左から2人目が、ゼノ修道士)

            Photo_4



  司教は、コルベ神父が哲学博士号を持っていることを知ると、自分の教

区の神学校で哲学を教えることを条件に出版を許可しました。

  長崎では、早くも翌月に日本語版の『無原罪の聖母の騎士』誌の出版を

開始しました。翌月には、「聖母の騎士修道院」を設立しました。

                   Photo_6
                    
(*執筆中のコルベ神父)

         Photo_7
      
   (コルベ師たちが来日した頃の長崎・・・・

                ブログ「ナース和月」より拝借) 

            

  しかし、1936年、コルベ神父は、ニエポカラノフ修道院の院長に選ばれ

たために、故国ポーランドに帰国しました。

  その後のことにつきましては、次の機会に譲りたいと思います。 

 【つづく】

 

2012年10月29日 (月)

水浦征男師の『この人』(2)

   コルベ神父について(1)




   聖母の騎士”という言葉、あるいは、その理念を、日本だけでなく世界

に広めた信仰者(あるいは、宗教者)は、何と言っても、マクシミリアノ・マリ

ア・コルベ神父(1894~1941:下の写真)です。 

  実際、彼は、長崎の『聖母の騎士』社の創立者でもありました。否、彼自

身が、〝聖母の騎士”そのものでした。

         Photo
    

  47年に及ぶ彼の生涯は、まさに聖母マリアのために捧げられたと申せ

ましょう。

 実は、彼に就きましては、水浦師の『この人』の中で詳述されているわけ

ではありません。

  しかし、水浦師の本著について語る上で、「コルベ師」とは、一体、どんな

方だったのか?を知ることは、たいへん大事なことだと感じます。

  それで、同師について、少し説明をさせて頂きたいと思うのです。

以下、Wikipediaを参考にさせていただき、当方で、それに少し補足をいた

たいと存じます。

  コルベ神父(本名ライムンド・コルベ)は、1894年、当時、ロシア領だった

ポーランドのズドゥニスカ・ヴォラで、織物職人ユリオ・コルベとマリア・ドン

ブロフスカの5人兄弟の次男として生まれました。

   両親とも、熱心なカトリック教徒でした。

 

  父のユリオは、在俗フランシスコ会のリーダーでした。愛国心に富んだ

彼は、第一次世界大戦中に、ポーランド独立の為の義勇軍に参加しま

したが、ロシア軍に捕らえられ、処刑されてしまいました。

  母のマリアは、結婚前は修道院生活を志したことがありましたが、帝政

ロシアの統治下にあった同地では、カトリックの修道院は許されていませ

んでした。 

 その理由は、帝政ロシアが、ロシア正教を国教としていたためです。


  コルベ師の先祖は、ボヘミアからの移民であり、「コルベ」は、ドイツ風の

名前でしたが、彼自身は、生涯”ポーランド人である”という意識を強く持っ

いました。当時、亡国状態だった母国を愛した著名人に、音楽家のフレ

リック・フランソワ・ショパン(1809~1849:下の肖像画)がいます。

          Photo_2

  コルベ青年は、ローマの神学校で、同級生に「ドイツ人!」と呼ばれて、

顔が真っ赤になったと言われています。



  実は、少年時代、コルベは、聖母マリア”の出現を体験しています。
 

彼は、その時の体験を、母に、こう語っています。 

Photo_9
「私は、聖母に、将来、

自分が、どうなるか?

と尋ねました。すると、

聖母が、白と赤の二つ

の冠を持って、やって

来ました。

 そして、どちらの冠を

受け入れるかを、私に

お尋ねになりました。

 白は純潔を保ち、赤は

殉教者となることを意味

していました。 

 私は、『両方ほしい』

申しました」と。

 

  私(渡邉)は、この話を、決して架空の作り話とは思いません。聖人と

言われる方々には、この種の話は、じゅうぶん有り得ることなのです。 

  この私でさえ、幼少年時代、祖父や母と一緒に読経し、お題目を唱え

度に、えも言われぬ〝恍惚感”を味わっていたのですから。・・・・ 

 無心で何かをしていると、人の見えぬものが見え、人の聞こえぬ「音」

が聞こえるものなのです。

 

  さて、13歳で、コルベ少年は、兄フランシスコと共に、コンベンツァル

聖フランシスコ修道会に入会します。同会の小神学校に入学したコルベ

少年は、その豊かな才能を発揮します。 

  特に、彼は、数学の才能に恵まれ、数学の教師が「こんな才能を持っ

ているのに、司祭になるのは惜しい」と嘆く程でした。 

  この頃、コルベ少年は、ロケットで月に行けると考え、ロケットの図面を

描いたと言われています。

 

 

  1910年、16歳になると、彼は修練院に入ることを許され、翌年には、

初誓願を立てて、マキシミリアの名前を取りました。 

 また、その3年後には、ローマで、聖母マリアへの崇敬を示すために、

マリアの名前を取って、「マクシミリア・マリア」と名乗りました。  

  その間、彼は、クラコフ(*現在、ポーランド第2の都市)やローマへ

留学し、特にローマで、彼は哲学、神学、数学、それに物理学を学び

ました。 

  彼は、1915年に、グレゴリアン大学(*下の写真)で哲学博士号を、

また1919年には、聖ボナベントゥラ大学で、神学博士号を取得しま

した(*下の写真は、若きコルベ師)

             Photo_6
                 (グレゴリアン大学の入口)


               Photo_7


                  

  ローマにおいて、彼は、「フリーメーソン」による反バチカンの動きを、

直に目にします。

  この出来事は、聖母マリアの”
取り次ぎ”により、罪人(つみびと)や

カトリックに敵対する人物、特にフリーメーソンを改心させるために働く

聖母の騎士(ミリシャ・インマクラータ)を創立する契機となりました。

  「改心」という目標に対して、コルベ師は、たいへん真剣でした。

   因みに、彼の祈りの言葉は、次のようなものです。

  「原罪なくして宿り給いし聖マリア、御身に依り頼み奉る我らの為に祈り

給え。

『また、御身により頼まざる人々、特に教会に敵対せし人々、かつ我等

が御身に依り頼む全ての人々が為に祈り給え』」。―



  1917年10月16日に、コルベ師は、6人の志願者と共に、神学校聖堂内

の〝汚れなき聖母”の祭壇の前で、聖母への奉献を行い、汚れなき聖

母の騎士会」を創立したのです。

                          Photo_8


           

  私は、以上の記述をしながら、思い出す一人の聖人がいます。

それは、実は、フランシスコ・ザビエル(1506~1552:下の肖像画)

です。

               Photo_4

  無論、両者は、生まれた時代も属した修道会も違います。しかし、私に

は、その信仰、知力、歴史的役割や業績の価値において、両者は、ほぼ

同格なのではないかと思います。

ザビエルも、コルベ師とほぼ同じ、46年の生涯でした。

  コルベ師のその後の動きに就きましては、また、次の機会に譲りたいと

思うのです。  【つづく】

2012年10月27日 (土)

水浦征男師の『この人』(1)

  皆さん、お早うございます。 お元気でしょうか? 

    本日から、新連載を始めます。 

   どうか、よろしくお願いいたします。 

                 Photo

  ところで、人生において、人々には、様々な出会い(=邂逅)があります。 

そんな中で、どんなに短い出会いではあっても、長く印象に残る方がいます。 

  私にとりまして、水浦征男(いくお)神父が、そのような方の一人です。

 

 水浦師には、人間的な派手さこそありませんが、反面、とても深い”精神

性”を感じます。 

  正直申し上げて、同師の深い心の奥に、私は、”アシジのフランシスコの

精神”、“彼自身”を感じました。

 

  水浦師は、1985年から2009年まで、長崎の「聖母の騎士」社に勤務されま

した。 

 同師は、長崎にご在住の折、「諫早湾干拓」の埋め立て工事にも果敢に

反対する“社会派”の聖職者でもありました。 

 目下、西宮(兵庫県)のカトリック仁川教会の主任司祭をしておられます。


  2007年、東京にて、森田総研主催のパーティに出席し、水浦師と共に、

小沢一郎氏にご挨拶した時のことを、今も懐かしく思い出します。 

  水浦師が小沢氏に、「(私は)あなたと同じ年です」と挨拶されました。

すると、小沢氏も、嬉しそうに微笑んでおられました。

 

  それぞれの経験や立場こそ違え、”同年”というのは、案外、珍しいこと

です。そこには、何か不思議な”共感”や”親しみ”があるようです。 

私は、その時のお二人の光景を、とても微笑ましく拝見していました。


  今夏、その水浦師から、『この人』(聖母文庫(*下の写真)を、ご恵贈い

ただきました。内容は、1970~90年代の月刊『聖母の騎士』のコラム集です。 

  これは、当時、東京にお住まいだった水浦師に、長崎市の『聖母の騎士』

編集部から、コラムの原稿依頼があり、それを、毎月、丹念に書き綴られ

たものです。

  同著には、有名・無名を問わず、心に残る人物像と、それぞれの方々の

「信仰」の姿が描かれています。

                         Photo_2

 正直、時代的に古い感もありますが、そこには、時代を超えて知るべき

“真実”が、とても読み易く描かれています。

  その中の一部を掲載させて戴きたいと思います。
 

そのことを、水浦師も、ご快諾くださいました。

 

  皆さまの座右の書にもなり、かつ人生の指針にもなる、立派な”心の書”

です。ご購読いただければ幸いです。 

  ところで、本日のタイトルは、「人を裁くのは人の役目ではない」というもの

です。 

 時節柄、なかなか考えさせられる一文です。それは、アメリカの「クッシン

グ枢機卿」についての文章です。これはまた、当時、難解な『Time』誌を

精読なさり、とても読み易く翻訳されたものです。

 その内容は、以下の通りです。 

 

    人を裁くのは人の役目ではない(クッシング枢機卿)

 

 
  昨年(1970年)11月2日、アメリカで一人の枢機卿が世を去った。その名は、

リチャード・クッシング前ボストン大司教(*下の写真)である。”クッシング”と

いう名は知らなくても、”ケネディ家の親友だった枢機卿”と聞けば、知って

いる人も多いだろう。

                              Photo_3
  ジョン・F・ケネディとジャクリーン・ブーヴィアーとの結婚式も司り、その子ら

洗礼を授け、ダラスの凶弾に倒れた大統領を葬ったのがクッシング枢機卿

だった。        Photo_4

  「私は理論ではなく、行動をもって働く」との言葉通り、枢機卿は活動の人

だった。

 とくに枢機卿が力を尽くした仕事は、知恵遅れの子どもたちの世話であっ

た。

  「私は、この幸せの薄い子どもたちのために命をささげたい」とマサチュー

セッツ州・ハノバ市に障害児施設「聖コレタスクール」を創設した。

  ボストンの人たちは、宗派をこえて、クッシング枢機卿を”博愛のカーディ

ナル(枢機卿)”と呼んだ。枢機卿は、あらゆる階層の人たちを抱擁する広い

心の持ち主だったからである。



  「人は誤ることがある。しかし、それが本当に悪いとは限らない。どんなとき

でも、人を裁くのは人の役目ではない」―これが、クッシング枢機卿の信念

だった。

  1968年、ジャクリーン・ケネディ未亡人がギリシャのA・オナシス氏と再婚

した。これに対して、カトリック内部に、多くの批判の声が起こった。

 (*下の写真の前方左端の人物が、アリストテレス・オナシス氏 )

 

 Photo_5

  そのとき、ただクッシング枢機卿だけは「だれが罪びとで、だれが罪びとで

ないかを知っているのは神さまだけだ」と言って、カトリックの批判者たちを

叱ったといわれる。

  さらにクッシング枢機卿を人気者にしたのは、その気さくな人柄と素朴さで

あった。

 枢機卿邸を訪ねた警察官たちをバーへ案内したり、教会のご婦人たちと

陽気にダンスをやったりした。

  ときには刑務所を訪れて「私の名は、クッシングです。あなたのお名前は?」

などとやさしく語りかけながら、囚人たちに握手を求めることもあった。




  こんなエピソードも伝えられている。クッシング枢機卿がローマで開かれた

公会議に出席したときのことだった。

  当時の教皇ヨハネ23世は、クッシング枢機卿に、「きみは神学には明るい

のかね」と尋ねられた。すると枢機卿は、「とんでもありません。私は公教要

理以外のことは知りませんよ」と答えた。

  これに対して、教皇は、「それなら私と同じだよ」と大笑いされたとか。

  イタリアの農家の出であられた教皇と、アイルランドの鍛冶屋の出であっ

た枢機卿には、素朴さという点で似ていたようだ。

  枢機卿は1956年に癌と診断されたにもかかわらず、不屈の精神力で十数

年を生き抜いた。

  今、枢機卿の遺体は、ボストンの東南20マイルにある「聖コレタスクール」

の質素な地下墓地に眠っている。生前、枢機卿が可愛がった子どもたちに

見守られながらー。                          (『聖母の騎士』1971年1月号)

               (*下の写真は、ヨハネ23世)

           23
  (付記) クッシング枢機卿とヨハネ23世のエピソードは、実に微笑ましい。

「公教要理」とは、カトリックに馴染みのある方には、実に懐かしい言葉だ。

 私は、20歳代半ばの改宗だったせいか、正直、「公教要理」そのものより、

『新約聖書』の方に関心が強かった。

  だが、生粋のカトリック信者にとっては、「公教要理」は、カトリックへの

普遍的な入門書であり、かつ大切な”教義本”でした。

  まさに、宗教においても、この”基本”を大事にすることこそ、大切だと感じ

ます。

 その意味で、クッシング枢機卿もヨハネ23世も、何よりも、この「基本」

大切になさった宗教者だった思うのです。 【つづく】                                            

 

 

 

2012年10月26日 (金)

山陰・心の旅(完.境港編)

  境港(鳥取県)は、山陰の中では、とりわけ男性的な漁師の街です。 

今までの出雲、松江、そして宍道湖と異なり、どこか“外向き”で活気に溢れ

ています。 市内には、魚市場が、大きなもので三つもあります。
 
  私共が着いた日は、駅近くの「境港水産物直売センター」は生憎、お休み

でした。 

そのため、私たちは、遠くの「境港さかなセンター」まで、タクシーを飛ばしま

した。 

 このセンターの近くには、「夢みなとタワー」があり、最上階まで登ると、

全方位で、「大山(だいせん)」を含めた、かなりの遠方まで展望できました。

          
            Photo_3
 

Photo_2

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   境港はまた、著名な漫画家水木しげる氏(*本名、武良〔むら〕茂)の故
  
 

郷(=本籍地)としても有名です(*同氏は、厳密には、大阪府住吉区の生

まれです)。

  とりわけ、2010年の上半期、NHKの朝の連続ドラマ「ゲゲゲの女房」の

放映以来、駅前から続くメインストリート〝水木ロード”は、多くの観光客で

賑わっています。

  駅に降り立った妻が、些か興奮気味に、こう言いました、「ここは、水木

しげるサマサマね!」と。

 この言葉も、あながち大袈裟ではありませんでした。

(*下の写真は、ロード内に在る水木しげる氏の顕彰碑)

          Photo_4
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             (*顕彰碑の除幕式にて、感慨深げな水木氏 )

                
   実は、松江から境港へは、ほぼ一時間おきに、高速バスが走っているの

ですが、私たちは、安木(やすぎ)や米子(よなご)を経由して、JRで境港ま

で足を運びました。

  米子駅から境港駅まで、JR境港線(別名「鬼太郎列車」)に乗り、境港駅に

降り立ちますと、そこに待っていたものは、水木しげる氏の執筆中の姿やゲ

ゲゲの鬼太郎始め140体にも及ぶブロンズ像のキャラクターたちでした。

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        (*これは、キャラクターの被り物を着た人々です。)

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  たらばガニやマグロなどの豊富な海産物に恵まれた境港ではありますが、
 

私が、何故か心魅かれたのは、何と言っても水木夫妻の“夫婦愛”でした。

  どうも、今回の私の「山陰・心の旅」のキーワードは「夫婦愛」のようです。


            (*水木夫妻のブロンズ像です。決して、礒野波平さんと 

           おフネさんではありません。)

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        Photo_10
              (*ブロンズ像より、遥かにチャーミングな水木夫妻)

 でも、これは、決してこじつけではありません。 

ましてや、初めから、そう目論んだわけでもありません。 

むしろ、筆の勢いと申しますか、自然と、このような塩梅になりました。

  第一、ものごとは、そう”作為的”に進められるものではありません。 

「アジェンダ」などと言って、すべてを作為的・謀略的に進めるのは、ユダヤ・ 

アメリカ人か、その影響や勢力下にある日本人売国奴ぐらいでしょう。

 

  ところで、今日、日本の人口は、ほぼ1憶2千8百万人(2010年の国勢調査

にて)です。国内には、様々な日本人がいましょう。 

  そんな中でも、どんなに苦労や困難を体験しても、常に自分の生き方を前

向きに保持し、決して”ユーモアの精神”を忘れない人がいます。 

  水木しげる先生は、そんな人の、代表的な人物ではないでしょうか。 

私は、同氏ほど人間味豊かで、”ユーモアのある方はいないように思います。

 

 今日の日本は、余りにもギスギスとしてはいないでしょうか。 

単に暴力的で空疎な言葉だけが飛び交い、他者(ヒト)の言動の揚げ足を

取り、徒に罵り合っています。 

  「自分だけが正義」と思う人が、余りにも多いような気がします。 

無論、私自身も、じゅうぶん気をつけなければなりません。

 

  話が少し横道に逸れましたが、今日の日本人が忘れつつあるものは、 

苦境の中での“精神的なゆとり”あるいは”ユーモアの精神”ではないかと 

思います。 

  様々な苦労や困難を体験したという点では、水木しげる先生は、決して

人後に落ちないでしょう。それは、苛酷な“戦争体験”を経た先生の「経歴」

を見れば、容易に理解できます。 

  でも、水木先生には、それを、すべて笑い飛ばすだけの剛毅さや大胆さ

あります。 

           Photo_11

  これは、私たち一人ひとりが、大いに学ぶべき点だと思うのです。 

でも、その水木先生でも、やはり布枝(ぬのえ)夫人(旧姓、飯塚)の内助の

あってのことだと感じます。 

  夫婦が支え合い、補い合ってこその〝業績”なのです。 

また、二人のお譲さんたちのサポートがあってのことだとも思います。 

  やはり、人は、支え合ってこその人間、補い合ってこその人生なのだと思

うのです。



  私の〝水木しげる体験”は、55年以上も前、紙芝居「墓場の鬼太郎」に

よって始まりました。 私たちの観客席は、近くの神社の正面の石段でした。

  水木作品は、貧しく弱き者、虐げられし者、さらには忘れ去られし者たち

への限りない共感と同情、それに慈愛によって溢れていると思います。 

  また、先生の真面目(しんめんぼく)は、その生来の”快活さ”にあると感じ

ます。 

 素晴らしい夫婦愛同様、この水木先生の明るさや快活こそ、これからの

日本人を、いい方向へと導く“光”のように思います。 

  私たち日本人は、美しい祖国に対して、もっと誇りと自信を持って

いいのではないでしょうか。

  私の「山陰・心の旅」は、夫婦の在り方を考えると同時に、日本の

素晴らしい伝統や歴史、それに文化に思いを馳せる、たいへんいい機会

となりました。 ”日本よ、あなたは、本当に美しい!・・・・

  これにて、今回の私の「山陰・心の旅」を終えたいと思うのです。  【了】

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2012年10月25日 (木)

山陰・心の旅(三.宍道湖編)

 松江の美しさは、同時に、宍道湖(しんじこ)の美しさではないでしょうか。 

私には、宍道湖の美しさや恵み無しには、松江の美しさや豊かさも無いよ

うな気がします。

 

  宍道湖は、松江市に属するとはいえ、この街と湖の関係では、松江は、

琵琶湖に面した大津市や諏訪湖に面した諏訪市に似ているように感じ

ます。    Photo

  そして、各々に共通して言えることは、後背の湖の豊かな恵みや風景の

美しさによって、街が形づくられているということです。 

  このような「共生」の関係は、松江や大津、それに諏訪に共通した、実に

”日本らしい”都市の在り方のように思います。
 
  その意味で、松江を愛する人は、同時に、宍道湖を愛するように感じます。
 

実際、かつてのハーンも、そうだったのではないでしょうか。 

彼にとっても、宍道湖無しの松江は考えられなかったと思うのです。

                          Photo_2

                        Photo_4

                     Photo_5
      
  ところで、ハーンは、松江の美しさの一つに、精妙な「音」の素晴らしさを

挙げています。 

  彼の時代、杵で米をつく音、下駄のカラン・コロンという音、川向こうの

お寺から聞こえる鐘の音、宍道湖のシジミ売りの声など、その静寂さの

で発せられる精妙な「音」の素晴らしさを、彼は、とても珍しげに記して

います。

 

  その点、今日の日本人は「音」に対して、ひどく鈍感になっているのでは

ないでしょうか。 

  「音」に心配りをするドイツ人などからすると、彼らが日本で感じる無神経

騒音や雑音に接して、きっと”現代日本人は狂っている!”と感じるドイツ

は、決して少なくないと思います。 

  つまり、現代日本人は、余りにも「音」に対して鈍感、かつ無神経になって

しまいました。 

  その意味で、限りない静寂や静謐さは、明らかな「美」だと思うのです。

                               Photo_6

                   Photo_7


  その「美」が、松江や宍道湖にはあるのです。 

120年も前に、ハーンは、それに気付いていたと感じます。 

  また、松江や宍道湖で耳にした、街の人々の優しい言葉遣いや温かい

音の響きも、正直、私には、とても快いものでした。その印象は、岩国を訪

ねた際も同様でした。 

  そこには、京都に通じる”おもてなし”の精神があり、人々の内面的な温

かさが感じられました。

 

  人々が語る言葉や振舞いに、とても気品があり、それは、接する人に、

何とも言えぬ”なごみ”を与えてくれます。 

  正直、われわれ九州人には、なかなか真似のできない濃やかさだと感じ

ました。



  ところで、松江と宍道湖は、私にとりまして、まるで「夫」「妻」といった 

夫婦関係のようにも思えました。

 宍道湖は、美しい風景と豊かな恵みによって、常に松江を支えているように

感じました。 

  両地域は、このように支え合い、互いに補い合う関係にあるのではないで

しょうか。

 

  つまり、それは、須佐之男命と櫛名田比売のような、また小泉八雲と小泉

セツのような関係にあるように思うのです。

確かに、宍道湖や中海の大部分は、松江市に属しています。 

  しかし、松江市にとって、その観光的、文化的、かつ経済的な意味で、宍道

湖が、突出した存在であることは間違いありません。

 

  実際、宍道湖には、「宍道湖七珍(しっちん)」と呼ばれるものがあります。 

つまり、スズキ、モロゲエビ、ウナギ、アマザキ、シジミ(大和シジミ)、コイ、

シラウオといったものです。 (*下の写真は、宍道湖の大和シジミ)

  それぞれの頭一文字をとって、「スモウアシコシ」と覚えるといいようです。 

  (*Wikipedia  参照) 

                  Photo_8


 年中獲れるシジミ以外は、それぞれが季節に応じて漁獲されます。 

このような地域は、日本でも珍しいことでしょう。




   実際に、「白鳥号」に乗船して、宍道湖を周航しました(大体、1時間ほど

乗船時間です)。その時、乗ったのは、私たち二人だけでした。 

  湖面に、朝の日の光が射し、とてものどかなひと時でした。 

周辺の湖岸には、240種以上の鳥類が生息しているとのこと。 

また、宍道湖では、68種の甲殻類が報告されています。まさに、様々な生き

物の素晴らしい生活圏です。

 

  宍道湖は、2005年には、近接する中海と共にラムサール条約に登録され

ました。

  唯、現在は、透明度は1mと悪く、富栄養化が進んでいます。そのため、

時折、アオコが発生することもあります(*下の写真) 

          Photo

  まさに、自然の保存と環境の保全が、今後の課題となっています。 

これは、決して宍道湖だけの問題ではありません。国内の豊かな自然を、

いい形で、いかに後世に遺すか、われわれ一人ひとりが真剣に考えなけ

ればならないと思います。

 

  言うまでも無く、日本の美しさの一つは、その自然の美しさによって成り立

っています。 

  かつてハーンが愛したのは、未だ近代文明に毒されていない松江の美しさ

であり、自然がじゅうぶんに残った、当時の宍道湖の美しさだったことでしょ

う。               Photo_9

   私は、宍道湖の美しい夕日を仰ぎながら、120年前に、ハーンも、同じ夕日

に感動していたことだろう、としみじみ、彼の心を思い浮かべておりました。

 【つづく】

 

 

 

2012年10月23日 (火)

山陰・心の旅(二.松江編)

  松江に初めて足を降ろした時、私は、そこを、まるで「宝石」のような街

だ、と感じました。

 

  それは、6年前、岩国市を訪ねた時の印象に似ていました。つまり、松江

(市の人口、ほぼ20万人)は、決して大きな街ではないけれど、非常に風情

があり、訪れた人の心を癒すような落ち着きと静謐さがありました。

(*下の写真は、松江城)

       Photo

  松江と言えば、われわれは直ぐ、小泉八雲(ラフガディオ・ハーン:1850~

1904)のことを思い出します。 

  「松江を愛した明治の文豪」と評される彼は、松江の美しさや素晴らしさを、

誰よりも深く理解した人でした(*下の写真は、八雲とセツ、それに長男の

一雄〔かずお〕、並びに旧小泉八雲邸の玄関と邸内の居間)

   Photo_2

           Photo_3


           Photo_4
 

  そのハーン(あるいは、ヘルン)を通して、松江と深い縁があるのが、私の

ふるさと・熊本です。 

  ハーンは、冬の寒さ厳しい松江を去って、熊本の第五高等学校(現・

熊本大学:下の写真)に移る時、熊本を、とても温かく住み易い所だと予想

していたようです。 

  しかし、夏は暑さ厳しく、冬は、雪こそ、余り降らないものの、結構、寒冷

な熊本に、些か辟易したことでしょう。正直、申し訳ない気がいたします。

  それに、当時の熊本は、「軍都」として近代化の真っ只中にありましたので、

ハーンは、その鋭敏な感受性からして、熊本に反撥さえ感じたことでしょう。

              Photo_5

  松江の話から、少し外れて恐縮ですが、ハーンは、熊本に、明治24(1891)

年11月から、明治27(1894)年10月までの3年間、滞在しました。彼は、同校

では、英語とラテン語を教えました。 

  因みに、彼が熊本を去った後、同校に英語教師として赴任してきたのが、

かの有名な夏目漱石(*本名、夏目金次郎)です。

  この後、ハーンが東京帝国大学の英文科の教授を退いた後、その後任に

選出されたのも、実は、夏目漱石でした。

  その意味で、二人は、たいへん深い縁がありました。


  小泉八雲に詳しい西川盛雄氏(熊本八雲会会長、熊本大学名誉教授)の

言によりますと、旧来、お雇い外国人の授業でのテキストは、欧米の古典的

な小説、評論などで、そのスタンスは啓蒙的で西洋優位、つまり「上から目

線」の視点でした。

 

  しかし、ハーンは、まったく違っていました。 

彼は、授業では、固定したテキストは使わず、事例を身近な地名や人名を

用い、語や慣用句の記憶を促すために、その語源や神話的な謂(いわ)れ

を、多く紹介しました。

 

  そうすることによって授業を活性化し、生徒の英語学習への知的興味を

喚起していたとのことです。

  きっと、生徒たちは、胸をワクワクさせながら、ハーンの言葉に耳を傾けた

ことでしょう。 

  彼の授業の進め方や、その内容には、120年という長い歳月を超えた“新し

さ”と“豊かさ”が感じられます。

 

  この授業の在り方は、彼が1年と3ヶ月間勤めた松江中学でも、ほとんど

同じだったのではないでしょうか。 

  また、彼の日本での創作活動の原点は、松江で縁を結んだ夫人、セツと

の邂逅にありました。

  松江をこよなく愛したハーンは、同地を、「神々の国の首都」と名付けました。

 (*下の写真は、松江大橋) 

      Photo_6

彼は、当時、松江市民に「ヘルンさん」と呼ばれました。 

  それは、当時の松江市の役人が、彼を人々に紹介する際、英語読みでは

なく、むしろドイツ語読みで、そう呼んだことに由来します。 

  因みに、ハーンが、松江を「神々の国の首都」と呼んだ背景には、当時、

彼が熱心に読み耽っていた『古事記』と、彼が心から愛した出雲にちなんだ

ものと思われます(*下の写真は、松江城内・堀川めぐりの遊覧船)

            Photo_7

  英語教師時代、その彼が肺炎に罹ります。この時、献身的に彼の身の回

りの世話をしたのが、旧松江藩士・小泉湊の次女「セツ」でした。 

  解説(*ブログ「小泉八雲」)に依りますと、ハーンは、セツが英単語帳を

作り、必死に英語を覚えようとするひたむきな姿に感じ入りました。 

  そして、セツから色々な民謡を聞いたり、一緒に市内を散策するうちに、

次第にセツに心を奪われ、彼女に求婚したのです。

 

  彼は、念願の「帰化」が認められ、「小泉八雲」と改名しました。

「八雲」という名は、セツの親戚が名付けました。

  無論、その謂れは、「八雲立つ  出雲八重垣  妻籠みに  八重垣作る 

 その八重垣を」という須佐之男命の歌に基づいています。



  まさに、この出雲地方(松江を含め)は”縁結び”の場所として、日本一

の所なのかも知れません。

  と申しますのは、ハーンとセツを通して、まさに「西洋」と「東洋」を、深く結

びつけたのですから。・・・・

  私が松江に感じた印象は、その”優しさ””奥ゆかしさ”でした。当地には、

どこか京都に通じるような洗練された美しさ、それに気品といったものを感じ

ます。

  ある意味、日本の美しさの「原型」の一つが、松江にはあるのではないで

しょうか。

  私は、ハーンが松江を愛した意味が、実際に当地を訪ねてみて、少し解

かったような気がします(*下の写真も、松江大橋) Photo_8
  近代化や文明化は、巨大さやスピード感、それに便利さ「画一化」によって

成り立っています。

  しかし、松江には、出雲同様、絶えず伝統的な文化を育み、それを大事に

しようという趣きが感じられます。また、同地には、適度の”不便さの効用”

といったものも存在します。

  これは、大都会に住む日本人が忘れつつあるものなのではないでしょう

か。 (*下の写真は、宍道湖に臨む、かつての石作りの灯台:

      写真は、ブログ「Tor の好奇心日記」より拝借 )  

 Photo_9

 現代文明や現代生活に疲れ果てた人は、是非、一度、出雲や松江を訪ね

られるといいでしょう。きっと、何か〝大切なもの”を得られると思うのです。

  ほぼ120年前、愛すべき松江に住んだハーンは、きっと、当時の欧米文明

に疲れ、何か”違ったもの”を求めていたことでしょう。

  それを、彼は、この松江の地で発見したのです。

(*下の写真は、松江祭の前夜祭・鼕〔どう〕行列)

         Photo_10


 1884年、アメリカのニューオリンズで開かれた万博で、ハーンは、その中

「日本館」に足を止めました。

  そこで、彼は“東洋の神秘”に興味を持ったと言われます。



  さて、この“東洋の神秘”は、すべて暴かれてしまったでしょうか?

私は、決してそうは思いません。むしろ、この“東洋の神秘”は、今も健在

だと思うのです。

  今日、日本の中でも、この“東洋の神秘”に目を向け、それを云々する人

は、決して多くはないでしょう。

  しかし、日本に存在する”東洋の神秘”の素晴らしさは、世界に通用する

ものだと感じます。

  実は、そのことを私たちに教えてくれたのが、ハーンだったと思うのです。

その彼が愛した松江の背景にあるのが宍道湖です。

  これにつきましては、次に譲りたいと思います。 【つづく】

 

 

2012年10月22日 (月)

山陰・心の旅(一.出雲編)

  皆さん、お早うございます。 お元気でしょうか? 

朝夕、めっきり肌寒くなって参りました。御地は、如何でしょうか?

                   Photo_2


  私事ですが、先週、妻と二人で、山陰の旅へ出掛けました。二人にとり

まして、初めての山陰でした。 

  具体的には、出雲大社、松江、宍道湖、それに境港です。途中、安来や

米子も通りました。

Photo_3

  正直、「山陰」は、一度は行ってみたいと思いながら、なかなか、その機

会に恵まれませんでした。 

  とりわけ、出雲大社には、是非、参ってみたいと思っていました。 

今月は、陰暦では、「神無月(かんなづき)」です。でも、出雲では、「神有月

(かみありづき)」です。  まさに、日本の歴史の二面性、あるいは多面性を

感じます(*下の写真は、出雲大社の参道と、その先にある大社の御仮

殿です。) Photo_4

            Photo_6

            Photo_7


  ところで、ここに、一つの和歌があります。それは、次のようなものです。 

  「八雲立つ  出雲八重垣  妻籠めに  八重垣作る  その八重垣を」と

いうものです「八重垣」が、重要なキーワードになっています。 

  正直、私は、この歌を知りませんでした。これは、八俣の大蛇(オロチ)を

成敗した須佐之男命(すさのおのみこと)が、助けた櫛名田比売(くしなだ

ひめ)の為に、須賀の地に、宮殿を建てて上げた時の決意と喜びを表わした

ものと解されています。 この歌は、日本最古の「和歌」と伝えられています。 

Photo_9  小学生の頃、三船敏郎

が須佐之男命に扮した

映画「日本誕生」を観まし

たが、八俣の大蛇を成敗

する勇猛な場面が、たい

へん印象に残っています。 

  昭和30年代のことでした

が、あのような歴史活劇を

製作した日本の映画界は、

今にして思えば、大した

ものだったな、と思います。

 

  因みに、この和歌の意味は、「雲が湧き出るという名の出雲の国に、まる

で八重垣を巡らすように、幾重にも雲が立ち上る。 

  それと同様に、我が妻を籠らせる(*「守り、生活を共にする」という意味

か)ために、私は、(この須賀の)宮殿に、幾重もの垣を作ったが、それは、

ちょうど、八重垣の雲を巡らしたような感じだ」というものです(*多分に、

私の意訳)

 

  この歌には、高天原(たかまがはら)では、猛々しかっただけの須佐之男

命が、ひじょうに心優しい愛妻家に変身していく姿がしのばれます。男性を、

これほどまでに変えてしまう女性や「愛」の力は、本当に素晴らしいもの

です。

 

  実は「八重垣」という名の由来で、今日でも、縁結びの神社として有名な

「八重垣神社(*下の写真)があります。ご祭神は、須佐之男命と稲田姫

命(=櫛名田比売)です。(*『古事記』では、櫛名田比売、『日本書紀』で

は、奇稲田姫と、それぞれ違う名前で表記しています。)

Photo_5

  出雲大社であれ、八重垣神社であれ、両者で有名なのは“縁結び”という

ことです。 

 この両社の他にも、八上姫神社(やがみひめじんじゃ)、須佐神社、邦売佐

神社(なめさじんじゃ)、長浜神社、御井神社(みいじんじゃ)などが、この“縁

結び”を旨とする諸神社です。

 

  無論、これは、良縁や結縁を求める人々の”祈りの場”にもなりますが、

私には、何故か「陽」「陰」の世界の和合や合一のような感じに思えまし

た。 

  日本は古来、「日の本」として”太陽”を崇拝します。天照大神は、この太

陽の化身とさえ考えられています。

 

  しかし同時に、私たち日本人は”月の恵み”も、多々受けていることを忘

れてはならないと思います。 

  確かに、古代の「大和」が太陽ならば、古代の「出雲」は月だったかも知

ません(*下の写真は、「太陽と月」)

                            Photo_10

 しかし、実際に、出雲を訪ねて感じましたのは、「大和」(あるいは、大和朝

廷)以前は、この出雲こそが、まさに日本の”太陽”だったのではないかとい

うことです。

  明らかに、出雲は、「大和」以上の先進国だったと感じます。

  端的に申して、中国や朝鮮半島から最も近いのが出雲であり、同地は、

多分、隠岐島を中継地として、古くから大陸との交易・交流が盛んだったの

ではないかと思うのです(*下の写真は、古代出雲の空中神殿〔復元図〕)

           Photo_11

  その意味で「国譲り」の神話は、日本の古代史にとって、非常に重い意味

を持ったものではないかと感じます。

  この「国譲り」に関わるのは、大国主命(おおくにぬしのみこと)です。彼は、

須佐之男命と櫛名田比売の愛嬢の婿とも、彼らの子孫とも言われています。

  大国主命による「国譲り」の後、天照大神は、現世の「目に見えること」を、

大国主命は、運命や縁など「目に見えないこと」を司るようになったと伝えら

れています(JTBパブリッシング「松江 出雲」参照)

  まさに「太陽」「月」の役割分担とでも申せましょう。


 しかし、今日の日本人は、目に見えるものばかりに心を奪われ、目に見え

いものを無視するか、看過しているように思います。

  けれども、実際は、「目に見えないもの」こそ、大切なのではないでしょうか。

Photo  アントワーヌ・ド・サン・

テグジュペリ(1900~

1944)が『星の王子さ

ま』で、キツネに語

せたように、「大切な

ものは、目に見えない

もの」なのですから。

  その意味では、私たち

「出雲」の持つ精神

性に、もっと深く、かつ

真摯に学ぶべきものが

あると思います。

 その点、出雲の文化

的・歴史的価値は、まさに無尽蔵だと思うのです。 【つづく】

 

 

2012年10月13日 (土)

『消費税増税「乱」は終わらない』を読んで(完)

  ところで、今日、小泉・竹中時代の「新自由主義」が息を吹き返すような、

許し難い勢いや状況がある。 

  ここで、植草氏の語る言葉は、ひじょうに含蓄がある。彼は言う。 

  「竹中さんは『頑張った人が報われる社会』といっていました。通常の

日本語の意味で、頑張った人が報われるのであれば間違いではないと

思うんです。 

  悪い話じゃない。ところが、竹中さんが言う『頑張った人が報われる』という

のは、例えば、金融の分野で大儲けをする。で、会社を上場させて、株式を

分割して、株価を吊り上げて錬金術のように巨大な不労所得を得る。

 これを竹中さんは『頑張った人』と呼んだわけです。 

  これは、『頑張った』のではなく、『うまいことをやった』にすぎません。

『うまいこと』をやるために、法律の抜け穴をくぐってきているかも知れませ

ん」と。Photo

 

  まったく、その通りだと思う。

  ここには、竹中の欺瞞と悪辣さを見事に看破した植草氏の正しさと限りな

い明晰さが、遺憾なく発揮されている。 

  とりわけ、植草氏が強調するのは、次の点だ。同氏は、こう力説する。 

  「新自由主義の流れを民間部門で放置すると、格差はさらに拡大します。 

企業が労働者を消耗品として扱うことを許してはならないのです。 

Photo_2
  現在の時代環境を

踏まえると、分配お

よび再分配における

政府の役割は飛躍

的に大きくなってい

ることを強調しなけ

ればなりません。 

  成長論が分配の

格差容認論とセット

になってしまってい

ることが、現代日本の一番の問題じゃないかと思います」と。

(*直ぐ上の写真は、少し自信無さそうな竹中氏。でも、案外、

     これが、彼の本質かも?)
 

  ひじょうに明快な主張だ。特に、植草氏の最後の言葉に注目したい。 

益々深刻化する国内の格差問題、かつて、それを助長・増幅させた小泉・

竹中政治は、もっと厳密に告発されなければならないであろう。 

                   Photo_3

  その点に関する植草氏の明晰な分析は、実に心地よい。 

事実、先ほどの「頑張った人が報われる」という言葉に関して、同氏は、

次のように述べる。 

  「『頑張った人が報われる』という話ですが、世の中で本当に頑張っている

人はいくらでもいます。 

  ラーメン屋を経営して、汗にまみれて朝から晩まで働いて、年収がいくらに

なるのかという話です。 

  大企業は正社員を一握りしか採用せず、大多数の若者がフリーターに

なって年収が二○○万に届かない。この人たちが一千万人いる。 

    Photo_4

   

  懸命に働いているのにそこから抜け出すことができない。 

これを『頑張った人が報われない社会』と言うんです。 

『頑張った人が報われていない』現実を放置して、きわどいことをやって

億万長者が生まれることを『頑張った人が報われる社会』だと絶賛した

竹中さんの感覚が、いかれてしまっていたのだと思います」と。

Photo

 

 そう 、確かに、竹中の感覚は、”いかれてしまっていた”のだと思う。 

むしろ、彼は、まったくの”確信犯”だったと思うのだ。

  この言葉に続く、深く、かつ鋭い植草氏の分析に対して、斎藤氏は、

「なるほど、僕はずいぶん甘かった」と、正直な思いを吐露する。

  この両者の正直さ、真摯さが、読む者に好印象を与える。

 事実、両者に、この真の謙虚さがあるゆえに、この対談は、まことに

実り豊かで、魅力的なものになっている。 

  そして、この両氏が合意することは消費税に頼るのは最後にすべきだ」

ということである。



  第三日目は、両者による忌憚の無い対談の形となる。
 

そのテーマは、「恐るべし、増税後の世界」である。また、その副題は、

「まだあるチャンス」となる。この言葉こそ、両氏が、読者に最も伝えたいこ

とだと思う。

 

  さらに、対話は、「消費税なし」にしたときの財源調達の途は、という問題

に発展する。この点に関して、斎藤氏は、次のように論じる。 

  「富裕税はぜひ導入すべきでしょう。・・・・ 

  とにかく富裕税の新設や所得税の累進強化が最優先です。・・・・ 

  消費税に頼らない財源の基本的な問題は、応能負担でいくべきだという

ことです。 

応能負担の原則で、仮に財源が本当に足りないんであれば、消費税以外

の増税税目というのが決まってくる。 

  それは所得税の累進の強化であり、法人税の適正化であり、例のメガバ

ンクみたいなところからとる。 

  年金生活者がもとはと言えば自分のお金なのに年金にも課税されている

のと比べれば、どれほど理不尽なのかがわかります。 

  彼ら(メガバンク)は公的資金を注入されながら税金は取られないみたい

なアホなことになっている。彼らは無茶苦茶儲けまくったわけですから、そう

いうところからしっかり取ること。それと宗教法人課税を適切に行う。大雑把

にいうとこんなメニューが考えられると思います。 

  消費税は、まさにその応能負担とは正反対であり、応不能負担原則みた

いになっちゃっている。新自由主義イデオロギーの下で消費税を基幹税に

するということは、弱いものいじめを社会の規範にするということです。・・・ 

  まさに強盗そのものの税制なのが現状だと思いますね。それの反対を行

くべきだと思います」と。

    Photo_5

  また、「サラリーマン税制は人々から『思考』することを奪った」と考える

斎藤氏にとって、同氏の立場とか考えの基本にあるのは、「個人一人ひとり

の尊厳を守りたい」ということである。 

  さらに、この両者が主権者であるわれわれに必要なことと考えるのは、

「思慮深さと積極的な行動」である。

 

  両者は、消費増税後の世界が、まことに恐るべきものであることを提示す

る。斎藤氏は、警鐘を鳴らして、次のように訴える。 

  「僕はね、やっぱり一人ひとりの生活を考えたときに、とんでもない歪んだ

社会になるのを怖れるんです。何度も言いましたが、消費税増税で転嫁が

できない中小零細が全部潰れる。・・・・ 

  第一次産業は全部派遣。自営業とか零細企業でやっていた人たちも、

もはやそういう業態そのものが成立しなくさせられるのですから、派遣以外

の働き方はまず見つからないでしょう。 

  だったら世の中全体でどういう働き方が残るか。エリートサラリーマンか、

派遣か失業者か、そのいずれかしかない。これしかない社会というのが僕

は怖くてならないんですよ」と。 

  日本経済の第一線で果敢に取材活動をしてきた斎藤氏の言葉だけに、

ひじょうに重いと感じる。


  また、「支配者はエネルギーと食糧と武器の独占を狙う」というテーマの

中で、植草氏は、自らの危機意識を、次のように吐露する。 

                Photo_6
  「私もいま、将来に向けた支配者たちの意図というのを感じています。

それは、本格的な植民地化の始動ということじゃないかと思うんです。 

  その支配者とは誰なのか、アメリカなのかどうなのか、いろんな見方が

ありますが、それはともかく、ごく少数の巨大資本がいろんな意味で圧倒

的な力を持っているときに、彼らが人々を従属させたり隷属させたりする

手法というのは、人々が生きていく上で必要不可欠なものを握ってしまう

ということでもあります。 

  それは、エネルギー、食料、そして武器です。この部分を握られてしまうと、 

人は隷属せざるを得なくなります。 

  だからこの勢力からすれば、日本が、そして世界が再生可能エネルギー

の方向に走るのを命がけでとめなきゃならないということになりますね。

鉱物資源とかウランなどに依存する状況を残さなきゃいけないのですから。 

  人間の叡知を考えると、太陽光、風力、水力、地熱などから永続的に

活用できるエネルギーを採取する技術は、進化する可能性が大いにある

と思います。 

  また、食糧は一番根源的なものだと思いますが、最近は農作物の種子

の管理で、種子の出来ない作物を遺伝子組換えで作ってそれを管理す

る・・・」と。

 

  このような極めて厳しい現状に対して、われわれ国民には、まことの

”思慮深さ”求められる。

 しかし、そのためには、与えられる情報が公正、かつ公平なものでな 

ければならない。 

  だが、現実には、それは今日の日本では、まさに「絵に描いた餅」で

ある。

 

 この情報空間の浄化のために、植草氏は「NHKの改革」を力説する。

彼は言う。 

  「ですから、私はこのマスメディアによる情報空間の占拠状態に風穴を

開けるとすれば、それはNHKの改革しかない思っています。 

  何かの機会を逃さずにまず政権交代を実現させる。そして、樹立され

た政権の最初の大事業として放送法の抜本改正を断行して、NHK(*

下の写真は、NHK放送センター〔=本部〕)運営を政治権力から離す。

                          Photo_7

  それは権力にとってマイナスになるかもしれませんが、それこそ国家

百年の計に立てば日本の民主化を図る上で、情報の民主化が一番大事

なので、昔のGHQが構想したように、視聴者の代表による放送委員会を

作り、これをNHKの最高意思決定機関とする。 

  NHKがバラエティまでやる必要はないと思います。人員も大幅に圧縮す

るべきです。視聴者が必要不可欠だとするものに限定して番組を供給する。

内容も放送委員会が審査する。 

  NHKが生まれ変われば日本の情報空間に風穴が開きます。それしか

方法はないと思っています」と。

 

  これは、多くの人々が共感できる言葉ではないだろうか。わが家でも、

まったく同じような事を語り合っている。 

  様々な意味で、国内の現状はかなり厳しい。だが、心ある人々が、共に

知恵を出し合い、連帯できれば、きっと日本は、いい方向に発展すると思う。

 

  この度の植草氏と斎藤氏の胸襟を開いた対話が、その好例であろう。 

両者の正義感や人々に対する慈愛、それに極めて優れた分析能力や

洞察力は、本当に貴重だと思う。 

  「わが身は朽ちるとも『我が心は流れの石にあらず』」と語る植草氏の

心が、 実に清々しい。 

  植草氏の「正義感」、人や国を思う心、公平さや公正さ、それに無心・無欲・

無償の愛は、同氏の誕生以来、少しも変わらなかったし、今後も全く変わ

ないと思う。 

 まさに、同氏の強靭な心は、“流れ(=周囲の圧力や変化)”で変わるよう

なものではないのである。

 

  皆さんも、本書を是非購入され、常に手許に置いて愛読なさることを、

私は、心から願いたい。それだけの価値のある良書だ。

 他の二書と共に、本著は、今後のわれわれの進むべき道を示す、偉大な

“羅針盤”になると思うのだ。 【了】

   (後記:明日より、21日〔日〕まで、私用のため、休筆いたします。 

      どうか、ご寛如ください。)

 

2012年10月12日 (金)

『消費税増税「乱」は終わらない』」を読んで(3)

  対談の第二日目は、主に斎藤貴男氏(*下の写真)が、報告する内容

になっている。 

そのタイトルは、「税制と経済に見るこの国の残酷なかたち」である。

また、それには、「中小零細業者の絶望がきこえる」という副題が付いている。

     Photo

       

  消費税(*本来なら「付加価値税」と呼ばれるべきもの)のインチキ性を

最もよく知る斎藤氏は「中小企業では価格に転嫁できない」という現実を

前にして、次のように語る。 

  「消費税には本質的な問題があります。価格支配力のない中小零細企業

や独立自営業では価格に転嫁できないという大問題ですよ。 

  周囲の同業者との競争上、あるいは元請け、下請けの力関係で、景気が

うんといいときならともかく、いまみたいな時には、増税分を値上げして売れ

るはずがない。 

  周囲の同業者がウチは我慢して値段を据え置きますってやったら、他も

追随しないわけにはいかないでしょう。 

  で、元請け、下請けの関係で、下請けが今までよりも五%乗せた請求書

を出したら、お前、二度と来るなってなるのは目に見えてます。 

  だからって、年間売上高一千万円以上の事業者が納税義務者であること

には変わりはない。ということは自腹を切って納めるしかない」と。 

  この“自腹を切って納めるしかない”という現状は、非常に深刻だ。 

むしろ、これは、由々しき問題である。

 

  事実、斎藤氏によれば、「弱いほう、弱いほうへ負担を押しつけるのが

消費税の本質だと思うんです。 

  つまり、サラリーマンや非正規を含めて勤労者の賃金を下げることを

前提にした増税でしかないというふうに僕は考えているんです」となる。 

  つまり、人件費の削減も、消費税増税の目的の一つである、ということ

になるのだ。

                  Photo_2

         


  しかし、20年以上に及ぶ深刻なデフレ下、サラリーマンの給与は、実質

的に目減りしているというのに、それ以上の減収が求められることになる。 

  これは、まさに生活権の破壊とさえ言えよう。 

  それに、一般に消費税は、消費者のみにかかる「税金」だと考えられ勝

ちだ。 

 だが、実際は、「流通」のすべての過程で、各々の関係者が負わなけれ

ばならないものなのだ。

 

  それゆえ、斎藤氏によれば、「(消費税の)仕組みは、ヨーロッパの付加

価値税と一緒で、原則あらゆる商品やサービスのすべての流通段階にか

かるんです。小売の段階だけじゃない。 

  せめて、付加価値税に名称変更するくらいの誠実さは見せてもらいたい

と思うんだけど」となる。

 

  この点に関しては、植草氏も、次のように明言する。 

つまり、「消費税は消費者が負担する税という説明はやはり成り立たない

ですね」と。 

  そして、同氏は、次のようにまとめる。 

  「実際には消費税を行なうとき、値段が上がらない部分は零細な事業者

か勤労者が負担することになるので、相対的に力の弱い人の負担になる

でしょう。

  この場合には、消費税とは別に『弱小勤労者税』
とか『零細事業者税』な

どの別の名称を付けることが必要です。

 それが実態に即した税の名称ということです」と。

     Photo_4
                        

この言葉こそ、まさに「消費税増税」の本質を衝いた言葉だと思う。



  この植草氏の言葉に対する斎藤氏の言葉も、実にシャープで含蓄がある。
 

斎藤氏は言う。 

  「そうです。ほんとに悪魔のような税制だと思います。要するに、弱いが故

に余計取られるということなんですよ。 

  しかもその構造が一筋縄ではいかなくて、わかっていない人たちがすごく

多いです。 

 税理士さんの中にも税務署の言い分をまるごと鵜呑みにしている人が

少なくないぐらいです。 

  たしかに計算上は転嫁できてることになっているから、やっぱり商売その

ものを実感としてやらない限り理解できないんです。 

  それが全て計算づくだったとしたら、このシステムを考えた人間は悪魔そ

のものだと思いますよ」と。

 

  私は、この斎藤氏の最後の言葉を、決して大袈裟だとは思わない。 

事実、今日の日本は、政治も経済も、“悪魔”によって支配されていると思う。 

少なくとも、“悪魔の心”を持った人々によって支配されていると思うのだ。


  また、本章の重要部分に、「他国の戦争にたかりまくった国、日本」があ

ると思う。斎藤氏は、次のように力説する。 

  Photo_5

  「一つは朝鮮戦争

(*左の写真)です。

 あのとき当時の財界

人たちが旱(かん)天

の慈雨とか、神風とか、

およそ恥知らずの凄

いことをいろいろ言っ

ています。 

  僕は日本工業新聞

にいたときに読んだ

新日鉄の社史―八幡

製鉄と富士製鉄を

わせたのがあるんで

すが、そこにも、朝鮮

戦争のおかげで我が

は大儲けをした、

と威張って書いていま

したね。 

  他人(ひと)んち

の戦争で荒稼ぎ

した恥部を自慢するなよって思ったことをよく覚えています。 

  もっと大きかったのはベトナム戦争(*右下の写真)です。 

Photo_6 これは朝鮮戦争の

ときの日本と同じよう

な立場になった東南

アジア諸国への輸出が、

この間に激増するわけ

です」と。

 

  これに続いて、斎藤氏

は言う。 

  「僕は九条を守れと

いう立場ではあるけれ

ども、九条に守られな

がら戦争で食ってきた

国だなあとも思うんですよ。 

  これからもそうかもしれない。というか、今の段階で成長というときに、為政

者や財界人が考えるのは、これまでの延長線上でしか考えていないような

気がしてならないのです」と。

  この斎藤氏の指摘は、ひじょうに鋭いと思う。事実、強欲な大企業や銀行

私利私欲によって、本来、国民のためにあるべき政治や政策が無理

矢理ねじ曲げられ、国民を不幸に陥れる現実は、昔も今も、本質的に、

一つ変わらない。

 この現実を、われわれは、より深く認識しなければならないと思うのだ。


  この斎藤氏の指摘に対して、植草氏は、「戦争と日本経済の成長という

視点は非常に新鮮でした」として、斎藤氏の慧眼を素直に賞讃する。

  ここでの植草氏の「憲法論」も、たいへん斬新だ。同氏は言う。

  「憲法の問題も、憲法改正論者は押しつけ憲法だから変えろと言います

が、私は、押しつけでも押しつけでなくても、善い内容であれば善いし、悪い

内容であれば変えればいい。それが幹の議論だと思います。

  ところが枝の議論が前面に出ている」と。

Photo_8
 私も、全く同感だ。

  確かに、憲法第九

は、日本が二度と

メリカに刃向かわ

いように、日本を羽

交い絞めにしようと

たアメリカの意図を

感じる。

  だが、私の母などは、

この憲法条文の“非戦”

の奥には、「日本の

八百万の神々の導き

があったと思うよ」

語る。

  私も、あながち、

これを否定できないと思うのだ。  【つづく】

 

 

 

2012年10月11日 (木)

『消費税増税「乱」は終わらない』を読んで(2)

  対話の第一日目は、「増税のシナリオはどのように準備され実行され

たか」について、主に植草氏による報告(あるいは話)がなされている。

 

  植草氏にとって、終生変わらぬ信念がある。それは”政治において、

最後に判断を下すのは、あくまで国民である”というものである。 

  同氏は言う。 

  「国民にとって一番大事な政策問題について、国会が暴走しても、最後

に判断を示すのは、主権者である国民という基本を絶対に忘れては

ならないと思います」と。Photo

  ここには、国民に対す

る植草氏の”絶対的信

頼”がある。 

  それゆえ、どれほど

時間が掛かろうとも

(無論、早いに越したこ

とはないが)、国民が

に覚醒することを、同氏

は心から願うのである。 

  概して、自らを「エリー

ト」と自負する人々は、

心底で、一般国民や

大衆を軽蔑している。 

 しかし、植草氏は、その豊かな才能の点で、まさに超エリートであるにも

拘わらず、このような視点は、まったく無い。そこが、まさに同氏が限りな

く非凡な点でもある。 

 やはり、これは、同氏が受けた家庭教育や生来の「人間性」に基づくもの

言えよう。 

 

  植草氏の事実認識は、常に冷静、かつ公正だ。彼は言う。
 

  「一般には、民主党政権に期待はしたが国民は裏切られたと言われま

すが、これは事実誤認です。

  そうではなく、二○○九年九月に政権交代は実現したが、この『革命』

政権は二○一○年六月に倒され、守旧政権が樹立されたというのが正

しい。

  菅直人政権、野田佳彦政権は旧政復古政権であり、この二つの政権に

よる施政が国民の期待に反していることは必然なのだと思っています」と。 
           

             
 

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                              Photo_11


 この認識は、極めて重要だと思う。

ものごとの真実を衝くとは、まさに、この植草氏の指摘のことを言おう。 

  われわれが深く認識すべきは、2010年6月に、国内で、不当な”クーデタ

ー”が起こったことである。その影の首謀者は、無論、ユダヤ・アメリカである。 

  植草氏も、確信を持って、こう明言する。 

つまり、「アメリカが鳩山政権を潰し、これに代えて菅政権を樹立させたのが 

『知られざる真実』なのだと思います」と。 

それは同時に、国民が真に”知るべき真実”だとも思うのだ。

  無論、他にも「知られざる真実(=知るべき真実)」が存在する。
 

その一つが、名ばかりの「一体改革」であり、消費税増税の本当の理由で

る。

 

  その点について、植草氏の言葉に耳を傾けよう。同氏は語る。 

 「この増税の本当の狙いを一言で表現するなら、『シロアリ増税』ということ

になると思います。 

  どういうことかと言うと、増税の目的は官僚利権を維持するための財源

確保策である。 

  官僚機構にとって何よりも大事な官僚利権を維持するには財源が必要

です。 

このまま財政事情の悪化が深刻化すると、いよいよ官僚利権を切らねば

ならなくなる。そうなる前に、予防的に大増税で財源を確保しておこう。 

  これがいま消費増税を強引に進めている本当の理由だと思うのです」と。

                          Photo_4

  何と言うことだろう! 

だが、これこそが、まさに”知られざる真実(=知るべき真実)”なのだ。

  実際、財務省(*上の写真)は、国内の
中小零細企業(*下の写真)

自営業に対しては、実に冷たい。 

 事実、「消費税増税」は、たいへん冷酷な形で、彼らの事業や生活を直

ることになる。 

      Photo_5

  この点について、対談者の斎藤氏は、次のように語る。 

  「消費税もそうなんですが、中小零細企業の場合、実際は価格に転嫁で

きない、自腹を切るといった大問題があるわけです。 

  これ以上に税率を引き上げられたら、中小零細の企業や自営業は、

みんな潰れます。 

  フリージャーナリストという名の自営業者である自分自身の死活問題で

もありますが、そういうわけで僕は機会のあるごとに、日本経済の全体が

大変なことになりますよって言っている。 

  すると必ず返ってくるのは、自営業は全員脱税してるんだろ、さっさと死

ねっていう反応。これが圧倒的に多いんですよ。お上の思う壺です。

  ほんとに財務省って長いことかけてそういう分断をしてきたんだなと思い

ます」と。

 

  確かに、財務官僚(官僚全体にも言えようが)は、自分たちの権益を守

るために悪知恵を働かせるのは、実に巧みである。 

  この種の才能は、非常に進化・発達(?)している、と言える。 

事実、財務省にとっては、”「損か得か」が(行動の)基準”のようだ。

 

  その点、植草氏の指摘は鋭い。彼は、こう解説する。 

「日本のためとか、国民のためということではまったくありません。 

増税とは彼らにとって、自分たちの収入を意味します。権力の源泉、利権

の源泉なのです。 

  収入の増加は予算配分権の増加を意味します。天下り利権を拡張でき

る財源を意味します。 

  その意味で、彼らは増税を重視するわけです」と。

     Photo_10
  まさに、”本末転倒”、「国民の生活無視」の実態が、そこには横たわって

いる

  また、財務官僚について言えることに、「経済学を無視した財政再建手

順」というものがある。

  その点に関して、植草氏の次の指摘は、非常に有益だ。同氏は言う。
 

  「財政再建を実現するには、構造赤字と循環赤字を明確に区別して、

適切な手順で対応することが絶対に必要なのです。 

  具体的には、まず景気回復を実現させたうえで、無駄な支出カットや

増税などで構造赤字を削減する。その手順を確実に守ることが鉄則な

のです」と。

 

  しかし、現実には、この「手順」が、まったく無視される。そして、政府の

財政・金融政策は、失敗の連続となる。 

  その主要な理由を、植草氏は、次のように説明する。 

 「その大きな理由としてあげられることは、大蔵省=財務省の実権を

東大法学部(*下の写真)出身者が握っているということだと思います。 

  法学部出身者は国家公務員試験の行政職か法律職での採用枠で

採用されて公務員になります。 

  彼らは経済学の専門家ではなく、机の上で財政赤字を減らした予算書

を作ると、そのまま財政赤字は減るものだと勘違いする人々なのです。 

  経済は生きものですが、法学部的思考では、このような融通無碍な

現実を理解しがたいのだと思います。 

  特に東大法学部出身者の多くは天動説的行動様式を取ります。財政

赤字が減る予算を書いて現実に赤字が増えたとき、彼らは予算を書いた

自分が間違ったのではなく、財政赤字を増やした現実が間違ったのだと

考えがちなのです」と。

     Photo_6

  まさに、「不適材不適所」の悪しき現実が、そこには存在する。

それに、「複式簿記」さえ知らない人が、国家財政の根本に関わっている

など、まさに悲劇を通り越して、喜劇に近い。

  概して、経済学や財政学は、政治学や法学、それに社会学と同様、

「社会科学」として扱われ、一様に”文系”として取り扱われる。

  だが、経済学や財政学は、その高度さや厳密性において、実質的に

「理系」の学問ではないか、というのが私の考えである。

  高橋洋一氏のように、単なる〝数学オタク”が、財務官僚になられても

困るが、本質的に文系の法学部(時には、阿呆学部)出身者が、高度な

「財政・金融」問題を扱うなど、土台、無理な話なのではあるまいか。

  正直、日本の財務省など、元来、”モノの理を弁えない”阿呆の集合体

と考えるべきだと思うのだ。



  この財務省の政策の誤りについて、植草氏は、常に“変わらぬ自論”を

展開する。彼は言う。

  「病気で手術するときに、輸血も麻酔も点滴もなしにメスを入れるのなら、

これ手術というより殺人です。

  手術をするにはまず健康診断をし、輸血、点滴、麻酔をして、なおかつ

慎重にメスを入れるべきです」と。 

これ以上の正論は無いであろう。

  だが不幸にも、植草氏の言う「殺人」こそが、まさに、この度の「消費税

増税」なのである。  【つづく】

 

 

 

 

 

2012年10月 9日 (火)

『消費税増税「乱」は終わらない』を読んで(1)

 みなさん、お早うございます。

 今日より、4回の連載で、植草一秀氏と斎藤貴男氏の共著『消費税

増税「乱」は終わらない』 について論じたいと思います。本文は、以下

の通りです。


 植草一秀氏と斎藤貴男氏の共著『消費税増税「乱」は終わらない』

(*下の写真)を、謹んで拝読した。

    Photo

  Photo_2

 

 

                                    Photo_5

   読後、とても清々しい

気分になった。本著は、

”実に有益で、素晴らし

『教科書』(つまり、

必読書)だ”というの

が、私の正直な実感だ。

  本著の他に「教科書」

とも言うべき、日本国民

の必読書があるとする

なら、それは一つに、

孫崎享氏の『戦後史の

正体』(創元社)であり、

もう一つが、森ゆうこ参

議院議員による『検察の

罠』(日本文芸社)であろう。

 

  とりわけ、本著に関して

は、すでに高橋清隆氏に

よる、実に優れた「書評」

が存在する。 

 高橋氏は、 本書の要点を、

たいへん手際よく捉え、まとめ上げている。

  その切れ味の良さは、まるで研ぎ澄まされた名刀のようだ。

  高橋氏はまた、真に勇気ある、まことのジャーナリストでもある。
 

それは、最近の松下忠洋氏の「自殺」(?)事件に関する果敢な取材活動で

証されている。

 

 同氏は、植草氏のことを、「えん罪事件に巻き込まれながら、それを乗り

越えて言論活動を続ける天才エコノミスト」と表現する。 

  私は、この「天才エコノミスト」という表現を、決して大袈裟だとは思わない。 

まったく同感だ。


  正直、私が今まで書いたものは、「書評」に価するものではない。
 

「書評」なら、もっとコンパクトで、書の論旨をより的確、かつ明確に把捉し

たものでなければならない。  高橋清隆氏のそれこそ、まさに「書評」に価す

るものだ。 

 その点、私が書くものは、かなり冗長で、むしろ、「読後雑感」や「解説」

とでも呼ぶべきものである。

 唯、この「読後雑感」こそ、私の文章スタイルなので、どうか、その点

ご容赦いただきたい。


  ところで、植草氏は、われわれが銘記すべき点を、本書の冒頭に記して

おられる。 

 つまり”「乱」はこれからはじまる”と。 

まことに、その通りだと思う。 

  まさに、すべては、これからだと思うのだ。 

本書は、三回にわたる、両者の真摯で、熱のこもった対談をベースに綴ら

れている。

 

  植草氏は、二年先輩にあたる、同じ東京都出身の斎藤氏(*下の写真)

ことを、次のように記している。  

S

  「斎藤さんの魅力は、その精神の強靭さと弱いものに対する愛情だ。

ソフトで温厚で、人を包み込む温かさをたたえているが、不正な力、弱い

ものを踏みつけようとする権力に対しては、渾身の力で立ち向かう。 

  そのうえ、議論をする際に手抜かりがない。徹底的に綿密に、事実を正

確に掴んだうえでものを言う。これに正面から立ち向かえる人はいないの

ではないかと思う」と。

 

  何と温かく、的確な眼差しだろう。だが、これと全く同じことが、植草氏

にも言えると思う。

  両者は、同じような価値観を持ち、心優しい人間性を保持している。 

それゆえ、両氏の「対談」を読んでいると、実に心地よい思いがするのだ。

 

  事実、両者は、社会的弱者に対する慈愛と共感、世の不正を看過でき

ない「正義感」、ものごとに対する卓越した洞察力や分析力など、非常に

共通した特性をお持ちである。 

  その自然のハーモニー(調和)が、読む者に心地よい印象と共感を与える。 

この三回の対談を通して、両者は、互いに学び合い、高め合ったことだろう。 

私の読後の清々しさも、そのような点から来ているように思うのだ。



  高橋氏も指摘していることだが、植草氏は、野田政権の消費増税提案

に反対する理由として、①民主主義のデュープロセスに反している。

②社会保障制度改革が具体化されておらず、単なる増税になっている。

③経済情勢への配慮が欠落しており、日本経済を破壊してしまう怖れが

高い、④日本財政は危機に直面していない、⑤格差が重大な社会問題と

なっているなかで、消費増税は逆進性をさらに進める、ことなどを提示し

てきた。



  しかし、植草氏によれば、斎藤氏の話を聞いて、より重大な問題の存在

に気付いたという。

 つまり、それは、消費税の仕組みそのものが構造的欠陥を抱えている

ということだ。 
                

  他方、斎藤氏は、”怒り            Photo


狂うには狂うだけの理屈

がある”と言う。

   同氏によれば、連中

(*消費増税法案を可決

させた民・自・公の議員

たち)は、権力や巨大資

本に近くない人間一人

ひとりの暮らしを舐めき

っている。

  小の虫を殺して大の

虫を生かす、などという

大層な話でもない。

  ただひたすらに

くだらない手合いどもに

これ以上、世の中を好き勝手に動かされてたまるものか、となる。

  この義憤は、斎藤氏の出自、育った環境、取材活動を通じて得た体験、

そして同氏の価値観や社会観などによって形成されている。


  斎藤氏は、「シベリア抑留」を経験なさったお父様が
帰国後、小さな

鉄屑業を営まれていた姿に、心からの尊敬心と同情、それに共感を

抱いておられたことだろう。

 上記の言葉は、その結果としての、斎藤氏の正直な心の叫びだと思う。

  その斎藤氏が記す。

  「・・・そして植草さんとともに誓いたい。

―消費税増税を潰す。

   何度でも繰り返す。私には伊達や酔狂だけでこうまで宣言する度胸など

ない。後先を考えずに怒り狂うには狂うだけの理屈があ

のだ。

  積年の思いを、少しでも多くの人々に共有してもらうことができたなら、

これに勝る喜びはありません」と。

  本書の具体的内容については、次に譲りたい。 【つづく】

 

 

2012年10月 8日 (月)

エッセイ「心のままに」(完)

   生命の揺籃(=ゆりかご)

 

   樹木は、人間の命の源。― 

私たちは、樹木によって癒される。 

  身も心も疲れた時、人は、樹木の下に佇むとよい。 

必ず、身体の健康と心の平安を得ることができよう。 

樹木こそは、人間にとって「母なる自然と言えよう。

Photo
 日本人の心

の優しさは、

樹木を大切

にするところ

から生じたの

ではあるまい

か。 

 生命の源は、

海から生じた。

その海を育む

のが、樹木

森である。 

 私たちは、

その樹木を大切にしなければならない。



  樹木を根絶やしにするような行為は、もはや文明とは

言えない。中国を見れば、分かるではないか。 

  それは、人類だけでなく、あらゆる生命の“死”を意味す

る。 

 樹木こそは、すべての生命の揺籃である。






 人知れず“善”を積む
 

 

  「陰徳」という言葉があります。 

人に知れぬように施す恩徳(『広辞苑』)と言われます。 

それは、人知れず“善”を積む行為とも言えます。

 

  「陰徳あれば陽報あり」という言葉もあります。 

陰徳を積む人には、陽報(=よい報い)が得られると考え

られています。確かに、そうかも知れません。

  Photo_2
 しかし、たとえ

そうでなかった

としても、人知

れず“善”を

む人は、その

行為(=善行)

自体を、実に

生き生きと、

かつ楽しそ

やっています。

 

  確かに、善行は、それ自体が“美”そのものであり、

かつ喜びだと思います。 

 決して、他者(ヒト)に誉められたくてやるのではないの

です。 

 むしろ、それ自体が”無上の喜び”なのです。

 

  小さな“善”は、大善とも言える「神」や「仏」の反映とも

言えます。 

 それゆえにこそ、「善行」は、常に光り輝いて見えるの

ではないでしょうか。






  平凡と非凡
 

 

  人間が「平凡に徹する」ことは、ひじょうに難しい。 

だが、「非凡に生きる」ことは、もっと難しいと思う。 

なぜなら、後者の生き方は、一般の人々には、なかなか

理解されないからだ。


  平凡と非凡の違いとは、一体何だろう?
 

「平凡な人」には、適度の才能と堅実な持続性が備わって

いる。 

けれども、概して、創造性や独創性は希薄だ。 

 また、どんなに高学歴で、自ら才能に恵まれていると自

している人でも、凡人は凡人だ。



  これに対して、学歴など無くても、ひじょうに創造力が豊

かで、独創的な仕事を成し遂げる「非凡な人」がいる。

(*右下の写真は、創作中の棟方志功氏:1903~1975 ) 


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 「平凡と非凡」 

とを分けるもの

は、主に”創造

力や独創性”で

ないだろうか。

  私にとって、

「非凡な人」

は、周囲や時

代状況に左右

されることなく、

自らの創造力

や感性を磨き、

独創的な業を上げる人ことである。 

  日本には、このような人々は、決して少なくないように

思うのだ。




   人は、常に生まれ変われる


  人の性格は、簡単には変わらないと言われる。

果たして、そうだろうか?   私には、そうは思えない。

  性格はおろか、人間性そのものが、大きく変わると思う。

それも、常に生まれ変われると思うのだ。

   Photo_5
 目に見える世界

は有限でも、見え

ない世界は、無限。

 その無限の世界

から、常に私たちを

本質的に変える強

な力が放射される。

 その「力」は、私た

ちを導き、力づけ、

そして助けてくれる。


  だが同時に、

私たち自身の心の中、とりわけ魂の中には、その強大な

(私たちは、「それ」を神とか仏とか呼いる)と感応

合う力が存在している。

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 この両者の力が

合わさることで

「奇跡」と言われる

ような不思議なこと

が起きる。

  しかし、むしろ人間、

いや生き物そのもの

が、ひじょうに可変的

な存在なのだ。

 そこで、私たちは常

”新しい自分”発見できる。

そのことを信じて生きていこう。

 人は、常に生まれ変われるのだから。  【了】

(*下の写真は、この度のロンドン・パラリンピック・車いす

テニス男子シングルスで優勝した国枝慎吾選手)



  
(後記)エッセイ「心のままに」をご愛読くださいまして、

     まことに有難うございました。

      どうか、懐かしい曲(サイモンとガーファン

     クルの「明日に架ける橋」をお聴きください。

              途中、ちょっと途切れそうになる所があり

     ますが、大丈夫です。

      大きな画面で観られると、いいですね。

      (下を、クリックしてみて下さい。)

           http://youtu.be/k0WU1ePzhOI

 

Photo_8

     

 

 

 

       





 

 

 

 

 

 

とを分けるもの 

は、主に”創造 

力や独創性” 

ではないだろう 

か。

  私にとって

2012年10月 6日 (土)

エッセイ「心のままに」(26)

    目立たなくても光れ!

 

  人前で目立とうとする人は多い。 

けれども、真に“光る人”は少ない。 

  案外、“目立つ”ことと、“光る”こととは、別なのではな

かろうか。

どんなに目立っても、光らない人はいる。
 

反面、どんなに目立たなくても”光る人”はいる。

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  私はここで、

よく他者(ヒト)

の目につくこと

や表面的に

輝くことを、

“目立つ”と考

えたい。 

 同時に、どん

なに地味で隠

れた存在であ

っても、内面的

輝くことを

“光る”考えたい。

 

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 たとえ、他者

(ヒト)が軽視し、

注目しなくても、 

私は、”内面的

な豊かさ”を備

えた「光る存在」

でありたい。 

  まさに

“目立たなくても

光れ!”
なのである。








   言霊(ことだま)

 

   かつて、大学で教鞭を執っていた頃、或る極度の弱視

女学生が、私に言った。

   「先生のお言葉には、〝言霊”があります」と。 

正直、余りにも思い掛けない、有難い言葉だった。 

  だが、それは、決して自惚れからではなく、重い障害を

背負た方の言葉だけに、何か“深いもの”を感じたから

だ。

   「言霊(ことだま)」。― 

確かに、ひとの語る言葉には”魂”がこもっている。 

それに、言霊は、すべての人々が持っているものだ。 

  なぜなら、言葉は常に、人の本心”から発せられるも

のだから。 

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 とりわけ、最深奥に在る真心から発せられる偽りの無い

言葉は、聞く人の魂に響く。 

それは、共鳴・共振するとさえ言えよう。 

  ひとはそれを”言霊”と言うのではないかと思うのだ。


  修羅の心



  修羅の心、それは、怒りの心。
 

自らの怒りに任せて、他者(ヒト)を責める。 

その時、私たちは、一人の修羅。― 

  修羅の心、それは、わがままな心。 

すべての他者(ヒト)を、自分の「手足」と考える。 

  事が思い通りに進むは、当たり前。 

進まなければ、地団太踏んで、怒り狂う。 

その時、私たちは、一人の修羅。―

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  修羅の心、

それは、こ

だわりの心。 

 いつまでも、

他者(ヒト)を

許さず、自分

さえも許さず、

こだわり続け

る。

  くよくよする

のがいけない

と分かっていても、つい、くよくよとしてしまう。 

  その時、私たちは、一人の修羅。―

 

  修羅の心、それは、忘恩の心。 

いつの間にか、他者(ヒト)への感謝の気持ちを忘れ去

る。 

 とりわけ、神・仏の加護と導きの下にある”自己の存”を

忘れてしまう。 

  どうか、「修羅の心」に、振り回されること勿れ!





    柔らかな心



  人が、真に「柔らかな心」を持てたら、どんなに幸せでし

 ょう! 

 それは、ものごとに囚われない、真に自由な心です。 

 

  柔らかな心、それは、人を許す心。  

たとえ、他者(ヒト)から、どんな仕打ちを受けたとしても、 

他者(ヒト)を、真に許せる心です。

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  柔らかな心、

それは「今」

満足できる心。  

 たとえ、今、

何か欠けるもの

があったとしても、

「知足少欲」

生きれる心です。

 

   柔らかな心、

それは、他者(ヒト)に感謝できる心。  

 人間、独りで生きているのではない。 

神・仏や他者(ヒト)によって生かされていることを、心底、 

有難く思える

心です。 Photo_9


     
      

  柔らかな心、  

それは、春風

のように爽やか

な人の心です。

 【つづく】

 

 

 

 

 

2012年10月 5日 (金)

エッセイ「心のままに」(25)

   詩人


  「人は、恋をすると詩人になる」と言うけれど、人間は、

誰もが詩人なのだ。

中也や道造、ハイネやバイロンにだって負けはしない。

  夭折した彼らにしか書けなかった詩ってあろうけれど、

若かった彼らになんか書けっこない詩だってあるんだよ。

〔*上から、中原中也(1907~1937、立原道造(1914~

1939)、ハインリッヒ・ハイネ(1797~1856)、ジュージ・

ゴードン・バイロン(1788~1824)〕

     
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   人間、誰だって、詩人になれるよ。

唯、この世の柵(しがらみ)や塵芥(ちりあくた)で、自分

の純な魂を覆い隠しているだけなのだ。

  いつか、思い切って、その不純物を払いのければいい

んだ。

それには、ほんのちょっとの勇気があるだけでいいんだ

よ。

 


 

  菜食主義


  動物の肉など食べずに生きていけたら、どんなに幸せ

だろう!

 あなたは、聞いたことがあるだろうか?

明け方、処分場へ運ばれる牛や豚が、車上から泣き叫ぶ

声を!

  人間とは、何と残酷な生き物だろうか。

様々な生き物を犠牲にして、その身を長らえている。

  かつて、私の親戚の一人に、無類の動物好きで、肉を

食べられないという少女がいた。

 彼女は、今も、菜食主義だろうか?

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  事実「菜食主義」を貫く人々もいる。できれば、私も、

そうありたい。

だが、そう思いつつ、それができない自分がいる。

  少なくとも、心から感謝しつつ、肉を食することにしよう。

心の中で「菜食主義」に憧れながら。

   みにくいアヒルの子


  どんなに他者(ヒト)のために尽くしても、報われないこと

があります。

 どれほど、良かれと思ってやったことでも、誤解されたり、

非難されたりすることがあります。

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  どんなに仲間に

入りたくても、独り

外れている自分

がいます。

 それは、悲しく

切ないことです。

そんな時、ふと

「ヨソ者」の自分

を感じます。

  でも、決して

落胆するには及びません。

たとえ今「みにくいアヒルの子」であっても、あなたは、

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いつの日にか、

他の所へと飛

び立つ、美しい

白鳥なので

から。

  きっと、あなた

が、あなたらし

く生きれる場が

あるのですから。







  山頭火ではないけれど


  山頭火(*下の写真:種田山頭火:1892~1940 )ではな

いけれど、私たちは、誰もが「旅人」。

  人それぞれに「自由」を求め、心のどこかで、漂泊の旅に

憧れる。


  確かに、人生とは「旅」であり、われわれはみんな、旅人

なのだ。

 だが、そう思える人は少ない。

  旅とは、「非日常」であり、稀にしかないことだ。

しかし、西行や兼好法師、それに山頭火にとっては、旅こ

そ「日常」であり、遊行そのものだった。

Photo_10  山頭火ではない

けれど、彼のよう

自然を愛し、

人を愛し、日本人

の心を愛し、僅か

ばかりの酒を愛し

て生きていきたい。

  山頭火ではない

けれど、

自由闊達な

“心の旅”

したい。

  山頭火では

ないけれど、

自分に正直、かつ誠実に、残りの「時」を生きて行きたい。

 【つづく】


         

   

2012年10月 4日 (木)

エッセイ「心のままに」(24)

 出生(=誕生)の意義

 

  人は、自己の魂を救い、かつ他者(ヒト)の心を救うため

に生まれてくるのではあるまいか。 

  “救霊”こそ、出生(=誕生)の意義であると思う。 

人間の「存在」には、必ず意義がある。

 

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 人が、意味も

無く、この世に

存在することは、

有り得ない。



  人間が「霊的

存在」である以

上、この世で、

その霊魂を

浄め、高める

ことが求められる。

  人間は、死んで「霊」になるのではなく、

むしろ、生きていても、立派な「霊」なのだ。

 

 その霊魂の浄化や高揚を通して、人は、魂の救い

(=救霊)へと至る。


  私たちは、生涯を
通して、更なる“救霊”を求める。 

 何故なら、この未完の行為こそ、私たち人間の「出生の 

意義」であるからだ。

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  「一所懸命」




  今日、よく言われる「一生懸命」は、かつては、「一所懸

命」でした。

 つまり、”自分の土地を守り抜く”という意味から派生した

ものでした。これは、皆さま、ご存知の通りです。


  ところで、何かに夢中になると、人は「時空」の存在を

忘れます。

 今、何時(いつ)なのか、自分は今、一体どこにいるの

か、一瞬、分からなくなるのです。

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 一種の「没我

の境」とでもい

いましょうか、

脱魂状態のよ

うな一瞬があ

ります。

 それは、一心

不乱とでも申

しますか

「無心」の境地

でもあります。

 まさに、主客が

一体化した瞬間とさえ、言えるかも知れません。


  人が、或る事に意識を集中して、何かに「一所懸命」に

なる時も、似たような状態になります。それは、まるで、

“時が止まった”ような瞬間なのです。

  携帯電話などが普及する現在、私たちは、容易に

”ながら族”になれます。

 でも、ひと事に「一所懸命」になることも、極めて大切で

はないでしょうか。

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  必ず、道は拓(ひら)ける


  どんなに暗中模索のような状態にいても、必ず、道は拓

ける。

どんな苦難の中にいても、必ず、道は拓ける。

  基礎を深く掘り下げ、堅固なものにすればする程、高い

建物が築けるものだ。

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 苦しみの度合

いが大きければ

大きい程、それ

を克服した時の

喜びも大きい。

 どんなに見捨

てられたような

状況の中にい

ても、必ず、

道は拓ける。

  それを信じて、

生きて行こう。

 今、向こうから、光が近づきつつあるのが、僕には見え

る。  【つづく】

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2012年10月 2日 (火)

エッセイ「心のままに」(23)

     世襲


  政治家の息子が政治家、医者の子弟が医者、教員の

息子、娘たちが教員、ああ、何と安直な世の中。―

  無論、本人の努力無しには、親と同じ職業には就けな

いけれど、彼らが親から受け継ぐ最たるものは、何と言

っても、「コネ」と「財力」、それに「要領」。

     Koizumi

  勿論、すべての2代目、3代目が、皆、そういうわけでは

ない。また、「世襲」は、いつの時代にも存在した。


  しかし、今日の「世襲」の悪弊は根強い。社会の活力の

減退、機会均等の侵害、マンネリズムなど、様々あろう。

  とりわけ、他者(ヒト)の〝苦しみ”や“心の痛み”を解せ

ない人々を、徒に増やすばかりのように、私には思える

のだ。






   「無感覚」




  家の近くを流れる白川のせせらぎの音が聞こえます。

カオリさん、あなたが多摩川の上流(*右下の写真)

入水して、はや30年近い歳月が流れました。

Photo
  当時、あなたは、

17歳の都立高校

生。―

 学校の休み時

間に見せた、あな

たの、あの明るく

悪戯っぽい笑顔を、

私は、今も忘れる

ことはありません。


  でも、あなたが

亡くなった日、

私は、学校内で、

何と”歓声”が上

がったことも、決して忘れることもできません。

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 あの日、先生方

による他校との

ソフトボール大会

が予定通り行われ、

試合後、その打ち

上げがあったので

す。

 その時上がった

歓声に、私は、

耳を疑いました。

  人は、他者(ヒト)

の死に、これほど

「無感覚」になれる

ものでしょうか?

それも、一人の生徒が亡くなったというのに。・・・・

  しかし最近、人は他者の死や不幸に対して、その痛み

を知らず、極めて「無感覚」になっているように思うのです。






   「歯車」に成る勿れ!


  芥川龍之介(1892~1927 :右下の写真) の著作『歯車』

は、自死直前彼の苦悩を窺わせる、非常に難解な名品

だ。

 
 ある意味、”昭      Photo_6


和”という、巨大

な機械(あるいは、

苛酷な時代)に

翻弄される、無力

な人間の悲劇を、

明確に予感した

名作とも言える。


  この作品の一部

を、ほぼ50年前の

中学生時代に読ん

以来、私は、

の中で密かに思い

続けた”組織の

歯車には成り

たくない”と。


  人は、「組織」

(会社や学校、官庁など)に所属することで、一定の地位

や報酬、時には、社会的名声などを得る。

  しかし、組織に埋没すると、勢い自分の組織を相対化し

たり、客観化したりできなくなる。それによって、正当な

批判精神を無くしてしまう。

  まさに、「組織」に取り込まれる形となる。

   Photo_4

  結局、「善悪の価値判断」を蔑ろにし、自らの「良心」

売り渡すことで、容易に組織ぐるみの犯罪に手を染める

結果ともなる。

  「歯車」の究極の姿は、きっと、そのようなものであろう。

  かつて、私の研究仲間に、一人の心優しい学友がいた。

彼は、当時、私同様、大学の専門職にこそ就いていなか

ったが、自由で闊達な批判精神の持ち主だった。

 そんなわれらの交友を、他の大学に籍を置く他の

研究仲間が、”実に牧歌的だ”と褒めてくれた(無論、

多少の皮肉もあったかも知れないが・・・)。


  しかし、或る事で、私が組織の一部の実力者たちのやり

方に異議を唱えた時、すでに同組織の一員に組み込まれ

ていた学友は、私を、盛んに懐柔しようとした。

 その時の彼は、もはや、かつての学友でも研究仲間でも

なかった。

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 手前味噌にな

ってもいけない

が、私自身は、

講義内容の点

で、大学内の

関係学部

生たちには、

非常に高く評価

されていた。

 しかし、その

学友を含めた

「組織(=特に、

大学上層部)」では、私に対する学生の評価が正当に

認識されることはなかった。 

 簡単に言えば、その大学とは、まったく”縁が無かった”

  私は、その「立場」が変わった途端に、言動まで変わっ

てしまった、かつての学友を、決して笑いはしない。

無論、彼を憎みもしない。

  だが、ひと言だけ言いたい“友よ、組織の「歯車」に

成る勿れ!”と。 【つづく】

 

 

2012年10月 1日 (月)

エッセイ「心のままに」(22)

 

 

   「先生」と呼ばれるほどの馬鹿でなし



  「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という言葉が

あるけれど、世の中には、案外、「先生」と呼ばれて、

有頂天になる人が多い。

 

  かつて、私も、学校で、そう呼ばれていたが、時折、

恥ずかしい思いになることがあった。 

  正直、”ただ、あなたより先に生まれただけの「先生」

ですよ”と思うことが、度々だった。




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  ところで、社

的に「先生」と

呼ばれる人々

の欠点を、

敢えて挙げる

ならば、それは、

傲慢さ、わがま

ま、自己中心

主義、権威主義、

世間知らず、薄情、

無知、専門馬鹿、

礼儀知らずなど、

数え上げれば、切りが無い。 

(*写真は、教研集会の風景)

 

  大体、“精神的に未熟な人”を見つけようと思えば、

この「先生」と呼ばれる人々の中に、最も見出し易い。



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   無論、中には、

他者に対して無

心、無欲、かつ

献身的に尽くし、

高い人格の方々

もいるけれど、

そのような方々が、

かなり得難く、かつ

なかなか目立たな

いのも、この「先生」

社会の特徴であろう。

 

  そんな中で、自分は、「先生と呼ばれるほどの馬鹿

でなし」と居直り、密やかに生きようとするのも、案外、

気の利いた一つの処世法なのかも知れない。 




 

  反面教師



  この世には、数多くの教師がいるけれど、成りたくな

いのは「反面教師」。―

 言うことは立派でも、行動の伴わない「反面教師」。

  世界が、あたかも自分を中心に廻っていると考える、

無知で、わがままな「反面教師」。

 自らの権力を振りかざし、他者(ヒト)に絶対的服従を

求める「反面教師」たち。

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 でも、ちょっと視点を変えれば、そんな「反面教師」にも、

学ぶところは数多い。

 彼らの言葉の”内容の良さそのもの”は学ぶべきだし、

手本とさえすべきだろう。

  その意味では、イエスの頃の「律法学者」たちに似て

いよう。

  まさに、「人の振り見て、わが振り直せ」。―

 学ぶべき点は、どんどん学び、避けるべきことは避け、

直すべき所は、直していこう。

  この世は、まさに「相互学習」。―

いや、人生そのものが、まさに「相互学習」なのでは

あるまいか。

  例えば、このブログを書く行為だって、私は「相互

学習」だと思っている。

  正直、毎回、「相互学習」の思いで書いている。

  つまり、人は、様々な他者(ヒト)やものから学べるもの

だ。 「反面教師」も、その一つ。

  自分も、そう呼ばれないよう気をつけながら、これか

らも「反面教師」に学んでいこう。





  すべてのものが、私の「先生」



  「他者は皆、我が師なり」と、宮本武蔵は言ったけれど、

私にとっては、すべてのものが、私の「先生」。―

                                 Photo_5
  ベランダに愛ら

しく咲くパンジー

もビオラもジュリ

アンも、美しく咲

き誇り、いつかは

散りゆく桜の

花びらの一つ

ひとつも、横断

歩道の信号機も、

自分の履いてい

るスリッパさえも、

みんな、私の

立派な「先生。―

  いつも、何か

”大切なこと

教えてくれる。





  例えば、“生きる”喜び、散りゆくものの美しさ、他者

ヒト)への感謝、正確さの大事さ、ものの大切さなど、

実に様々なことを、私に教えてくれる。

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  それも、目に

見えない不思

議な「光」を通

して。―

 時には、耳に

は聞こえない

「音」を通じて、

何かを語り掛け、

教えてくれる。

 時折、私は、

それを強く感じる。


  私にとっては、人や生き物だけでなく、すべてのものが、

私の「先生」なのだ。   【つづく】

 

 

 

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