フォト
2017年1月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        
無料ブログはココログ

« エッセイ「心のままに」(25) | トップページ | エッセイ「心のままに」(完) »

2012年10月 6日 (土)

エッセイ「心のままに」(26)

    目立たなくても光れ!

 

  人前で目立とうとする人は多い。 

けれども、真に“光る人”は少ない。 

  案外、“目立つ”ことと、“光る”こととは、別なのではな

かろうか。

どんなに目立っても、光らない人はいる。
 

反面、どんなに目立たなくても”光る人”はいる。

Photo
  私はここで、

よく他者(ヒト)

の目につくこと

や表面的に

輝くことを、

“目立つ”と考

えたい。 

 同時に、どん

なに地味で隠

れた存在であ

っても、内面的

輝くことを

“光る”考えたい。

 

  Photo_3
 たとえ、他者

(ヒト)が軽視し、

注目しなくても、 

私は、”内面的

な豊かさ”を備

えた「光る存在」

でありたい。 

  まさに

“目立たなくても

光れ!”
なのである。








   言霊(ことだま)

 

   かつて、大学で教鞭を執っていた頃、或る極度の弱視

女学生が、私に言った。

   「先生のお言葉には、〝言霊”があります」と。 

正直、余りにも思い掛けない、有難い言葉だった。 

  だが、それは、決して自惚れからではなく、重い障害を

背負た方の言葉だけに、何か“深いもの”を感じたから

だ。

   「言霊(ことだま)」。― 

確かに、ひとの語る言葉には”魂”がこもっている。 

それに、言霊は、すべての人々が持っているものだ。 

  なぜなら、言葉は常に、人の本心”から発せられるも

のだから。 

Photo_4

 とりわけ、最深奥に在る真心から発せられる偽りの無い

言葉は、聞く人の魂に響く。 

それは、共鳴・共振するとさえ言えよう。 

  ひとはそれを”言霊”と言うのではないかと思うのだ。


  修羅の心



  修羅の心、それは、怒りの心。
 

自らの怒りに任せて、他者(ヒト)を責める。 

その時、私たちは、一人の修羅。― 

  修羅の心、それは、わがままな心。 

すべての他者(ヒト)を、自分の「手足」と考える。 

  事が思い通りに進むは、当たり前。 

進まなければ、地団太踏んで、怒り狂う。 

その時、私たちは、一人の修羅。―

Photo_6
  修羅の心、

それは、こ

だわりの心。 

 いつまでも、

他者(ヒト)を

許さず、自分

さえも許さず、

こだわり続け

る。

  くよくよする

のがいけない

と分かっていても、つい、くよくよとしてしまう。 

  その時、私たちは、一人の修羅。―

 

  修羅の心、それは、忘恩の心。 

いつの間にか、他者(ヒト)への感謝の気持ちを忘れ去

る。 

 とりわけ、神・仏の加護と導きの下にある”自己の存”を

忘れてしまう。 

  どうか、「修羅の心」に、振り回されること勿れ!





    柔らかな心



  人が、真に「柔らかな心」を持てたら、どんなに幸せでし

 ょう! 

 それは、ものごとに囚われない、真に自由な心です。 

 

  柔らかな心、それは、人を許す心。  

たとえ、他者(ヒト)から、どんな仕打ちを受けたとしても、 

他者(ヒト)を、真に許せる心です。

Photo_7
  柔らかな心、

それは「今」

満足できる心。  

 たとえ、今、

何か欠けるもの

があったとしても、

「知足少欲」

生きれる心です。

 

   柔らかな心、

それは、他者(ヒト)に感謝できる心。  

 人間、独りで生きているのではない。 

神・仏や他者(ヒト)によって生かされていることを、心底、 

有難く思える

心です。 Photo_9


     
      

  柔らかな心、  

それは、春風

のように爽やか

な人の心です。

 【つづく】

 

 

 

 

 

« エッセイ「心のままに」(25) | トップページ | エッセイ「心のままに」(完) »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

Links