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2012年10月 1日 (月)

エッセイ「心のままに」(22)

 

 

   「先生」と呼ばれるほどの馬鹿でなし



  「先生と呼ばれるほどの馬鹿でなし」という言葉が

あるけれど、世の中には、案外、「先生」と呼ばれて、

有頂天になる人が多い。

 

  かつて、私も、学校で、そう呼ばれていたが、時折、

恥ずかしい思いになることがあった。 

  正直、”ただ、あなたより先に生まれただけの「先生」

ですよ”と思うことが、度々だった。




Photo_2
  ところで、社

的に「先生」と

呼ばれる人々

の欠点を、

敢えて挙げる

ならば、それは、

傲慢さ、わがま

ま、自己中心

主義、権威主義、

世間知らず、薄情、

無知、専門馬鹿、

礼儀知らずなど、

数え上げれば、切りが無い。 

(*写真は、教研集会の風景)

 

  大体、“精神的に未熟な人”を見つけようと思えば、

この「先生」と呼ばれる人々の中に、最も見出し易い。



Photo_3
   無論、中には、

他者に対して無

心、無欲、かつ

献身的に尽くし、

高い人格の方々

もいるけれど、

そのような方々が、

かなり得難く、かつ

なかなか目立たな

いのも、この「先生」

社会の特徴であろう。

 

  そんな中で、自分は、「先生と呼ばれるほどの馬鹿

でなし」と居直り、密やかに生きようとするのも、案外、

気の利いた一つの処世法なのかも知れない。 




 

  反面教師



  この世には、数多くの教師がいるけれど、成りたくな

いのは「反面教師」。―

 言うことは立派でも、行動の伴わない「反面教師」。

  世界が、あたかも自分を中心に廻っていると考える、

無知で、わがままな「反面教師」。

 自らの権力を振りかざし、他者(ヒト)に絶対的服従を

求める「反面教師」たち。

Photo_4


 でも、ちょっと視点を変えれば、そんな「反面教師」にも、

学ぶところは数多い。

 彼らの言葉の”内容の良さそのもの”は学ぶべきだし、

手本とさえすべきだろう。

  その意味では、イエスの頃の「律法学者」たちに似て

いよう。

  まさに、「人の振り見て、わが振り直せ」。―

 学ぶべき点は、どんどん学び、避けるべきことは避け、

直すべき所は、直していこう。

  この世は、まさに「相互学習」。―

いや、人生そのものが、まさに「相互学習」なのでは

あるまいか。

  例えば、このブログを書く行為だって、私は「相互

学習」だと思っている。

  正直、毎回、「相互学習」の思いで書いている。

  つまり、人は、様々な他者(ヒト)やものから学べるもの

だ。 「反面教師」も、その一つ。

  自分も、そう呼ばれないよう気をつけながら、これか

らも「反面教師」に学んでいこう。





  すべてのものが、私の「先生」



  「他者は皆、我が師なり」と、宮本武蔵は言ったけれど、

私にとっては、すべてのものが、私の「先生」。―

                                 Photo_5
  ベランダに愛ら

しく咲くパンジー

もビオラもジュリ

アンも、美しく咲

き誇り、いつかは

散りゆく桜の

花びらの一つ

ひとつも、横断

歩道の信号機も、

自分の履いてい

るスリッパさえも、

みんな、私の

立派な「先生。―

  いつも、何か

”大切なこと

教えてくれる。





  例えば、“生きる”喜び、散りゆくものの美しさ、他者

ヒト)への感謝、正確さの大事さ、ものの大切さなど、

実に様々なことを、私に教えてくれる。

  Photo_6
  それも、目に

見えない不思

議な「光」を通

して。―

 時には、耳に

は聞こえない

「音」を通じて、

何かを語り掛け、

教えてくれる。

 時折、私は、

それを強く感じる。


  私にとっては、人や生き物だけでなく、すべてのものが、

私の「先生」なのだ。   【つづく】

 

 

 

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