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2012年9月29日 (土)

エッセイ「心のままに」(21)

  連合い(=妻)は、わが魂の”磨き砂”


  連合いは、わが魂の”磨き砂”。

時には、私に、耐え難いほどの苦言を呈するけれど、

すべては、私自身のため、そして家庭のため。


  連合いは、わが魂の”磨き砂”。

互いに、人格高潔というわけではないけれど、

常に「正論」を言う、我が家の名参謀。

何と、学ぶことの多いことか!

  連合いは、わが魂の”磨き砂”。

Photo食卓では、いつ

も痛んだ方の

果物を食べ、

私には、大きく

て質の良い方

をくれる、わが

連合い。

 もし、私が逆

の立場なら、

これ程、自己

犠牲的に振舞

るだろうか?



  連合いは、わが魂の”磨き砂”。

この前、テレビで安倍氏が「この度、自民党総裁に

選出されました安倍晋三(しんぞう)です」と挨拶したら、

間髪いれず、「本当に、心臓ね!」と、鋭い突っ込みを

入れる、わが連合い。

 

  連合いは、

わが魂の”磨き砂”。

互いに、「人間的な甘さ」について口論しつつも、

わが陣営は、善戦空しく、いつも白旗。―

  連合いは、わが魂の”磨き砂”。 わが人生の師匠なり。


  「罪」


Photo_7
  信仰者は、自分

の犯した「罪」を

自覚する時、

そこに、神を見る。

  何故なら、そこ

に、自らの”咎

(とが)め”を感じ

るからだ。

神の前に、自ら

の「罪」を恥じ

入るからだ。


 しかし、信仰者
のみならず、

人に、まことの”愛”があるなら、

その人は、決して「罪」を犯さない。

 

  短気



  短気は損気と分かっていても、

なかなか治らぬ、我が病(やまい)。

Photo_3
”あの人は、瞬間

湯沸かし器(*右

写真)みたいな

人だ”と、心の中

で笑ってみても、

いつの間にやら、

自分だって、実に

立派(?)な瞬間

湯沸かし器。


  後で、少しは

反省すれど、

その時の心は、

カッカカッカ。

別府の湯

(*左下の写真)にさえ、負けはせぬ。

Photo_4
 年だけとって、

まだまだ未熟な

自分なり。

 ”ああ、いつに

なったら、人生を

達観できるのだ

ろう?”と感じつ

つ、日暮れて、

道遠しの「我が

心」かな。

されど、未熟は

未熟なりに、己

に正直に生きるを良しとしよう。

  人間、ぶつかり合ってこその「人生」なのだ。

ぶつかり合いながらも、少しは丸くなっていくことだろう。

  そんな楽天家の自分を、心の中で笑いながら、

短気な私が、今日も生きゆく日暮れかな。





  苦言こそは、甘露なり



  苦言こそは、甘露なり。

正しくても、まるで火矢のように、鋭く人の胸を射す苦言

があります。

  言っている本人は意識していなくても、嫉妬から生じる

悪意の苦言もあります。

中には、非難中傷の刃に載った苦言さえありましょう。

しかし、その苦言の語り手が誰であれ、「苦言」こそは

甘露です。

  なぜなら、「苦言」の源は“善き意志”そのものだから

です。

それを、神や仏と名付けてもよいでしょう。

直接の語り手は、単なる仲介者に過ぎません。

  それゆえ、仲介者の表現の形に囚われる必要はあり

ません。

 大切なのは、彼らの言葉の奥に在る“天の声”の存在

す。Photo_5

  その声は、私たちを厳しく導いてくれます。

すべては、私たちの「人格向上」のためなのです。

  私たちは、「苦言」の一つ一つを通して、その真意を掴

み、自らの人間性を高めてゆくべきでしょう。

  それゆえに、私は確信するのです「苦言こそは、甘露

なり」と。  【つづく】



   

 

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