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2012年9月24日 (月)

エッセイ「心のままに」(19)

    笑顔の力


  人は、他者(ヒト)の笑顔によって救われる。

他者(ヒト)の会心の笑顔は、本当に美しい。

  人が、独り寂しく自らの心を閉ざしている時、

思いがけなく、Photo_12

知人の笑顔に

出会う。

  それは、まる

で暗い部屋に

差し込む、温か

い陽射しのようだ。

そっと、その人

の萎えた心を、

優しく包み込む。




  しかし最近、

人々が笑わなく

なった。

 テレビの中の、

芸人さんたちの作り笑いは論外だが、

日常生活の中では、何故か、不機嫌な顔をしている人

が多い。

  日本人には、もっと、真の「明るさ」が必要なのではある

まいか。

その明るさの一つが、人の笑顔によって表わされる。

  時には、人の心を救う“笑顔の力”を、

われわれは、もっと信じるべきだと思うのだ。

            


 Photo_2

      Photo_3


  犠牲ではなく、喜びとして

   この世には、様々な親がいます。

献身的に子を育て上げる親から、子を虐待し、終には

死に至らしめる親までいます。実に、様々です。


Photo_14
  「親の恩は、山

りも高く、海よ

りも深い。」

 日蓮上人(*左の

肖像画)のお言葉

です。

  真に慈愛深い

ご上人ならではの

立派なお言葉

ですが、こう感

謝できる人は、

たいへん幸せ

であるとも言えます。

  この親の「恩」とは、親の「愛」とも申せましょう。

「恩」や「愛」は数多く、親の“犠牲”によって成り立つもの

です。

  しかし、実際のところ、親は、それを“犠牲”とは考えて

いないでしょう。

 むしろ、それは、至純なる”喜び”なのではないでしょう

か。

  事実、人間が、一人の「生き物」として感じる本能的な

”喜び”のような気がします。

  私たちは、それを、“犠牲”と感じることなく、むしろ、

”喜び”と感じて、他者や動物に尽くします。

  それを、私たちは「愛」と呼ぶのだと思うのです。

   Photo_17





  癒し






  このところ、よく“癒される”という言葉を聞きます。

しかし、人は、外から、何かを受けたり、あるいは、

他者(ヒト)から愛されたりして、癒されるのではない、

と思うのです。


Photo_16
  つまり、癒し

は、何かを

与えられる

ことによって、

得られるもの

ではない、

と思います。

 むしろ、

それは、自ら、

大切なものを

惜しみなく与

ことによって、

実現されるのだと思うのです。

 (*写真は、ハイチ地震で被災した児童を

診察する日本人医師)







  救い




 
  どんなに辛いことがあっても、

思い掛けない出会いがあったり、

他者(ヒト)の優しい言葉で、心が軽くなったりするもの

です。


  案外、「救い」というのは、

生涯に「一つ」といった重々しいものではなく、

日々のささやかな”喜びの積み重ね”なのではないでし

ょうか。

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 私たちに、

ささやかな喜

びに、心から

感動できる

素直な心さえ

あれば、私た

ちは、案外

「救い」に近い

所にいるような

気がします。

  「救い」は、決して外にあるのではありません。

むしろ、それは、私たちの”心の中”にあると思うのです。

  【つづく】

 

 

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