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2012年8月13日 (月)

私の「石橋湛山論」(3 )

  石橋湛山の生い立ちと、不屈の在野精神

  ここでは、湛山の生い立ちと、彼の「不屈の在野精神」について論じたい。 

彼は、1884(明治17)年9月25日、最後には身延山久遠寺(*下の写真)

法主となった杉田湛誓   Photo_8

長男として、東京・

芝日本榎(都麻布区

・・・現、港区)に生ま

れた。 

  母の名は、「きん」と

いう。事情で母方の姓

を名乗り、父の転住に

際し、父の判断で、

信頼する友人、望月

日謙師(湛誓の弟弟子

・・・・当時、山梨在住)に預けられた。 

  河上民雄氏(元衆議院議員)によれば、湛山自身、この望月師による

訓育を受けたことを感謝している。

 

  「湛山」という名は、僧侶として得度してからの名前であり、それ以前は、

「省三(せいぞう)」といった。 

  望月日謙上人は、のちに身延山の最高位に達し、名力士双葉山が、

最盛期に傾倒した名僧でもあった。


  ところで、そのような環境に育った湛山がキリスト教に接したのは、山梨

県立第一中学校(現在の山梨県立甲府第一高等学校)に学んだ時である。 

 彼は、素行不良で、一年落第した。だが、この落第が幸いして、湛山は、

新任の校長・大島正健(まさたけ:*下の写真の人物:1859~1938)

邂逅した。 

  Photo_4
 その大島が、かつて札幌

農学校で、「少年よ、大志

を抱け」の言葉を残し

ウィリアム・S・クラーク

博士の教えを受けた

キリスト教徒であった。 

  そのため、若き湛山は、

大島校長の感化を強く

受けた。大島は、内村鑑三

新渡戸稲造の親友でも

あった。

                        

  旧制中学校を出た湛山は、

早稲田大学で哲学を専攻、

明治40年に首席で卒業した。

 

  早稲田で、湛山は、終生の師ともいえる田中王堂(本名、喜一:*下の

写真の人物:1868~1932に出会う。 

Photo_5 王堂は、アメリカの

シカゴ大学で、ジョン・

デューイ教授に師事

して、「プラグマティズ

ム」を学び、帰国後、

この新しい哲学を、

日本人に紹介した

人物である。 

  湛山が大学で哲学

を学んだ頃は、哲学

界の主流は、イマヌ

エル・カントを代表

するドイツ観念哲学

であった。それに関心     Photo_17

を示さず、湛山が、

プラグマティズム

傾倒したことは興味深い。

  大学を卒業すると(*右の

写真は、卒業時の湛山)

彼は本来、宗門に入る

環境にある人となりであっ

が、彼は、ジャーナリスト

を志し、島村抱月(*左下

の写真の人物:1871

1918)紹介で、東京毎

新聞社に入社した。 

Photo_6
 しかし、半年ほどで退社

した彼は、1909(明治42)年

12月から一年間、東京麻布

歩兵第三連隊に入隊して

兵役を終えた。 

  湛山は、1911(明治44)年に、

東洋経済新報社に入社し、

主幹・社長を歴任した。 

  哲学を専攻した彼が経済

の知識を習得したのは、

まったくの独学による

ので、湛山は、経済

学の原典を読破して行った。



  東洋経済新報社では、戦後の昭和21年に、吉田内閣の大蔵大臣に就任

して、社長を辞任するまで30余年、幅広い評論活動を精力的に展開した。 

  その積極財政論(厳密には、ケインズ流の「完全雇用論」)、反戦反軍思想、 

小日本主義で、“野に石橋あり”の評価は、大いに高かった。 

  大正13(1924)年に同社主幹になった頃から、折悪しく政治情勢は軍国主

義化の勢いを強め、湛山は、時の軍閥政府との対決を強めて行った。

 

  河上氏によれば、湛山は、部下の高橋亀吉と共に、経済論壇の一翼を

担い、金解禁に当たっては、新平価での金本位復帰を主張した。 

  湛山は、旧平価での     Photo_10

復帰・財界整理を主張

した勝田貞次・堀江帰一

らや、大蔵大臣として

金解禁を旧平価で行っ

た井上準之(*右の

写真の人物)らに対し

て果敢に挑んだ。 

  欧米列強の巨大金融界

からの圧力で、たとえ、

その実現が困難だった

とはいえ、その後の日本

経済の疲弊を思うと、

湛山らの考えは、

まことに正当なものだった。

【つづく】


 

 

 

 

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