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2012年3月 9日 (金)

谷口巳三郎氏のこと(2)

 何事も、“積み重ね”です。

 一足(そく)飛びに、何かが急に成就するということは、なかなか

無いと思います。

 まさに、「ローマは、一日にして成らず(Rome  was  not  built  in

a day)です。

 

 また、人間に関して言えば、「三つ子の魂、百まで」で、人は、どの

ような幼少期や少年(あるいは、少女)期を過ごしたかで、人間の、

かなりの部分の「人格形成」が規定されるものです。

 

 谷口氏の少・青年期を概観して感じます事は、彼の定年後の生涯

が、決して突飛・唐突なものではなかったということです。

 つまり、「自然と言えば自然、当たり前と言えば当たり前」な成り行

きだったと思うのです。

 

 では、谷口氏は、一体、どのような少年期を過ごしたのでしょうか?

同氏の最大の理解者とも思える沖村好運氏(北部タイ農村振興支援

会会長)は、次のように表現しています。

 「谷口は小学五年の時に肋膜炎を患い、一年遅れて旧制八代中に入学した。

 山村の坂本村(旧上松球麻村)から通学するには大変な根性が必

要であった。朝は六時に起床し、二キロほど歩いて肥薩線の汽車に

乗った。

 その行き帰りの汽車の中で、谷口は空席があっても決して座らなか

った。それのみか、車内にピーナツの食べ殻や紙屑が散乱している

と、それを拾い集めて始末した。

 

中学の四、五年生になると、軍事教練が正課になった。脚にゲート

ルを巻き、背嚢を背負って鉄砲を担ぎ、炎天下を二十キロもI 、三十

キロも歩くのである。

 そんな時も、谷口は水を飲まなかった。そして

欲しがる級友がいると、惜し気もなく自分の水を

飲ませた。

 そんな禁欲的で意志の強い谷口を、級友

”八代中のガンジー”と評した。

 

 谷口の生家のすぐ横には、小さな薬師堂がある。彼の家は、代々、

その堂守りをしていた。谷口家の主婦は、朝早く起きて飯を炊いたら、

”お初穂”を、先ず、薬師様に供えた。

 観音堂には、よく泊まり客があった。巡礼の修行僧もいたが、乞食

もよく、そこに寝た。今日の言葉で言えば”ホームレス”である。

 谷口少年は、そんな人を見たら、「ここは冷え込むから、僕の家に

来て寝なさい」と声をかけて、家に連れてきた。握り飯を持って行く

こともあった」と。(沖村好運著「二十一世紀の”肥後モッコス”谷口

巳三郎の人と業績」より)

 

 沖村氏は、この文章の後、「こんな谷口のパーソナリティは、いった

どのようにして形成されたのだろうか?」と疑問を呈しておられる。

 沖村氏に限らず、誰でも、不思議に感じられることだろう。

 実は、マハトマ・ガンディー(1869~1948)自身、第一次世界大戦

中に、自ら看護隊を組織して、前線の激しい砲火の中で、獅子奮迅

の活躍をした。 

 だが、普段の彼は、実に飄々とした風情であったことが、多くの英

国軍兵士たちの驚きの的だった。

 若き谷口氏も、壮年期のガンディー同様、何か、世俗を超越した

雰囲気があったようだ。

 

 それは、自己鍛錬、求道心、それに普段の信仰心などの影響が

考えられよう。

 谷口氏の定年直後の、つまり初老期の偉大な決断は、このような

彼独自の超俗的な信仰心の賜物のような気がする。

 また、この信仰心、あるいは深い精神性は、彼の生涯を通じて一貫

していたように感じる。

 また、彼の正義感も、神・仏以外、「何も怖れるものはないという

確信に基づいていたように思う。

 これまた、ガンディーの怖れ無き心(Fearlessness)と共通している。

 これについて、沖村氏の話は、続く。

 「谷口は旧制八代中学校から神宮皇学館に進んだが、『ここは俺の性に

合わない』と一学期で自主退学してしまった。時代の流れに無批判に乗

った当時の学風を嫌ったのである。

 翌年の昭和十八年、鹿児島高等農林学校(現在の鹿児島大学

農学部、以下鹿農)に入学したが、間もなく学徒動員で予備士官

学校に入る。

  

 ここで、谷口は事件を起こす。彼は、大胆にも日誌の中で、予備

士官学校の教育を批判したのである。それが、教官に見つかったのだ。

 営倉入りかと覚悟した時、彼に一目置いていた担任将校が口添

えしてくれたので、謹慎五日の処分で済んだ。

 ここにも大勢に身を委ねない”肥後モッコス”の血がうかがえる。

 その後、南方戦線から復員し、鹿農に復学、昭和二十三年、卒

」と。 

  

 ここにも、大勢に阿(おもね)ず、かつ何者も怖れず、正しい

思うことを貫き通す、若き日の谷口氏の姿がある。

 実際、あの戦時下に、予備士官候補生の身で、上位の軍人、

あるいは軍関係者に”楯突く”ということは、並大抵の事ではなか

ったと思う。

 だが、同時に、このような不屈の意志力なしには、如何なる大業の

実現も不可能だと思うのだ。

 「内村鑑三」と同氏との関係については、またの機会に。【つづく】

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