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2012年3月

2012年3月27日 (火)

日本の美しさ(6)

  何と言っても、「日本の美しさ」は、富士山を除けば、さくら

に代表されるような気がします。

 東北、北海道以外では、 これからが、本格的な桜の季節です。

各地で、桜の「開花宣言」が聞かれます。

 かつて、在原業平(825~880)は、「世の中に たえて桜の なか

りせば 春の心は のどけからまし」と詠みました。

 様々な解釈が可能でしょうが、この”桜のなかりせば”という思い

は、それほど強く桜に魅かれる心情を、彼は、たいへん正直に吐

しているとも思います。

 その”正直さ”では、彼の辞世も、たいへん心に残るものです。

彼は、こう詠みます。

 「ついに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思わざ

りしを」と。



 このように、死に直面した感情を、彼は、たいへん素直に披歴し

ます。齢 55―。

 今では、若死にの部類に属しましょうが、9世紀頃の日本では、

それなりに長生きだったのかも知れません。

 確かに、藤原道長は、61歳、その子頼通は、82歳ではありますが。―

唯、庶民を交えて平均値をとりますと、それなりの高齢だったと思わ

れます。

 しかし、その年齢に関係なく、在原の”昨日今日とは思わざりしを”

と嘆じる、その素直さが、私は大好きです。

 人間、死の直前まで、迷い苦しむものなのではないでしょうか?

 人間は、幾つになっても迷い苦しむ身ではありますが、それゆえに

こそ、純一無雑なる春のを、とても美しく感じます。

 また、この美しいを、一体、いつまで見ることができるだろうか?

という思いにさえもなるのです。

  ところで、桜の花には、「二つの美しさ」が有るのではないでしょ

うか。それは、「」の美しさと「全体」の美しさです。

 日本人は、年を経ると共に、しみじみと桜の美しさに魅せられる

ような気がします。

 無論、自分がそう感じるから、みんながそう感じるとは限らない

でしょうが、私には、日本人の「集合無意識」ならぬ「集合意識」の

中に、そのような共通意識や共通思念が有るように思うのです。

 勿論、桜の花の美しさにも、様々ありましょう。三、四分咲きの桜

を愛らしく感じる人もいれば、満開に咲き誇る姿に感動する人もい

ましょう。或いは、ひらひらと散りゆく風情に感じ入る人など、実に

様々です。

 私は、散る直前の満開の桜が青空に映える姿が、最も美しく感じ

られます。

 事実、散る花びら一つ無く、まるで”時が止まった”ように思える

瞬間があります。

 その桜が青空をキャンバスとして、様々な色合いの中に光り輝く

のです。その一瞬、私は、思わず息を飲みました。

 桜は、単に花びらだけでなく、根も幹も枝も、その中身は、全く

同じ「桜色」だといいます。つまり、樹木全体で、花の美しさを支え

ているのです。

 言い換えれば、花びらという「」の美しさと、樹木という「全体

の美しさです。

 ”表現者”の美しさと、控え目な”黒子”の美しさ、つまり、目に見

える美しさと、目に見えない美しさ―。

 桜の花は、この「二つの美しさ」によって支えられています。

 どうか、下の「You   Tube」を、お楽しみ下さい。【つづく】

 (後記:誠に申し訳ありませんが、私事にて、明日より、来週の

      水曜日まで休筆いたします。)

桜の「You Tube」  

2012年3月26日 (月)

日本の美しさ(5)

 現代の日本は、”偽物”全盛の時代です。

偽物の政治家、偽物の学者、偽物のコメンテーター、それに、

偽物の政府、偽物の閣議、偽物の政策など、実に”偽物”流行(ば

や)りです。

 しかし、それらの、何と醜いことでしょうか!


 実際、醜いものは、限りなく醜くなれるものです。

では、何故、醜いかと言えば、それは、彼らに、真の「義」が無いか

です。

 それに、彼らの言うことと行いとが、常に背反しているからです。

さらには、自分の「本音」からではなく、むしろ、背後の誰かに言わ

されて、言ったり、したりしているからです。

 また、それは、単にカネや地位や保身のためだったりするからです。

 つまり、そこには、「自主性」も、真の「独立性」も有りません。

そんなものが、美しいはずがありません。


 すべては、
“本物”でなければ、美しくないのではないでしょうか。

政治も経済も、学問も芸術もスポーツも、本物でなければ、美しくな

と思うのです。

 本来、美しいはずの日本が、極めて醜く感じられるのは、このよう

”偽物”が幅を利かしているからだと思います。


 皆さんは、どう感じられますか?

つまり、すべては、本物であればこそ、美しいのだと思う

のです。

 全く話題を替えますが、相馬御風(18833~1950)の作詞で有名な

童謡「春よ来い」は、年配の方々なら、小さい頃、一度は歌われたと

思います。

 「春よ来い  早く来い

  あるきはじめた  みいちゃんが

  赤い鼻緒のじょじょはいて

  おんもへ出たいと  待っている」というものです。

 「じょじょ」とは、幼児語で、「草履」のことのようです。

 確か、「べべ」が、着物のことですね。

  その語源には、東北地方説や京言葉説があるようですが、

相馬御風自身、新潟県の糸魚川市出身ですので、彼が幼い頃、

耳にした越後地方の言葉だったようにも思います。

 それにしましても、実に愛らしい童謡です。

とりわけ、雪深い地方の人々が、春を待ち望む思いは、一入だと

感じます。


 確かに、こちら九州では、桜の便りが聞かれる今日この頃です

が、東北地方や北海道では、まだ、雪に覆われた毎日です。

 本当に、日本は、狭いようで広いと感じます。

 ところで、女性の名前には、様々なものがあります。その中でも、

私が、とても気の利いた名前だなと、心から感心した名前が有ります。

 それは、「春来(はるき)」というお名前です。

きっと、春の頃のお生まれかと思います。

 でも、私は、このお名前を付けられたご両親の愛、希望、信仰を

深く感じるのです。

 そのすべての思いが、このお名前に込められているような気が

してなりません。
 

 つまり、このお名前には、単なる”季節感”というより、むしろ、希

とか幸せを願う思いが含まれているように思います。

 換言しますなら「春」という言葉自体に、希望や幸福、それに新

などの意味が有るように思うのです。

 そのような春を、今年も無事に迎えられたことを、心から感謝した

いと思います。

 また、東北や北海道の方々に、一日も早く温かい春が来ればいい

な、と心から思うのです。

 本日の「日本の美しさ」の真意は、“本物であればこそ、

美しい”ということでした。

 よろしかったら、ユーミン(松任谷由美さん)の名曲「春よ来い」

を、どうか、お楽しみください。 【つづく】

 You  Tube 「春よ来い」

2012年3月24日 (土)

日本の美しさ(4)

  春が近づいています。

近くの公園の桜の木に、三輪の桜の花が咲いていました。

白い辛夷(こぶし)の花は、今が満開です。

  テレビでは、ワシントンのポトマック河畔での桜の木が今、満開だ

ということでした。

 ワシントン市民も、「とても綺麗!」と、とても喜んでいました。

 桜の美しさは、”万国共通”なのだと感じます。

 

 ところで、すべてには、表と裏、光と影があります。

「対象」を余りにも美化することは、避けなければなりません。

 また、美化すること自体、真実から離れてしまいます。

昨日の「日系二世」に就きましても、彼らを余りにも美化し過ぎるこ

とは、彼らの真実の姿から乖離することになりましょう。

 無論、彼らにも、口外できないような負い目や苦悩があったこと

でしょう。

 まさに、人生の光と影、喜びと苦悩、至福と絶望の間を、何度、

彼らは行き来したことでしょうか。

 

 しかし、ハワイに住む日系二世始め日系人に共通して言えます

ことは、その両極端を越えて、すべてをポジティブに考える、生来

“明るさ”があるということです。

 これは、”天国に最も近い所”と呼ばれるハワイの賜物だと言え

ます。

 また、この”明るさ”は、実は、原日本人にも共通したものかと思

うのです。

 

 ところで、ホノルルが「レインボー・シティ(虹の街)」と呼ばれてい

ることは、先述した通りです。

 ご存知のように、虹は、Photo 赤、橙(だいだい)、

緑、青、藍、紫の七色によって成り立っています。

 それと同様に、ハワイも、白人だけでなく、黄色

人種や黒人も住んでいます。

無論、原住のハワイアンは、言うまでもありませ

ん。

 また、黄色人種、いわゆる東洋人も、日本、中国、韓国だけでなく、

タイやベトナム、それにフィリピンなどの様々な民族が集っています。

 その「多様性」が、まさに「七色の虹」を連想させます。

それゆえ、多人種・他民族が仲良く混在・混住するところに、ハワイ

のハワイらしさがあるのです。

 

 そして、ハワイでは、豊かな人も、そうでない人も、それぞれの楽

しみを持って、人生を、限りなく謳歌しています。

 つまり、すべてのことに対して、”喜び”を持って応じよう!というの

が、ハワイに住む人々に共通した特徴と言えます。

 この”喜び”、あるいは、“人生を楽しむ”ことを共通項として、様々

な人々が、それぞれの「人生」を楽しんでいる、それが、ハワイの人

々の生活振りです。

 それは、同時に、ハーモニィ(調和)の美しさとも言えます。

でも、この調和の美しさは本来、日本の美しさでもあります。

 

 しかし、残念なことに、日本は今、ある種の「分断国家」に

なろうとしています。

 豊かな人々と、そうでない人々―、「ユダヤ・アメリカの邪悪な

本質」を知る人々と、そうでない人々―、日本の今後を、心から

憂うる人々と、それに全く関心を抱かない人々―、東日本大震

災の被害に遭われた方々と、そうでない人々―など、まさに、

様々な形での「二分化」や「分断化」が、進みつつあります。

 しかし、このような二分化や分断化の中には、”美しさ”は、

生じません。 

 

 その意味で、両者間の架け橋となり、相互の理解に努め、

真の調和を保つところに、日本の真の”美しさ”があるのでは

ないでしょうか。

 また、この調和を築く勇気の中にこそ、日本、ひいては、日本

人の美しさがあると思うのです。  【つづく】

 (後記:明日・日曜日は、休みます。)

 

2012年3月23日 (金)

日本の美しさ(3)

 私事ですが、1990年代に、ハワイに渡って、とても嬉しかった事、

それは、現地で、日系の一世の方にお会いできたことですすでに

もういらっしゃらないと思っていたからです。

 その中には、若き日に、賀川豊彦(社会改良家・1888~1960)に

教えを受けた方がいらっしゃいました。正直、そのお言葉に、私は、

“歴史”を感じました。

 

 実は、ホノルルでは、「木曜午餐会」という、日系の方々の集まり

があります。

 それは、毎週木曜日の午後に、一定の場所に集まり、講演者の

語らいに、耳を傾けるという会合です。

 1940年前後、渡布した賀川豊彦も、この「木曜午餐会」で講演した

ことがありました。

 同会合は、1993年当時でも、すでに70年以上の歴史を誇っていま

した。それも、あの戦時中でさえ、できる限り集まっていたそうです。

まさに、「継続は、力なり」です。

 私も、二度、講演をさせて頂きましたが、皆さんが、たいへん熱心に

耳を傾けてくださいました。

 

 私が居ました頃は、アイリーン金武(カネタケ)始め、日系二世の

方々が、会の中核でした。

 最近では、多分、日系三世、あるいは四世へと代替わりしている

と思います。

 しかし、私の正直な実感として、国内の日本人よりも、むしろ、ハワ

イや米国本土に住んでいる日系二世の方が、はるかに凛々しく、よ

ほど”日本人”だと感じました。

  

 日米開戦と同時に、多くの日系アメリカ人は、各地の強制収容所

での生活を強いられました。

 ロサンゼルスのリトル・トーキョーには、その収容所と同じ建物

有りますが、その中に入ると、すべてが木造で、不便な建物でした。

  太平洋戦争中、日系二世は、一世と異なり、アメリカと日本の、

一体どちらに忠誠を尽くすべきか、心底迷いました。

 結果、多くの二世たちが、アメリカへの忠誠を誓い、ドイツと日本

に対して、「米軍兵士」として戦ったのです。  

 

 中でも、フォー・フォー・ツー(442部隊)のヨーロッパ戦線での活躍

は、有名です。彼らは、「アメリカ史上最強の陸軍」と呼ばれました。

 彼らの合言葉は、”Go for Broke!(当たって、砕けろ!)”でした。

この精神は、或る意味、日本の武士道にも通じます。 

 つまり、無心に難局に挑む、日本人の生来の逞しさ、あるいは純粋

さや勇気が、アメリカ本隊(2万人)が半年かかっても出来なかった作

戦の遂行を、なんと32分でやり遂げたのです。 

 でも、それは、多くの尊い犠牲を伴ったものでした。

 私は、下のYou Tubeでの「彼ら(戦死者)が、道を築いてくれたんだ、

われわれが歩めるように」との言葉が、たいへん心に残っています。

 この戦時中の「日系二世」の献身と貢献が、ハワイや米国本土に

おける日系人の信用度を高め、その社会的地位を確固たるものに

しました。

 

 むしろ、白人社会では余り見られない誠実さや努力、それに他者

への献身や貢献、さらには無心・無欲さが、ハワイの日系社会の

エートス(=本質的な特性や精神)に有ります。

 それらが、彼らの言動や行動を、非常にレベルの高いものにして

います。

 そのような人間としての魅力、あるいは品性や品格、換言します

なら、勇気に裏打ちされた人格的な”美しさ”、ハワイや米本土の

日系社会には有るのです。

 (*尚、「442部隊」に関心の有る方は、どうか、下のYou Tubeを

ご高覧ください。)  【つづく】

2012年3月22日 (木)

日本の美しさ(2)

 「“美しい”と思う心が美しい」と言ったのは、相田みつを氏です。

確かに、日本には、人情の機微や人々の何気ない所作、さらには、

様々な風景の中に、実に”美しい”ものが見られます。

 しかし、昨今、それらを“美しい”と思う私たちの感性自体が、些か

鈍磨しているようです。

 

 何も、谷崎潤一郎や川端康成などを持ち出さなくても、私たちが

「美」を感受する感性そのものが、どうも、昔の人ほどではないように

見受けられます。

 残念なことに、今日の日常は、余りにも機能的、かつ機械的になり

過ぎ、非常に便利になった反面、かつて存在した「不便さ」の持つ

”かけがえのなさ”を忘失してしまい勝ちです。

 また、そこでは、何気ないものに「美」や「安らぎ」を感じるような、

心の”ゆとり”さえ失われ勝ちです。

 

 ところで、先日、ハワイには”四季が無い”などと、至極当たり前の

事に文句を付けたものですから、今回は、反対に、ハワイの良さ、

とりわけ、そこに住む人々の“人柄の良さ””心栄えの良さ”につい

て、語りたいと思います。

 つまり、今回は、「日本の美しさ」というよりも、むしろ「日本人の美

しさ」について記したいと思うのです。

 

 2005年に、藤原正彦氏が『国家の品格』(新潮新書)を公にして以

来、わが国は、まさに「品格ブーム」(?)になりました。

 例えば、『女性の品格』(坂東眞理子著)や『日本人の品格』から、

ドラマ『ハケンの品格』まで、まさに百花繚乱でした。

 

 今日、それほどまでに、日本人の「品格」が失われているという

現実があります。

 無論、人の品性や品格は、一朝一夕に出来るものではありません。

また、今の政治家や官僚、それに東電を始め大企業の幹部などに、

この品性や品格を求めても、それは、”木に登りて、魚を求める”よう

なものです。

 

 しかし、私は、ハワイで、貴い品性や品格を備えた人々に出会うこ

が出来ました。その多くが、日系の一世や二世の方々でした。

 現地で、彼らに邂逅できましたことは、私にとりまして、たいへんな

喜びであり、かつ、人生での大きな収穫でした。

 そして、強く感じましたこと、それは、戦後の日本人が失った、美し

”日本精神”をしっかりと継承している人々、それは、現地の「日

二世」だということでした。

 例えば、それらの美徳は、勤勉、実直、誠実、努力、精進、進取の

気性、チャレンジ精神、献身などです。

 これは、ハワイだけでなく、米本土のロサンゼルスなどでも同様で

した。

 

 彼らこそは、社会的自信と同時に、品性や品格を、十二分に備えた

人々でした。

 そして、それらは、先の大戦に従軍した体験によって裏打ちされた

ものでした。その体験で得られた最も大事な美徳は、「勇気」だったの

ではないでしょうか。

 「勇気」無きところに、真の美しさなど無いように思います。人の品性

や品格は、この美しさによって形作られるものです。 

 

 私は、1993年当時、優に80歳を超えた日系二世を握手した時のこ

とを、懐かしく思い出します。

 彼の手は、実に男らしく力強いものでした。到底、80歳を超えた人の

手とは思えないものだったのです。

 そこには、厳しい戦争を体験した人の持つ力強さや勇気、それに

とした気高さが漂っていました。

 まさに、「本物の日本人」、そこにいたのです。単に力強さだけでな

く、様々な体験によって磨かれた、その品格や人間的魅力は、今日の

日本人には、殆ど見られないものでした。 【つづく】

 

2012年3月19日 (月)

日本の美しさ(1)

 先日、実家の庭を歩いていますと、ふと、紫色のスミレの花が咲

いているのを見つけました。スミレは、実に愛らしい花です。

 周りは、梅の香りがし、色とりどりの水仙が、辺り一面に、咲き誇

っています。

 クリスマス・ローズも、今が見頃です。素人根性で、”この花は、ク

リスマスの頃、咲くのかな?”と思っていましたが、今、この季節に、

綺麗に咲き誇っています。

 一昨日、ビオラを、十個ほど植えました。Photo パン

ーと並んで、きっと春の庭を楽しいものにしてく

れるでしょう。

 

 植物は、冬に春の準備をし、春には、夏の準備をします。

 その規則正しさ、あるいは、逞しさは、私たちの目を奪うものがあ

ます。

 今日の「日本の美しさ」は、日本の“四季の美しさ”について、綴り

たいと思います。

 私たち日本人は、春・夏・秋・冬の四季が有るのが当たり前、とい

う思いがあります。果たして、そうでしょうか?

 花でも、春は、梅や桜、夏は、パンジーやヒマワリ、それに秋は、

菊や彼岸花、冬は、シクラメンやポインセチアなど、四季折々の

花々があります。

 また、春の桜や夏の暑い陽射し、それに秋の紅葉や冬の雪など、

季節の違いを通じて、その風情が異なります。

 そこに、日本独自の美しさも有りましょう。正直、私は、この四季の

変化(=違い)を、本当に美しいと感じます。

 

 と申しますのは、私は、”四季の感覚”喪失した体験があるから

です。

 かつて、二年と一ヶ月間、ハワイのホノルルで生活しました時、そ

こは、まさに熱帯の楽園でした。

 しかし、熱帯とはいえ、ハワイは、湿度が少なく、その分、空気が、

とてもカラリとしていて、実に生活し易い所でした。

 夜中に、雨(スコール)が降り、それが朝のうちに上がり、時折、レ

インボー(虹)が架かります。それゆえ、ホノルルは、レインボー・シ

ティ(虹の街)と呼ばれています。

 ホノルル空港に、初めて降り立ちました時、そこは、プルメリアや

ジンジャーなど、日本では、余り見られない、芳(かぐわ)しい植物の

香りに満たされていました。

 無論、ハワイでも、夏と冬では、空の様相や雨量、さらには、山肌

の色や夕焼けの色さえ、微妙に変化します。

 とはいえ、日本のような、明らかな四季の変化は無論、望めません

でした。

 ほぼ二年間のハワイ生活の中で、日に日に、日本の四季の変化

恋しく感じる思いを止めることは出来ませんでした。

 無論、ハワイ島のマウナケア山などまで行きますと、雪を見るこ

が出来ますし、スキーやスノーボードさえも出来ますが、それでも、

日本の雪の風情とは、明らかに違うのです。 

 

 ホノルルで、ほぼ二年間生活して、私は、心のどこかで、日本の

四季の変化に渇望していました。

 ”渇望”という言葉は、少し大袈裟に聞こえるかも知れません。

 しかし、”無い物ねだり”とは分かりながらも、やはり、春に桜が咲き、

夏は太陽が照りつけ、秋は、木々が紅葉(あるいは、黄葉)し、冬には、

雪が降る、という当たり前のことが、たいへん尊い事に思えたのです。

 

 日本の美しさ、それは、先ず”四季の変化(=違い)の美しさ”と言え

ましょう。  【つづく】

 (後記: 明日より二日間、お休みいたします。)

 

 

2012年3月17日 (土)

(緊急!)USSエンタープライズの偽旗作戦

 突然ですが、「原子力空母エンタープライズ」をご存知の方も、

多いかと思います。

 私は、1968年、同空母が、長崎の佐世保港に入港した時のこと

を思い出します。

 その直前、「入港反対」を叫ぶ全学連と、それを阻止する機動隊

が全面衝突し、両方に、多くの負傷者が出ました。 

 世に言う「佐世保エンタープライズ寄港阻止闘争」です。

 当時、私は、高校三年生でしたが、当時のマスコミや市民団体が、

「エンプラ」「エンプラ」と語っていたことを思い出します。

 同空母は、来年、退役の予定です。

  

 最近、目にした「You Tube 」で、この「エンプラ」(?)が、悲劇的

な末路をたどるのではないか、という作品が公開されました。

 それは、「USSエンタープライズ偽旗作戦」というものです。

それを、文章化してみました。どうか、よろしくご高覧ください。

 

 アメリカとイスラエルは、原油輸出制裁で、イランに対してホルム

ズ海峡での衝突を強制することに失敗したため、イランとの「戦争開

始」のために別の手段を求めている。

 それだけでなく、彼ら(アメリカとイスラエル)は、イランが紛争の

き金となる方法を求める。ロシアと中国のイラン支持を困難にするた

めだ。

 イスラエルが過去にアメリカの軍艦を攻撃したことを思い出そう。

アメリカに、イスラエルの敵を攻撃させるためだ。

 有名な例は、イスラエルによる「リバティ号攻撃」エジプトのせい

にしたことだ。

 *「リバティ号事件」・・・アメリカの情報収集艦が、イスラエル軍

に攻撃された事件。乗員、34名が死亡。173名が負傷した。

                               Wikipedia 参照)

 

 アメリカには、USSエンタープライズが存在する。最も古い航空母

(=空母)で、来年退役の予定だ。

 その名は、「スタートレック」で有名になった。だが、原子力空母を退

役させるには、多くの費用がかかる。

 USSエンタープライズは、8つの原子炉を搭載する。それゆえ、

核廃棄物や機械類を除去しなくてはならない。

 USSエンタープライズがペルシャ湾に沈めば、アメリカ海軍は、多額

の節約ができるだろう。放射能の問題は、そこでは他国の問題となる。

 だが、なぜ、古い軍艦を、危険な地帯に送るのか? 

 フランクリン・ルーズベルトが、時代遅れの軍艦を、サンディエゴから

パールハーバーに移動させたのと同じ理由だ。

 彼は、新しい空母を、1941年12月7日に、ハワイから遠い場所に移した。

イスラエルは、ドイツから譲られたドルフィン潜水艦を、3隻保有して

いる。それらが、過去にスエズ運河を通過した際、目撃されている。

 これらは、オマーン海峡で、活動することが可能だ。ペルシャ湾で今、

活動することも可能だ。

 勿論、古い、時代遅れの軍艦を待ち伏せることも可能だ。

 軍艦は、兵器としてよりも、犠牲の子羊として役立つはずだ。

 イスラエルが攻撃したリバティ号と同様、攻撃されるための舟と

水夫―。

 その後、愛想のよいメディアを用いて、標的―イラン―を犯人

するためでもある。

 

 あなたが、この分析に同意するならば、どうか、この動画を、この

空母に関する記事のある全てのサイトに送ってほしい。

 彼らに、「偽旗作戦」の成功を疑わせることができる。

彼らは、計画を中止するかも知れない。  【了】

 

 この「You  Tube」を貼り付けます。どうか、ご高覧ください。

(*尚、明日・日曜日は、休みます。)

USSエンタープライズの偽旗作戦の「You Tube」

2012年3月16日 (金)

谷口巳三郎氏のこと(完)

 昨日、提示しました「谷口プロジェクト」の二、三の内容につきま

して、沖村氏は、次のように解説しています。

 例えば、3の「パヤオ農高生の受け入れ」については、次の通り

です。

 「一九九九年からパヤオ農業高校の一年生二十名を全寮制で受

け入れている。

 しかし、タイ文部省からの財政的協力はない。それにもかからず、

ここでの谷口の教育法は、タイ国内の注目を集めつつある。

 広場での朝礼には、農場にいる者全員が集まる。国家斉唱の後、

「三つの誓い」を溌剌と大きな声で唱和する。

 一、私は、家族の希望の星

 二、私は、国の宝

 三、私は、人類の食糧を生産する戦士

 谷口巳三郎のボランティア哲学が凝縮された「誓い」である」と。

 

 実際、教育に関わってみて実感するのですが、高校一年生の青年

男女は、まるで”砂地に水か染み透る”ような時期だと思います。

その彼らに、心からの自信と希望を与えることは、たいへん重要です。

 その点、自らを「希望の星」「国の宝」「食糧を生産を戦士」と高く自

評価できる彼らは、今後、タイ国を支え、指導する大きな力となりま

ょう。まさに、「農こそ、国の根本」だと思うのです。 

 また、沖本氏は、4の「エイズ患者・家族支援」について、こう記します。

 「彼(=谷口氏)は、北部タイの貧しい村や山の中のエイズ患者を、

われ関せずと見捨てることが出来ない。

 臨終を迎えようとしているエイズ患者たちは、枕元に座ってくれている

谷口に合掌し、明るい顔で仏のみ元へ旅立って行く。

 孤独なエイズ患者の心の杖になろう―これは、谷口の菩薩心なので

ある。

 谷口は、毎週木曜日の朝、農場で作っている有機野菜や果物、

卵等をトラックに積んで、国立チュン病院に行く。検診のためにや

ってくる多数のエイズ患者に、それらを無料で配るためである」と。

  

 この谷口氏の姿に、私たちは、マザー・テレサの献身と愛を思い

出します。まさに、ここでの「菩薩心」は、キリスト教でいう「愛(カリ

タス)」通じ合うものがあります。この無心・無欲な献身的な行為は、

宗教の違いを超えるものです。

 先日、私が、日本人の使命を、「菩薩道の実践」と書き、谷口氏の

行為を、その「菩薩道の実践の一つ」だと規定しました時はまだ、こ

「菩薩心」という言葉は、正直、読んでいませんでした。

 谷口氏の行為に対する思いは、私も、沖村氏と全く同じだと感じます。

その沖村氏の著述の最初の所は、1998年(平成10年)の「名誉農学

博士号」の授与式での模様でした。

  

 それについて、沖村氏は、次のように記していました。

  「博士号授与式当日の夜、チェンマイ市内のホテル『ホリデー・

イン』で、盛大な祝賀会が開かれた。その席でも、谷口の体調は、

どん底であった。

 しかし、声にも、姿勢にも、その兆候は微塵も見られなかった。

祝辞、花束贈呈と進み、谷口が謝辞を述べることになった。

 「十五年前に、私は一人で二十キロのカバン一つを持って、バン

コクの空港に降り立ちました。暑い時でした。

 タイには、農村開発と青少年の問題で沢山の課題があります。

一人で考えて、いろんなことを試みました。しかし、これという

成果は上がりませんでした。何も出来ない内に、日本から持参した

退職金は全部使い果たしました。」

 谷口は、淡々と十五年間の苦労を語った。聴衆は、じっと谷口を

凝視する。

 

 「二週間前のことです。昼寝をしていたら、グリーンスネークが、

私の目の目にドタッと落ちてきました。昨年は、コプラが落ちてきま

した。

 人は、『それなら、日本に帰りたいでしょう』と、よく言います。私は、

『ノー』と答えます。病気になった時には、心細くなることもありますが、

私の答えは、『ノー』です。

 私は、七十五歳になりました。日本に帰ろうと思うこともあります。

しかし、今日、タイの国立大学から名誉博士号を戴きましたので、

これでいよいよ帰れなくなりました。」

 谷口のトーンが高くなった

 「地球上の人口は、依然として爆発的に増加しています。食糧を作

るのは誰ですか。それは、東南アジアの農民です。タイの青年諸君

です。今後も、命が続く限り、タイの人たちと手をつないで、タイのた

め、人類のために頑張ります。 

 

 この思いを胸に、谷口氏は、瞑目するまでの歳月を、タイ国の貧し

い人々や病者(特に、エイズ患者)や有為の若者たちのために、全身

全霊を注ぎました。

 この姿は、われわれのお手本(=模範)ともいえましょう。

同氏が、強調したことは「何でも、やってみないと分からない」という

ことでした。

 つまり、飽くなきチャレンジ精神こそ、谷口氏の真面目でした。

また、谷口氏は、タイの若者たちに向かって、常に、こう問い掛けていた

そうです。それは、「君の瞳は、輝いていますか?」というものです。

 さて、年齢的な差こそあれ、今、私たちの瞳は、輝いているでしょうか?

  【了】

 

2012年3月15日 (木)

谷口巳三郎氏のこと(6)

 この世には、様々な「夫婦像」が有ります。

例えば、「同志」として、共に戦うのも夫婦なら、活動する場所こそ

違え、相手を支え合うのも夫婦です。

 

 谷口夫妻は、後者の道を選ばれました。

恭子夫人は、京都の同志社女子大学を卒業後、八代白百合学園の

教諭として奉職し、以後、教育者の道を歩みました。

 そして、タイに渡った巳三郎氏を、物心両面から支援しました。

 沖村氏の言によれば、タイ行きを決意した夫に対して、恭子夫人

は、こう述べました。

 「私は残りたい。日本は経済面では世界の上位だが、暖かい心を

忘れている人が多い。私は、物心両面で上位になれるよう日本で

人作りをしたい

 お互いの考えや立場を尊重し合うところに、谷口夫妻の真面目(し

んめんぼく)が有りました。

 

 日本では、恭子夫人だけでなく、兄弟姉妹や従兄弟(いとこ)、さら

は、友人・知人や教え子たちまでが、巳三郎氏を支援したのです。

 谷口夫妻の日頃の献身や人柄なしには、このような支援は有り得な

かったでしょう。

   実は、或る支援者の方(女性)が、菊池にある谷口家を訪ねたところ、

その建物は、余りにも質素というか、粗末な家屋でした。家が幾分、

ていたとさえ言うのです。

 そのことに、たいへんびっくりなさった様子が、その方のブログに掲載

されていました。

 つまり、恭子夫人は、自ら、何ら飾り立てることなく、そのすべての資産

や資金を、巳三郎氏の大事業の支援に注ぎ込んだのです。

  

 そして、お二人の友人や知人、それに教え子たちが中心となって、「タ

の谷口巳三郎氏を支援する会」(後に「北部タイ農村復興支援会」と

称)を結成しました。

同会の責任者(=会長)である沖村好運氏は、次のように記しています。

 「現在、恭子は『タイと交流する会』を作り、谷口農場の支援だけでなく、

売春・エイズ防止、育英のための里親募集、高地族女性自立支援の

シン・プロジェクト、果樹の森造りなど、『高地族とエイズ患者に光を!』

と幅広い支援活動を続けている」と。

 

 日本で「自立支援」などと言いますと、言葉ばかりの”羊頭狗肉”の

あります。しかし、恭子夫人の「自立支援」活動は、実に切実なもの

です。

 また、一時期、「エイズ問題」は、日本では、大きな社会問題となりま

したが、今日、すでに過去の医療問題といった感じです。

 しかし、タイ(特に北部タイ)などでは、決して、克服された過去の問

ではありません。むしろ、今日でも、かなり深刻な社会問題なのです。

この重要課題に、谷口夫妻は、真正面から取り組みました。

 そのご夫妻を、日本全国の心有る方々が支援したのです。

  

 一方、北部タイに赴いた谷口氏は、「谷口プロジェクト」を展開しました。

これについて、沖村氏は、次のように記しています。

「谷口は、現在(=存命中)、北部のパヤオ県チュン郡サクロウ村に、

約二十ヘクタールの農場を開き、「二十一世紀農業&職業訓練セン

ター」という看板を掲げて、多様なプロジェクトを精力的に推進している。

その主なものを挙げてみよう。

 1.農業技術指導(水稲・野菜・果樹栽培、堆肥作り、豚・鶏飼育、

   淡水魚飼育

 2.高地少数民族の自立支援(換金作物の指導、植樹奨励、水道と

   トイレの建設)

 3.パヤオ農高生の受け入れ(毎年一年生を20名)

 4.エイズ患者・家族の支援(ナマズ養殖、自立のための職業訓練、

   生活援助、遺児奨学金)

 5.売春婦転落防止のための職業訓練(草木染め・縫製技術講習)

 6.地球環境破壊防止の植林(高地少数民族の村、国道沿線、農場

   内)

 7.老人福祉活動の支援(老人憩いの家)

 8.有能な児童の教育支援(奨学金制度の設置)

 9.各国研修生の受け入れ(日本の大学生・高校生・中学生・一般人

   だけでなく、アセアン諸国の研修生も)

 10.タイ青年農業研修生の日本派遣(有能な高校生、大学生、農民等

   を選抜して日本へ派遣

 

 まさに総合的、かつ壮大な一大プロジェクトです。本来なら、国家が

支援すべき大事業です。

 しかし、谷口夫妻の信念は、”親方日の丸はいやだ”というものでした。

その分、全国各地の支援者の理解や賛同、それに援助が、この一大

事業を動かす原動力となりました。

 谷口夫妻は、その中心、あるいは”象徴”となり、終生、献身・尽力し

たのです。

 この谷口夫妻の活動こそは、多くの日本国民が、もっと知るべきもの

ではないでしょうか。 【つづく】 

 

2012年3月13日 (火)

谷口巳三郎氏のこと(5)

 谷口氏が「タイへ渡る」決断をする過程について、沖村氏は、次

のように記しています。  

 「谷口巳三郎の胸の裡(うら)にはかなり前から、退職後の人生

設計があった。彼は在職中、四回、東南アジア諸国へ農業事情の

調査研究に出かけている。全て自費の旅であった。

 

 『南北間の格差を是正しなければ真の人類の幸福はない。麻薬、

環境破壊にもブレーキが掛からず、人口が爆発的に増加している。

このままでは地球が危ない―』

 世界的視野を持った谷口には日本の危うさも心配でならなかった。

『(日本は、)経済摩擦の激化で四面楚歌に追い込まれるだろう。

二十一世紀の食料不足は目に見えている。その時、どこの国が、

日本を助けてくれるか。手遅れにならないうちに何とかしないと―

これまで営々として貯えてきた自分のノウハウを、日本と人類の

ために役立てることは出来ないか』

 

 谷口は在職中、JICAが招聘した東南アジアの農業研修生の指導

を担当した。東南アジアの研修生の中には、親身に指導してくれる

谷口の人格に感激して、『私の国に来て指導して下さい』と要請する

者が多かった。中でもバングラディシュの研修生が、一番熱心であった。

 しかし、バングラディシュは日本との格差があまりに大きい。

彼は思索の末に、『先ず、タイへ行こう』と決断する」と。

  

 21世紀の日本の食料問題を、谷口氏ほど真剣に憂えた人物が、かつて

日本にいたでしょうか?

 農業を通しての生産活動に、日頃から真剣に取り組んでいた同氏

なればこその“発想”だったと思います。

 また、「バングラディシュかタイか」、谷口氏は、相当、悩んだと思う

のです。

 しかし、彼が結局、タイを選んだ理由は、様々な要因を総合化した

結果でしょう。

 山田長政以来のシャム(タイ)との交流、小乗と大乗の差こそあれ、

”仏教”という同じ精神風土、さらには、ある種の親しみ易さや民族的

「親和力」など、色々な点で、タイの方が、より親しく感じられたのかも

知れません。

 

 しかし、同時に、沖村氏の『先ず、タイへ行こう』という表現にも注目

したいのです。

 つまり、谷口氏は、あくまでタイ一国に留まらず、出来れば同国

起点として、東南アジア全域や南アジアにまで、足を延ばすつもり

だったとも考えられます。

 それゆえ、沖村氏は、敢えて『まず、タイへ行こう』と表現したよう

に思います。沖村氏は、続けます 

  

 「谷口が最初に手がけた仕事は、高地に住む少数民族の自立

支援であった。ケシに代わる換金作物として、コーヒー、茶、大豆、

椎茸、里芋、しょうが等の栽培を勧め、指導して廻った。

 トラックに寝具、食糧、食器などを積んで、山から山へ、何日も

て巡回指導した。トイレの改造、水道施設の建設にも力を注いだ。

 谷口が最も心血を注いだのは、循環式有機農法と研修農場の建

設、そして青年の育成であった。

 

 有能な若者を見つけてリーダーに育てることは、谷口の夢であった。

彼は、ヴィッチャイ(現在、高地民族学校長)、ダイエ(ラフ族生徒寮

の責任者)、ヨハン(若竹寮の責任者)、スリヤ(モン族の青年リー

ダー)をスカウトし、自分の農場に住み込ませ、食べさせ、高校や

大学で勉強させた。

 谷口の非凡な鋭い眼力もさることながら、彼らは谷口の期待に

応えて、素晴らしいリーダーに育った。

 現在、彼らは、独自のビジョンと人脈を構築して、後輩の育成に

頑張っている」と。 

 

 「循環式有機農法」こそ、地球に優しく、これからの地球にとって、

実に大切な農法でしょう。

 日頃、土に親しみ、花や野菜を育てて感じるのですが”すべて

は、循環”です。

 「パンタレイ(万物は、流転する)」と、ターレスは申しましたが、

「万物は、循環する」こそ、真理ではないでしょうか。

 また、日本人は本来、この”循環”を上手く利用して、農業生産を

豊かものにしてきました。

 さらに、谷口氏の「循環式有機農法」には、”この世には、無駄な物

や不用な物は、何一つ無い”という発想が有るのではないでしょうか。

  

  加えて、彼の「研修農場の建設」に、私は、ガンディーのアシュラム

(修道場)の建設を重ね合わせます。

 まさに、そここそは、最も大切な”青年を育成する”場なのです。

 また、この青年の育成こそが、谷口氏の生涯一貫した”菩薩道の

実践”だったよう思うのです。 【つづく】

 (後記: 明日・水曜日は休みます。)

  

  

 

 

2012年3月12日 (月)

谷口巳三郎氏のこと(4)

 昨日の3月11日は、東日本大震災から、ちょうど1年でした。実は、

宮城県内に住む家内の親戚も家屋が流され、今も、仮設住宅に住

んでいます。自分たちに出来る限りの支援をせずにはいられません。

 昨年の大震災で亡くなられた方々、また被災された多くの方々に、

心よりお悔やみ、並びにお見舞いを申し上げます。

 

 ところで、拙稿は、谷口巳三郎氏の行動と業績について書いています。

ただ、一昨日、話題にしました内村鑑三の『デンマルク国の話』の中に、

内村の金言とも言うべき言葉がありましたので、本日の冒頭に書かせ

て戴きます。 内村はこう書いています

 「今、ここにお話しいたしましたデンマークの話は、私どもに何を

教えますか。

 第一に、戦敗かならずしも不幸にあらざることを教えます。

国は戦争に負けても亡びません。実に、戦争に勝って亡びた国は、

歴史上けっして少なくないのであります。

 国の興亡は、戦争の勝敗によりません、その民の平素の修養に

よります。

 善き宗教、善き道徳、善き精神ありて、国は戦争に負けても衰え

ません。否(いな)、その正反対が事実であります。

 牢固たる精神ありて、戦敗はかえって善き刺激となりて不幸の民

を興します。デンマークは、実にその善き実例であります。

 第二は、天然の無限的生産力を示します。富は大陸にもあります。

島嶼(とうしょ)にもあります。沃野にもあります。砂漠にもあります。

大陸の主(ぬし)かならずしも富者ではありません。小島の所有者

かならずしも貧者ではありません。善くこれを開発すれば、小島も

能(よ)く大陸に勝さるの産を産するのであります。

 ゆえに国の小なるは、けっして歎くには足りません。これに対して、

国の大なるは、けっして誇るに足りません。

 富は有利化されたるエネルギー(力)であります。しかして、エネ

ルギーは、太陽の光線にもあります。海の波濤(なみ)にもあります。

吹く風にもあります。噴火する火山にもあります。

 もし、これを利用するを得ますれば、これらはみなことごとく富源で

あります。

 必ずしも、英国のごとく世界の陸面六分の一の持ち主となるの

必要はありません。

 デンマークで足ります。然り、それよりも小なる国で足ります。

外に拡がらんとするよりは、内を開発すべきであります。

 第三に信仰の実力を示します。国の実力は軍隊ではありません。

軍艦ではありません。はたまた金ではありません。銀ではありません。

 信仰であります。

 そのことに関しましては、マハン大佐(*アメリカの海軍将校、海軍

史家。「大海軍主義」を唱えた。)も、いまだ真理を語りません。

 アダム・スミス、J・S・ミルも、いまだ真理を語りません。このことに

関して真理を語ったものは、やはり旧い『聖書』であります」と。

 

 宗教、道徳、精神の大切さ、国家の内部開発の重要性、さらには、

万物に宿るエネルギー源など、今、聴いても、実に的を射た名論です。

 これが、1897年(明治30年)での講演で語られた内容とは思えない

”新しさ”があります。正直、内村の”天才”を示す名演説とも言えます。

 

 谷口氏自身、内村や、彼の著作の中に描かれた「ダルガス親子」の

思想や行動に多大の影響を受けたことでしょう。

 その意味で、このデンマークでの2年間は、谷口氏の生涯を大きく作

用する、実に貴重な歳月だったと思うのです。

 その様々な試行錯誤や思想遍歴から得られた結論が、「タイへ渡る」

ことでした。

 これに就きましては、また明日。―    【つづく】

 

 

 

 

 

2012年3月10日 (土)

谷口巳三郎氏のこと(3)

 谷口氏は生来、誠実、勤勉な人物だったと思います。

ある意味で、同氏は、日本人の「原型」、あるいは、「理想型」や

「理念型」とさえ言えるのではないでしょうか。

 谷口氏の美徳は、誠実・実直・勤勉・正義感・不屈の闘志や信念、

それに信仰心など、色々なものが有りましょう。

  

 そのような美徳の真価は、様々な苦難や困難の中で試され、かつ

磨かれます。

 事実、鹿農(現在の鹿児島大学農学部)を卒業した後の谷口氏の

人生は、決して生易しいものではありませんでした。

 その点について、沖村氏は、次のように記しています。

 

 「鹿農卒業後、谷口は、長野県の八ヶ岳にある(財)農業実践大学校で、 

本格的な百姓になる勉強をする。

 夏期休暇には、東北各県の農民道場(現在の農業大学校)を歴訪

した。谷口らしい研修である。

 その中で彼は、『農業の指導者は自ら鍬と鎌を握り、それで飯をえて

始めて大口がたたけるものだ』と自得した。

 この信念は、以後、谷口の農民指導・農村開発のバッボーンとなる。

 八ヶ岳の農業実践大学校を卒業した谷口は、熊本県の農業改良

及員となり、農村青年教育と4Hクラブの指導に情熱を傾けた。

 *4Hクラブとは、よりよい農村、農業を創るために活動している組織

のこと。

 4Hとは、Head(頭)、Heart(心)、Hand(手)、Health(健康)の

4つの頭文字で、四つ葉のクローバーをシンボルとする。

                           (Wikipedia 参照)〕

 

 しかし、公務員生活を五年ほどで辞め、熊本県菊池郡泗水(しすい)

花房飛行場跡の開拓地に入植、農民としての第一歩を踏み出す。

昭和二十九年、三十一歳の時である。

 強酸性の火山灰の痩せ地での農業は難しく、ここでドン底生活を体

験する。

 その頃の日本農業は、苦境のドン底でもがいていた。農村を立て直

す方策が、国にも、農民にも、見えなかった時期である」と。

 

 

 確かに、昭和30年頃、日本国内では、「もはや、戦後ではない」という

言葉が流行りました。

 ごく大まかに言えば、戦後復興の過程で、「都市化」や「工業化」が急

激に進み、それに伴って、農村から大都会への人口移動が激しく進行

した時期でした。

 換言しますと、農・林・水産業などの第一次産業が、ある意味、”放置

された”時期だったのではないでしょうか。

 

 実際、1964年の東京オリンピックや東海道新幹線、それに主要な高

速道路の建設を前にして、地方の若者たちが”金の卵”と持て囃され、

大都会へ大都会へと吸い込まれて行った時代でした。

 そんな時代背景の下、地方の農村や農地が、どこか、”見捨てられた”

ような社会的イメージがありました。

 そんな中で、谷口氏に、ある転進が待っていました。それは、”デンマ

ークへの留学”です。

 沖村氏は、続けます。 

 

 谷口の頭に閃くものがあった。少年時代から大の読書家だった彼は、

鹿農時代に内村鑑三本を熟読していて、北欧の小国デンマークが

世界農業の模範になっていることを知っていた。

 「よし、デンマークへ行こう!」―

昭和三十三年、国際農友会の派遣研修生としてデンマークへ渡る。

三十五歳の時である。

 彼は、夏は農場で働き、冬は全寮制の国民高等学校で精力的に研修

した。余暇を見つけては、ノルウェー等の北欧諸国をも見て回った。

 二年のデンマーク留学を終えて帰国し、菊池伝習農場に復帰する。

その後、昭和五十七年、定年で退職するまで、ここで若い農業後継

育成に専念した」と。

  

 谷口氏が鹿農時代に読んだ内村鑑三の著書『デンマルク国の話』副題

は、「信仰と樹木とをもって国を救いし話」です。

 同著では、単に農業や植林の重要性だけでなく、むしろその基礎と

なる国民の「信仰」の大切さが説かれています。

 また、本著は、「講演」の形で説かれたものを、印刷物にしたものです。

 

 本著の内容についての説明を、少しさせて下さい。

 1864年、日本が、まだ明治維新を迎える前、デンマークは、プロシア

(今日のドイツ)とオーストリアの連合軍と戦いましたが、善戦空しく、

敗北しました。

 その代償は、南部最良の州シュレスウィヒとホルスタインの割譲で

した。

 多くのデンマーク国民は憔悴し、明日への希望を失いました。若者

たちも、勢い自暴自棄になりました。

 しかし、当時、36歳だった工兵士官ダルガスだけは違っていました。

彼は、デンマークの半分以上を占める不毛の大地ユトランドに植林

することを思い立ちました。

 最初は、なかなか方途が見つかりませんでしたが、彼は、ノルウ

ェー産の樅(もみ)とアルプス産の小樅を、並び植えることで、ある

種の希望を見出しました。

 しかし、それだけでは、樅は、充分に育ちませんでした。

それで、ダルガスは、成長した息子の知恵も借り、小樅が育ち切っ

段階で、敢えてそれを切り倒し、ノルウェー産の樅だけの成長

促しました。

 すると、それらが林を形成し、その地域の気候を、今までより、はる

かに温和にしました。それに伴い、様々な野菜や穀類の生産を促し、

さらには畜産まで発展する結果となりました。

 つまり、ダルガス親子、また彼らを信頼したデンマーク国民は、国

の荒地を改造することで、まさに失地を回復したのです。

  

 この史実は、アメリカに負けた日本の国力回復にとって、たいへん

参考になるものでもあります。

 とりわけ、内村の言葉「戦いに敗れて精神に敗れない民が真に偉大な民で

あります」は、まさに、その後の日本の敗戦を予知・予言し、かつ力づけて

いたような響きさえ感じます。

 谷口氏自身、この内村の精神を体得し、かつ著書から、様々な事を

学んだことでしょう。 【つづく】

 (後記: 明日・日曜日は休みます。)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

2012年3月 9日 (金)

谷口巳三郎氏のこと(2)

 何事も、“積み重ね”です。

 一足(そく)飛びに、何かが急に成就するということは、なかなか

無いと思います。

 まさに、「ローマは、一日にして成らず(Rome  was  not  built  in

a day)です。

 

 また、人間に関して言えば、「三つ子の魂、百まで」で、人は、どの

ような幼少期や少年(あるいは、少女)期を過ごしたかで、人間の、

かなりの部分の「人格形成」が規定されるものです。

 

 谷口氏の少・青年期を概観して感じます事は、彼の定年後の生涯

が、決して突飛・唐突なものではなかったということです。

 つまり、「自然と言えば自然、当たり前と言えば当たり前」な成り行

きだったと思うのです。

 

 では、谷口氏は、一体、どのような少年期を過ごしたのでしょうか?

同氏の最大の理解者とも思える沖村好運氏(北部タイ農村振興支援

会会長)は、次のように表現しています。

 「谷口は小学五年の時に肋膜炎を患い、一年遅れて旧制八代中に入学した。

 山村の坂本村(旧上松球麻村)から通学するには大変な根性が必

要であった。朝は六時に起床し、二キロほど歩いて肥薩線の汽車に

乗った。

 その行き帰りの汽車の中で、谷口は空席があっても決して座らなか

った。それのみか、車内にピーナツの食べ殻や紙屑が散乱している

と、それを拾い集めて始末した。

 

中学の四、五年生になると、軍事教練が正課になった。脚にゲート

ルを巻き、背嚢を背負って鉄砲を担ぎ、炎天下を二十キロもI 、三十

キロも歩くのである。

 そんな時も、谷口は水を飲まなかった。そして

欲しがる級友がいると、惜し気もなく自分の水を

飲ませた。

 そんな禁欲的で意志の強い谷口を、級友

”八代中のガンジー”と評した。

 

 谷口の生家のすぐ横には、小さな薬師堂がある。彼の家は、代々、

その堂守りをしていた。谷口家の主婦は、朝早く起きて飯を炊いたら、

”お初穂”を、先ず、薬師様に供えた。

 観音堂には、よく泊まり客があった。巡礼の修行僧もいたが、乞食

もよく、そこに寝た。今日の言葉で言えば”ホームレス”である。

 谷口少年は、そんな人を見たら、「ここは冷え込むから、僕の家に

来て寝なさい」と声をかけて、家に連れてきた。握り飯を持って行く

こともあった」と。(沖村好運著「二十一世紀の”肥後モッコス”谷口

巳三郎の人と業績」より)

 

 沖村氏は、この文章の後、「こんな谷口のパーソナリティは、いった

どのようにして形成されたのだろうか?」と疑問を呈しておられる。

 沖村氏に限らず、誰でも、不思議に感じられることだろう。

 実は、マハトマ・ガンディー(1869~1948)自身、第一次世界大戦

中に、自ら看護隊を組織して、前線の激しい砲火の中で、獅子奮迅

の活躍をした。 

 だが、普段の彼は、実に飄々とした風情であったことが、多くの英

国軍兵士たちの驚きの的だった。

 若き谷口氏も、壮年期のガンディー同様、何か、世俗を超越した

雰囲気があったようだ。

 

 それは、自己鍛錬、求道心、それに普段の信仰心などの影響が

考えられよう。

 谷口氏の定年直後の、つまり初老期の偉大な決断は、このような

彼独自の超俗的な信仰心の賜物のような気がする。

 また、この信仰心、あるいは深い精神性は、彼の生涯を通じて一貫

していたように感じる。

 また、彼の正義感も、神・仏以外、「何も怖れるものはないという

確信に基づいていたように思う。

 これまた、ガンディーの怖れ無き心(Fearlessness)と共通している。

 これについて、沖村氏の話は、続く。

 「谷口は旧制八代中学校から神宮皇学館に進んだが、『ここは俺の性に

合わない』と一学期で自主退学してしまった。時代の流れに無批判に乗

った当時の学風を嫌ったのである。

 翌年の昭和十八年、鹿児島高等農林学校(現在の鹿児島大学

農学部、以下鹿農)に入学したが、間もなく学徒動員で予備士官

学校に入る。

  

 ここで、谷口は事件を起こす。彼は、大胆にも日誌の中で、予備

士官学校の教育を批判したのである。それが、教官に見つかったのだ。

 営倉入りかと覚悟した時、彼に一目置いていた担任将校が口添

えしてくれたので、謹慎五日の処分で済んだ。

 ここにも大勢に身を委ねない”肥後モッコス”の血がうかがえる。

 その後、南方戦線から復員し、鹿農に復学、昭和二十三年、卒

」と。 

  

 ここにも、大勢に阿(おもね)ず、かつ何者も怖れず、正しい

思うことを貫き通す、若き日の谷口氏の姿がある。

 実際、あの戦時下に、予備士官候補生の身で、上位の軍人、

あるいは軍関係者に”楯突く”ということは、並大抵の事ではなか

ったと思う。

 だが、同時に、このような不屈の意志力なしには、如何なる大業の

実現も不可能だと思うのだ。

 「内村鑑三」と同氏との関係については、またの機会に。【つづく】

2012年3月 8日 (木)

谷口巳三郎氏のこと(1)

 ここに、一人の日本人がいます。

彼は、谷口巳三郎(みさぶろう)〔1923~2011〕といい、すでに故人

です。谷口氏は、熊本県坂本村(現八代市)の出身です。

 人は、定年退職すると、それまでの仕事から解放され、「第二の

人生」を、趣味や旅行など、それまで出来なかった事を、思い切り

やってみたいと望むものです。

 しかし、谷口氏は違っていました。熊本県立農業大学校の教官

を退職した彼は、単身、タイに渡り、自らの終焉の日を迎えるまで、

30年近く、タイの農業発展のために、全力を尽くしたのです。

 

 

  熊本県教育委員会が発行する同氏の「業績概要」には、次のよう

に記されています(*発行当時、同氏は、存命)。

 「平成二年(1990年)から、(彼は)タイ北部のパヤオ県サクロウ村に、

約二十ヘクタールの『二十一世紀農場』を開き、多様なプロジェクトを

精力的に推進している。 

 

 農業技術指導のみならず、現地の農業高校生の受け入れ、エイズ

患者・家族支援、地球環境破壊防止の植林など、様々な活動に

取り組んでいる。

  

 このような谷口氏の活動は、現地においても高く評価されており、

平成十年(1998年)には、タイの国立メジョー大学から、名誉農学

博士号を授与された。

 また、タイから日本へ研修生を派遣したり、日本から多数の研修

生を受け入れるなど、アジアと日本の国際交流を担う人材育成に

多大な貢献をしている」と。

 

  まさに、谷口氏は、「日本とタイ」、あるいは「日本とアジア」との架け橋

の役割を果たしました。彼の教え子や、活動の支援者たちが今日、

彼の偉大な業績を継承しています。 

 

 谷口氏は、何も名声や賞讃を求めたわけではありません。むしろ、

タイの貧しい人々の役に立ちたい、彼らの傍(そば)に立ち、彼らを

”救いたい”、つまり、彼らの生活を、生き甲斐のある豊かなものにし

いという、止むに止まれぬ思いがあったに過ぎません。

 また、そのような彼の思いを心底理解し、陰に陽に彼の活動を支え

恭子夫人(85)の内助の功も重要でした。

 まさに、お二人の人生は、「二人三脚」の人生でした。

 

 多分、谷口氏が、どれ程、孤軍奮闘したとしても、同夫人の理解や

支援なしには、彼の偉大な業績も不可能だったでしょう。

 如何なる大業も、一人のみの力によって為されるものではありません。

谷口氏の業績も、決して例外ではなかったと思うのです。

 

 また、私が、谷口氏の生涯に多大の関心を抱きましたきっかけは、

彼と「ガンジー(私の言うガンディー)」や「内村鑑三」との、深い関係

でした。

  

 谷口氏の具体的な実践活動、並びに「両者の関係」につきましては、

明日に譲りたいと思います。 【つづく】

 

2012年3月 6日 (火)

日本人の使命は、「菩薩道の実践」

 昨年、12月1日付の拙ブログで、私は、「日本の天命」とは、「ア

メリカからの独立・自尊と中国との平等・互恵だ」と書きました。

 無論、中国に対してだけでなく、いかなる国々との間でも、日本

は、常に”平等・互恵”の精神で関わるべきでしょう。

 私は、また”人類の救済こそ、日本の天命だとも記しました。

少し大袈裟に聞こえるかも知れませんが、正直、私は、そう思うの

です。

 

 端的に申し上げて、日本の天命は、即、日本人の使命なのでは

ないでしょうか。

 真実、私は、日本人の使命とは、様々な形での菩薩道の実践

あると思います。

 「菩薩道の実践」などと言えば、”何と古風なことを!”と思われ

かも知れません。

 

 しかし、昨年の東日本大震災の後、私たちは、無心で被災者の

方々や彼らのペットたちのために尽くした、多くのボランティアの

方々のことを知っています。

 彼らは、今でも、様ざまな分野で、活躍しています。このような

無心・無償の“人助け”の中にこそ、日本精神の原点があると思い

ます。また、それこそ、菩薩道の実践”とも言える姿があると思う

のです。

  

 仏陀は、「慈悲」を説いたと言われます。「慈(いつくしみ)」とは、

人に喜びを与えることです。また、「悲(あわれみ)」とは、人の悲し

みを、取り除いて上げることだと言われます。

また、イエス・キリストは、無償の「愛」を説いたと伝えられています。

 

 しかし、仏陀は、Photo_2  むしろ”慈悲そのもの”だった

のではないでしょうか。

 また、イエスも、”愛そのもの”だったのではないで

しょうか。

 でも、これは、決して彼らだけや、選ばれた人々

だけに出来ることではなく、それこそ、すべての

人々に、そのように生き抜く可能性があると思う

です。

  

 仏陀は、様々な教説を説いた方ですが、私が、とても心に残って

いるエピソードは、彼が、病(やまい)に臥すお弟子を、自ら看護し

たという、何気ないお話です。

 

 また、これは、実話ではないかも知れませんが、次のような

エピソードもあります。

 仏陀が、布施(=施し)の大切さについて説教をしていた時に、

一人の子連れの寡婦が進み出て、仏陀に、こう問いました。

 「私は、貧しくて、何の施しもできません。そんな私でも、何か、

人に施しが出来るでしょうか?」と。

 すると、仏陀は、こう問い返します。

 「あなたは、人に、微笑んで上げることは出来るか? また、

人に優しい言葉を掛けることは出来るか?」と。

 すると、その女性は、喜びつつ、こう答えます。

 「そんな事なら、私にも出来ます」と。

 これに対して、仏陀は、こう答えます。

 「これは、『和顔愛語』といって、大事な施しの一つであり、

大切な慈悲の道でもあります。それを、大切になさい」と。

  

 すると、今度は、醜い老婆が出てきて、こう訊ねます。

 「この通り、私は、貧しく、醜い老婆です。言葉を発したくても、

しわがれた声で、人に不快を与えるだけです。

 また、笑おうにも、この通りのシワシワの顔ですので、満足に

微笑むことも出来ません。そんな私でも、人に何か、施しが

出来るのでしょうか?」と。

 さて、これに対して、仏陀は、一体、どう答えたでしょうか?

 仏陀は、その老婆に、こう尋ねます。

 「あなたは、涙を流すことが出来るか?」と。

 すると、その老婆が、勇んで答えます。

 「えぇ、涙を流すことは出来ます。悲しい時にも嬉しい時にも、

自然と、涙は出ます」と。

 この言葉を受けて、仏陀が答えます。

 「それなら、人が悲しい時には、共に涙を流して上げなさい。

また、人に嬉しい事があったら、共に涙を流し、喜んで上げなさ

い。これは、”随喜の涙”といって、たいへん大事な施しであり、

慈悲の道でもあるのです」と。

 

  仏陀は、たいへんな権威や威厳が有ったにも関わらず、決して

「上から目線」ではなく、むしろ、常に弟子や民衆と”同心”になる

ことができたのではないでしょうか。

 その意味で、”慈悲”の原点とは、”私も、あなたと同じ、罪多く、

迷い多い存在なんだよ”という共感意識のような気がします。

 

 それと同じく、”菩薩道”というのも、決して「上から目線」の選民

意識ではなく、むしろ、自らを「凡夫」とみなす謙遜で、囚われのな

い、極めて自由な思念だと思うのです。

 

 このような謙虚で、囚われの無い“共感意識”を持った、現代の

菩薩が、日本国内の至る所におられるのではないでしょうか。

 次回(明後日)は、そのような方のお一人について、語りたいと

思います。

 後記: 明日(水曜日)は休みます。

 

 

 

2012年3月 5日 (月)

ロン・ポール氏の演説(完)

 今年のアメリカ大統領選挙において、沖縄に在る米軍基地を始

め、世界に700以上も存在する海外基地の全面撤廃だけでなく、

アメリカによる対外干渉戦争の「即時停止」を主張する米国大統領

候補がいるとすれば、多くの日本国民が、目を見張ることだろう。

 

 だが、中には、”そんな大統領候補など、いるわけがない!”と、

思う人がいるかも知れない。むしろ、そのような方が多いだろう。 

 しかし、これらの外交政策の実現の可能性は、一応置くとして、

そのような事を主張する大統領候補がいることは、事実である。

 ロン・ポール候補が、それである。 

 

 同氏は、海外米軍基地の全廃や、すべての対外戦争に反対する

だけでなく、他国に対する「経済制裁」にも反対する。この演説にも

あるように、「経済制裁は、戦争の第一歩である」というのが、ポー

ル氏の持論である。

  

 優れた国際政治学者・藤井厳喜(げんき)氏の説によれば、ポー

ル氏は、NAFTA(北米自由貿易協定)やTPPにも、無条件に反対

している。

 なぜなら、これらの貿易協定が、実は一部の多国籍企業の利益

になる”管理貿易協定”であって、真の自由貿易協定ではないと考

えているからだ。

 ポール候補はまた「愛国者法の廃止」を訴える。同法が、個人

の自由を侵害していることが明確だからである。

 さらには「CIAの廃止」も、ポール氏の主張だ。確かに、インテリ

ジェンス活動は必要だが、外国の要人暗殺を含むような現行の

CIA活動には反対で、抜本的な組織改編が必要である、と同氏は、

考える。

 驚くべきことに、同氏は、WTO(世界貿易協定)や国連からの脱退

さえも主張する。

 彼は、国家主権を超越した国際組織が、国家アメリカを規制する

ことに反対するのである。

(藤井厳喜氏論文「リバタリアン、ロン・ポールの挑戦」 『月刊日本』

〔2月号〕参照)。

 実に、思いきった主張だ。

  

 これらの政治姿勢や政治信条は、現下のオバマ政権のそれと、

真正面から対峙している。無論、共和党のロムニー候補やサント

ラム候補とも、明らかに異なっている。

 正直、ロン・ポール氏が、共和党選出の大統領候補になる可能性

は、極めて少ないと思う。

 

 だが、同氏が、われわれ日本国民にも、真に理解・共感し易い政治

信念・政治信条の持ち主であることを、充分、銘記する必要があろう。

 

 今日、権力に隷属する「イエスマン」は多い。だが無論、決して

そんな人ばかではない。それは、日本だけでなく、アメリカにつ

いても言えよう。

 ロン・ポール氏は、その代表的な政治家・政治指導者だと思うのだ。 

  

 皆様に、彼の「イラン制裁反対演説」を、直に聴いて頂きたい。

 ロン・ポール氏の対イラン制裁反対演説(You  Tube)

2012年3月 3日 (土)

ロン・ポール氏の演説(2)

 今日、言われるのは、大量破壊兵器のために、私たちが戦争に

行かねばならない、そうしないと、彼ら(=イラン軍部)は、ミサイル

を作り、私たちを攻撃するだろう、ということです。

 これは、2001年、2002年に、イラク攻撃の前に使われたプロパガ

ンダと同じです。

 全く同じプロセスが、敵対行為を用いる欲求をかきたてるために、

繰り返し用いられるのです。

 現在、多くの個人が、制裁に賛成票を投じます。彼らは、根本的

に戦争に反対で、軍事的選択肢を望まないので、

I_2 これが、代わりなる手段だと思っ

ています。

 私は、この考え方が、深く間違ってい

ると思います。なぜなら、制裁敵対

行為へと導くからです。

 もし、あなた方が制裁に関与すれ

ば、次の段階にも関与することになります。

 90年代から2000年にかけてのイラクへの制裁は、最終的に

敵対関係、戦争、侵略へと導きました。

 では、イラク侵攻は、何を行ったのでしょうか? アルカイダを

見つけましたか?

 私たちは、サダム・フセインがアルカイダを許可していなかった

ことが分かり、大量破壊兵器は、どこにもなく、私たちは、国(=

イラク)を引っくり返し、何十万もの人々が負傷し殺され、それ

以来、私たちは、破壊的な問題に苦しみました。

 何が起きたのでしょうか?

 私たちは、イラクを、イランの同盟者であるシーア派に与えた

のです。

 ですから、この政策全体が、Photo_4 実際は、破綻して

いるのです。

 

  私たちが、イランに対して行っていることは、

彼らを、中国の支配下に置くことです。

 中国人は近年、 優れた資本家です。

彼らは、よく働き、生産し、私たちに財とサービス

を売ります。

 私たちは、彼らに払い、彼らは、貯金をし、投資

を始めています。Photo_5

彼らは、世界中の天然資源に投資してい

ます。

 これに対して、私たちは、一体、何をして

いるのでしょうか?

私たちは世界支配、天然資源、石油の支配を試みています。

 これは、「重商主義」で、かつ古い考えです。

これでは、植民地時代に後戻りさせます。

 ですから、私たちはの政策は大失敗だったことが分かります。

この可決が、別の展開を持つことを期待します。

 私は、この可決が、非常に危険であると警告します」 と。 

   【つづく】

 (後記 : 明日・日曜日は休みます。)

2012年3月 2日 (金)

ロン・ポール氏の演説(1)

今年は、アメリカ大統領選挙の年だ。

 共和党は、ミット・ロムニー氏(64)〔前マサチュセッツ州知事〕と、

リック・サントラム氏(53)〔前上院議員〕間での一騎打ちの観が

強い。

 だが、ロン・ポール氏(76)〔下院議員〕の存在を忘れてはなるま

い。高齢でこそあるが、彼ほど、確固たる政治信念と高い見識を

持った政治家も少ない。

 とりわけ、彼は、今後の「アメリカとイランとの関係」について、

”戦争をしてはならない”という、変わらぬ信念を保持している。

 それを示す典型の一つが、次に提示する「イラン制裁反対演説」

である。

  

  「ロン・ポール氏によるイラン制裁反対演説」(日時不詳)

                             下院議会場にて

ポール氏   「5分間を、ここで頂いてよろしいですか?」

議長      「反対が無ければ、5分間を使って結構です。」

ポール氏   「議長、有難うございます。Photo_3

            (*この後、演説に入る)

ポール氏   今日、イランへの「完全制裁」に関する

法案が、賛成大多数により可決されました。

 賛成400、反対11―。11人が、これは、良くない

だと思っています。私も、その1人です。

 私は、なぜ「イラン制裁法案」が非常に危険で

あり、悪い判断であるかを説明したいと思いま

す。

 制裁とは、深刻なことです。制裁は、文字通り戦争行為です。

ある国に向けた財やサービスを妨害する時、それは、「封鎖」

同じです。それを行っても、私たちに何の利益も有りません。

 

 制裁の法案によれば、イランと貿易し石油を送る国とは、私たち

は貿易を停止します。

 ロシアが石油やガソリンその他の製品を送れば、あるいは、中国

がそれを行えば、私たちは、彼らと貿易ができないのです。

 この時期、中国との商業戦争以上に混乱をもたらす事態を想像

できますか?

 よい意図を持った外交政策といえども、しばしば逆効果をもたらし

ます。

 今日、信じられないことに、私たちは、世界の多くの国に関わり、

それを負担できなくなっています。

 

 私たちの対外政策には、年間1兆ドルがかかります。

私たちは、135ヶ国に駐在し、世界中に、700以上の基地を持って

います。

 私たちは、イラク、アフガニスタン、パキスタンの軍事紛争に参加

しています。

 私たちは、イエメンを爆撃しています。ソマリアで戦う「代理人」も

います。

 私たちの政策は、敵を中国の支配下に導きます。それなのに、

私たちは、新たな戦争を始めようとしている。それは、全く意味が

有りません。

 今日の会話は、なぜイランを爆撃する準備をすべきかという戦争

プロパガンダ以上のものではありません。

 CIAによれば、彼らが「核兵器」を製造しているという証拠は、全く

有りません。

 イランは、それ(=核兵器の所有)を望むでしょうか?

何故、望まないことがあるでしょう?

 周囲の国々は皆、持っています。当然です。

彼らは、周囲の国々に包囲され威嚇されています。

何故、核兵器を望まないでしょうか? 彼らは、望んでいるでしょう。

 しかし、他の国々は違反しましたが、彼ら(イラン)は、核拡散防止

条約に違反したことは、一度も有りません。

 

 パキスタン、インド、イスラエルは、それ(=核拡散防止条約)に

参加さえしていません。

 彼らは、私たちの友人で、私たちは、彼らに金を与えています。

パキスタンは、私たちの支持を受け、核兵器を保有しています。

彼らは、北朝鮮に核兵器を送っていることが知られています。

 ですから、このプロセス全体が、ほとんど意味を持ちません。

 【つづく】

2012年3月 1日 (木)

「狂人たちによって支配される世界」(ジョン・レノンの言葉)

 今まで、「オバマ政権の実像」を、何故、皆様に、執拗なほどに、

ご提示したのだろう?と考えると、無論、彼が”国際金融資本家の

完璧な操り人形”だということを示したかったことがある。

 しかし、同時に、彼は”J・F・Kとは違う!”ということを強調した

かったからだ。

 すでに述べた事だが、1963年11月22日の「ケネディ大統領暗殺

事件」は、私にとって、忘れ難い事件だった。

 同事件こそ、現代アメリカ政治の”分水嶺”言えるのではあるま

いか。

 ケネディが死んだ瞬間、Photo 心から彼に憧れてい

た13歳の少年だった私の心も同時に、”精神的

に死んだ”ような気がする。

 同事件は、私にとって、それ程のショックだっ

た。

  だが、その後、マルチン・ルーサー・キングJr.

ロバート・ケネデ上院議員の暗殺事件も、

期の私にとって、抜き難い悲しみを残した。

 しかし、それと同様に、私の心に、たいへんなショックを与えたの

が、1980年12月8日の、ジョン・レノンの暗殺事件である。

 今でこそ、私は、一切の新聞を読んでいないが、この時ばかりは、

朝・毎・読・東京などの主要な新聞を読み漁った。

 何より、「暗殺の理由」を知りたかったからだ。

団塊の世代である私たちは、ビートルズ世代でもある。中でも、

私は、レノンが好きだった。

 それだけに、彼の死は、余りにも唐突で、限りなく悲しかった。

 それも、よりにもよって、「12月8日」などと、何か”作為”さえ感じ

た。今日、CIA関与説は否定されているが、果たしてそうだろうか?

  4人のメンバーの中で、レノンほど、政治的、かつ反政府的な

批判精神を持ったミュージシャンはいなかったと思う。

 私には、2009年6月に亡くなったマイケル・ジャクソン同様、その

は、明らかに“政治的なものだった”と感じる。

 そのレノンが、次のような言葉を残している。

「社会はすべて、狂人によって動かされている。それも、気違い

じみた目的を実現するために―。

 僕は、このことに、16歳とか12歳とか、ずっと幼い頃に気づいて

いたんだ。

 でも、自分の人生を通じて、このことを違った方法で表現してきた。

僕が表現していることは、いつも同じ事だった。でも、今は、このこと

を、言葉によって示そう。

 『僕たちは、偏執狂者によって、偏執狂者の目的を成就するため

に支配されている』とね。

イギリス政府やアメリカ政府、ロシア政府、中国政府が実際にやろうとし

たこと、Photo_2 その方法や目的を紙のに書

くことができるならば、彼らが何を行って

いるのか、僕は、是非知りたい。

   彼らは、みんな気違いんだ。

でも、それを表現すると、僕は、気違

扱いされて、きっと消されてしまうこと

ろう。これこそが、気違いじみた現実なんだ」と。

 レノンが、ここで”狂人”というのが、デビッド・ロックフェラーやヘン

リー・キッシンジャー、それにズビグニュー・ブレジンスキーなどの

CFR(外交問題評議会)の主要メンバーのことである。

 その彼らが、オバマ政権を始め、世界中(特に自由主義世界)の

政治・経済権力を牛耳っている。

 つまり、今日の世界は、「狂人たちによって支配される世界」なの

である。 【つづく】

 

 

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