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2011年12月10日 (土)

わが思い出のパールハーバー(2)

 パールハーバーと言えば、何より「アリゾナ記念館」を思い出す。

 ハワイを訪れる前、或る雑誌の記事に、一人の著名な女流作家のエッセイが載っていた。

 それは、「アリゾナ記念館の周囲には、未だ(当時の)油が浮いている」という、些かショッキングな内容だった。

 だが、実際、参拝の際に、何度か辺りを見廻したが、すでに、そのような浮遊した油は見られなかった。

 因みに、真珠湾攻撃での犠牲者数は、2404名だと言われる。そのうち、57名は、民間人である。だが、後者の多くは、日本軍によるものではなく、むしろ、米軍による見境のない対空砲火の流れ弾に当たったものだった。 

 米軍は、先述したパンチボウルから、日本の海軍機に応戦したようだ。この事実については、当時、それを実体験した、ホノルル生まれの親戚の伯母からも聴いた。

 ところで、白塗りのアリゾナ記念館には、供えられた美しい花々が絶えない感じだった。犠牲者の名前が刻印された碑を前にして、私は、しばし祈りを捧げた。そして、自然と、次の言葉が出てきた。”われらが日本を、許したまえ”と。

 しかし、次の瞬間、何と意外にも、次の祈りの言葉が、私の心の中で響いた。それは、”フランクリン・ルーズベルトを許し給え”というものだった。何ということだろう。・・・・(数多くの犠牲者の御霊〔みたま〕も、きっと驚いたに違いない。)

 正直、1993年当時の私には、すでに”ルーズベルトは、真珠湾攻撃の「すべて」を知っていた”という確信があった。

 彼は、その「極秘情報」をじゅうぶん知りながら、アメリカの世論を、“日本、許すまじ。日本、憎し!”へと誘導するため、つまり、大戦参加への口実を得るために、当時のキンメル太平洋艦隊司令官に伝えなかったという真実を、私なりに認識していた。

 実は、アリゾナ記念館参拝の際、われわれは、「真珠湾攻撃」に関する短編映画を観せられた。それは、一つのプロパガンダである。

 だが、二回目の映画を観た際、私は、この「ワシントン(=ホワイトハウス)から、ハワイに情報届かず」といった内容が、前作に比べて、より客観的に報じられていたのが、実に印象的だった。

 (ところで、ホワイトハウスからハワイに重大情報を伝えなかったという事実は、イギリスのチャーチルが、自国の情報力〔=情報網〕を保持するために、或る街の住民すべての命を、ナチス・ドイツに依るV1ロケットの攻撃から敢えて守らず、全員を犠牲にしたのと同一の、極めて冷酷な政治判断だった。)

 実際、当時、劣勢だったチャーチルは、アメリカがヨーロッパ戦線に参戦することを、心底、願っていた。 

 だが、ルーズベルトは、アメリカ国民に対して、“参戦しない”ことを公約して、大統領に当選していた。

 そのため、議会、ひいては国民を戦争に導くためには、国家を揺るがすような”大事件”が必要だった。

 そんなルーズベルトに届いたのが、日本海軍による「真珠湾攻撃」の極秘計画だった。彼は、この計画案を、自国の起死回生のカンフル剤として活用しようと決意した。

  ”もし、ジャップが、米軍(=アメリカ)を不意打ちしたとすれば、必ず自国民を戦争に引っ張り込める”と、彼は、確信した。

 ルーズベルトは、TVA(テネシー川流域開発)を始めとする、ニューディール政策で、”アメリカを立て直した”と理解されている。 

 だが、彼が大統領に就任した1933年、アメリカはすでに”国家破産”の状態だった。

 いかなる国家再建にも、巨大な資金が必要だ。アメリカにとって、それは、FRB(連邦準備銀行)からの多額の借金だった。だが、それを完済することは、決して容易ではない。

 それに、巨額の資金を賭けて”賭博”をしても、必ず勝つとは限らない。だが、当時のアメリカにとって、必ず勝つ、壮大な”賭け”があった。それは、言うまでもなく、戦争である。

 特に、日本のように、自らを軍事大国と自負しながらも、情報能力が全く弱く、たとえ戦術はあっても戦略を持たない“小国”など、彼にとっては、赤子の手をひねるようなものだった。

 ルーズベルトは、日本兵の頭蓋骨を見ながら、周囲の人々に得々として語ったものだ。「日本人の頭蓋骨は、白人のそれより、二千年は遅れている」と。 

 そんな人種差別主義者の彼は、戦時中、日系アメリカ人だけを強制収容所に入れることなど、歯牙にもかけなかった。

 反対に、アメリカにとって同じ敵国人であったドイツ人やイタリア人などは、強制収容所に入れられることはなかった。 

 つまり、彼にとって、日本人は、元々“人種が違った”のだ。

 無論、日米開戦に果たしたヨゼフ・スターリンの陰謀は事実であろう。だが、当時のアメリカにとって、日本との開戦は必定だった。しかし、自ら手を出す必要などない。いや、それは出来ない。ならば、無知なジャップに一撃の機会を与えるのだ。そのための”経済封鎖”、そして「ハルノート」だった。

 日本軍が真珠湾を攻撃した時、心から喜んだ政治家が、少なくとも3人はいよう。ルーズベルト、スターリン、そして、ウィンストン・チャーチルである。

 特にチャーチルは、この報に接して、小躍りして喜んだ。そして、彼は叫んだ。「これで、ドイツに勝てる!」と。

 旧大日本帝国海軍が真珠湾攻撃を実行する前に、ルーズベルトは、議会で演説する「宣戦布告文」を用意していたと言われる。彼にとっては、すべてが、”折り込み済み”だったのだ。

 彼にとっては、パールハーバーにおける2345名の米国海軍軍人の命は、この巨大な儀式の幕開けに用意された、“生贄の羊”だった。それにしても、何と大きな代償だったのだろうか。

 ところで、1995年の記念式典の準備の際、私は、一人の退役米国海軍士官のことが、とても心に残っている。彼の名は、ボブさんといっただろうか。記憶に、少し自信が無い。彼は、とても大柄で、赤い顔をした老紳士だった。 

 実は、彼は、毎夕、アリゾナ記念館近くの浜辺で、亡き戦友たちのために、鎮魂のトランペットを吹いていた。 

 まさに、彼は、ハワイに住む、心優しい「サムライ」だった。私にとって、旧大日本帝国海軍のT.M氏も「サムライ」なら、アメリカのボブ氏も、全く同様だった。 

 私は、彼のような素晴らしい米国海軍退役軍人と、ほんの短い間だったとはいえ、時間と空間を共有できたことを、本当に幸せに思う。

 アメリカには、ルーズベルトのような、邪(よこしま)で酷薄な指導者もいれば、ボブさんのような心温かい良心的なアメリカ国民もいる。

 アメリカについて論じる場合、国家と国民(あるいは市民)という、アメリカの持つ”二面性”(無論、これは、アメリカだけではないが)をしっかりと把握することが大切だと思うのだ。 【つづく】

(*後記:明日は、休みます。尚、来週は、本稿の残り一篇と、「オバマ政権の実

      像」について論じる予定です。 皆様、どうか、よい週末を!)

  

 

 

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