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2017年6月16日 (金)

見えざる「真理」を求めて(3)

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       生死を超えるもの

 暗殺される直前まで、ガンディーは、決して死を怖れてはいなかった。 

彼にとって、すべては、神(ラーマ)の計らいによるものだった。 

 それゆえ、暗殺される10日前の1月20日、彼の暗殺を企てた爆破事件が 

起きた時にも、彼は、至極悠然としていた。

 

 事実、暗殺者ナトゥラーム・ゴードセー等は、拳銃による暗殺以前に、 

ガンディーの爆殺を計画し、決行した。 

 だが、それは失敗に終わり、仲間の一人マダンラル・パーワが捕らえら

れた。 

 それだけに、彼らの暗殺計画は、極めて切羽詰まったものだった。

 

 他方ガンディーは、集会に集まった人々や多くの信奉者を前に語りかけ

いる最中、かなり近くで爆発があった時も、まるで何事も無かったかの

ように話を続行した。 

 礼拝集会は、いつもの順番どおり、開会の合唱、ガンディーの言葉、

コーラン、聖書、ギーターの朗唱と続き、最後に「イシュワール(ヒンドゥー

の神々)」と「アッラー(イスラムの神)」の二つの宗教の神々に、「我ら

すべてに英知を与えたまえ」と祈り献じた。

 

 この爆破事件の実行犯、マダンラル・パーワに対しても、ガンディーは、 

何の憎しみも覚えず、むしろ彼の「勇気」を褒め称えた。彼は言う。 

 「その若者は、勇敢な戦士だ」と。そして、かつて爆弾事件を起こして、 

英国によって処刑され、民族的英雄になったバガッド・シンとマダンラルを 

同列に論じた。ガンディーは、語り続ける。 

 「彼らは、子供のようなものだ。理解力が無い。私がいなくなった後で、 

彼らは、この老人がいつも言っていた事は正しかったと悟るだろう」と。

 

 この爆破事件後、ニューデリーの警視総監がガンディーに、警備の強化

申請したが、彼は、それを固く拒否した。ガンディーは言う。 

 「私の生命は、神の御手にあるのですよ」と。そして彼は、「ラーマ(神)

だけが、私の護りです」とも述べた。 

 「たとえ、あなたが、100万人の警官で護って下さったとしても、ラーマが 

私の死を望まれるなら、誰も私を救うことはできないでしょう」というのが、 

彼の信念だった。

 

 ガンディーは、非暴力主義運動の担い手や参加者に求めたこと、つまり 

「死を怖れないこと」、あるいはそれ以上のことを、自分にも課した。 

 事実、暗殺の前日、彼は、「孫娘」のマヌに、次のように語っていた。 

「もしわたしが病気で死ぬようなことがあったら、ー  たとえそれが、小さな 

吹き出物であったとしても、おまえは屋根の上から世間に向かって、わたし

偽のマハートマーだったと叫ばなければなりません。 

 一方、もしだれかが、わたしに銃弾を発射したとき、わたしがうめき声

一つたてず、唇に『ラーマ』の御名を唱えながら、裸の胸に弾丸を受ける

ことができたなら、そのとき初めて、わたしが本物のマハートマーだったと、

言っておくれ。それは、インドの民衆にとって、よろこびをもたらすことに

なるでしょう」。 

 そして、この言葉は翌日、現実のものとなった。 

            (拙著『マハートマー・ガンディーの政治思想』より) 

 

 このエピソードの中に、ガンディーは、すでに”生死を超えていた”とは 

言えないだろうか。 

 では、「生死を超えるもの」とは、一体何だろうか?

 

 それは、一つには、「信仰」である。 

  如何なる宗教においても、それが真の信仰である限り、そこには、生死

超えて、”永遠”を感得する思いがある。 

  上記に見られるように、ガンディーには、「ラーマ神」に対する不屈の

信仰があった。これは、彼が、亡き母から受け継いだものだった。 

 ガンディーは、常に万物の中に”神”を見た。そして、神が臨在する

すべてのものを信じたとも言える。

 

 「生死を超える」二つ目は、「愛」である。 

ガンディーは、一切無辺のものを愛した。 

  上記のごとく、彼は、自分を殺そうとする者さえも許し、愛した。 

イエスの言葉の中に、「友のために死するほど、深き愛はない」というもの

がある。 

 自らの犠牲を顧慮しないところにこそ、真の愛が存在する。 

そして、まことの愛は、まさに次元を超えるのだ。

 

 そして、「生死を超える」三つ目は、「感謝」の思いではなかろうか。 

ガンディーには、この世に存在するすべてのものに対する、限りない 

「感謝」の思いがあったと思う。

 

  この「信仰」と「愛」と「感謝」の彼方にある思念こそは、”生死は一体で

ある”という思いなのではあるまいか。 

  この思いに立てば、人は、何も怖れるものは無くなる。 

事実、深く思念すれば、人は”生死が一体”であることを実感しよう。

 

 そこでは、死は、決して忌まわしいものではなく、むしろ、ごく当たり

前の、厳然たる事実として存在するものなのだ。 

 事実、死は、如何なる形であれ、実におごそかなものである。

 

 ガンディーの”生死を超える思い”の中には、そのような、死を少しも

怖れず、堂々とそれを甘受するだけの深い信仰と、限りない愛と感謝

の念があったと思う。 

  その生死を超えた彼方に、私たち(厳密には、私たちの魂)は、絶対的

愛を感じ、限りない”光”を見出すのではないだろうか。 

  つまり、そこで、私たちは、内的に愛を感じ、外的には、光を見ること

になる。

 

  いや、愛と光とは、むしろ、その本質上、全く同じものなのではあるま

いか。 

 その”真実”を実感した私たちの魂は、”感謝”の思いで一杯になると

思うのだ。

 

 有り体に言うならば、私たちの”魂”自体も、実は、その本質において、

この愛や光と同じものなのだと思う。 

  しかし、実に不幸なことに、私たちは、自らの心の目が閉ざされている

ために、その”真実”を知らないのだと思うのだ。

 

 だが、ガンディーは、その聖なる”本質”を、十全に理解していたと

感じる。 

 それゆえに、彼は、自らの肉体の死を、何一つ怖れることはなかった

のだ。                                 【了】

 

 

2017年1月30日 (月)

見えざる「真理」を求めて(2)

                  Photo

   もし、ガンディーが生きていれば、・・・・・

 

 今日(1月30日)は、マハートマー・ガンディーが暗殺された日である。 

そのことを知る日本人は、そう多くないかも知れない。 

  69年前の今日、午後5時17分、ガンディーは、ニューデリーのビルラ邸

裏庭での祈りに向かう途中、ナトゥラーム・ゴードセー(1910~1949)に

よって、至近距離から撃たれた。彼が放った3発の銃弾が、ガンディー

心臓を撃ち抜いた。

 

  その時、ガンディーが合掌しつつ発した言葉が、「ヘー・ラーム(おお、

神よ)」である。 

  インド学者の中村平治氏は、この言葉に、「神よ、この者を救い給え」と

いう意味づけをしておられる。

 

  ガンディーの遺品として残ったもの、それらは、愛用の眼鏡、おわん、 

手作りのサンダル、時価1ドルの懐中時計、それに「見ザル、聞かザル、

言わザル」の小さな置物だけだった。 

  つまり、悪いものは「見ない、聞かない、言わない」が、ガンディー

終生のモットーだった。

 

  インド独立後、国会議員に初当選した新米議員たちが、ガンディーの

祝福を受けるためにやって来た。その時、彼が彼らに語った言葉は、

次の通りだ。 

  「今日から、あなた方は、茨の冠を被るのです。権力に気をつけなさい。 

権力は、必ず腐敗します。その虚飾と見かけ倒しの罠に陥らないように 

しなさい」と。

 

  今日、インドや日本の政治家で、心の中に“茨の冠”を被っている政治家

が、果たして何人いるだろうか? 

  むしろ、ガンディーの意に反して、議員に当選することを、単に名誉や

名声を得る手段と考え、私腹を肥やす手立てと看做している人々が、

殆どなのではあるまいか。 

  今日、「政治家」業が代々、親から受け継ぐ家業となり、際限なく富を 

生む手段に過ぎないものとなっている。

 

  ところで、もし、ガンディーが生きていれば、彼は、私たち日本人に、

一体、何と言うだろうか? 

 彼は、私たちに対して、こう語るのではないだろうか。 

  ≪親愛なる、日本の皆さん。―    今、日本は、重大な岐路に立たされて

います。 

 一つは、今まで通り、アメリカへの隷属の道です。

しかし、もう一つの道あります。 

  それは、アメリカから一定の距離を置き、「自主・独立の道」を真剣に

模索する生き方です。

 

  かつて、インドも、大英帝国の植民地でした。しかし、私たちは、長い

苦難の末に、自主・独立を勝ち取りました。無論、多くの犠牲も有りました。 

  しかし、彼らは、祖国の独立のために、我が身を、母国と同胞に捧げて

くれたのです。

 

  今日のアメリカは、かつての大英帝国に劣らず、極めて邪悪です。

両国の不正義や邪悪さは、深い所で、繋がっています。それらが、

New  World  Order (新世界秩序)にさえつながっているのです。 

  しかし、かつてインド人にできたことが、日本人にできないことはあり

ません。

 


  そのためには、何事も怖れないことです。イエス・キリストが述べられた

ように、 

「われらの命しか奪えない者たちを、決して怖れる必要などありません。 

むしろ、われらの魂を、永遠に地獄に落とすことのできる神のみを怖れる

べきです。」

 

  本来、あなた方、日本人は、勇気ある民族です。アジア、いえ世界の

模範にさえなれる優秀な民族です。 

  しかし、たとえ、あなた方が、豊かな才能と英知に恵まれているとして

も、決して傲慢にならず、むしろ謙遜かつ無欲で行動して下さい。

 そうすれば、必ず、道は拓けます。

 

  それに何よりも、宗主国であるアメリカを、永遠の敵として憎み続け

いけません。なぜならば、憎悪からは、何も良いものは生まれない

からです。 

  むしろ、アメリカ国民は、皆さん同様、1%の権力者たちに搾取され虐げ

られている、「99%」の同志なのです。 

  どうか、常に、”人間を超えるもの(Something Great )”を信じ、敵さえ

も信頼し、そして何物も怖れない心を持って突き進んで行って下さい。 

  そうすれば、豊かな未来は、勇気あるあなた方のものです。 

  皆さんのお一人おひとりが“光”そのものなのです。どうか、そのこと

を、決して忘れないで下さい。≫・・・・

 

  多分、以上のようなことを、ガンディーは語ってくれたのではないだろ

うか。

  ところで、この”ガンディーの精神”は、今日の日本とは、全く無縁なの

だろうか? 皆さんは、その点について、どう思われるだろうか?

 私は、決して、そうは思わない。

 

  たとえ、時代や社会環境、それに国家や民族が変わろうと、常に正義と

公正を愛し、心から自国や自国民を愛する人は、決して少なくないと思う。 

  有体に言えば、”ガンディーの精神”は、たとえ少ないとはいえ、今日の

日本にも、脈々と生きていると思うのだ。

 

  実は、卓越した理論物理学者・井口和基(かずもと)博士が昨年、

東京都知事選挙に立候補した桜井誠氏を、「日本のガンジー」として

絶賛しておられる。 だが私は、桜井氏のことを、殆ど知らない。

 それゆえ、井口氏個人の「思想・信条の自由」として、”ああ、そうです

か”と思うだけだ。

 

  むしろ、私なら、植草一秀氏こそ、今日における”日本のガンディーだ”

と推薦したい。 

  つまり、ガンディーの言う、何事も怖れぬ“勇気”を、遺憾なく発揮して

いる代表的な人物として、私は、現代日本に、植草一秀氏がおられるのだ

と思う。

 

  植草氏も、かつて、ガンディーが大英帝国の人々から受けた差別や

迫害に通じる、不当、不義なる冤罪の仕打ちを受けられた。

 しかし、ガンディー同様、植草氏は、その耐えがたい苦難と絶望

の中から、まるでフェニックスのように復活なさった。

 

  同氏の、ガンディーを思わせる明晰な分析力、深い洞察力、未来への

予見能力、公正・無私なるバランス感覚、全き良心、心から他者を敬愛

する真の優しさ、それに何事も怖れぬ勇気の持主として、私は、植草氏

以上の人物を、今日の日本に見出すことはできない。

 

  植草氏は、決して政治家ではない。いや、むしろ、政治家以上の方だ。 

  とりわけ、彼は今、日本で、インドにおける”ガンディーのような役割”を 

果たしておられると思うのだ。   【了】

 

 

 

 

2016年12月28日 (水)

見えざる「真理」を求めて(1)

      Photo

                  (ブログ「まとめアトウィキ」より借用)

 

 

        安倍晋三、後は、坂道ころがる 雪ダルマ

 

 美しい満月も、いつかは欠ける。欠けるゆえに、満月は美しいのだろう。

しかし、月の美しさに比べて、人間の傲慢心は、限りなく醜い。

 現代日本で、最高に傲慢な男が、安倍晋三だろう。

再起後の自民党総裁選に再挑戦した頃の彼は、まるで借りて来た猫

ようだった。

  だが、最近では、まるで後ろにひっくり返るのではないかと心配になる

くらい、ふんぞり返っている。




 あんな、馬の糞ほどの値打ちも無い男が、よくぞ「日本の総理だ」などと

威張っていられるものだ。

  彼が総理だという事実は、心ある日本国民にとっては、まさに、ギャグか

ブラック・ユーモア以外の何物でもない。真実、そのことに、私は、虫唾

走るのだ。


  日本の歴代総理の中で、私が決して「総理」と呼ばなかった人物が、

三人いる。それは、菅直人と野田佳彦、それに、安倍晋三である。

  正直、この三人を観ると、私は、腸(はらわた)が煮えくり返る。

それで、テレビでも、彼らを、あえて観ないことにしている。

  これが、本日、67歳の誕生日を迎えたばかりの私の、最低限の健康法

である。

まさに、イヤなものは「見ない、聞かない、言わない」方が、遥かに健康

に良い。

 しかし、今日ばかりは、そのイヤなものについて、少しばかり語りたい。




  事実、安倍晋三の場合、心の中に真の自信も無く、微塵の精神性も

無い、恐ろしく軽薄な人間が、地球ほどに重たい「権力」を与えられて、

めったやたらに、それを振り回している。

  そのサマは、まるで狂人が、飛行機をハイジャックして、目前の操縦

機器を、ワケも分からず、手当たり次第いじくり回している風情だ。

  乗り合わせた、心ある乗客は、いつ、この飛行機が墜落するか、気が

気ではない。

実際、このまま行けば、「日本」という名の旅客機は早晩、墜落間違い

なしである。


  だが、このところ、民進党の体たらくで、国内に敵無しと思えた安倍

自民党も、次第に、そのメッキが剥げてきた。

  安倍政権は元々、邪悪な国際金融資本と戦争遂行勢力、それに、

日本国内の、時代錯誤とも言える日本会議や、戦争を欲する軍需産業

界が、統一教会や創価学会とつるんで、無理矢理作り上げた「不良作品」

なのである。

  不良品である以上、早晩、壊れるのは、目に見えている。


  この不良品の製作で、何より国民を裏切る行為を、遺憾なく発揮した

のが、不正選挙の最大武器「ムサシ」(*安倍家は、その大株主)と、

その片棒を担いだマスゴミ、それに、直接、不正な投票用紙の捏造に

参加した一部の創価学会員たちである。


  しかし、不正は、いつかは暴かれる。隠し事も、いつかは、白日の下に

晒される。お天道様は、何事もお見通しなのだ。まさに、天網恢恢、疎に

して漏らさずである。

それを忘れた邪悪な輩は、必ず痛い思いをするだろう。

  今後、安倍政権が国民に与えた悪政が、様々な形で、白日のものと

なろう。

 その時、真に怒ることこそ、現代に生きる生活弱者や将来の日本国民

に対する、われわれの責務である。

 いや、むしろ、われわれ一人ひとりが、心ある生活弱者なのだ。




  安倍晋三の政治というものがあるとするなら、それは、明らかに国民の

ためのものではない。むしろ、その飽くなき権力欲の完遂を通して、

かつて祖父の岸信介が果たし得なかった「憲法改正」という党是を、

是が非でも果たそうという個人的野望である。

  そして、そのことを通じて、将来、名を残したいという、個人的思惑のみ

である。

 つまり、政治という公のことを、彼は、自らの私利私欲のために詐取し、

それを私的に流用しているに過ぎない。




   こんな、現代日本史上、稀に見る暴政・悪政が許されるのなら、日本は、

もはや“神の国”などではない。

  むしろ、そのような誇りと自負心は、すべからく、天に返上すべきで

あろう。

  だが、今後、安倍の思惑に対して、すべての物事は、ことごとく反転

しよう。

 なぜなら、真の日本と日本国民は、本質的に不正や不義を認めない

からだ。

  実際、今の安倍政権は、不正・不義・不忠以外の何物でもないでは

ないか。




  こんな安倍政権の今後を、端的に占うなら、それは「安倍晋三、後は、

坂道ころがる  雪ダルマ」といったところである。

  あのスーパームーンも、いつの間にか消えてしまった。満月も、

いつかは欠けてしまうのが、自然の定めなのだ。  【了】


 

 

2015年2月24日 (火)

【或る日本人の、心の叫び!】

  【日本人よ、どこまで堕ちれば、

              気が済むんだい?!】


  品の無い、無恥・無能なヤクザが、NHK会長?

こんなトップで、NHKは、いつまでやって行くんかい?

  トチ狂った“経済知らず”が、日銀総裁?

アンタ、日本人を、マジで地獄へ落とす気かい?!

  日本人よ、どこまで堕ちれば、気が済むんだい?!



  低能の大ウソつきが、日本国の総理大臣? 

それも、他党の議員に、不当なヤジを飛ばす!

アンタ、それでも総理かい?

どこまで、幼稚になれるんかい?

  加えて、漢字も読めない強欲経営者上がりが、

財務大臣?

  自民党の支持者よ、アンタら、気が狂ってるのかい?

こんな”うすらトンカチたち”を珍重して、日本国を、

破壊する気かい?

  日本人よ、どこまで堕ちれば、気が済むんだい?!



  モノ書く価値なき文人が、上から目線の差別主義!

日本人は、いつから、こんなに傲慢になったのかい?

  自ら“相対化”も“客観視”もできない、狭隘な差別

主義者に、「正義」や「愛」を語る資格なし!

  日本人よ、どこまで堕ちれば、気が済むんだい?! 

  【了】 (*下の写真は、大宰府天満宮)


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2014年11月15日 (土)

【お詫び】

  【皆さまへ】

     皆さん、お早うございます。
 
   お元気ですか?

     昨日の文章中” 「土地強奪法」でしめつける”の冒頭、「日本

政府は一方で、経済的混乱をもたらした上で、金の力で軍用地契約を」

「すすめようとしました。」の一文が、欠落していました。

  ここに、謹んで、補筆訂正いたします。                渡邉 拝

2014年11月14日 (金)

『命こそ宝』(6)

 日本の政治は、結局「金」と「ポスト(地位)」なのでしょうか?

そんなことで、本当にいい政治など、できるわけがありません。

  特に、沖縄のような「基地の島」は、まるで、お金で、人を頬を叩(はた)く

ような野蛮が横行しています。

  この状況は、今日の沖縄県知事選においても、同様でしょう。

端的に言って、この状態は、阿波根さんが活躍なさった戦争直後も今も、

何一つ変わっていません。



 まさに、政府が「アメ」と「ムチ」で、抵抗する国民・市民を縛り上げる。―

  そんな”傍若無人”が支配的な日本の政治は、まさに有史以来、殆ど

変わっていません。

 そして、このようなイヤラシイ現状を、我々は、次の阿波根氏の「告発」の

中に、はっきりと見出すのです。

  今日の文章は、短文ですが、区切りが良かったので、次のようなお言葉

を、お伝えしたいと思います。

 

  復帰直後におきたこと


  復帰直前の「予約」とりつけのやり方を見て、日本政府は基地確保の

ために様々なずるい手段を使うだろうと予想はしていました。しかし、

そのやり方は想像以上にひどいものでした。 

  復帰して先ずおきた大きな変化は、異常な物価高と生活苦ですが、

これは日本政府に責任がある。

         

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 たとえば、それまで沖縄で適用されていたドルを円に切り換えるとき、

日本政府は、当時の固定レートが一ドル=三六○円だったのに三○五円

で切り換えました。 

  復帰したとたん、一ドルについて五五円分損をしたことになる。一方で

そういうことをしておいて、軍用地の地代をいっぺんに六倍も上げた。 

  沖縄の経済を混乱させて、生活を苦しくさせた上で、契約する地主に

対しては、地代を上げ、また基地周辺整備費という名目でどんどん金を

出す。



  もともと沖縄の犠牲の上に、戦後日本の経済発展があったのだから、
 

沖縄の経済を健全にするというのは国の責任である。

  それなのに生活を苦しくさせておいて、基地に土地を提供すれば暮ら

せるというふうに誘導する。その上、本土から土地買占めがやってきまし

たから、いままでの常識では考えられない物価高になったのでした。


            Photo_3




  わしらは、何よりも反戦平和を願っているから基地反対である。だが

それにしても、基地に頼ってどんどんお金をもらうとか、土地を売ればも

うかるとかいうのは、経済としてもおかしい。 

  当座はよくても、決して伊江島島民また沖縄県民のためにはならない。

わしらはそう思いましたから、契約拒否を貫き、軍用地として契約すること

の危険を訴えてきたのでした。



 「土地強奪法」でしめつける



日本政府は一方で、経済混乱をもたらした上で、金の力で軍用地契約を 

  しかし、金では動かない反戦地主たちが当時三○○○人近くもいた。

そこで、政府は法律によって、土地を取り上げたのです。

 

  沖縄返還にあたって、沖縄関連四法というのが国会で強行採決されて

いますが、 そのひとつが「公用地法」(沖縄における公用地等の暫定使用

に関する法律)といわれる法律で、これで土地の強制使用を「正当化」した

のです。わしらは、これを「土地強奪法」といっておりました。

 

  復帰前に「公用地等」として使用されてきた土地、これはつまり軍用地の

ことをいうのでありますが、これは所有者の同意をえることなく、復帰後

五年間は継続使用できるというのです。 

  五年にもわたって他人の土地を強制使用するというのですから、とんでも

ない悪法であります。

 

  当時の琉球政府は強く反対しましたし、国会でも革新政党は反対した。

法律家も憲法違反の疑いがあるといって批判しているのに、日本政府は

かまわずに法律を成立させました。そして復帰と同時に施行したのであり

ます。

         Photo_4



  米軍は銃剣でわしらの土地を取り上げましたが、日本政府は法の力で

強奪したのです。日本政府はいまにいたるまで、様々な悪法のムチを

ふるうことになるのですが、その経過をお話しする前に、基地があることで、

沖縄・伊江島でどんなことがおきていたのかをお話ししましょう。 【つづく】 

 

  (追記:皆さん、お元気ですか?

        沖縄県知事選だけでなく、衆議院の「解散・総選挙」まで

       云々される今日、まさに、国内は、風雲急を告げる状況です。 

         しかし、自然に目をやりますと、既に山茶花やボケが咲き

       始め、水仙が愛らしい芽を出しています。

        植物は、すでに、厳しい冬の支度をしつつ、密かに春の準備

       を始めています。

        私事ですが、母が、来年90歳を迎えます。頭脳は明晰ですが、

       足腰が、だいぶ弱りました。その母のcare  に、しばらく専念した

       いと存じます。

        そのため、当分の間、拙ブログを休筆いたします。  

                                   渡邉良明 拝  )

 

 

 

 

2014年11月13日 (木)

『命こそ宝』(5)

  戦後、アメリカの統治下にあった沖縄の人々は、どれほど「本土復帰」

待ち望んでいたか知れません。

  “本土並み返還”という言葉を、当時、大学生だった私は、よく耳にしま

した。

 しかし、実際の「沖縄返還」は、決して現地の方々が期待したものでは

ありませんでした。

  むしろ、戦後の、アジアにおける「反共(あるいは、防共)」体制のため、

沖縄を最重要の軍事基地として拡大・強化する内容でした。

  そこには、後のベトナム戦争に際して、実質的な前線基地としての沖縄の

実態がありました。

  当時の日本政府も、アメリカの軍事戦略に組み込まれ、その実現のため、

沖縄を犠牲にしました。

 これは、今日も、全く変わりません。むしろ、益々強化されていると言えま

しょう。

  その実態が、阿波根氏の次の言葉に、よく表現されています。

 

   Ⅰ  復帰後の沖縄、そして伊江島




  
一  基地確保のための「アメ」と「ムチ」
 

 

 

   「安保」条約による基地提供


  沖縄が本土復帰したのは、一九七二年五月一五日であります。 

わしらが本土復帰を念願し、六二年から毎年四月二八日に行われていた

復帰をめざす海上大会に欠かさず参加していたのは、何より平和憲法の

下に復帰することを願っていたからでありました。 

  財産も権利も生命も無視され、踏みにじられていた米軍の占領下から

解放され、基地もなくなって、沖縄人の沖縄になる、そして平和に暮らす

ことができる、そう信じておりましたし、そうでなければいかないと思って

おりました。


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  だが、そうはなりませんでした。日米安全保障条約(安保条約)という

ものがあったからです。

  安保条約があるかぎり基地があるというのは、最初はわしらにはよく

わかりませんでした。 

  「安全保障」というのだから、かえって沖縄県民のためになるものでは

ないか、と思うくらい無知でありました。


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  しかし「沖縄返還」協議が行われている中で、わしらも勉強して、安保

条約は実は「危険条約」であることがわかってきました。 

  復帰しても基地はなくならない、それどころかますます軍事的に強化

され、自衛隊もくる。そういうことがわかってきたのであります。

 

  復帰して沖縄が沖縄県になったことで自動的に適用されたのは、平和

憲法ではなく安保条約でありました。 

  そして日本政府が、アメリカに対して沖縄の基地を守る義務と責任を

負ったのです。

 

 復帰直後、基地があることからくる被害について、那覇に設置された

日本政府の防衛施設局に抗議すると、職員は日本は安保条約を守る

約束をしているから、基地を返してもらうことも演習をやめさせることも

できないと、はっきりいった。




  沖縄県の面積は日本の国土の○・六%だそうでありますが、日本に

ある基地の大部分が沖縄にあります。復帰後のいまもほとんど変化して

いない。 

  沖縄にいると、「安保」がよくみえます。本土から伊江島にくる人たちに

聞くと、本土では「安保」への関心は先ぼそりになっているという。これで

はいかない。 

  わしらの闘いは、すべて安保反対に結びついておる。そのことはまず

知っておいてほしいと思っています。





  説明なしの軍用地の契約「予約」




  沖縄が本土復帰をすると、安保条約にもとづいて、日本政府が米軍に

対して基地を提供する役目となります。 

  それで復帰直前の三月、那覇に設置された防衛施設局が「賃貸借契約

のしおり」というビラをまいて、契約の「予約」をさせようとしていました。 

  復帰当時の沖縄の軍用地主の数は二万七○○○人で、このうち

三○○○人がはっきりと軍用地契約拒否を表明しておりました。 

  復帰の前年、七一年一二月に「権利と財産を守る軍用地主会」

(「反戦地主会」)を結成した人たちです。わしももちろん、その一人で

ある。

 

  この「しおり」には、協力に報いる意味で「見舞金」を払うとか、返還の

ときには「復原補償」をするとか、いいことばかり書いてあります。 

  しかし、かんじんの地料や契約期間、黙認耕作(基地内であっても演習

に使っていないときに、耕作したり草刈りをしたりすること。長い闘いの

すえ慣行として米軍に認めさせてきた)のことなどの具体的な説明は

いっさいなしです。

 

  しかも正式の「土地建物等賃貸借契約書」を、地主には見せません。

契約書を見るのは地権者として当然の権利なのに、要求しても見せない。

代表者に印鑑を預けさせて、まとめて捺印させようとするのです。どうも

おかしい。 

  あとで、何とかこの「契約書」を手に入れて、内容を見ると、金額・期間

などは空欄のままでした。捺印させたあと、どうにでもできるわけです。

  防衛施設局の役人がわしらに対して「説明会」をしたときには、こんな

カラクリがわかっていたので、最後には叱りとばして帰しました。 

  こういう詐欺まがいの契約「予約」がどんどんすすめられていましたから、

「伊江島土地を守る会」として、すぐに次のようなよびかけをだしました。



 
    契約はしない方が得です

 

 

一、  契約はしないでも使用料はもらえます。日本政府は契約はしない

     でも補償金として支払うとはっきり言っています。 

    アメリカ軍との契約の時も契約しないと地料がもらえないと言って

      おりましたが、それは真赤なウソで、私たちは契約しませんでしたが

      契約書同様に地料を取り、権利を主張することもできました。

 

二、  時は進み発展し、土地の価格は年々あがり、本土の資本家は沖縄

     本島、宮古、八重山でもたくさんの土地を買いこんでいます。今後、

      土地は予想以上に大切なものになると思います。

 

三、  契約をしなかったら、補償金(地料)の値上げを要求できます。

     又自分の土地が必要になったら返還要求できます。

 

四、  契約をしたら、自分(地主)の使用権は無くなります。土地をどう

     使おうが、石を入れようが穴を掘ろうが相手の自由で、地主はもんくが

     言えません。

 

五、  契約しても今まで通り黙認耕作ができるなどと思ってはまちがい。

     今度の 契約書第十条に、次の通りはっきり書きこまれています。 

   「土地の形を地主が変えてはいけない、軍の使用に支障があっては

     いけない」

 

六、  私たちは今まで他人(資本家とその手下)の利益のために利用され、

      だまされ、たくさんの損をし、犠牲になってきました。 

       今からでも自分の利益を守り、財産と権利を守り、生活をより豊かに

      していきましょう。

 

七、 軍備(戦前より上まわる軍事力、五兆八千億円の四次防予算)、

     基地(大事な土地)、演習(人殺しの練習)、自衛隊(戦争につながる

     軍隊)。 

         契約することは戦争につながり、戦争を認め、戦争に協力するもの

      であります。ですから契約に強く反対しましょう。

 

八、  契約を拒否し土地を守ることは、我々の財産と生命を守ることであり、

      又世界全人類の真の平和と繁栄の道であることをかたく信じております。

 

九、  地球は動き、時代は変わり、世界は正しい者の力によって正しい方向

      に急テンポで進んでいます。今後農民は素晴らしく発展することが

      予想されます。 

        土地はいよいよ必要になってきます。すべての宝は土地から生まれ

      ることを忘れないようにしましょう。

 

十、  大日本帝国、日清、日露、第一次、第二次世界大戦。国を守る、

      国民を繁栄させる聖戦といって真珠湾を攻撃して、絞首刑台の露と

   消えた職業軍人。戦争のナマの悲劇を忘れないようにしましょう。


      国ぬたみともて咲ちゃる花ちらち   (国のためと思って咲いた花が散っ

  てしまった) 

      あとみうしなたる親のくりさ  (跡継ぎを失った親の苦しさ)


十一、  残酷非道な戦争、我々を犠牲にし不幸にした戦争。我々は二度と

    だまされない、二度と戦争をしない、させない、このあやまちを二度

    と起こさせない。 

         それは生き残った我々の使命であり、人間としてとるべき道であり

    ます。

 

十二、  我々は以上の歴史の教訓に学び、恐るべき悲惨な戦争につなが

   る土地 契約を拒否するようにしましょう。そして平和憲法を守りまし

   ょう。

 

       一九七二年三月

 

                                     伊江島土地を守る会




   「伊江島土地を守る会」というのは、復帰前の六一年につくったもので、

わしが代表をしております。

  この会をつくる糸口となったのは、五六年に教職員会や土地連合会、

沖縄社会大衆党、沖縄人民党など一六団体が集まって結成された

「全沖縄土地を守る協議会」でした。

 

  この協議会の会長には復帰後最初の県知事となった屋良朝苗

(やら・ちょうびょう:下の写真)さん、そして事務局長にわしが推された

のですが、米軍に同調する人たちの動きによって、たった八か月で解散

してしまいました。

          Photo_3
 

  わしはこの協議会の正しい意思をうけつぐ組織が、伊江島で必要だと

思っておりました。基地があるかぎり、土地問題はつづくと思ったから

でした。 

  それ以来、土地を守るのは、自分たちの命を守り、島を守り、日本の国

を守ることである、ひいては世界平和のためであり、結局はアメリカの人

たちのためにもなる、だからずっと基地反対と土地を守る会はつづけなけ

ればいかない、そういう考え方でやっておるわけです。規約とか会則とか

いうものはありません。専門部というものもおきません。 会計だけはおいた。

 

  基地内に自分の土地をもっていて、基地に反対する人が正会員でありま

すが、復帰時で三○○人ぐらいだったですかね。 

  伊江島に住んでいて、わしらの考え方に賛成し、運動に加わってくれる人

は準会員ということにしましたから、実際は一○○○人以上の会員がいた

ようなものでありました。                        【つづく】                                        

 

 

 

 

 

 

2014年11月11日 (火)

『命こそ宝』(4)

 人が真実に目覚め、自ら運動を開始した時、他者(あるいは周囲)の

無理解や反発を招くことがあります。

 しかし、中には、心から理解する人も現れます。

今回、阿波根氏が紹介されるアメリカの人権論者ロジャー・ボールド

ウィン氏が、彼にとってのよき理解者、協力者でした。

  ボールドウィン氏の言葉はシンプルですが、まさに  一面の“真理”

だと思います。



  今日、最大の社会的矛盾は、世界の「1%の人間」が、「99%の人々」の

富を簒奪し、占有し、かつそれらを固定化していることにあります。

  「1%の人間」は、時に、村上春樹氏の言う「高くて硬い壁」となり、

「99%の人々」が「卵」となります。阿波根氏は終生、一つの「卵」であり

続けました。



  しかし、「ベルリンの壁」が崩壊して25年を経た今日、それと同様に、

「高くて硬い壁」といえども、永遠に聳え立つことはできません。

  大昔、ジェリコの壁が、人々の叫び声で壊れたように、「99%の人々」の

「No!」いう声によって、いつかは崩壊することでしょう。

  「1%」といっても、相手も、ただの人間、完全でもなければ、”永遠の存在”

でもありません。

  そこでは”おかしいことは、おかしい!”という正直な生き方こそ大切で

しょう。

 阿波根氏の生き方は、まさにそのような正直、かつ誠実な”まことの

生き方”だったように思います。

  今日の沖縄県民に、同氏のような”まことの生き方”が出来る人が、

一体、どのくらいいるでしょうか?

  多くの方々は、金や名誉、それに目先の利害に、余りにも囚われすぎて

いるのではないでしょうか?

  阿波根氏は、次のように記します。




 みんなが反対すればやめさせられる




 
土地をとり返すための闘いを続ける中で、わしらはいろいろなことを学び、

考えました。 

 米軍の中にはいい人もおる。赤ちゃんにミルクを飲ますやさしい人もおる。 

  それなのに、なぜわしらの土地を強奪するというひどいことをするのか。

これは戦争があるからである。戦争が人を変えてしまう。 

  そして基地は、その戦争を準備するためのものだ。基地が撤去されるま

では、戦争のことを忘れてしまうことはできない。 

  わしらの土地を守る闘いは、戦争をやめさせ平和をつくることにつながる、

またつながらなければいか(け)ない。そう確信するようになった。



                  Photo_3


  土地闘争がはじまった頃、わしらは小禄村(現在は那覇市小禄)の具志

部落を訪ねたことがあります。闘いの経験を聞き、闘い方を学ぶためで

ありました。 

  このとき具志部落の上原昭男さんは、わしらのために「平和のためという

ならば、平和のためになおさらに、土地は離すな村人よ」と歌い「武器に

亡びる国あれど、武器に栄える国はなしと語った。わしは心から共感した。 

  土地闘争を闘っている沖縄の各地の人たちとの交流の中で、わしはいっ

そう確信を強め、勇気づけられたのでした。

 

  だが、どんなに闘ってもなかなか基地はなくならない。戦争の準備を

やめさせられない。しかも、今度は核戦争の準備をしておる。核について

の本をたくさん買ってきて読んでみたが、もし核戦争がおきたら、この地球

にもう住めないという。これは大変なことだ。 

  それなのにこの戦争準備はとめられないのか。闘いを続けながらも、

無力感をもち、悩みました。



  そうしたらですね、一九五九年のことでしたが、世界人権連盟議長の

ロジャー・ボールドウィンさん(*下の写真)、実に立派な方であると聞い

たが、この人が那覇にきた。沖縄の土地闘争のことを知って、人権侵害

があるのではないかと調査に来られたわけです。

                  Photo
      

   那覇の教職員会館で講演するということを新聞で知って、わしらはさっ

そく陳情書をつくり、「ボールドウィンさん歓迎」という横断幕をもって、

那覇に会いに行った。 

  陳情書に、「日米両政府はわしらの家を焼き、農民を縛り上げ、土地を

取り上げて、核戦争の準備をしておりますが、これを止める方法がありま

したら教えて下さい」と書いて、質問したのです。

  どんなむずかしいことをいうか、と思っていたら、ボールドウィンさんの

答えは簡単でした「みんなが反対すればやめさせられる」

こういわれたのです。

 

  わしらは考えました。みんなが反対すれば戦争はもうできないんだ、

「ああ、これはそのとおりだ」とわしは納得しました。 

  わしが自分の土地を基地に使わせないための闘いを続け、そして反戦

平和のための運動を続ける上で、このことばは実に大きな支えとなったの

であります。

 

 

   わしが語り伝えたいこと




  伊江島の基地は、島全体の六三%を占めていたが、わしらは闘いを

つづけて少しずつ解放させ、復帰直前には、半分の三二%まで縮小させ

て、残りも全部解放させるという約束までさせていました。だがそれはいま

も実現していません。

 

  わしの土地もある島の西北部、真樹(まじゃ)という地区には射爆場が

あります。 

 「伊江島補助飛行場」といっていますが、あれは紛れもない射爆場です。 

  模擬原爆の演習場であり、あらゆる実弾を使っての射爆場なのです。 

  戦争は過去の話ではない。いまも平和になっているとはいえない。

沖縄の基地では演習が続けられている。湾岸戦争(一九九一年)のとき

には、伊江島の基地の米軍の演習はいっそう活発になって、ハリアー

(垂直離着陸機)が実戦さながらの訓練をしていました。

                       Photo_2


  かつてわしは『米軍と農民』のはじめにこう書きました。―伊江島の人は

誰も戦争のことを語りたがりません。戦後の土地取り上げでアメリカ軍が

襲いかかった当時のことも、語りたがらない。 

  思い出すだけで気絶するほどの苦しみでありました。だが、その苦痛も

ふくめて、やはりわたしはお話しなければなりません―。 

  その思いはいまもかわりません。なおいっそう強くなっております。

命が粗末に扱われてはいけない、どうしても平和でなければいけない、

つらくても語り伝えなければならない。

 

  「みんなが反対すれば戦争をやめさせられる」そのためには一人に

なっても訴えつづけなければいかない。平和を創る闘い、実践がいまこそ

必要である。

  沖縄が本土復帰して二○年、伊江島の状況は大きく変わりました。

復帰後、沖縄そして伊江島に何がおきたのか、今どうなっているのか、

そして、なぜ「反戦平和資料館」(ヌチドゥタカラの家)づくりを考えたのか、

また資料館活動の中で何を考えてきたのか、そのことをこれからお話し

たい。

  ところで、わしはいつも断わってから話しますがね。これは、農民の、

小学校しかでていない、明治生まれのものの体験談。

  だから間違いもあると思うから、あなたたちも聞いて、これは間違って

おる、ここはもっとこうした方がいい、ここはこうでなければいけない、

と思ったらいってほしい。

  そういうつもりで聞いてほしいといって(ママ)おります。  【つづく】

 

 

 

2014年11月10日 (月)

『命こそ宝』(3 )

 

「経験、この人間的なるもの」という言葉があります。

我が若き日の師・清水幾太郎が、こよなく愛した言葉です。

  清水先生は、何よりも、人の持つ”経験”を重視しました。

そして、単なる観念や、その遊戯を嫌いました。



  阿波根氏の言葉を跡づける時、私は“経験の重み”を感じずにはいら

れません。

 そこには、真に戦争を知る者、とりわけ戦争の残虐さと悲惨さを知る人

の尊さがあります。

  今日は、戦争を全く知らない、無論、経験したこともない者たちが、余り

にも安直に「集団的自衛権」などという戦争に直結する大事を云々して

るのではないでしょうか。

  私には、語る資格無き者が、余りにも軽々に戦争を論じている気がして

なりません。



  われわれは今、改めて、戦争の惨(むご)さを知る阿波根氏の言葉に耳

を傾ける必要があるのではないでしょうか。

  同氏は、次のように語り続けます。そこには、愛息を亡くし、多くの同胞

を失った人の悲しみや無念さが溢れています。



  命を粗末にする

  戦争中、わしらはあまりにも命を粗末に考えておった。二度と戦争を

おこさないためには、何よりも命を大事にすることである。

戦後になって、非常に反省しました。 

  戦前は「命は鴻毛(こうもう)より軽し」とかいって、死ぬのが国のため、

命を惜しむものは国賊だと信じさせられていた。 

  敵に生け捕りされるのは不名誉、だから集団自決といって、自分たちで

殺し合う。そしてそうすれば靖国神社に祀(まつ)られて神になる。


            Photo



  こんなことを教えられて、愚かにも信じていたのです。それにもし、生き

残りたいと思っていることが軍にわかったりしたらすぐ殺されると思って

おりました。 

  その頃はもう、死ぬ死ぬばっかりですよ。死ぬ死ぬと言うのが習慣に

なっていた。



  「鬼畜米英」といわれましたからね、わしらは本当にそう思っていた。

米軍に生け捕りにされたら、耳を切られたり鼻を削(そ)がれたり、ひどい

目にあわされて最後は殺される、そういう話でしたから、誰でも自分の

可愛い息子や娘がそんな目にあったら大変だと思う。

 

  だから親が子どもを殺す。子どもは死にたくないから逃げる、それを

父親が追いかけていって首を絞めて殺す。鎌で切り殺す。こんな悲惨な

ことがあちこちでおこった。

  伊江島にはアハシャガマ(*下の写真)という大きな洞窟があります。

ここでは、一五○人の島民が集団自決をした。 

  『伊江村史』には四月二二日頃のことと書いてありますから、戦闘が

終わった翌日でありました。
 

 

           Photo_4



  また島でただ一か所真水がでる、湧出(わじー)という、いまでは景色

のいい観光地になっているところがありますが、その断崖からたくさんの

人たちが身を投げた。

 

  日本軍守備隊は玉砕を命じて降伏を許さなかったから、日本軍に殺さ

れた人たちもおりますが、これだけの人たちが死んだのは、わしら自身が

命を粗末にする考えからぬけだせなかったからである。

 

  一人息子を死なせてしまう




  わしのたった一人の息子も、わしが殺したようなものです。
 

沖縄戦がはじまろうというとき息子は東京にいて、わしの弟が沖縄は危険

だから東京においた方がいいというのに、もう今度は死ぬんだから、

一度顔を見て、一回だけでも御馳走を一緒に食べて、それから死んだ方

がいいといって、伊江島まで呼び寄せた。 

  息子はわしに会ったあと、まだ兵役年齢にもならないのに現地召集で

兵隊にとられ、沖縄本島で戦死しました。 

  那覇の北、浦添(うらぞえ)のあたりだというのですが、はっきりしたこと

はわかりません。遺骨もありません。



  沖縄戦で二○万の人が死んだということは、つらい思いをかかえた人

たちがそれほどにもいるということである。つい昨年にも、沖縄ではこんな

ことがありましたよ。

  自分の夫と息子が殺された八○歳になるおばあさんが本土から来て、

息子が死んだという場所で、誰もそこに来てはいけないと人を遠ざけて

一時間もそこで泣いておった。こういうことが二度とあってはいか(け)

ない。





  「島ぐるみ闘争」の中で考えたこと

 

  わしらは、世界中は「鬼畜米英」、「日本は神の国」と教えられて、こんど

の戦争は聖戦である、世界平和のためである、日本が世界を支配しない

とほんとうの平和はこない、そう信じさせられ、服従するだけだったのです

が、戦争が終わってからはじめて考える人間になったわけですね。

  最初はアメリカとはすばらしい国だと思った。死んだ母親のそばに

赤ちゃんがいると、これを助けてミルクを飲ませる。一人も虐殺しない。

 

  米軍に占領されたあと、捕虜となったわしら島民は、まず慶良間島に

移され、それから転々とさせられて、ようやく一九四七年三月に故郷に

帰りついたのでありましたが、当時は米軍の善意を疑うことはなかった。

もう戦争は忘れよう、平和に生活を営もうと農業に精をだしていました。




            Photo_2



  ところが、米軍はひそかに基地をつくる準備をしていた。準備をして

おいて、朝鮮戦争が終わった直後の一九五五年、米軍は完全武装して

きて土地をとり上げた。 

  この土地がなくなると生活できないと、手を合わせてお願いする農民を

縛り上げて半殺しにする。 

  ガイディアという米軍の隊長は、わしらにこういいましたよ。「この島は

アメリカ軍が血を流して日本軍からぶんどったものである。きみたちには

何の権利もない、イエスもノーもない」。そういって、家を焼き払って

飛行場・演習場にしてしまった。

          Photo_3

  わしらは驚き、怒り、途方にくれた。どうしたらいいのか、米軍に陳情する

とともに、琉球の立法院や政治家、教会やお寺、大学の先生などに助け

を求めました。 

  だが、らちがあかない。最初、わしらの基地反対の島ぐるみ闘争は

てさぐりではじめるしかなかったのであります。 

  この闘いのことは、岩波新書『米軍と農民』(一九七三年刊)に詳しく

書きました。                             【つづく】 

 

 

 

 

 

2014年11月 8日 (土)

『命こそ宝』(2)

 今、沖縄県知事選の最中です。同選挙の帰趨は、今後の日本の政治を

占う上で、極めて重要です。沖縄県民の賢明な選択を、心より期待します。

   しかし、如何なる人が県知事になりましょうとも、今後、アメリカ政府

(=ペンタゴン)、並びにその「従属機関」としての日本政府との対応は、

かなり厳しいものとなりましょう。

  単なるイエスマンの県知事ならともかく、少しでも沖縄県民の心情

(=真情)や希望を充分汲み取る意志のある人ならば、相当の覚悟が

必要でしょう。



  正直、私には、過日、ある”イメージ”が浮かびました。それは、実に

ショッキングなものでした。

  とは申せ、何より大事なことは、沖縄県民だけでなく、本土のわれわれ

も、“非戦・平和”の原点に立ち返り、先人の犠牲や労苦を無にしない

ことではないでしょうか。

  その貴重な先人として、阿波根昌鴻氏にご登場いただきましたことは、

きっと、皆さんのご同意・ご理解を得るものと確信しています。

  実際、阿波根氏は、次のように、ペンを進めています。

(*尚、阿波根氏の御文章は、青字で表記いたします。)





    沖縄戦という地獄

 

 わしが住む伊江島(いえじま)は、沖縄海洋博覧会(一九七五~七六年)

があった沖縄本島北部の本部(もとぶ)半島の西、沖合一○キロのところ

にあります。 

  面積二二平方キロ、珊瑚礁に囲まれた美しい島で、いま五六○○人の

人々が住んでおります。 


         Photo_6

    島の中央にタッチュー(塔頭)と呼ぶ城山(ぐすくやま)が聳える他は、         

全体に平らな肥沃な土地で、戦争前は全島がサトウキビ畑で覆われて

おりました。

                     Photo_3



  この平和で美しい島がおそろしい戦場となったのは、一九四五年四月の

ことです。 

 沖縄本島中部に上陸した米軍は、本部を占領すると、次に伊江島を

攻撃目標として、まずすさまじい艦砲射撃をくりかえしました。 

  城山に砲弾・爆弾が命中している写真をアメリカ軍が撮っておりますが、

この城山地肌がすべてむきだしになり、かたちを変えるというほど、 

激しいものだったのです。 

  一○○○戸あまりの民家はすべて焼けてしまい、木端ひとつ残らない

ほどでした。


             Photo_5


  そして十六日に米軍が上陸し、日本軍守備隊と激しい戦闘になりました。
 

沖縄には「ガマ(*下の絵)という自然の濠、洞窟がたくさんあります。 

  戦闘が行われている六日間、わしら夫婦をふくめて、島民はみなガマへ

と身を隠しているしかなかった。夜も昼も、自分の頭の上にいつ爆弾が 

落ちるかと、震えながら耐えていたのです。

               Photo_4



  二一日、戦闘が終わってガマをでたとき、わしは目の前に散らばって

いる死体を見ました。 

  子ども、老人、女の人たち、もう無差別に殺されていた。死体が腐れ

かかって、島全体に散乱していたのです。 

  一体この子どもたちに、この老人たちに何の罪があったというのか、

どんな悪魔であっても戦争ほどひどいことはできない、どんな地獄で 

あっても戦場にはばない、そう思わずにはいられなかったのであり  

ます。



  このときの戦闘で四三○○人もの人が死んでおります。うち一五○○

人は島の住民でありました。 

  戦争の犠牲をだしていない家は、伊江島にはありません。わしの家で

はたった一人の子どもであった一九歳の息子、妻の実家では祖父と父母 

と弟二人と妹一人が死にました。 

  伊江島の戦闘が終わった後も、まだ二か月にわたって沖縄戦が続きま

した。この沖縄戦で死んだのは二○万人以上、うち沖縄県民は一二万人 

をこえるといわれております。


 沖縄は、日本だけでなく、世界的にも有名な一級の観光地です。

とりわけ、アジアの人々の関心が、年々、高まっています。

 海の美しさや人々の優しさなど、その「時の流れ」の緩やかさに、人々は、

そこにパラダイスを見ることでしょう。

  しかし、正直、アメリカ軍の基地の広さと、その堅固さに、しばしの喜び

が、言い知れぬ“悲しみ”、あるいは“無念さ”へと変わります。

  ですが、沖縄の現実は、実は、本土のわれわれの“現実”でもあるのです。

決して、沖縄県民だけを“犠牲”にできるものではありません。


  沖縄観光に出かけた人も、「伊江島」まで足を伸ばす人は、そういないか

と思います。

 私は、五回ほどの沖縄訪問の中、一度だけ、伊江島まで足を伸ばしまし

た。城山にも登りました

  しかし、恥ずかしいことに、三十年ほど前に登った時、この島が、以上

のような悲しい歴史を背負っていたなどと、深く認識できませんでした。

  その反省を、じゅうぶん胸に秘め、これからも、阿波根氏のお言葉を

跡付けてみたいと思います。                   【つづく】                                      



 

 

 

                     

 

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